もう、いけない――――――――――――






Too Soon to Say Goodbye









 このところ微熱が続いている。

 大久保は灰色の瞳をあげて天井を見た。

 倒れてから半日。酷使した体は未だ自由を許さず、救護室の寝台に大久保を縛り付けていた。見舞いに訪れる人間はひたすら自分の警護を川路に訴えていたが、一番の原因はあまり丈夫でない自分の体を心配してのことだと思う。

 木戸が死に西郷が死に残るはおのれ一人となった大久保が、自らを気にかけることなど考えもしなかったと言えば、嘘になる。鏡に映る姿からは生気が消え、数日置きに耐え難い頭痛に襲われては、もう長くは無いのではないかと虚空をみつめる時間が訪れる間隔が短くなっていた。

 だがそれを突き放しても、やらねばならない。すべてはこの国の未来のために、なお奔走を自らに課さなければならない。

 だがいつまでもつか、大久保自身も分からなくなっていた。

 あらゆることが、…すべてが、かけ離れているようで。まるで透明な壁が現実を自分とを隔てている如き感覚が大久保を支配していた。体全体が浮遊している気がする。“あれ”が逝ってから――――――

「……ん…」

 突然、斎藤が体を震わせた。

 大久保は、寝台の横の椅子に腰掛け小さな息をして白い掛け布団に横顔を伏せる斎藤を見た。

 起こしてしまったろうか。いや…大丈夫か。

 斎藤は布団の上で少し頭を左右させただけで、再びこちらを向いて眠りについた。

 安堵の息をつく。そのまま、目から力を抜いて起こさぬように彼を見た。

 斎藤の顔は日を追うごとに白く、彼に与えられた“裏”の激務さを表している。西南の役が終わったのを機に水面下で蠢き出した組織―――具体的には志々雄真実ら―――の情報を手探りで掻き集めて、それに対抗するための討伐隊を結成させそれを統率するという重役を負わせている。

 もともとこういうことの為に配下に置いたのだが、…奥深くに芽生えた感情が、果たしてこれでいいのかと自分を迷わせていることに大久保は気付いていた。

 気付いて、動けなくなった。

 久方ぶりに熟睡できたのは、この重みがあったからだ。寝台に寝かせられてから、ずっと斎藤の重みを感じていた。このところ見る悪夢にシーツのうえでうなされても、斎藤が布団を掛けなおしてくれたから眠り続けられた。瞼を閉じていても、分かった。

 互いの香りが絡み付いている。そばにいるときは余計にそれを感じた。尤も斎藤の匂いは彼の吸っている煙草のそれだけで、体臭らしいものはないから、大久保の香りが斎藤に移っているにすぎなかった。

 その、長い睫毛がひらいた。

「……」

 ゆうるりと瞳に色が戻る。

 ニ、三度瞬きをして、斎藤はゆっくりと頭を空にあげた。落ちてきた前髪を掻き揚げて、大久保と視線を合わせる。

 大久保は声を掛けた。

「……大層な拳だな」

 その科白に寝起きを忘れて斎藤はじろ、と尖った視線を寄越してきた。

「大人しくしない貴様が悪い」

 薔薇色の唇から吐かれた棘そのものの言葉が大久保を煽る。斎藤は、椅子の背に凭れてズボンのポケットに手を突っ込んだ。

「あれくらいで倒れるなんざ、話にならねぇ」

「…まだ痛むんだが」

「ふん」

 実は、大久保が倒れたのは本人の所為ではなく、腹に喰らわされた斎藤の拳の所為だった。周りがいくら警護とせめてもの休養をと提言してきても大久保にそれを受ける気はなく適当にあしらっていたのだが、あろうことか斎藤に強要されたのである。大久保にとっても意外なことだった。

