Kairai no betrayer






 絢爛の名に相応しい広間で人間の形をした肉塊が稠密(ちゅうみつ)のまま蠢いている。ざわめき色めきたつ彼らの余りの形相に、できることならすぐにでも俺はここを出て行きたかった。

 ホールの中央、天井からの豪華なシャンデリアの灯りを真上から受けて、栗色の髪をした西洋夫人の手をとる大久保はこの日誰よりも注目を浴びていた。合奏団の奏でる音楽に合わせて優雅に踊る大久保の華奢な姿に青い目の女どもはあからさまに恍惚としていて、

「……」

 警備中と云えど、目にするのが躊躇われる。

 嫌な感じだ。

 普段から比較的交流の深い英国商人に招待されて、夜七時から開催された舞踏会というものを俺は生まれて初めて体感している。聞きなれない音楽とどぎつい色彩のドレスを身に纏った夫人たちから立ち昇るこれまたきつい香りについ眉を顰めそうになったが、役目柄、帽子のつばの下で俺は穏かな表情を保つよう心掛けていた。

 …ヤツは珍しく“微笑み”らしいものを女どもに呉れている。俺とほぼ同じくらいの背とは云え、西洋人と比較しても劣らない身長の高さと、煌びやかな装飾品で着飾った男たちのなかでただひとり漆黒の燕尾服に身を包んでいるだけの大久保から放たれる異色の存在感に、女だけでなく同性も目を奪われていた。

 西洋人の如き容貌と彼らよりも遥かに細い骨格が、いつか見た舶来の絵画さながらに艶(あで)やかで、ヤツが一国の主であるという現実を彼方に追いやろうとする。周囲の人間が驚きを隠せないのも無理はないだろう。

 だが背後にいるのは俺―――――華やかな洋館に相応しくない刀を所持している俺を控えさせていることが、“大久保”の唯一の証拠だった。

「ミスター・オオクボ」

 楽曲が終了して小休止に入るたびに、大久保は片言の日本語を喋る外国人に呼び止められた。差し出された濃紫の西洋酒を受け取る指も腕もやたらと白く蒼褪めていて、黒の燕尾服に異常に映える。大久保は口元に笑みを浮かべながら、誘われるままに外国人に混じって喋りに応じるのだった。

 こんな穏かな大久保を目にするのは初めてだ。あの仮面の下の貌を、このなかの一体どれくらいが知っているだろう。

 …昨夜の所為で俺の躯がぼろぼろなのを承知の上で、俺に警護を命じたあれが本性だ。まったく腹が立つ。

 少し俯いて頬肉を緩め、俺はいつもの表情に戻ってそっと息をついた。

 兎に角、一刻も早くこの不気味な空間から解放されたい…耳を劈(つんざ)く音と、嗅ぎ慣れない匂いしかない空気を吸うのに、俺はうんざりしている。

 豪奢な壁際に据え置かれている時計をみると、そろそろ閉会に入るはずなのだが。

 もう少しの辛抱か。俺は息を吐いた。

「幾多の修羅場を潜った君でも、こういうところは苦手らしいな」

「……」

 突然してきた声のしたほうに目を走らせると、壁に寄り掛かっていた俺の隣に山県有朋が近づいてきた。片手にはやはり背の高いグラスがある。

「…用がないなら近づくな。仕事中だ」

 生憎、俺は帯剣している。

 小声で忠告してやったが、

「私もあまり得意ではない」

 と、返してきた。聞くつもりはないらしい。

 ち…っ

 こいつは大久保とは別の意味で面倒なヤツだった。当人は容貌からみても如何にも陰鬱で暗沌としているのに、仕事といえば妙に緻密で他人の手出しは一切無用だった。尤も山県は陸軍だから、俺との接触はない。

 聞くところによると維新三傑の全員と浅からぬ信頼関係を保っているそうだ。それもあって山県の掌握している範囲には、三傑以外の誰にも手出しはできなかった。

 が、“俺”まで一緒にするのは間違いというもの。

「離れろ」

 俺は不機嫌さを…正確には若干の、そしてはっきりと分かるほどの殺気を漂わせた不機嫌さを以って答えた。

「……」

 山県はグラスを口に運びながら、俺と同じ方向をみている。視線の先には、肥満体に囲まれた細い体の、黒い服が揺らめいている。鳶色の髪がやつが頷いたりするたびに、天井からの光を反射して金色に輝いた。

