Mata Kon HARU...



 また来ん春と人は云ふ


「……っ…」

 光が眩しい。

 大久保の喪が明けて一年目の秋が終わろうとしていた。

「もう秋か…」

 早いものだ。

 生き生きとした命が散り落ちる直前、鮮やかに紅葉した最後の息吹を目一杯広げているというのに、俺は寂寥感しか覚えない。時間だけが刻々と過ぎ、次に訪れるだろう春に見(まみ)えたくはなかった。こんな感情を抱いたままでは。

 あいつは死に、俺は生き残った…

 虚しさとおぞましさが入れ替わり立ち代わり俺を苛めて数ヶ月、おそらく俺は大して変わっていないのだろう。時を埋めるために、あるいは己を慰めるために、何とか生きるための意志を見つけようとした時間だったように思う。

 ―――――この俺が、自身を慰める、だと?

「は…」

 不死身の男が聞いて呆れる…

 俺は唇を歪めた。

 しかしそれは、奴が俺をここまで貶めることの出来る、唯一の男だったことの証なのだ。

 再び情けない顔をして、俺は脚を前進させた。俺が俺自信の意志で動かすことが出来るのは、俺の体だけかもしれなかった。

 心はどうにもならない。

 目覚めるたび苦悩するたび、果てしなくそれを思い知らされた。かさかさと鳴る木の葉の音が、不透明な未来を―――――世界のも俺自身のも―――――現しているかに聞こえてきて、いっそこのまま滅びてしまえなど、あの日以来覚えた自虐というものに墜ちてみたりした。

 なんて変わり映えのない日々…




 今日の俺は非番であり、刀を砥ぎに出すために、私服で歩いていた。

 刀は玄丈に預けてきた。

 俺が戸を開けるなり、薄い茶色の瞳が真っ直ぐに俺を貫いてきて、鼓動がどくりと胸壁を叩いた。玄丈にも聞こえたではないかと、勘ぐってしまうほどに―――――

 それを知ってか知らずが玄丈は何も言わずに俺から視線を外し、俺の左手の日本刀を見つめた。俺が差し出すと、玄丈は奴に似た白い手を伸ばして、刀を受け取った。

 すらりと鞘から抜いて、刃こぼれの具合を問う。伏せられた睫毛の色形までが、冥界の奴を思い起こさせて、

「………」

 切なくなる。

 あいつはもういないのだと、胸の奥まで抉り出されるようで。

 駆け巡る懐かしい日々は遥か彼方へ俺を置き去りにして過ぎ去った。

 もう、あんな時間は訪れないのだ。あいつが来るなと、俺に命じた瞬間から―――――…

『出て行け』

 そのとき俺は知ったのだ。大久保が、既に俺に心を閉ざしていることと、手遅れだということを。

 そして次に俺が抱き締めたのは、遺骸となったあいつだった…

『馬鹿野郎…!』

 あれは彼に最も相応しくない葬送の言葉になってしまったのだ。

 何故もっと早く手を打たなかったのかと後悔したところで彼が息を吹き返すことは無かった。

「………」

 俺の意識が朧を帯びてきた他所で、玄丈が何か言っているらしい雰囲気に気付く。

「砥ぐほど毀れてはいないようだが」

「…いいんだ、砥いでくれ。金は置いていく」

 独居に響く声は、低いが落ち着いていて、普段であれば寧ろ心地よく懐かしいと感じるものだったろうが、今日は聞きたくなかった。だから玄丈の探るような空気を振り払うかのように俺は金を上がり框に置いてさっと彼に背を向け、家を出てきた。

