Doukoku
夫人だという女が部屋を出ていった。何の変哲も無い女だが、血の気の失せた存在感は大久保に似ていたかもしれない。
朝から太政官は慌しく動いていた。世界を背負っていた唯一人が消えた今、 将来は色彩を彼方に喪いつつあった。
廊下で擦れ違う度に山県有朋の視線がしつこく絡みついてきたが、俺は取りあう気も無視する気も起きなかった。
明暗。
を握っていた男は今静かに俺の前に横たわっている。
ランプだけが暗くなった部屋を灯している。
端正な貌が歪み、切り裂かれた青白い膚の間から肉が覗き、その縁を既に乾いた血液が赤黒く彩っていた。
俺でなくとも眉を顰めてしまうほど、無残というほかはない。
ためらいながらも頬に触れてみた。
痩せこけて骨が浮き出ている。稜線をなぞって掌を押し付ける。確かめるように、いつも俺がされていたように。
…冷たい。
「大久保」
返事をしないのも、生前と同じだった。
分かっていない、とはこいつのことを言うのだろう。
俺の護衛を何度も断って、大久保は一人でいいと言って聞かなかった。
「志々雄が都内に網を張っている。あんたを消すためだ」
「…だから緋村を呼んだろう」
凭(もた)れさせていた背中を壁から離して俺は机の縁(へり)に両手をかけて、見当違いのことを言って退けた大久保に噛み付いた。
「死ぬぞ?!分かってんのか!」
大久保は書類から目を離さない。さっきからずっと。
「控えろ斎藤」
何事か、と横から俺を睨んだ川路がドスの聞いた声で遮った。
「お前は任務を遂行すればそれでいい。さっさと戻らんか」
冷めた目で俺を見上げながら吐き捨てる。
…俺ひとりが憤然としていた。
大久保も川路も、鼻先でせせら笑うだけで刺客の何たるかを全く理解していない。理解しようともしない。
志々雄の手先を縛り上げて大久保暗殺を吐かせたのは数週間前だった。その間にも拡大する志々雄の勢力を潰すべく全国を飛び回り、配下となった土地を地図上に書き出して警官隊を配置する作業に追われていた。
そして行く先々で耳にした、噂。
加賀者が大久保を暗殺するという。
ただの噂なら誰でも吹聴できるから俺もせいぜい耳に入れておくに留める。
だが今朝麹町の大久保邸門内に斬姦状が投げ込まれたとあっては、手を打つのが当然だろう。
「加賀者に何ができるか」
何度目かのセリフを口にした川路にも、勿論俺にも反応せずに大久保は書類の端を揃えるとそれを川路に手渡した。川路は頭を下げて部屋を去った。
執務室の重い扉の音がして、俺たちは二人きりになった。
「……」
ランプに照らされた大久保はいつになく顔色が悪い。抜刀斎と会ってからというもの殆ど眠っていない筈だった。
なのに醸し出される雰囲気は張り詰めたままで、どころか今は冬の湖の上に現われる凛と冴え渡る空気のように、恐ろしく澄んでいた。
…俺にはそれが耐えられない。
死相にすら思えるから。
「まだ何か用か?」
椅子から立った大久保が何か言っている。本音とは裏腹な上辺だけを吐き出す唇が動いている。
「早く仕事に戻れ。でないと俺が睨まれる」
川路君に、とわざとらしく口を歪めた。
そのくせ俺の制服の釦(ボタン)を外すのだ。これからどうなるかも分かっている。ズボンから黒シャツの裾を引き出して胸の辺りに冷たい掌をあてる。そして。
「っ!!」
めくりあげたシャツに頭を突っ込むようにして舌を這わせた。
先端で突起を転がしながら、抵抗を失っていく俺の背中を抱いて机に横たわらせ、覆い被さってきた。
机と俺の背中の間にあるやたらと長くて細い大久保の腕に、抱き締められている錯覚を起こしそうになる。
その手が滑るように俺の背骨を冷たく伝って背中を下の方へ向かう。同時に唇が時折紅い跡を付けながら辿っていった。
氷に押し付けられたような冷熱二重の愛撫に流されそうになる理性を、必死で捕まえて俺は思い出そうとしていた。
初めて会ったときから、今までの全てを。
気づいたのはいつだったろう。
…大久保はおかしくなっていた。