「…大久保卿は随分君を気に入っているらしいな」

 これだ。この物言い。大久保に似ているようで、全く異なる棘を含んでいる。

 大久保の場合のそれは、じわりじわりと首を締められてきて、そのことに気がつくより数瞬前に急所を一撃するのだが、山県の場合は、確信を帯びつつ自分では決して突いて来ない。相手が根を上げても相手に言わせて、自分は究極を回避する。だから厄介なのだと、これは陸軍以外でもよく言われていることだった。

 そんなやつに俺の用は無い。そもそも仕事ですら掠(かす)らない存在なのだから。

「…ときどき、分からなくなる…あのひとが、なぜ君のような人間を傍に置いているのか」

「……」

 言わせておく。この手の科白には、無視を決めつけるのが常套だということは俺自身が誰よりも深く知っていた。

 内務省には密偵が数十名雇われている。そのうち、上官の警護職を兼ねているのは俺ひとりで、しかも元・新撰組でかつ内務卿の警護とあって、密偵にも警護職にも漏れた剣客からの、風当たりらしいものは強かった。尤も、俺の相手になる連中ではない。

 風当たりなどどうでもいい。なぜ俺が雇われたのかなど知ったことか。俺は、俺のやりたいようにやるだけだ。

 ただ、気をつけろということだけは兄から厳しく言われているから、頭の隅に置いてはいる。いつの時代でも、寝首を掻かれるのは勢いのあるやつだからな――――睫毛を伏せがちにして、兄はそう言った。