「ふぅ…」

 背中の向こうにいるのは、玄丈であって奴そのひとではない、そう俺は俺に言い聞かせるために、早足加減で家を後にする。

 歩を進める毎に、頬を擦り抜ける風の湿度が重苦しさを増して行くのは気のせいなんかじゃない。

 脚を伸ばし、遠ざかるためだけに、自分は生きてきた気さえするのだ。若葉が乱反射をし始めるあの、光眩(まばゆ)い季節から―――――

「………」

 遠くで鳶(とび)が弧を描いて飛んでいるのがみえる。果てしなく広がる空の透明度は、変わらないままだった。

 今日は十四日。

 決して迎えたくなど無い、月命日である。




 一人の男が大久保の墓の前で深く深く頭を垂れているのがみえた。

 俺よりは若い男だったが、その顔は酷く沈痛で、幾分貧弱に思えた。

 俺の足音が耳に届いたのだろう、男ははっとした様子でこちらに振り返った。

 そして男の喉がごくりと鳴るのが微かに聞こえた。そう、男と俺は、顔見知りの関係だったのだ。俺も唖然として男を見た。

 しばらく俺たちは向かい合っていたが、先に男の方が小さく一礼した後、声を掛けてきた。

「お元気そうで………」

「…お前もな」

 男は、大久保の馬丁として勤めていた人間だった。

 あの日あの時、大久保の死の僅か前まで行動を共にしていた。事件を知る人物として本来なら警視庁が捜査の折にきちんと聴取すべきだったのだが、一国の宗主が暗殺されたという不祥事極まりない惨事だったがために、島田一郎らを斬首することで手一杯だった。

 だから誰も知らないのだ、大久保がどうやって死んだのかを―――――

 否、或いは川路のことだ、極秘に…俺を関わらせること無く捜査していたのかも知れない。だが大久保暗殺の件は川路の失態であったため、知っていても公表出来ない立場にあるのかも知れなかった。尤も俺は、知りたくなど無かった。

 知りたく無い、…知りたくなど無い。

 俺は自分が暗殺者だったことから解ってしまっているのだ、暗殺者の好む戦法の何もかもを。尤もあの頃(京都時代)は、小人が目当てだったため小手先で済んだのだが。

 もう幕末は終わったのだ、あんな時代は一時だけで十分だ。それなのに、明治後も政府主要人の暗殺或いは計画が繰り返し起こってきたのは、やはり俺達が諸外国から比べて犬猫同然だからなのだろうか。

 犬猫を率いられるのは、大久保だけだったという歴然たる事実を俺たちは、彼が息絶えてから漸く自覚したのだ。

『公儀ヲ杜絶(とぜつ)シ、以テ政事を私ス、其罪一ナリ。

 法令漫施、請託公行、恣(ほしいまま)ニ威福ヲ張ル、其罪ニナリ。

 不急ノ土木ヲ起(おこ)シ、無用ノ装飾ヲ事トシ、国財ヲ徒費スル、其罪三ナリ。

 慷慨忠節ノ士ヲ疏斥(そせき)シ、憂国敵慨ノ徒ヲ嫌疑シ、以テ内乱ヲ醸成スル、其罪四ナリ。

 外国交際ノ道ヲ誤リ、以テ国権ヲ失墜ス、其罪五ナリ。

 自分ニ於テハ、国家ノ為メ、事実、止ムヲ得ザルナヨリ、曾(かつ)テ国法を顧ミザルナリ。

 右之通(みぎのとおりに)無相違不(そういなく)申上候也(もうしあげそうろうなり)

 明治十一年七月六日 島田一郎』

 大久保の死に、民衆は冷ややかだった。大騒ぎしたのは大久保を知る輩だけだった。民は、島田の申し出のような貧相な思考しか持ち合わせていなかったのだ。

 確かに大久保は、政府中枢で起居していたも同然であったから、直に民と顔をつき合わすことがなかったため当然の反応と言っても無理は無かった。

 しかし、些細な噂話と権力者への妬みに駆られてしか生きられないというのは、幕末からちっとも変わっていないことの証拠である。

 大久保が人生を懸けて作り上げた国は、恐ろしいほどの未完で終焉してしまった。

 まだ何もしていない、何も変わっていない。

 西南を越えて、漸く冬が終わった。あとは咲くだけだったのに、その蕾は無残にも摘み取られてしまった。大久保が守ろうとした国民に―――――

 喚き、嘆くだけの存在が実は幸福なのだと、誰が知っているだろうか。真実、人の矢面に立ってその地位に相応しいだけの責を負うということは、決して今を己を周囲を捨てず、未来を諦めない姿勢を常に維持するということなのだ。大久保にはその力があった。

