KANATA he ...






 幼い頃見上げた空は遠く 手を伸ばしても届かなかった

 背が伸びてからも 届かなかったけれど

 いつしか 思い切り背伸びをしてでも追い駆けたくなった

 貴方という果てに往けるものなら行ってしまいたい







 彼方へ…




 ときおり、絶望がみえる。

 俺と大久保を覆う紺碧が密度を増して降りかかろうとする。それは様相を変えながらに大久保に近づき、そのたびにやつの魂を奪っていくのだ。

 見過ごすわけにはいかなかった。

 夢のなか、繰り返し俺が遭遇した光景にあいつが重なっては消え。

 …厭だ。

 抱きしめれば抱きしめるほど儚くなる大久保。消え入りそうなひくい声に、遠い記憶の続きには決してさせないと誓った。

「勝手な人事は許さん」

「あいつの警備は最初から俺だ」

 川路と交わした会話は、常に一方向のまま終わる。何故川路が大久保を単独で行動させるのか俺には理解出来なかった。

「金沢の刺客なぞ、触れることも出来ん」

 …何故そう言い切れる。

 呆れたように鼻でせせら嘲いながらも日に日に蒼褪める川路の貌を半ば白けた表情で眺めながら、俺は溜め息をついた。つきながら、刺客の情報を耳にしてから靄(もや)っていた感情をついに口に出した。

 寧ろ、怯えているのはあんただと。

「あんたこそ、あいつはヤバイと睨んでいるんだろうが!」

 埋めることの出来ない空白。

 戻らない未来。

 ―――――――鹿児島。

 同郷の川路だからこそ、大久保の罪深さが分かるのだろうに、ここ数日、川路は極力俺を大久保の傍に置こうとはしなかったのだ。だから俺は怒(いか)っていた。しかし、

「っ」

 突然左腕を掴まれ、俺は目線を川路に走らせた。

「…離せ」

 ヤツが離すまえに、俺は川路の手を振り払った。同時に川路は腹の奥底から搾り出したような声でぎりりと俺を睨みながらに言い放った。

「……貴様に何が分かるっ…あん御仁(ひと)は…っ!!」

 川路の科白に、俺も睨みをきかせた。剣客、というよりかは、大久保の近隣に伏せる人間としての嗅覚が働いたのだ。予感があった。

 俺は言った。

「西南の折に貴様を解任したのは大久保だったそうだな」


*                  *



 川路は昨今の役において、別働第三旅団司令長官を勤めていた。しかし六月の末には解任され、七月一日には鹿児島を去ったのだ。そのときに内務卿たる大久保が関わったのは当然なのだが、大久保はなにも、川路の役柄云々についてのみを解いたわけではなかった。…尤も、俺が川路の件を知ったのは七月に右腕を負傷して療養所で寝起きしていたときだったのだが。

『藤田さん』

 聞き覚えのある声に振り向くと、同じく警視庁警部補の木村康介がそこに立っていた。

 しかし俺はすぐには反応できない。なぜなら、木村は左目を包帯で被っていたからである。

『木村…お前、どうした、その目』

『別に、片目だって生きられますよ』

 木村は東京にいた時分と同じように、へらっと笑った。会津崩れの元新撰組という、太政官にとっては煩い存在の俺とまともに相手ができるのは、こいつぐらいかもしれなかった。

 木村はよいしょ、と言って俺が腰掛けていた縁側に立ち、木村の左にある柱を手で探って木目に掌を落ち着けると俺の隣に両足を投げ出して座った。

『藤田さんこそ、災難だったじゃないですか。ああ、こんな姿を目にされたら、大久保卿はご立腹されますよ』

『どうでもいいだろ』

 俺はややむくれる。玄丈から大久保と西郷に纏(まつ)わる話を聞いていた俺は、できるならこの地では大久保の話題には触れたくなかった。しかしこの木村という男は、生来のものなのかどこか諧謔めいていて、会話が進んでしまうのだ、こんなふうに。

『いけませんよ、そんなことを仰っては。あの御方は真実ねばっこくていらっしゃるのですから』

『ぷはっ』

 俺は噴出した。もっていた湯飲みから、折角渡された薬湯が振動でちゃぷんと音をたてて波をつくる。

『ねばっこくてってお前な…傷に響くから笑わすな』

『はは、済みません。……でも、今回ばかりは、そう言わざるを得ないのですよ…』

『…?』

 そこまで言うと木村は笑いを消して黙った。辺りの気配を窺っているのだ。木村も俺と同業―――――警部補職は表向きで、彼の本職は太政官側が雇った密偵のひとりなのである。穏やか路線の木村の面相からは想像し難いが、実際密偵にはこういう人間が向いている。