 だから今更こいつに言われる意味も筋合いもないのだ。

「―――君の名前が出たとき、」  俺からの返答を期待していないのだろう、山県はひとりぼそぼそと呟き始めた。上下する口髭が、俺の視界の端に入っている。

「誰一人として採用に賛成の者はなかった。私を含めてね…危険だと…そう判断するのが、当然だろう?」

 山県は、手にしていたグラスを口元に運んだ。洋酒を飲み下す喉音が俺にも聞こえ、大きな喉仏が艶めかしく上下した。

「なのにあのひとはお独りで決めてしまわれた。私など、微塵も相手になさらない…困ったお方だ」

 山県の視線は真っ直ぐに大久保を見ている。酔っているわけでもなかろうに、それはどこか潤んでいた。俺と同じように。

「…それでいて、あれだ。あのひとの真意は分からず仕舞いだな」

 山県は顎をしゃくった。山県の言う“あれ”とは何のことか分からないが。

 空気が揺れて、群れていた人間の塊が小さくなる。閉会、ということだろうか。外国人らに挨拶して、大久保もこちらにやってきた。

「先に戻っていてくれ」

 近くに来るなり、大久保が言った。

 なに考えてやがる。

「…何のための警護だ?」

 こいつは自分の立場が分かってないのか。表でも裏でも、大久保の命を欲する輩が機会を狙いながらこのときも舌舐めずりしているというのに。

 洋楽に合わせて踊った所為で気が狂いでもしたか。まさか。

 警備する人間がされるべき人物を置いていくなんざ、あってたまるか。

「兎に角、さっさと終わらせて来い。斬られるのはあんただけに止(とど)まらんぜ」

「言ったはずだ。戻っていろ」

 間髪置かず言い放たれた科白。

 に、俺は淡く背筋を震わせた。だけでなく、その、あまりの温度の無さにぞくりとして大久保の瞳を見ると、薄い灰色のはずのそこがシャンデリアの所為だけでなく光っていた。

 妖しく。

 それで、俺を、みない。

「…また、私を置いてきぼりになさるのですか」

 会話から外れていた山県が、突然割って入った。

「……」

 大久保は切れ長の目を山県に向けた。

 二人の視線が、絡まる。大久保のは冷めていたが、山県のは、違った。…まるで燃えるような。

 なにかが、迸(ほとばし)ってみえた。二人の間に。

 そして俺の入れない空間になる。

 困惑する俺を一瞥(いちべつ)して、山県の口髭が動いた。

「貴方ともあろう御方が御忘れとは…心外ですね」

 山県は口の端を片方だけ吊り上げた。それは大久保に似ていた。似せているのかもしれないが。

 大久保はしばらく沈黙した。ややあって、洋酒よりも緋(あか)い唇を開く。

「……いずれ」

 そう言って大久保は俺たちに背を向けた。

 天井まで続く高さの扉の下で待つのは、金銀を鏤(ちりば)めた洋服に身を包む西洋男。にやけた面で大久保の細い躯を眺めていた。

 大久保が近づくと、薄い肩を抱いて俺たちに背を向けて部屋をあとにする。

「……」

 鳶色の髪が遠ざかる。俺を置いて、視線を自分に釘付けさせたまま。

 何が起こったのか、俺には分からなかった。分かりたく、なかった。

「…やれやれ、今夜も一人寝のようだ。…君も、かな」

 山県が何か云っている。でもそんなの、どうでも良かった。

「…帰ったほうがいい。あのひとを怒らせるとどうなるか、君も良く分かっているだろう?」

 言われても、動けるはずがない。俺は突っ立ったままだった。

「……」

 すると、前触れもなく山県に顎を掴まれた。やつのほうが背が高いから、俺は山県を見上げることになる。

「!?」

「いい目だ、流石は新撰組といったところか。が、あのひとの取り巻きは君だけではないことを覚えておくんだな」

 山県は黒い瞳以外を暗く笑わせて、俺を見下ろしてきた。俺は

「…ッ」

 顎に掛けられた山県の太い指を手で払って、やつを睨み上げた。

 大久保に対する憎しみも込めて。

 そんな俺を眺めると疲れたように、山県はふぅ、と溜め息をついた。

「――――― そうまで誇り高いなら、帰りたまえ。あのひとは今夜には戻らんよ。…それとも、あのひとが異国人を銜(くわ)え込んでいる部屋に行って、彼を連れ帰るかね?」

 フン、と嗤って山県は靴音高くその場を去った。





「は、ぁ……」

 大久保は落ちてきた鳶色の髪の毛を掻き揚げた。その蒼褪めた指が、英国人に掴まれる。口元に引き寄せて、綺麗に揃った指に唇を押し付ける。

「ミスター…今日は乗り気ではありませんネ?」

 英国人は、大久保を見上げた。彼の腰に跨った大久保を。

「…いつもと…変わらないでしょう」

「No、ウソはいけません。ワタシにウソはつかないというオヤクソクをお忘れデスか?」

「嘘など…つきませんよ、私は」

「イガイに頑固でいらっしゃる。そんなトコロも好きなんですがネ……。…あのboyでしょう? Goldの目をした…」

 言って彼は大久保の薄い唇を太い親指で撫でた。それに促されるように、大久保は口を開いて答える。

「あれはただのポリスだと、さっき…ん」

 鳶色の髪が揺れる。大久保の下で、英国人が動いたのだ。膝の裏に手を回して大久保を軽く持ち上げ、大久保の表情をみつめつつ落とし始めた。速度や深さを変えながら。

「No。Danceの間もズット彼をみてましたネ。ミンナ知ってマスよ」

「は…あ、あ、」

「そんなにお好きならハヤクお帰りになれバいいのに。意地悪デスネ、Mr.?」

「ぅ、ン…あなた…ほど…意地悪くはありませ…ああ!」

「どこまでもミスターはcrazyでいらっしゃる…いけませんネ。あのboyがカワイソウだ」

「だから…ン…違うと…」

「However,ソレがあなたの可愛がりカタなのデスカ?」

 大久保の瞳をみても既に恍惚としていて、まともな返答ができそうな状態ではなかった。それでも濡れた瞳に問うてみる。

「boyのようなヒトを…エイゴでlonely wolfというのデスよ。wolfはヒトには馴れないのに、あのboyはミスターのことだけみてマシタ。そのリユウも、ご存知なのでしょう?」

 彼は白い下腹で既に泣いている大久保の雄を掌で包んで温めてやった。即座に反応して、大久保は背を反らせる。

「あぁっ…」

 掌が濡れる。受け止めきれず掌から零れたそれを、英国人の舌が舐め取った。その薄い味に焦がれながら、彼は激しく大久保を攻めた。

 欲に塗れた声が王侯貴族の為にあつらえられたような室内に響き渡る。が、英国人の視界には大久保しか見えていなかった。

 ミスターはboyのことだけ考えている。ワタシの手の中にいて、こうして啼いていても、脳裏にGoldの瞳を思い浮かべてイルに違いない。その証拠に、抱かれるまえから灰色の瞳が扉や時計を探していた。心底楽しそうに。

 だがboyは来ない。かといってあのboyはミスターを置いて帰れるわけでもない。boyの飼主はミスターなのだから。逃げ出してもいいのに、主をひたすら待ちつづけるのだから。

 …意地悪なさらなくても、boyはミスターのモノですヨ。

 囁こうとして、…やめた。