日常を変えないまま、穏やかに密やかに、だが確実に崩壊していた。内側から発せられる不気味に美しく青白いオーラが、日を追う毎に自慢の鉄仮面から少しずつ鉄片を剥いでいた。いつしか、大久保そのひともそのまま空気に溶けていくのではないかと、見ているこちらが不安に怯えるほど、存在の透明度を増していた。
会うたびに、見つめるたびに、痛々しいぐらいだった。
最近では雰囲気だけでなく、態度にも現れるようになった。以前の大久保とはまるで結びつかないようなひ弱な…人間らしい側面が表立つときすらあった。そのころになると当然俺以外のやつらにも気づかれていた。 一方で大久保自身はそんな自分に気づかないようだった。
いや、気づいているのかもしれない。だがそんな己を極力無視して、自力では動かない時代の歯車を、残されたありとあらゆる肉体と精神とで、狂ったように廻し続けていた。
そうすることが唯一つの救いであるかのように。
「!」
俺の思考を邪魔するように膝を左右に勢いよく拡げると、大久保は俺を口に含んだ。
「っ!」
繰り返された感触とはいえ、目が潤む。舌が与えるおよそ本人に似つかわしくない温かくて優しい動きが欲だけの快感へと俺を誘(いざな)う。
だがどうしても今夜だけはこのまま流されるわけにはいかなかった。
愛撫に跳ねあがる体の中心よりももっと奥で、俺は煮えたぎっていた。
流星のように俺の脳裏を埋めて消えるのは、次々と思い起こされる事件。世界を変えちまった瞬間。俺たちを翻弄して幕末の全てを壊滅し、零(ゼロ)から創造する日々。
目を閉じてその光景を羅列しながら…俺はずっと真実から逃げている自分を知っていた。
大久保をここまで追い詰める原因など、最初から分かっていたのに、変化に気づいてからも俺は目をつぶって、見まいとしていた。
だがこの瞬間にも幻のように消えてそうな大久保を目の前にして、どうして問わずにいられるだろう。
俺は熱を帯びていた瞼を開いて、天井を見上げた。
大久保の頬は膚の色をとうに喪いまるで死人のようになっている。
しかし両目は、暗いながらも恐ろしく透きとおっていた。
あの世までも見えそうな硝子の瞳に、これまで多くの人間が不安がり散々注意を促していたのに、大久保は全く身を護ることをしなかった。護衛につけていた俺をも遠ざけるようになっていた。
あれは、ようやく桜の花がほころび始めた季節だった。
その頃俺は、正規の仕事と密偵任務とが重なって身動きが取れなくなっていた。
『失礼だが、君が藤田君かな』
警視庁で呼び止められたのを思い出す。
振り返ると、内務省で大久保の下でよく見かける顔が二つあった。
『はい、そうですが』
内務省の役人が警視庁に何の用だ。
営業用に笑ったが、二人は深刻そうな面持ちを崩さなかった。ちょっと来てくれないか、と言われて建物の裏側に連れて来られた。
俺が大久保の犬であることを利用でもしようものならこの場で斬って捨てるのだが、悪意は感じられない。むしろ何かに怯えている様子で、周りに人がいないことをしきりに確認している。
俺に声をかけてきた方が、口を開いた。
『…大久保卿が君の実力を買っているのを、我々はよく知っているつもりだ』
『…それはどうも』
何を今更。毎晩のように顔を合わせていただろうが。
内心吐き捨てた。
『君が言えば、卿は聞いて下さるかもしれない』
『?』
二人は顔を見合わせた。一人がごくりと唾を飲み込んだ音がこちらに届くほど誰もいない敷地に響いた。
『…卿の御命を狙う刺客が、金沢を発ったのだ』
――――何だと。
作り笑いをやめて、俺は真顔になっていた。
金沢に志々雄の配下はいない。別の勢力か。俺は聞いていない。
顔色を変えた俺に怯えたのか、二人は俺を見上げる顔を強張らせて、それでも懸命に言葉を繋いでいく。
『川路君に進言しても、取り合ってもらえなかったのだ。そこで、是非とも君から進言してもらいたい。いや、そうしてもらわなければならない』
川路の野郎…
『君自身が護衛についてもらえれば言うことはないのだが』