 俺は“これから”の大久保が見たかった。大久保の国がみたかった。その中で働きたかった。あいつとともに生きていたかった。

 所詮それは、叶わぬ夢に終わってしまった。叶わぬ夢ほど情けないものは無い。だが俺の精神は、大久保が消えた日で留まってしまったようなものだから、輪を掛けて情けなかった。

 進むことも出来ずに、忙しない時代の変化に流されるように唯(ただ)息をしているだけで。

 ―――――存在だけしたところで世界は変わらないのは、俺が良く知っていることなのに。

 情けない…

 俺は自らに辟易したという顔色を悟られぬよう、腹に力を込めて、男に尋ねた。俺だって出来れば、大久保の墓の前でこんな姿を晒したくはないのだ。

「達者でいるか…?」

「…はい」

「……そうか…」

 微かの時間で分かってしまう。言葉少なな会話は、彼の影響を俺たちは今も受けているということだろうか。

 などと考えて、俺がほぅと溜息をついたときだった。

 男が俺に話しかけてきた。

「…さっき、(大久保)公と少しお話していたのです」

「…?」

「勿論、私の独り言なんですけど」

 と言って男は瞼を伏せがちにして、軽く口元に笑みを浮かべて俺を見た。どうやら、墓の下の大久保と喋っていた、と言っているらしい。俺は苦笑して――――こいつも俺と同じらしいなどと、嘲笑い――――男の赤く腫れた両瞼をそっと見た。

 終わらぬ悪夢に苛まれているのは自分だけではないのだと、歴史が残していった禍根の残虐さにいつまでも立ち向かえずにしかいられない己がここにいた。

 そんな俺とは対照的に、澄んだ瞳と感情を越えた透明な声で男は語り出すのだった。

「あの日、太政官に出勤する為、午前八時十分に、麹町三番町のお邸を出ました」

「……」

 (―――――…これは…)

 知らずと、瞼が開かれ呼吸が止まる。

 俺の驚きを知ってか知らずか男の口調は穏やかなままだった。しかし語りは、俺の身の上を過ぎた数年間の怒涛の如くに流れ出したのだ。

「雉色をした…二頭立ての箱馬車でした。一頭立てのメリケン馬車の時は、御自分で手綱を取られ、私が馬了としてお付するのですが、二頭立ての時は、中村太郎――――十六歳でした――――が馭者(ぎょしゃ)となるんです。

 ドイツ大使館わきを通り、赤坂見附の上まで来ました。

 あれから真っ直ぐに見附へ下りれば、あんな間違いはなかったかも知れませんが、近道なので、あれから右へ内土手を伝わって行くことにしました。

 右が紀州様で、左が井伊掃部(いいかもん)様のお屋敷跡で、全くの原っぱを走りました。気持ちのいい五月晴れの日でした。

 土手を伝わって、あの道路へさしかかった時、原っぱに摘草(つみくさ)でもしていたような二人の兵児帯の男が、よろけるように馬車の先に出ましたので、私はあわてて、馬車の後から飛び降りると、馬車の先に駆け出し、おいおいと、よけるように声をかけた時、何処から出てきたか、矢庭に私は後ろから一太刀浴びせかけられました。それは帽子を切られただけで済んだのですが。