 幸い、俺たちの近くには誰もいなかった。

『…なんだ』

 俺は急かした。大久保、という言葉を耳にしただけで胸が竦む思いがする。しかしここに来る前とは違う鼓動に、俺自身が戸惑っているなんざ鼻で笑われるだろうが、こんな感情があると知ったのも、はじめてだった。

 たぶんもう戻れない。ここに来る前の目であいつと向き合うことは、もうできない。

 いらつく俺の気を反映してか、右上腕の傷は痛みが取れないままに、更に東京とは比べ物にならないほど蒸し暑い鎮西の夏に拍車をかけられて、腕が熱をもって体全体がだるかった。「切り落とすような最悪の状態ではない」と軍医に言われはしたものの、回復には程遠いのを俺は知っている。

 体ではなく、心が。

『……』

 意気揚々と鎮西入りしたのが遥か過去のことのようで、こうして動きもせず居座るだけの自分が情けなかった。

 木村は庭土をみつめていた。木村の左目は、治るのだろうか。それとも、これからは片目のみで生きていくのだろうか。いずれにしても、俺も木村も、この鎮西でそれまでと違う道に立たざるを得なくなったのだ。

 ひゅぅ、と生暖かい風が鳴り、応じて腕が痛んだ。

『ね、藤田さん』

『…ん?』

『これは噂なのですが』

『さっさと言えよ』

 俺は掌の薬湯を飲んだ。木村は口を開いた。

『川路大警視が病が原因で任を解かれたでしょう?あれ、どうやら内務卿が川路殿を京都に呼び戻したのが直接の原因のようなんです』

『それはそうだろ』

『いえ…藤田さんが想像されているのとは、たぶん少々異なっていまして』

『…なんだよ』

 そこで木村はふぅと軽く息を吐き、つぎに思い切り胸に吸い込んで、一気に捲くし立てた。

『川路殿は京都に着かれたおりも解職について大層憤慨されていて、卿に度々意見されていたそうです。その度に大久保卿は…平時のように黙々と頷かれていたのですが、あるとき、部屋に二人で閉じこもって半刻ほど出てこなかったとか…以来、川路殿は大人しくなって東京に戻られたそうです』

『……』

 ふぅん…と、以前の俺なら言っただろう。薩摩人特有の心持と、おそらくは大久保特有のそれが入り混じったものを、大久保は川路に伝えたのではないか。政府統率者として、そして薩人として、彼らだけに理解できるなにかを。

 と、思っただろう。

 しかしいまの俺は、それでは納得が行かなかった。…大久保と川路に共通する“西郷”という男の気配が、どうしても消えないのだ。

 そういえば、この戦が勃発するまえも、大久保はおかしかった。普段、始終一貫として冷静で目測を誤ることのない男の見積もりが甘かった。薩摩という、東京から距離こそ離れているが政府にとって因縁の藩に起こった事件の巨大性を、積極的に把握しようとはしなかった。寧ろ、大久保にしては珍しく希望的観測というものを施行して、結果として目測を誤った。

 まるで、こうなることを最初から熟知していたかのように。そしてそういう予見を、遠ざけるように。

『なにがあったのでしょうか』

 俺の思考を知ってか知らずか、いつになく冷静な声で木村が問うてきた。俺は答えなかった。なにも言えなかった。言葉を発することすら、西郷を知らない俺にはそぐわない気がしたのだ。

『…藤田さん』

『ん…』

『なんだか、こっちにきてから藤田さんまでねばっこくなられたように感じるのは、私の気の所為なのでしょうか』

 俺は小さく笑った。笑って木村をみたが、木村の左目に被った包帯の厚さに不意に慄いて、両目が生きている俺としては苦笑いしかできなかった。

 ねばっこい、か…そうかもな。

 大久保の過去を知って以来、俺の思考回路は全体的に動きが鈍くなった気がする。この腕がそれを証明しているのかも知れないと、そう思った。過去に捕われるのは阿呆のすることだと言い聞かせてきたのは俺なのに。

