Reikoku no UTA




夕(ゆうべ)は泣くのでございます


獣のやうに。






冷酷のうた







 暗い室内は薪の燃える音だけで然して暖炉の温度を感じることもなく、寧ろ如月の冷気が窓から漂い降りてきて皮膚を過ぎるその、まだ遠い春の気配に心なしか気が滅入りそうになるのだが、かといって力んだ躯の硬度を緩めることもできそうになかった。

 ――――――この男から遁(のが)れるために。

「やめろ」

 斎藤は、無遠慮に覆い被さってきた男を睨み上げながらそう言った。尤も、幾度となくやんわり交されたその台詞が目の前でほくそえむ男に通じるとは、ただのひとかけらも思ってはいない。

 しかしほかになにを言えというのだ。制服を脱がされて冷気に顕になって震えた胸に、静脈の浮き出た指を這わせてきた男に対して。

「……」

 男は斎藤の声を鼻先で嗤(わら)った。嗤って、縛り上げられた斎藤の両手首を戒める警官服のベルトの先を手に取って、それを長椅子に括りつける。

 その間、男は斎藤の金の虹彩から視線を反らせる素振りさえみせようともせず寧ろ愉しむかのように僅かに片頬を緩ませ、自分にあてられたきつい視線を数倍の残虐さを以って撥ね返して来た。

 正直、不気味だと思った。少なくとも斎藤のいまの視線は人斬りのおりに無意識に、或いは意識的に現れるものでありつまり常人には、撥ね返すどころか受け止めることも出来ない。尤も斎藤は常人にそれをみせるような愚かなことはしない。だからこの男は―――――――…

 思考を巡らせようとして、やめた。たぶん、この男のまえにあらゆるものが意味を無くすのだから。

 憎いとか、忌々しいとか、そういう感情の容(かたち)を為す前に虚しいほどに霧散させてしまうのがこの男の得意なのだ。こちら側に残すのは敗北感だけで。

 それも壊滅的な。

「……」

 斎藤は溜め息を付いた。応じたのか、それともそんな斎藤の様子など無視しているのか、不埒な男は斎藤の顕になった項に唇を這わせ、雪のように白くきめの細かい肌をさも面白いといった様子で戯れ始める。

「…っ………」

 びくりと震えてしまうのは男の唇が、既に不快とは言えなくなってきているかに思えて、それが恐ろしかったから。

 このまますべてを掬い取られてしまうかのようで。

 頑なに固持していた誇りも矜持もなにもかも。

 返せ!、という台詞が口を割って出てきそうで、しかし男は鼻先で笑うだけだろうから。

 だから抱かれるたび、斎藤は憤る。対照的に男は静かに斎藤のTシャツの裾を掴んで繰り上げ、震えの止まらぬ肌に掌を這わせては斎藤の若い体を貪るのだった。

 なにも言わずに。

 斎藤の“肉体”にしか用がないとでも言いたげに。

 日中の内務省では明治創世の巨人の仮面を被って、実に要領よく事を運び、自宅で――――家族に対しては、外での貌など一切感じさせず、寧ろ酷く人間的である癖に。

 あまりの変容が悔しくて、だからつい云っていた。

「………愉しいか?」

「……」

「悪趣味だな」

 大久保は応えない。

 無言の大久保にいらついた斎藤は、長椅子に括りつけられた手首を戒めるベルトをひいて、長椅子を軋らせた。出来るはずも無い抵抗を試みる。

「こんな…」

 なにも応えないまま、大久保は斎藤の胸に貌を伏せた。

 そろりと上を進んでくる冷たい指が刃物かなにかのようで、骨が軋む。そして裸の胸に触れた驚くほど柔らかい髪の毛の感触にひくついた斎藤を尻目に、彼は充血して紅くなった突起を舐めた。

「っ、ん…!」

 大久保は無言だ。無言の侭、舐め上げる。殊更に時間をかけて、剣客にしては柔らかい膚をときに啄(つい)ばみながら。

 嫌らしい音が聞こえてくる。耳を塞ぎたいのに、手首が戒められたままで。

「あっ…ッ」

 気が付くと大久保の細い腕が斎藤の背中に回っていて、抱き締められるかの如き格好になっている。まるで、別れ際、女が男を止めるときのように。それでいておそらく大久保に感情の名のつくものはないだろうと斎藤は思った。

