always
その日の午後書類を持って執務室の扉を開くと、私と同じく警視庁警部補の藤田さんが長椅子に背を凭れておりました。確か今朝方、当直を終えて非番を取られた筈なのですが、こんなことは珍しくではないので扉口で頭を下げ、私は大久保卿へ入室を請いました。
許可する静かな声がして「失礼します」と断った私が室内を進みますと、藤田さんが読んでいた冊子から目をあげてこのほうを見ました。同職とはいえ藤田さんは極めて鋭いひとで、同僚からもある意味恐れられているのですが、幸いなことに私は嫌われてはいないようです。藤田さんはおやと瞼を上げて、綺麗な琥珀色の瞳を覗かせました。それが彼の挨拶です。
脚を組んで冊子に視線を戻した彼の前を通り過ぎて、私は大久保卿の机に進み書類に目を通していただきました。卿は大変に集中される方なので、読まれている間私どもはかなり長い時間を立ったまま待たなければなりません。
日本人にしては薄い灰色の目を書類に走らせる卿の御心は、私どもには想像がつきません。一見する限りではひたすらに怜悧で温かみを感じさせることのない方なので、この方を悪漢かなにかのように罵るひとがおりますが、この静謐さの意味するところは我々が最もよく存じております。疑う必要などどこにありましょう。
卿の思考は今回も長いようです。私は緊張していた両肩をそっと弛緩させてじっと控えておりました。
卿の背中にちょうど位置する窓から午後の日光が入り込んで机に影を作ります。まるで後光のようで、この方が同じ“人間”である事実を遠ざけていきます。
どのくらいたったのでしょうか。
私の後ろの気配がふと動いて、藤田さんが「ん?」と言いました。
「……?」
振り返りますと、警部補の足元に白い紙切れがひらりと舞い落ちていくところでした。警部補は長椅子に座ったまま上体を折り曲げてそれを床から拾い上げました。
「何だこれ」
仕事中こんな科白を堂々と吐く藤田さんに、卿はいつも何も仰いません。それに、内務卿ともあろう方の前で、それも非情ささえ匂わせる大久保卿の部屋に御本人と同席しながら、いささかの怯えもなく普通に言葉を出せるのは選りすぐりの剣客警官のなかでも藤田さんぐらいでしょう。新撰組大幹部であったというのは強(あなが)ち虚偽ではないかもしれません。仕事をしているときは特に目立つことなどないのですが。珍しい瞳以外は。
この琥珀と言うか、いえ金色と言ったほうが相応しいのでしょうか、何度目にしても覗き込みたくなるような瞳を大久保卿も大層気に入っておいでのようで、この方なりに執着されておられるようです。漸く非番を取った藤田さんが帰宅する前に御自分の警備を命じられて、かといって外出されるわけでもなく執務室に篭っておいでなのですから。
瞳だけではないかも、と思うことも度々です。季節はずれに気温の上がった日など、藤田さんは上着を脱いでシャツ姿でした。それでもお咎めになることなく、卿はシャツの黒と対照的な真っ白な肌を眺めておいででした。
今も、卿から発せられているとは信じられない視線が、彼の動きを追っているのかもしれません。
「木村、これ何だか知ってるか」
藤田さんと私は、実は警視庁内では仲のよいほうなのです。あまり人付き合いの多いひとではないようで、仕事が終わったら無駄なことはせずに帰宅するし、何よりも大久保卿に気に入られているひとなので、同僚も上司も警視庁以外でも下手に突っつくと後ろが怖い、と噂されています。
しかし私の…こう言っては情けなくもありますが、あまり警官らしくない柔らかい性格を気に入ってもらえたのでしょうか、いい感じで打ち解けてくれているのです。藤田さんのほうが三つ年上ですが、先日は蕎麦をご馳走になったほどです。
問われたので答えるべきなのでしょうが、何しろ大久保卿の前です、卿の前を離れることも藤田さんのように気楽に喋るなんてことも、私にはできません。
「なぁ、知ってるか」
そう、せっつかないで下さい…私は貴方にも弱いのですから…