その夜、執務室に行って問い正すと、大久保は表情も変えずに「要らん」と言っただけだった。
あのときはまだ、こんなに儚くはなかった。
口の端で笑って俺を抱いたのに。
「…はぁ…、っ…」
いちどゆっくり呼吸して、乾いた唇を舐めながらもう逃げることはできない、と自分に言い聞かせた。
こんなになった大久保を引き戻すために、ここで、俺も大久保も腹を括るしか残されていなかった。今やらなければ、大久保は消えるだろう。
だから過去も現在も晒すのだ。
そしてもう一度はじめるのだ。
お前なら立ち上がるだろう。
俺は、逃げない。
大久保が、こんな風になったのは、最大の敵対勢力が消滅してしばらく経ったあたりからだ。
役に駆り出された折に耳にした話は、今まさに目の前の大久保と合致した。
俺では生涯成り代われない二文字が、頭のなかで点滅する。
真っ青な空と緑の大地の雄大さを体現したような。
万軍の巨(きょ)。永遠(とわ)の阿羅漢(あらかん)。
「西…郷だな」
瞬間、空間がぴしゃりと斜めに割れた気がした。
たぶん俺のこころも。
弾かれたように大久保は愛撫を打ち切った。
のそりと鳶色の頭を上げ、同化した闇と共に迫るように真上に来て視線を合わせてくる。
凍った瞳で俺を見下ろすだけで、肯定も否定もなかった。
それが何よりの“こたえ”だ。
今にも達しそうな躯を無視して、俺は奥歯を噛み締めていた。たまらなく悔しかった。
大久保の沈黙に。大久保を遺して逝ったヤツに。
そして何もできない自分に。
突き刺すような視線は普段なら俺を底から恐怖させるのに、今は怒りで俺を昂ぶらせた。
馬鹿にするなと言ってやりたかった。言えるなら。膚を合わせていればお前のことぐらい分かるのだと、言いたかった。
だが…言えない。
言えないほど俺は大久保にとって―――西郷に比べて―――大した存在ではないのだ。それを認めることは、今となっては何よりも辛かった。
しかし俺の辛さなど超えたところに大久保は至っている。心身を喪失させるほど。大久保ともあろう者が己の弱さを剥き出しにするほど。
大久保は全てを失ったような冷たさで、俺を見下ろし続けている。その瞳はもはや何も求めてはいなかった。
助けも、未来も要らない、そう訴えて。
だから
「…っ」
考えるよりも速く、俺は体を起こし大久保の胸倉を掴んでヤツの頬を殴っていた。
ぐらり。
大久保の体がよろめいて、反射的に俺は手を伸ばしていた。
そのまま抱き締めると、いつのまにこんなに痩せ細ったのだろうと怯えるほど、大久保は頼りなかった。
だからといって死なせるわけにはいかないのだ。何をしても、死なせるものか。
ややあって、俺の腕に抱かれた大久保がふっと体を離して言った。
「泣くな」
そうして俺の頬に指を滑らせる。流れを遡っていつものように目じりをくすぐった。その仕草が更に涙を増やした。
拳が熱かった。殴ったのは俺なのに胸が締め付けられるように痛んだ。
……。
死なせないと誓ったのに、どこかで俺は大久保が死ぬことを悟っていた。剣客の洞察力ゆえでは、なかった。
「泣かなくていい」
大久保の低い声が鼓膜から心臓へと伝わって俺を慰める。これではまるで逆ではないか。
目元の涙に口付けて吸う。ついばむようにそっと。
どうしてこんなときに優しくするのだろう。大久保はいつだって残酷だった。
そんなことを考えて、キスが間に合わず涙が溢れて筋になると、初めて大久保は苦笑した。
久しぶりに耳にしたそれに懐かしさと儚さを覚えて、俺は唇をきつく噛んだ。
「!!」
突然、放り出されていた俺に大久保が指を挿してきた。俺の涙で潤った指がためらいもなく侵入して俺の思考を邪魔する。
「ぅ…っ」
指の腹で壁を擦って弄ぶ。
冗談じゃない、こんなことで懐柔させられてたまるか。
大久保の胸に両手を当てて体を離そうとすると、一体どこにそんな力が残っているのだろう、俺の体を抱いたまま自分は机に背をつけた。俺が大久保の上に乗りあがる格好になる。
そのまま腰で突き上げてきた。
「く…うんっ!ああ!!」