 アッ……また一太刀、

 しかし私も廿九歳の血気盛り、刀の下をくぐると、紀州様の後へ假普請(かりぶしん)をなさっていた北白川宮邸めがけて一散に走ったんです。

 物騒な世の中だから若しもの事があったら、中村お前は、めくらめっぽう馬を走らせろ、自分は注進に駈け出すからと馭者と二人で、日頃約束していました。

 北白川宮さまに急を知らせると、その足で警察署へ知らせ、それから宮内省まで走って行きました。門鑑の代わりに、天保銭でも見せた位夢中でした。

 宮内省から大隈さんの小川太吉という馭者と、大木さんの相澤作太郎という馭者と三人で、現場(げんじょう)へ戻ってきました。

 ああその時は、御主人様は脇差三本と長刀を一本咽喉(のど)に突き刺されたまま仰向けに倒れ、馭者の中村太郎も、一本咽喉に突き刺されていました。

 気も転倒する中(うち)で、刀を抜いて毛布に包んで、馬車にお入れした時、西郷従道さんが馬でかけつけました。

 馬車の扉は両方に開け放され、血が飛んでいましたから、馬車の中で既に一太刀やったと思います。藤田さんは、ご存知ですよね…

 今でも彼處(あすこ)を通る度(た)び、南無阿弥陀仏といって手を合わせます。

 あれから、毎月十四日は缺(か)さずにここにお詣(まい)りに参ります……」

 叫ぶように言って男は俯き、両の拳をきつく握り締めながら全身を震わせて、涙を零した。だが俺には男の涙は如何なる意味ももたなかった。

 見える気がしたのだ。

 皐月の爽やかな薫風のもとを軽やかに走る馬車が。

 いずれ馬車から降り立ち、生い茂る緑の中、背筋を伸ばして澱み無い仕草で国政の手綱を取るだろう彼が。

(あ……)

 吹き荒ぶ風。

 めくるめく鮮やかな記憶。

 決して前進することを諦ず、しかし憤って投げ出すこともしなかった。維新の最後を飾って果てた、凄然かつ静謐な政治家。

 …灰の瞳を閉じ、脳裏を駆け巡る過去を薄い胸にひた隠して、国の命運を背負う者として心血を注いでいた大久保が、そこにいた。玄丈とは違う、本当の彼。袖に染み付いた煙草の香りまでも、俺の躯は覚えていたのだ。

 逢えた喜びに溢れ、思わず声を掛けそうになる自分を抑えるだけで、俺は精一杯になった。例え彼が二度と俺を振り向かないとしても、この胸の高鳴りだけで十分だった。

 ああ、いまも貴方は国家でただ一人の為政者として、遠い冥府に臨んでいるのだろう。

 貴方の瞳に映るのは、静穏なのか動乱なのだろうか。…貴方の隣に、西郷はいるだろうか。暗愚な俺など差し置いてとっくに、西郷の厚い手を取り二人、冥界を力強く歩いているのかも知れぬ。

 否、どんな現象でもいい、

 今度こそ貴方の希(のぞ)む道を真っ直ぐに、そして幸福のままに進んで下さい

 俺はまだだから

 俺は貴方のように真っ直ぐに、走り続けられる意気地を持ち合わせては、いないから

 だから今はここで、静かに佇ませて欲しい

 貴方から離れて歩かねばならぬ現実と、ここに貴方がいるという夢の狭間で

 微かでいい

 ひとり 彷徨っていたい





 また来ん春と人は云ふ

 しかし私は辛いのだ

 春が来たつて何になろ

 あの子が返つて来るぢやない



 おもへば今年の五月には

 おまへを抱いて動物園

 象を見せても猫(にやあ)といひ

 鳥を見せても猫だつた



 最後にみせた鹿だけは

 角によつぽど惹かれてか

 何とも云はず 眺めてた



 ほんにおまへもあの時は

 此の世の光のたヾ中に

 立つて眺めてゐたつけが……





(中原中也「また来ん春……」
 伊藤痴遊「実録維新十傑第六巻 大久保利通」より 抜粋
 両作品は、著者の死後50年以上経過)

BGM:Faith of Love/THE ALFEE