HIME GOTO


 大久保が戻ってきたのは、ホールのシャンデリアが照明を落として深夜の静けさに空間ごと溶けていく時間帯だった。

 こけた頬が今まで目にした西洋人のどれよりも深く、奥の肉や骨が浮き出そうに透けているのが不思議だと思いながら、壁にもたれさせていた背中を起こした俺は腰に置いた日本刀を鳴らして、廊下へ姿を現した大久保のもとへ近づく。気付いているのかいないのか、大久保は睫毛を伏せ気味にしたままの姿勢でやや乱れた胸元の皺を伸ばしつつ、思考を巡らせるときに見せる貌になっていた。…或いは、それすら俺を誤魔化す為の演技かもしれないのだ。

 流石に、むっとした表情をとりはしなかったものの、鼓動が僅かに上がるのを俺は感じた。乾いているくせに濡れたような唇が、テーブルクロスを飾る薔薇の如くに艶(あで)やかで妙な気分になる。館内を片付けている給使の女たちもちらりちらりとこちらを見ては、畏怖とややそれに似た別の感情に自らが困惑して息を潜めるのが分かるような状況である。

 たとえば大久保を眺めるときの俺の躊躇いと関心のような。

 …阿呆らしい。

 ふぅ、と俺は溜め息をついて、大久保に告げた。

「早くしろ。明日も早いんだろうが」

「………」

 返事が無いのは百も承知だ。俺はヤツがさっさと踵を返すよう、大久保の燕尾服に触れそうな位置にまで進んだ。

 その瞬間、鼻をついたのは、嗅ぎなれないきつい香り。微かに混ざる大久保の匂いと、違う奴の。

 どくん。

「…ッ」

 自分の胸壁を越えて、大久保に音が聞こえてしまうのではないかと思うほど高鳴った胸に俺が戸惑ったのを大久保は分かっているはずなのに、そんな俺のすべてを無視して硬く靴音を鳴らして玄関に向かう。その背中を追おうとするとやはり先ほどの匂いがぷんと漂って、いたたまれぬ気分になるのは決して俺の所為ではない。

 天井まで続く大きな扉を開閉して高い門を潜り、門前に着けていた馬車に乗り込む足取りはしっかりしているものの、影は薄く平たくて、暗い空にかかる月の如くに冴えている。凄艶とはこいつの為だけにある熟語だとひとりごちながら俺も馬車に乗り込んで、ヤツの性格所以かぴんと張られた革の椅子に腰掛けた。

 馬車が走り出した。だが俺の意識は闇に向かっては走らない。いまは、…いまはただ、目の前に座る男にだけ注がれていた。

「……」

 視界が歪む。酒に深酔いしたときのような、紫煙に肺が満たされてゆくときの確かな甘さとそれに対する苦味に似た敗北感に自身を丸ごと絡め取られる気がして、俺は刀にあてがった左手に力を込めた。

 それしかできなかったから。

 こいつの注意をこちらに反らすために。

「…物騒なことだ…」

 金属の音に、大久保が応えらしかった。

「なぁ、斎藤…」

 薄い唇からだるそうに漏れた言葉は、掠れているようにも、そうでないようにも聞こえる。

 悔しかった。

「…ッ」

 ぎりりと歯を噛み締める。向かい合って座る大久保の氷の視線を弾き返す強さで睨みつけ、俺は耐えた。

 むせていく。

 狭い馬車に充満するきつい香りが無防備な俺を襲う。

 黒い室に僅かの空気を挟んで座するのは、苦しむ俺をみて楽しむ最悪の牙城。

 政というただひとつの事象の前に佇み頑なのまま突き崩されないはずの男は、必ず未来を手に入れる。

 そのために己のすべてを投げ出すことをやってのける。男とも、平気で寝る。

「……」

 馬車はガラガラと派手な音を立てて夜を走る。揺られながら、俺は大久保と向かい合ったまま張り詰めた空気のなかで微かに呼吸を繰り返していた。




 真夜中の執務室はいつになく不快である。閉め切っていた所為で空気が澱み、壁に染みついた紫煙の匂いが充満していた。

 俺は部屋に入るなり刀を外して床に投げ、長椅子に腰を降ろした。震えを抑える為に組んだ脚が落ち着かない。そんな俺を無視して、大久保は窓を空けて夜風を室内に通すのだった。