 東京で久方ぶりに遭った市村鉄之助は、俺をみるなり忌々しげに奥歯を噛み締めて、こう吐き捨てた。





――――――なんだ、あんた生きてたのか――――――

――――――…隊長が逝ったのに生きてるなんて、あんたやっぱり新撰組じゃねぇよ――――――

――――――そうやって政府の制服着ちゃってさ…俺、あんたを許さないよ斎藤先生――――――

――――――許さねぇ、絶対に許さねぇ!!隊長も沖田さんも原田さんもみんな死んだのにあんただけ生き残るなんて許さねぇ!畜生っ!!あんたがいなくなってから隊長がどれだけ…隊長ッ…たいちょおぉ…!!――――――

 …知るかそんなこと。過去なんざどうだっていいんだ俺は。お前もさっさと昔を捨てろ。思い出なんざ何の役にも立たない。過去を捨てなければ決して前には進めない。どうせ大した過去じゃない。





 そう言えていた俺は、一体どこに消えたのか。

『…田さん、藤田さん』

 ゆっくりと左腕を揺すられて、はっと俺は現実に戻った。

『大丈夫ですか?熱ありますか?まずいなぁ、貴方を無事に戻さなければ私が大目玉を喰らってしまいます』

『んなワケねぇだろ。俺よか、お前のほうが重症だろうが』

『本当です嘘じゃありません。玄丈殿に言い渡されたので、こうして私が来たんじゃないですか』

『…え?』

 玄丈が?

『そうですよ。藤田さんだけは絶対無傷で返すようにとの命を下されたのは玄丈殿です』

『……』

 つまり、俺に生きて戻り、今も過去も含めて大久保の傍にいろと――――――…

 玄丈の顔が浮かんだ。

 そして玄丈にやたらと酷似した、色素の薄い髪と目と肌の男が浮かんだ。





 なぁ 大久保



 西郷は死ぬぜ




*                  *


「………」

 俺の問いに川路は口角を震わせてくるりと踵を返し、俺に背を向けた。

 俺は近づいて川路を振り向かせ、ヤツの襟首を掴んで噛付くように言った。

「あいつに、なにを言われた」

 川路は視線を反らせて答えない。俺は拍車をかけた。

「あいつに何を言わせたのかと訊いている」

「……」

「貴様が帰郷組なんざ組織しなければよかったんじゃないのか?」

 俺の科白に、川路がびくりと反応した。これは、それまで大したミスを犯さないできた川路の、最大の誤算であり、西南の役の最大の原因だったのだ。俺は続けた。

「大久保をあんなにしておいて、貴様よくこうしていられるな」

「黙れっ!!」

「そう言われて黙る俺だと思ってんのか?あいつがどうにかなってからでは遅…」

 そこで、それまで大人しく俺に首元をひっつかまえられていた川路がきっと目を剥いて俺と視線を合わせた。川路の目が充血している。こいつも、大久保と同じでよく眠れていないのかも知れなかった。

「っ」

 川路は俺の手を払った。払ってしばらく黙って、喋りだした。

「あん御仁は負けん…なににも、もうほかのなににも負けやせん…無論刺客に狙われることも、死ぬこともない…」

「何故だ」

「――――-」

 そして川路は、大久保が京都に着いた川路を宥めたという言葉を呪文かなにかのように口にした。





 ――――――――川路、怯えるな

 もう二度と みえない事象に怯えなくていい

 未来はお前のなかにある

 生きている限り、必ずそれは訪れる

 だからともに生きてくれ

 もう俺たちしかいなくなってしまうのだ

 しかしそれは俺たちこそが為すということなのではないか

 だから川路、もういいのだ

 恐れなくていい…






 川路が去ったと同時に、大久保が戻ってきた。相変わらずの青褪めた貌をランプのもとに晒して。

 つ、と傍らに寄り、俺は大久保の腕を取った。痩せた腕は力なく手にしていた書類を机に落し、一部がひらひらと木の床に舞い降りた。大久保は腕を伸ばしてそれを拾おうとしたが、俺に止められたため、いぶかしんだ表情を作って俺に訊いてきた。

