Kuro no Eternal
寒さと、両腕に食い込む痛みで斎藤は目を覚ました。
暗闇にぼおっとランプが灯っている。後頭部を襲う鈍痛を堪えつつ気配に瞼を上げると、誰かいた。
その人物は、優雅に椅子に寛(くつろ)いでいる。長い脚を組んで煙草を燻らせながら、口の端を上げてほくそえむ…。
「!」
口がそいつの名前を叫びそうだった。
だが、はっきり覚醒した精神が、その人物の姿を明らかにする。同時に、“彼”がもはやこの世の存在でないという真実を斎藤に突きつけた。
「…起きたようだな」
山県が野太い声で言った。
その視線は舐めるように斎藤の肌を這い続けている。
「陸軍卿が、随分な歓待だな」
は!、と吐き出した。
しかし先ほどの幻覚は予想以上に斎藤を混乱させていた。とうに逝ったはずの人間を、この眼は覚えている。網膜は忘れていない。
思い知らされて斎藤は暗く沈んでいく。
漸く夢にみなくなった“彼”を、こんな形で思い出すなんて…。
「…君が警視庁に雇われたのは、確かこんな時期だった」
山県の声が斎藤の思考を妨げた。
「私があれほど反対したのに、あの人は聞いてくれなかった」
山県が言う「あの人」が誰のことか察する自分が、忌々しい。
悔しさに斎藤はぎりりと奥歯を噛み締めた。
大久保利通。
偉大すぎる人物は、一月以上も前に死んだ。幕末から明治を狂ったように走り続け、創りあげた途端硝子のように一瞬にして砕けた。彼も、彼が命を懸けた時代も。
斎藤はその後始末をしている人間に吊るし上げられている。
今にも剥き出しそうな両眼を不気味に光らせながら、山県は続けた。
「いつもそうだった。命じるだけで、私の言うことなど気にも留めてくれなかった。挙句の果て、」
そこまで言うと喉の奥をくぐもらせた。
山県は夢みるように恍惚と瞼をしばらく閉じて、再び開いた。目線を足元からゆうるりと上げ、吊るしている斎藤を捕らえる。
立ち上がる。硬い靴の音が床に響く。
激しく傷ついたような目線を斎藤に浴びせながら、山県は近づいてきた。斎藤も人斬りの瞳で応酬する。
息が吹きかかる距離に来ると、山県は斎藤を責めるように呟いた。
「あれだ」
斎藤の双眸がピクリと震えたのを、山県は見逃さなかった。腰から抜き取った短刀で斎藤を吊るしていた縄を切る。どさりと音がして斎藤は冷たい床に落とされた。
「グッ…」
両腕と同じく縄で縛られた足首は、悪いことに交差している。だから子供の背の高さほどで吊るされた斎藤でも、バランスを崩して横倒れになってしまった。
カツ、カツ、と山県の靴音が斎藤の背中へ回る。斎藤は怯えた。本能だった。
山県が裸の肩に両手をかけると、後ろ手に縛られた斎藤の体が大きく跳ねた。それを利用して斎藤の体を起こして座らせた。
無骨な手が両肩から上腕へ下り、途中で胸に移って探るように滑り出すと、青白い肌に細波が起こった。
それを確認した男の息が耳にかかる。それは封印していた感覚を斎藤に否応無く思い起こさせるのに十分だった。たとえ辱められる予感であっても。
山県の指がズボンを膝まで剥いた。白い腿が山県の目下に晒されて、斎藤は急激に自身が昂ぶっていくのを感じた。
「何の真似だ」
震える声を抑えて前を見たまま斎藤は問うた。
彼にとって体にしろ精神にしろ汚されることは許されない。許さないはずだった。
ただひとりを除いては。
そこで我に返る。
斎藤が縛られた姿のまま暴れた。だが、頑丈な縄は彼を山県の腕のなかで悶えさるしか許さなかった。脚に至っては、むしろズボンを膝下へ下ろしてしまい、下のものを取り除こうとしていた山県の手の動きを助けてしまった。
山県が斎藤の前に手をあてがって嬲った。
「やめろ…っ!!」
山県の掌も指も熱かった。あいつとは、違う。
だが、喉は歓喜に艶を帯びた声を上げた。
蘇ろうとしている。
胸と茎を同時に嬲り自身も刺激され昂ぶっていくとは裏腹に、山県の胸には陰鬱な思いが渦まいてきた。
あの人もこの声を聞いていたのか。
今と同じように、腕のなかで抱いた愛しい人も。
いつかの自分の声が頭蓋に響く。
『あの、藤田とかいう警官にも、こんなことを、…させるのですか?』
絶頂を迎える寸前の大久保は山県の上で髪を振り乱すだけで、答えてこない。
『大久保さん…』
腰の動きを止めた。山県自身も既に抑えが効かなくなっていたが、大久保の肯定の言葉のほうがもっと辛いだろう。
崩壊していく感覚に襲われ沈んでいく山県は、あとは開放を待つだけの大久保自身から大久保の蜘蛛のような手を離させて、対照的に太く熱い掌で握った。
『アァッ…!』
大久保が長い睫毛を伏せたまま、熱に酔ったように白い首を反らせた。柔らかい髪の毛が虚空を泳ぐ姿までが山県を虜にするのだが、今は見惚れる気にはならなかった。