 風上の大久保からは、ツンとした香りが未だに流れてくる。

 腹が立った。

 無性に、ではなかった。

「……」

 薄いだけの背中。漆黒の襟元から覗く白い首筋の下には紅い痕がついているだろう。

 幻想ではなかった。太い腕が大久保を掴んで引き寄せ、剥き出しになった項(うなじ)にあてがわれる誰かの唇はそのあとこいつを。





 許、さない





「…っ」

 いつのまにか立ちあがっていた俺は夢中で大久保の腕を掴んでいた。相変わらずの細腕だ。腕というより骨と形容したほうが正確だ、などと思う余裕はまだ保たれていた。

 大久保が目を瞠る。俺がそうさせたのだ。たぶん、演技ではなかった。

 俺は両手でそれぞれ掴んだ棒のような腕ごと、床に大久保を押し倒していた。

 風が吹いた。鳶色の髪が鮮やかな夢のように揺れて床へと落ちていく。それに引き寄せられるかのように、俺は大久保の体の上に乗りあがっていた。

「…ハァ……」

 体重をかける前に潰れそうに脆い骨格に躊躇う。が、退くわけにはいかなかった。こいつを俺から攫(さら)っていった西洋人の、ニヤけた顔を思い出していた。

 腕を押さえていた手を大久保の両肩にずらして、再び体重をかける。大久保の顔を真上から覗きこむことになった。

「…同じなのか」

 大久保が訊いてきた。

「お前も…あいつらと同じか」

 抗うことはせずに、大久保は押し倒されたままの格好で瞳だけを上げて、俺を睨んでくる。決して感情を露にしない瞳はこんなときでも健在だ。

 さっきの西洋人の相手をするときとは違うだろう。こいつの本性が知りたかった。

 どんな顔で相手してきたのか。おおよその想像がつくだけに――――そしてそれが大久保の本性ではないだろうことに――――小さく眉を顰めた俺は、憎らしげに大久保を見下ろし、胸を幾度か仰がせたあと口を開いた。

「……、」

 が、出すべき言葉が浮かばない。こんなとき何を言えば良いのか知らない。何を言っても出任せに過ぎない気もすれば、真実しか出ない気もする。

『あのひとの取り巻きは君だけではないことを覚えておくんだな』

 山県の声が頭蓋の奥から蘇った。

「違う」

 俺は叫んでいた。噛み付くように。

「俺は…ッ」

 取り巻きなんかじゃない…!

「……」

 下から真っ直ぐに網膜を貫くきつい視線に、胸が張り裂けそうだ。灰色の虹彩はランプの灯りを反射して金色にみえた。

 自分と同じだと思った。

 そして喋っていた。

「…俺は、アンタと同じだ」



 こいつがあのとき俺を犯して

 いまでもそれを続けるように

 ねじ伏せて 奪って 支配する

 支配してやる

 せめて、このときだけでも



 俺は大久保の肩から手を離して手袋を脱ぎ捨てた。

 もう一度押さえ込む。肌蹴る前からそれと分かるほどの、冷たい肌。

 鳶色の髪の毛の間に見える青白い頚に、俺は唇を這わせていた。

 このきつい香りを消し去りたかった。

「……」

 微かに笑って、大久保は目を閉じた。





 バタンと音をたてて俺は部屋から出た。

 人気の無い廊下を足早に歩く。兎に角この場を去りたかった。すたすたと脚を動かして、俺は仮眠室の扉を開けた。

 幸い誰も居ない。ズボンのポケットから煙草とマッチを取り出して口に咥え、火をつけて俺は寝台の上に横になって脚を組んだ。

 ランプのない部屋は真っ暗で、俺の煙草の火しか見えない。微かに木目の分かる天井を見上げながら脳裏に浮かぶのは、俺の動きに合わせて小さな吐息をもらしていたあいつの姿。

 あんな貌しやがって。

「……阿呆」

 そのツラ、誰にもみせるな