 あるいは、自分の身辺が愈々(いよいよ)危うくなってきたということか。生命よりも、運命がという意味で。

 皮肉に頬がわずかに歪んだ。

「…俺はいつ、起きられるんだ」

「さぁな。貴様の顔が人間色になれたら、起こしてやってもいい」

 人間色、ときた。

「……酷いやつだったんだな、お前…」

「大方、誰かから染(うつ)たんじゃねぇか」

 斎藤は欠伸をしながら尻を滑らせ背もたれに頭を休めて、目を閉じた。

 相変わらずきつい口調だが、疲れているのだろう。白い肌に静脈が浮き出て、瞼の縁が赤い。

「…お前も来るか?」

「……なにが」

「ほら、」

 と大久保は自分に掛かっている布団の端を持ち上げ、斎藤のほうに開いた。

 斎藤は呆れ顔を大久保に返した。

「言ってろ。俺にはこれがあるからな」

 言ってポケットから出した両手を組んで一方の指を四本折り曲げて、関節をばき、と鳴らす。

 それを聞いて大久保はわざとらしく溜め息をついた。

「折角誘ったのに…」

 そして僅かにシーツに片方の肩を傾けて沈め、斎藤をみた。薄紅に上気してゆく頬と金の瞳が淡く潤む情景を網膜に焼きつけるために。

 しかし白い頬は上気するどころか、一瞬で硬く強張った。視線は素早く大久保から逃げて虚空を彷徨い、やがて大久保が掛けている白い布団の上に落ちた。

 しばしの沈黙の後、

「うるさい」

 と斎藤は席を立った。扉へ向かい、開ける。

「…どこへ行く」

「――阿呆。俺は仕事だ」

 軽く振り返り、斎藤は言った。自分をみた彼の顔がわずかに翳ったのを、大久保は見逃さなかった。

「見張らんといつ起き上がるか分からんぞ。…いいのか?」

「……」

 ぴくりと眉を顰めてそれでも斎藤は部屋を出て行った。薬品の匂いがするだけのがらんとした救護室に、大久保はひとり残されてしまう。

「ふう…」

 やれやれ、と言うふうに大久保はそっと息をつき、斜めになっていた体を元に戻した。

 虚勢を張ってみたものの、やはりまだ起きるのは辛かった。数刻眠っていただけだったが、どうやら更に全身が重たくなっているようだ。

 …いや、精神が重たいと言ったほうが相応しいかもしれない。

 大久保は己を嗤った。浅ましいと思った。そして斎藤を思った。

 生き残った新撰組としての責務だけが彼をこの世界に生かしている。警視庁密偵のなかでただ一人日本刀の帯刀を許可されている身であり第一の実力をもつとはいえ、彼の生きる場所はおそらくここしかないのだろう。自分と同じように。

 が、この圧倒的な違いはどういうことだ。

 奉職してから斎藤が消した人間は耳にしているだけで数十人。標的は明治後官僚となった外道が殆どだったが、それは自分や川路が命じたわけではなく、彼自身が決めて“処理”したのだった。それでも大久保の仕事に差し障りなどひとつもなく、それに気が付くたびに彼の判断力に驚かされた。

 斎藤と付き合いだして、既に四年になる。政務をこなすだけで疲弊する自分とは対照的に、斎藤は自ら赴いて血を浴びそれでもまったくの潔白を保っていた。西南から戻ってから、一層その観が増した。

 加えて、斎藤の自分をみる視線が変わった。当初は役の所為で痩せたのが原因だと思ったが、以前よりもじっと見つめてくる強い瞳を感じるようになっていた。先ほどのやりとりでも、そうだった。

