KAKUZETSU
振り積む雪はつめたくて
儚いくせに悩ませる
「嫌いだ」
わざとキツイ言葉を吐き出した。
「何だ」
大久保は声だけで答えて書棚を漁る。
煙草を咥えたまま、斎藤は窓の外を眺めていた。
「お前が」
「…ほぅ…」
大久保は振り向かない。ぱらぱらと書類をめくり、止まって、再びめくるのを繰り返している。
二人きりの執務室。暖炉の火が時折音を立てる以外は静まり返っている。外界の音も二、三日前から降り続く雪に吸収されて、部屋ごとがさながら隔絶された世界のようだった。
「…どこが、どんなふうに嫌いなんだ」
また声だけを寄越してきた。斎藤は煙草を口の端で噛んで息を吐き出した。
「全部が、ありにままに嫌いだ」
途端、大久保の体が弾かれるように、だがわずかに跳ねた。しかし背を向けて外をみやる斎藤は気付く様子も無く、ぴしゃりと言ってのけたのにも不満であるかのように、煙草を噛んで呟いている。
「ツラも声も頭も、なにもかも嫌いだ」
大久保は書類を閉じると元の位置に戻してそっと書棚から離れた。気配を感じて身構えた斎藤だったが、それではまるで怯えることになってしまうと思い、一度体に入れた力を気付かれないように抜いた。
床に聞き慣れた靴音が響く。呼応するように斎藤の鼓動は高鳴る。
鼓膜が緊張してわずかの音をも聞き取ろうとする。
「…随分嫌われたものだ」
大久保は斎藤から半丈ほどの位置で脚を止めて低く言った。
「あんたが悪いからだろ」
…できるだけ冷静に答えたはずだ。
そう思ったが既に煙草を噛む仕草が止まっていて、慌てて噛み始めた。
大久保はその様子を楽しげに観察している。舐めるような視線に気付いて、斎藤はこちらからしかけたことを漸く後悔し始めた。
背中が落ち込むような感覚に我ながら阿呆だと思っていると、いつのまにここまで来ていたのだろう、服を着ても細い大久保の両腕が背中から胸へ回されてきた。
「!!」
驚いて逃げようとしたが、項に息を吹きかけられて体が強張った。
「!…っ、っ、……」
戸惑っている間に抱き締められてしまう。しまった、と思うよりも早く大久保の冷たい唇が押し付けられて、体を震わせた。
煙草が取り去られる。冷たい指。
「寒いのか」
「ち…がう」
「震えているぞ」
「ぁ、あんたが、冷たいからだっ」
尋問される空気が嫌になって、斎藤は逃げるために大久保の腕に手をかけて自分から離そうとした。しかし腕は離れずに更に斎藤を戒める。
少しの痛みも伴わずに。
「俺が嫌いなのか?」
「…っ、大っ嫌いだ!」
「全部が、ありのままに?」
「そうだっ」
振り積む雪はつめたくて
儚いくせに悩ませる
どこか貴方の肌に似て
「!」
突然、窓の外を眺めながらふと浮かんだ言葉が脳裏に蘇った。
大久保の肌は白くて体温を感じさせない。冷たいだけでまるで雪のようだと思ったのだが。
今も本当に冷たい。
体温を奪われて動けない。
斎藤は喉に言葉を詰まらせた。喉だけではなく、からだじゅうが大久保に凍りついて自由が利かなくなっている。次に何をされるのか分からない不安に怯えて出す。
「どうしても嫌いなのか?」
「っ、そうだっ!」
聞きながら大久保は驚くほど熱い吐息をかけてくる。その熱に覚えがあることが更に斎藤を困惑させるのだ。
昨夜もその前も、この熱にうなされた。
――――狂おしいほどに、もっと熱くて、俺をめちゃめちゃにする……
斎藤は奥歯を噛み締めて耐えた。己の想像で羞恥した姿を、こんなに冷たい大久保に悟られるなど我慢できない。
口の端を意地悪い角度に上げて、笑うから。
それこそ雪や桜のように、あるだけでこちらを惑わせる。
人の気も知らずに。だからそんな大久保が。
「大嫌いだ!」
「なぜ?」
「冷たくて酷くて、最悪だ」
「酷くなければいいのか?」
「それがあんたの生き甲斐だろ」
「…酷い言われようだ」
苦笑した大久保の髭が肌を細かくくすぐって斎藤を黙らせる。