行為だけみると普段と何も変わらない。むしろ異常に激しかった。俺が髪を振り乱して気を失いそうになるほど。
そして悲しかった。
欲によるのとは違う涙を堪えるのに必死だった。大久保の激しさと悲しさが鋭い螺旋になって一気に俺に注がれているように思えたから。
「っふ、ん…」
粘膜の熱さと胸の熱さに瞳を閉じたくなる。
だがあえて、無表情に見上げてくる大久保と目を合わせた。
透きとおった瞳には恐ろしいほどの静寂と…底のない、絶望。
それが俺を突き堕とす。
「……っ」
駄目だ。
死ぬ気だ。
手を伸ばしても届かない最果てへと向かう気だ。
「な、んでっ」
堪らなくなって突き上げられながら大久保を責めた。
「勝手なんだよぉ…っ」
大久保は無言で腰を進めるだけだ。二人きりの空間で、俺の言葉だけが空回りする。こんなときまで大久保はずるいのか、と思うと唇が勝手に動いた。
「ずるいっ」
「……」
「だめ…だ!」
「……」
いつもなら何か言うたびに「喋るな」とか「黙れ」とか命じるのに、大久保は何も言わない。それが辛かった。
辛さが俺を本心へと追い立ててゆく。本心を言わなければならない方向へと連れてゆかれる。
「嫌だ…っ!」
一言でいい、いつものように何か言ってくれ。
「大久保っ」
絶頂へ向かわされながら、何度も繰り返した名を呼んでみる。
…思い出すのは、嫌味な笑いとぞっとするように凍った目。近づいた者しか分からない本当の獰猛さを灯す細い躯。
誰よりも冷たく、誰よりも熱かったはずの男は、いま生きるための全てを放棄して霧散しようとしている。
狂ったほうが楽だろうに、心を殺して体を道連れにすることしか己に許さない頑固さだけを維持して。
奈落へ消えようとしている…
「いやっ!!」
大久保が聞いているのかいないのか、どちらともとれる…あるいはどちらでもないタイミングで俺を揺すぶって終焉へと導いた。
「ああっ!」
俺が収縮した内へ、大久保が放つ。俺の精液が大久保の服を汚した。
俺は繋がったまま大久保の肩へ倒れこんだ。
一層深くなった肩の窪みに息を吐き出しても、冷えきった膚を温めることはできなかった。
自分の無力さ加減に絶望する。
俺は大久保の何だったのか。時間を埋めるだけの存在?絶望すら共有できないほど、お前にとって俺は……
不治の病と宣告されたような感覚が俺を襲った。
悔しさに唇を噛む。切れて、血が滲んだ。
「……」
大久保の動く気配がした。体を硬くすると、そっと俺の顎に手をかける。
「…っ」
生温かい感触が俺の血を舐めていた。
俺を知り尽くした行為に驚いて思わず目を覗き込むと、そこに透ける覚悟だけを認めて、心底俺を震わせた。
大久保はそんな俺を慰めるように唇を重ねてくる。角度を変えて、幾度も。
「 」
どうしてこんなときに優しさを向けてくる……?
潤んだ視界が俺を大久保からますます遠ざけるようで、たまらなく苦しかった。
いるのに。
お前は確かにここにいるのに。
大久保は睫毛を伏せてキスを繰り返していた。もういいからとでも言いたげな、気だるさで。
たゆたいそうに甘くて、どこまでも哀しかった。
涙が温度と幅を増すと、大久保は鼻で笑って背中を動かし俺を胸に抱き締めた。
「アッ」
まだ繋がっている粘膜が突然広げられて熱が蘇る。俺のなかを痛みを伴わないで大久保が抉った。
「…ふ…ぁん…」
大久保は、ビクリと全身を強張らせた俺の背中にそうっと腕を回して、俺の頭に掌をおいた。
鼓動が聞こえる。
終焉までの時を刻んでいる。
「…いくな」
ひくつく俺の喉はそれだけをようやく音にした。
「いくな…」
大久保は、答えない。沈黙はそのまま未来を示した。
薄い掌が俺の背中を撫でて子供をあやすように俺を抱いた。それが最後だった。
冷たい肌に頬をあて涙で濡らしながら、俺は呪文のように心で呟いていた。
俺なら護れるのに。
俺は護るのに。
護れたのに。
あの日俺にくれたキスを降らせても、目は開かない。
「馬鹿野郎…っ!!」
俺は、この世で最後の涙を流した。