「川路君を泣かせたのはお前か?」

「泣くわけねぇだろ、あいつが」

「目が赤かったぞ」

「それは只の寝不足」

「仕方のない奴だ」

「どっちが」

「面倒を起こしてくれるな」

「とにかく、俺はお前の警護につくからな」

「要らん」

「っ…」

 変容をみせない回答に今更愚問を繰り出す俺ではない。

 しかし、刺客の影がみえかくれしている以上、放っておくわけにはいかないし、そういうことが警察の仕事だ、と俺はひとり愚痴た。それでも大久保は首を縦に振ろうとはせず、俺に掴まれていない方の手で俺の腕をのっそりと除けると床に落ちた紙を拾い上げ、靴音を鳴らして執務室の机にそれを置いた。

 そのまま大久保は棚に行って別の書類を整理し始める。大久保の動きに合わせてふわりと漂った大久保の香りが鼻を突いた。

 常の如く無視された俺は、香りに誘われるように大久保の背広の背中から右腕を大久保の体の前に回し、そのまま後ろに引っ張って、大久保とともに背中から床に倒れた。倒れたと言っても、床に尻をついて、大久保の背中を俺の胸が抱き止めた格好になる。

 宙に伸びた大久保の腕が頼りない。体もこんなに痩せこけて。

 あまりの細さに一瞬抱いた恐怖感を跳ね除けて、俺は鳶色の髪の隙間から、大久保の耳に囁いた。

「未来はお前のなかにあるんだろう?」

「………」

 フ、とだけ大久保は笑った。尤も、それは唇の端が少し歪んだだけで、実際は鼻息しか漏れなかった。それが悲しくて、俺は両腕を大久保の体に回して大久保を抱き寄せた。

 一瞬、大久保は体を硬くした。しかし俺の胸の中に収まって俺の掌に髪や頬を撫でられると、そのまま大人しくなった。

 赤ん坊みたいに、俺の肩口に白い額を摺り寄せた。





 なぁ 大久保

 西郷は死んだぜ

 でもお前は生きてるだろ

 未来はお前のなかなんだろ

 それはお前にしか描けないんだぜ

 お前は生きなきゃならないんだぜ





「斎藤…」

「…ん…?」

「警護は要らんからこのままでいてくれ」

 …頑固者。

「…仕方のない奴だ」

 俺は大久保の口真似をした。

 漸く大久保が笑った。

 その声を耳にして、深く深く、俺は大久保を抱き締めた。





 貴方という果てに往けるものなら行ってしまいたい

 貴方のすべてを抱き締めたい

 絶望や苦悩の なにもかもを

 この気持ちは本当なのだ

 悲しみだけを通り越して貴方とともに往けたらと

 そう願わずにはいられないけど

 悲しみを欠いた貴方は貴方ではないのだ

 だからどうか生き抜いてください

 俺とともに生き抜いてください

 そうしてこのままふたりでいこう

 光あふれる彼方へ






 蕎麦屋から戻った直後警察署で仕事を始めたが、突然嫌な予感がして急に俺は椅子から立ち上がった。その日は抜刀斎と大久保が再会を約束した日でありまるでそれを歓迎するかのように朝から気持ちよく晴れあがり、

 晴れあがり…

「藤田さん…?」

 木村の声は聞こえない。俺の耳にはあいつの声しか聞こえなかった。

 覚えているのはせせら笑いと聞き取りにくいほど低い声ぐらいなのに、それだけが俺の中で木霊している。耳の奥、鼓膜を通り越して直接脳髄に塗り込められた記憶と、

 俺の名前。

『さいとう……』

 胸が痛い。切り裂かれたような、そんな感触。

 癒えたはずの右腕がぴりりと疼いた。幾度となく大久保か舐めたそこが熱を帯び始める。対照的に、全身が震えだす。

 こんなのはいやだ。

 そのときバタンと音がして誰かが部屋に飛び込んできたが、俺は反応するのに遅れたらしい。気が付くと、木村が俺の左腕を取って、なにがしかを叫びながら俺とともに走り出していた。

 目指したのは、紀尾井坂。

 そらへと続くみち。







 ふたりきりでいよう

 どんなにこころが凍っても

 どんな未来が俺たちを待っていようとも




 ふたりきりでいこう

 貴方が描いた未来と

 永遠のしあわせと

 いつか辿り着くこの空の向こう

 彼方へ……





5.14.1878





interactived with "Forever the Good-Bye"
Photo was taken by Reica-O
for the burial of Toshimichi OOKUBO
Anata no karada no mukou ni ha
nannte aoi sora