悔しくて斎藤は吼えようとしたが、ますます大久保の罠に嵌る予感と悪寒がして「とにかく嫌いだ」とだけ吐いた。
大久保は斎藤の左腰から日本刀を外して床に落とした。
無機質な音。
「…何しやがるっ!」
大久保は何も言わずに斎藤の脇の下から腕を胸に回す。長い腕は斎藤の胸の前で綺麗にクロスして反対側の脇腹に向かった。斎藤は両腕を宙に浮かせる格好を取る。
「…離せ!」
「そんなに嫌いか?」
言いながら頬に口を寄せて歌うように言ってくる。髭が擦り寄った感触が落ち着かない。
「嫌いだ」
「冷たいからか」
「体も心もだ」
「好きなものはなんだ」
「…ない」
「嘘をつくな」
「別に嘘なんか」
ついていない。現に斎藤に好きな物などとくになかった。
「…ならば女はどんなのが好きだ?」
「女ぁ?」
「きつい女か、そうでないのか」
斎藤はちょっと目を上にあげて天井をみて、考えるそぶりをする。
うーん、と悩んだあと、大久保に当てるためのとっておきのセリフを思いついた。
「あんたと違って優しいヤツならいい」
「……」
案の定大久保は黙った。斎藤はふん、と鼻を鳴らして勝利に頬を緩ませる。ざまぁみろというかわりに。
「…俺が嫌いか?」
また訊いてきた。しつこい。
「大っ嫌いだと言っている!」
「こんなに優しくしているのに?」
「!?」
大久保は、既に腕の力を抜いていた。斎藤がひとりで体を強張らせていただけで、大久保はむしろ包み込むように斎藤を抱いていたのだ。
それは厚く積もった雪にふわりと倒れ込んだような、斎藤が望めば容易く離れることができるであろう、淡い抱擁。
大久保は肩を揺らして声を出さずに笑った。
カッと紅潮した肌に再び冷たい唇が落ちる。項の生え際の皮膚から熱を感じ取るようにあてがわれて、斎藤は何もできなくなった。
その間に大久保は一度腕を抜いて、宙に浮いたままだった斎藤の両腕も一緒に抱き締めてきた。
…誰もこない密室。互いに背を向けて仕事中であるにも関わらず、耳元で聞こえてきそうで。
熱い息と吹き込まれる低いささやきに何の抵抗もできずに篭絡してゆく夜が、すぐそこにあるようだった。窓の外を見つめて大久保のことばかり考えていた。…嫌いなはずの奴のことだけを。
それが苦しくて吐いたセリフだったのに。
「どうした、このままでいいのか…?」
口が耳元に移動して、耳朶に歯を当てる。
ピクリと一旦体を硬くしたが、斎藤はおとなしくなった。抵抗しないことを見越した大久保が一層低く吹き込む。
「俺は酷いんじゃなかったか?」
「…っ」
意地の悪い言葉に体が震える。しかしそれは恐怖でも悪寒でもなく、痺れたときに息を吐かされるような。
温度も動きもなにもかも奪われてしまっている。大久保に対する感覚だけを残して。
そんなことは許せないし、冷たいだけのこの腕に安住してゆく自分がいるなど認め得るはずもないのだが。
「嫌いなんだろう…?」
どうしてか囁きが胸に染み渡ってゆくのが抑えられない。
そんな己に斉藤は諦めに似た感情を覚えて、思考を手放した。
言葉も呼吸も、遠い。静かな部屋では耳元にかかる大久保の息だけが聞こえてくる。いつのまにか自分の肌が大久保の冷たさに寄り添って、長い腕の戒めすら心地よく感じていた。だから、離れなかった。…いまも。
―――窓の外では、冷たいのか温かいのか教えてくれない雪が、止まることなく世界を真白に覆っている。
空から無限のように続く景色に溶けていく感覚に襲われ、睫毛を震わせた斎藤は緩やかに目を閉じた。
振り積む雪はつめたくて
振り積む雪はつめたくて
儚いくせに悩ませる
どこか貴方の肌に似て
触れているのに消えさうな
零(こぼ)れるだけの花のやう
貴方を抱いても笑ふだけ
ほかには何も見えないで
すべてがひとつに結びつく
すべてが貴方へ続いてく
優しく瞼にくちづけて
貴方が私を閉じ込めた
甘い隔絶は終わらない