声に出さないで口のなかで呟くと、大久保卿が書類を読む姿勢のままで小さく、
「構わんよ」
と仰ったので、私は脱力してその場にへたりこむところでした。
…大久保卿は余程御執心のようです。
たしかに、藤田さんは綺麗なひとですから。雰囲気とかも。
では…と一応断って軽く頭を下げてから、私は藤田さんに向かいました。彼は長い脚を組んで少し首を傾けて何をかを考え込んでいるようです。
私が近づいたので、藤田さんは右手に摘まんだ紙に書かれているらしいものを読み上げました。でも私の興味はやはり普段どおりです。じっと、見つめました。
本当に不思議な瞳です。大久保卿の御気持ちもわかるのです。
当の本人は自分の目が好きではないらしいのです。大久保卿の護衛のときも帽子を目深に被って、綺麗なそれを隠してしまいます。
「その本に挟まっていたんですか」
「ああ」
藤田さんが読んでいたのは警視庁の文書ではなく、この部屋の本棚に連なる文書らしいのです。その冊子の頁と頁の間から、切れ端のような小さな紙が落ちてきたというわけです。
「どこかで耳にした覚えがありますよ」
私が言うと、藤田さんはそれを呟き、もう一度私に同じ質問をしました。
「すみません…」
と答えた私に、しょうがねぇな、と藤田さんは苦笑して前髪を掻き揚げました。
その笑顔に私とは別の視線が当たっていること、貴方は気付かないのですか?
貴方は誰よりも視線には敏感なはずなのに。
でも、それも、視線を送ってくる御本人の為せる技かもしれませんね。貴方の金に捕われた方の。
藤田さんはうーん、と低く唸ると、紙をぴらぴらと振って手を止め、紙を窓からの光に透かすように翳(かざ)して言いました。
「…流れが静かな癖に、底はかなり嫌味でさ。川柳にしてないのが更に嫌味だ。含ませ気味の表現が素直じゃないぜ。よっぽどひねくれてるか、性質(たち)の悪いヤツが詠んだんだろうさ」
藤田さんらしい、きっぱりとした科白です。はぁ、としか言わなければ良かったのでしょうか、しかし私の口は動いてしまっていたのです。
「思い出しました」
「ん?」
「それは大久保卿が詠まれた歌ですよ。境におられる税所知事がいつか仰ってましたから。そうですよね、大久保卿」
そう言って私が大久保卿をみると、卿の頬が僅かに、しかし確かにぴくりと動いて、更に私には眉も顰められたように見受けられました。あの方のきまりの悪そうにされる御姿など、平素のあの方を知る我が身ですから真に驚いてしまい、しまったと私は思わず軽い口を噤みましたが。
「……クッ」
対照的に藤田さんは顔を向こうへ反らせて、制服の肩を震わせはじめました。紙を摘まんでいる細くて白い指も小刻みに震えだして、止まりません。それも相当我慢しているらしく、数秒経たないうちに上半身を丸めるようにして長椅子の背に低く胸を伏せました。
大久保卿も藤田さんの様子を御覧になっておられたようですが、ついに私の名を呼んで低く呟かれました。
「…御足労かけました。川路君に了解したと伝えてください」
「……はい」
何やら気まずい雰囲気に、私の声も尋常ではありません。卿を厭うひとがしきりと繰り返す、この方の人離れした空気に今更のように畏怖を感じて、私は背筋を震わせました。しかし藤田さんの背中は違う感情で未だに波立っているようです。
ともかく、大久保卿に深く頭を下げて私は退室しました。ノブに手をかけて、いつものように静かに執務室の扉を戻しました。
その途端、藤田さんが弾かれたように笑い声を上げました。彼が心底楽しそうに笑うなど初めて耳にしました。その声が閉じた扉から廊下へと漏れて、歩いていた他の官吏も足を止めたほどです。
やがてその声が数瞬くぐもり――――――何かに塞がれたときのような音に変わったあと――――――執務室は静まり返りました。その静けさに、我々は今日はもうあの扉を開けることはよそうと暗黙の了解をするのです。
それは未(ま)だ、すべての未来が光を帯びていた頃
遥かなる御代のことで御座いました