 だからこれは完全に肉体だけの繋がりなのだ。

「……っ…」

 思った途端、膝が撥ねる。

 なんて解り易い躯。

 俺はどうしてしまったのか。

「あ、ぁ、お、お、くぼ…っ」

 不意に遠ざかりそうな“彼”を抱き止めたくとも、きつく括られた手首が言うことを聞かない。

「く…」

 二人きりの室内を満たすのは、一方の吐息とギシギシという音だけで。

 彼のこころが、感じられない。

「あ…」

 大久保の掌が背中からずれて、緩められたズボンのなかへ侵入し、まだ下着をつけたままのそれを軽く握った。

 …熱をもっている。なのに冷たい掌を溶かすことはなかった。

 いつも。

「っ………」

 大久保は冷えた手で斎藤のそれを嬲った。摘まみ、弾き、捏(ひ)ね繰っては、いちいち反応する斎藤の声に耳を澄ませている。

 それでも目の前の男は酷い貌で嗤うだけなのだ。

 やがて大久保は斎藤の胸を舐めながら投げ遣りに斎藤を解放して斎藤の精を掌で受け止めた。

「はぁ…」

 昂ぶった体で大久保をみると、大久保は斎藤の胸に伏せていた貌を上げて例の目でこちらをみていた。

「…そう急くな……そのうち抱いてやる」

「!…」

 大久保の台詞に上気した斎藤の肌を楽しむように、大久保の唇が近づいてきた。

 思わず息を止め、怯えてしまってから気が付く。

 自分はこの男に一体なにを期待していたのかと。

 信じられない、といった様子で斎藤の瞳が潤んだ。大久保は、水気を帯びた金の瞳(め)を覗き込んでひとりほくそ笑む。その余裕の表情にも憤らずにはいられない。

 許されるだろうか?こんなことは。毎日呼び出され、抱かれる。手足を縛られ、嬲られる。いつしか言葉を求めている。言葉と、囁きと、それから……

「考えるな」

「…ッ」

 怒りなのか、敗北感なのか釈然としない感情に斎藤が戸惑う間に、さらに斎藤を追い詰めるべく、大久保は斎藤のズボンを剥いだ。するりと膝を抜けて、踝(くるぶし)から這い上がってきた冷たい指が、躊躇いも無く下のものも解いてしまう。先ほど吐精された液体が下着ごと床へ落ちた。

 それを皮切りにはじまった、舌を絡め取り息もつかせないほどの、噛み付くような口付け。

「んぅ…!!!」

 そして膝を押しやられあられもない格好を取らされ、乾いた指で奥を弄(まさぐ)られて、引き抜かれたと同時に腰を押し付けられた。

 斎藤は鳴いていた。大久保の願う侭に。

「!!いっッ、やっ、ぁぁ…」

 斎藤の頚が仰け反る。殆ど解き解(ほぐ)されていない秘所が裂けて血が流れても、斎藤の腰を両手できつく掴んでいる大久保が動きを止めるとは思えない。

 そしてそのとおりであった。大久保は狭すぎるそこをただ懸命に嬲って斎藤の声を聞いている。…斎藤を労わりは、しない。

「く…ん……」

 突き放されたようで苦しくて、喉が引き攣る。すると大久保の動きが益々激しくなり、より悲惨な鳴き声を強制されるのだった。

 あらゆることに耐え切れなくて斎藤は首を左右に振った。この男のまえになにをしても通じないと解ってはいても、そうせずにはいられなかった。

 熱い。溶けていく。このまま俺はどうなるのか。

 この人でなしの男に組み敷かれて、それでいいのか。

 このさき待っているのは、ただの夜なのに。

「………」

 躯と瞼が滲んでいく。腰ごと廻されるたびに手足が痺れ、溜め息が密度の濃い吐息に変わる。

「ああ……」

 いつか斎藤は自ら大久保の背に脚を絡めていた。そして大久保の罠に悦んで嵌り、自ら逃げ出すという選択肢さえも常に彼方へ追いやっている自分に気付く。

「お………く、ぼ……」

 おそらくは、

「お…く…」

「黙れ」

「あっ、あぁっ!!」

 おそらくは、この男のまえでの自分に、理性は要らない。必要ない。ただ肉塊であればいい。

 そしてこの男のまえに、それまで自分が築き上げてきた世界は悉(ことごと)く消滅するのだろう。

「ふ…はっ…」

 そうしてそれすら構わないのだ。世界は、この男によって創られるのだから。

 だから―――――――――

 反らした斎藤の薄い背に大久保は斎藤の腰から片手を離し、再び抱き締めるかのように空いた腕を差し入れ、斎藤の背骨と肋骨を丁寧に指でなぞった。その繊細な動きに彼の腕のなかの斎藤がひくりと戦慄くと、大久保は……この細い躯のいったいどこに宿っているのかと思わせるほどの激しさで、斎藤を突いて来た。

「っ…あ!あ、あ…」

 知らずのうちに斎藤は涙していた。まるで、繋がった大久保の肉塊が、斎藤の涙腺を介して燃え立った姿を外に表したかのように。

「は………」

 斎藤の頚は仰け反っている。涙がこめかみを伝って、いまも大久保の振動で狂ったように軋む長椅子へ落ちた。

 浮遊感に満たされて、だからもう、なにも要らなかった。

 この浮遊感はこれから墜ちていくことへの悦びだろうか?或いは人外へ、余計な示唆を放棄して、いままでよりも鋭利な―――――ほんとうの人斬りになるための別離に対する哀しみか。

 その瞬間を感じたくて、斎藤は揺らされながら目を閉じた。

 ぐるぐると世界が廻る。

 そしてこのまま唇を衝きそうになる。

 身を切ってきた狂気という名の古呆けた羊水で眠るのを止め、外へ出て、目の前の男に、手をついて跪きたくなる






 神よ






ああ、神よ、罪とは冷酷のことでございました。
泣きわめいてゐる心のそばで、
買物を夢みてゐるあの裕福な売笑婦達は、
罪でございます、罪以外の何者でもございません。


そしてそれが恰度(ちやうど)私に似てをります、
貪婪の限りに夢をみながら
一番分りのいい俗な瀟洒(せうしや)の中を泳ぎながら、
今にも天に昇りさうな、枠のやうな胸で思ひ上がつてをります、


伸びたいだけ伸んで、拡がりたいだけ拡がつて、
恰度紫の朝顔の花かなんぞのやうに、
朝は露に沽(うるほ)い、朝日のもとに笑(えみ)をひろげ、


夕は泣くのでございます、獣のやうに。
獣のやうに嗜欲のうごめくまゝにうごいて、
その末は泣くのでございます、肉の痛みだけを感じながら。






 繰返サレルアナタノ罪ハ 今後一切ワタシガ被ル



(中原中也「冷酷の歌」より抜粋)