 両目を開き加減で光る奥の瞳に力を込め、負けることも逃げることも赦さないとでも云いたげだった。だがそれは、なにかに激しく傷ついたときに似ていた。

 逃げるな、というのは斎藤自身に対してのことなのか、大久保に対してのことなのか判別つかなかったが、或いは両方かもしれなかった。

 “西南”に行った彼が傷つくようなことは、そしてその標的が自分であるようなことは、…ひとつしか思いつかない。

 …聞いたのか。遥か昔のことを。

 大久保は目を閉じた。“あれ”の黒い瞳が蘇りそうだったから。引きずられていきそうだと思ったから。

 いや、引きずったのは自分のほうか。

「…フ」

 可笑しなものだ。己のなかに全く正反対の感情が―――理性ではなく感情同士が―――交錯し合うなど、かつて存在し得なかった。

 だがいますぐにでも、大久保は解離しそうだった。対立する激情に両腕が強い力で牽引されこの身は千切れる寸前なのだ。

 引き離されて遺ったものこそが真実の自分なのだろうか。その自分はどうするのだろう。この、闇を彷徨うに似た焦燥を。

 大久保は瞼を開けた。決めるのはいましかなかった。

 と、音を立てて扉が開き、斎藤が戻ってきた。手には書類の束があった。

 顔を傾けて観察していると、彼は静かに扉を戻してもと座っていた椅子に腰掛けた。脚を組み、無言で書類をめくり出す。

 長い睫毛が上下するのを見ながら、大久保はシーツに手をついてゆっくり上半身を起こした。途端、ぴんと斎藤が金の瞳を上げたが、止めることはなかった。

「……」

 大久保は右手を斎藤に差し出した。来い、と言うかわりに。抱けばすべてが明らかになるのだから。

 差し出された指を、じっと斎藤はみつめた。数秒して

「懲りないやつ」

 心底呆れ顔で返してきたが、書類を棚に置き、手袋を脱いで大久保の掌にじぶんのを重ねてきた。大久保は笑った。

 ぐい、と引っ張る。胸のボタンを外して制服の上着を開き、回した掌でシャツのうえから腰の辺りをなぞった。そして引き寄せた。

「素直だな」

 靴を脱いで寝台に腰掛ける斎藤。自然と言葉が出ていた。

「…あんたなんか、大嫌いだ」

 俯いて吐き棄てられた科白に、肩で笑ってしまう。

 シャツを捲り上げて露にした白い胸に掌を這わせた。滑らかな肌に自分がつけた痕を探り、焦らすような速さで連なりを辿る。

 斎藤がびく、と体を震わせた。それをみて彼のベルトを抜き取り、床に落とした。

 制服に腕を通しただけの状態の彼を、両腕にかけた手に力を入れてシーツに押し倒す。斎藤は抵抗しないで憮然とした表情で力を抜いた。されるがままになった。

 静けさに、愛撫しながら大久保はなにか声を掛けようとした。いつもするように、危うい言葉で弄りながら抱こうと。が、例の視線が向かってきた。

 潤んだ目で大久保をみつめている。それはおそらく欲のためだけではなかった。なぜなら、いまにも唇が開きそうで、しかし声に出せないといった辛さを滲ませて震えているから。

 大久保は斎藤の前髪を掻き揚げて、彼の目の深くまでを覗いた。

 きつい視線を送るのに、そこはいつも透明で、まるで彼そのものをあらわしているようだった。

 …欲しいと思った。これもくちびるも、なにもかも。

 そして、戒めた。

 ―――――いけない。

 これ以上は、いけない。

 大久保は細い腰にあてがった掌に力を込めて、斎藤を抱いた。烈しく、「犯す」という表現のほうが相応しいように、迫り来る現実のすべてを忘れてしまうかのような強さで攻め立ててやった。

 そのあいだにも、逃げるなと、負けるなと斎藤の眼は訴える。…が、気付いてしまったのだ。

 この肌のあたたかさを守るために、為すべきことはひとつだった。大久保のまえから現実が消えることは、なかった。

 気付いたのは、己の未来。彼への想い。

 シーツの上で艶を帯びた切なげな声があがる。大久保は、淡く濡れた眦から滴が流れるのを目にすることをひとり許されている自分を…いまは赦そうと思った。












もう、いけない



おまえをつれてはいけない



俺が道連れにするのは、“あれ”だけでいい



…愛しているよ



いまではもう おまえだけを



君に死の匂いは似合わない



だからつれてはいかない



だからせめて刻ませてくれ



おまえの  いま  ここに