もう長いこと、大久保から誘われていないことに気づいた頃、藤田といういわく付きの警官が執務室に出入りしているのを知った。
夜だけではない。朝も昼も、大久保が登庁する日は必ず藤田もいた。
金色の瞳が印象的はその男は、自分よりも若く、強く、美しく、誇り高かった。
それだけでも山県を傷つけるのに、彼が腰に下げている日本刀が大久保の許可したものだと分かってからというもの、「藤田」という言葉を耳にするだけで不快に思えたし、執務室で二人でいる姿を見せつけられるまでに至ると、夜しか誘われたことのなかった山県は激しい嫉妬を覚えた。
だから、せめて自分の腕にいるときに、貴方を私の自由にしてしまえるときに、貴方の口から聞いてみよう。
私の、意味を。
『は…なせ』
細い指で何もしない山県の手を外そうとする。だが山県は許さず、腰にあてがったままでいた他方の手で震える細い両腕を掴んで大久保の動きを封じた。
大久保の胸の突起がつんと立ち上がっているのが見える。自分の唾液が絡んで桃色に濡れている。
藤田にもさせるのか。
私だけではないのか。
そう思ってカッと脳裏が赤く燃え上がった。
大久保が潤んでいた目から表情を消して、中断させられた行為に息を整えていた。薄い胸が激しく動く。大久保の冷たい視線を浴びても、この傷よりも痛くはなかった。
『…フ、フフ……』
突然大久保が笑い出した。正確には唇だけが笑っていた。
氷を思わせる目で見下ろしてくる。
なんて綺麗な。
『何が、可笑しいのです』
『ちがう』
――――え?
嫉妬に囚われていた山県にとって、唐突な大久保の言葉を理解するのに数秒かかった。が、意味がわかって暗雲に覆われていた山県の胸が嵐の後のように晴れあがった。
噂は嘘なのだ。
ああ、と思った。先ほどまでの絶望が消え去る快感に、山県の頬は紅潮したかもしれない。
手に込めていた力を緩めて再び突き上げようとしたとき大久保の白い喉が動いた。
『あれは俺が抱いているのだ』
…………
何よりも残酷な答えだった。肯定のほうがどれだけ楽だったろう。
抱かれることと抱くことは、違う。少なくとも、あの人にとっては。
太政官の中で、外で。耳にしていたのは、大久保が男に対しては旧幕の頃からあくまでも雌であったということ。
なのにそれを否定する存在が、目の前にいる。
これは自分の知らないあの人の雄を知っている。
信じられなかった。
あの人はどうやってこれを抱いたのだろう。
山県は自分のズボンの前を開くと、斎藤の膝の後ろを持ち上げ、怒りと欲情で猛々しく脈打つ自身を無理矢理埋め込んだ。
「うぁ…っ!!」
斎藤が痛みに体を強張らせた。濡らすことも指で慣らすこともしなかったから、当然の反応だった。
狭くて山県も痛い。逃げ出したくなる負の気持ちを抑えて、項に唇を這わせた。
「…!」
そのまま吸って舐めてやる。あの人に繰り返したように、熱い息を吹きかける。
滑らかな白い肌。絡みつく煙草の香り。痛さを感じるほど張りつめた緊張感と、それを砕いているときの恍惚感。思うが侭に啼かせられる陶酔。
夢みるように息を深く吸い込んで、舌を這わせると斎藤の意識が山県の口の動きに集中した。途中までしか入れなかった狭さが幾分柔らかくなって山県が段々と飲み込まれていく。
「!…い、あァ、ッ…」
熱い。
斎藤の肉壁は山県をきつく締め付けた。あの人のような、快感だった。
亀頭を指の腹でつまむとその強さは倍増して山県を更に駆り立てた。
「ああ…っ!!」
斎藤は己の反射を恥らいながら、大久保の影を感じていた。
頭を左右に振って嫌だと言っても、絶対に聞かない奴だった。
冷たい肌。そのくせ熱い舌であちこちを舐めてきた。大久保の与える全部に反応するのを見て耳元で笑っていた。
なのに手を伸ばしても決して届かなかった。急激に近づいて、かすめて、更なる速さで走り去った。
「ひっ…!」
山県が斎藤を上下に動かし始めると、目が霞んだ。
血の味がする。唇を噛んだのは、痛みのせいではなかった。
斎藤は次第に色を喪う意識の向こうに…部屋の暗闇の向こうに、大久保の姿を見た。
闇に浮かぶ、貌。
鉄仮面が健在だった頃とは違う、死ぬ間際に見せた、憔悴しきった顔。唯でさえ深く彫られた目が窪んで、わずかに存在していた頬肉がこそげ落ちて冷笑すらできなくなっていた。
どうしてああなるまで放っておいてしまったのだろう。
大久保が不死身だと俺は本当に思っていたのだろうか。
文字通り骨と皮だけになった躯で、それでも俺を抱いた。孤独の闇で熱にうなされ当て所(ど)もなく彷徨うこの山県のように。
鉄仮面よりも、むしろあの姿が本来の大久保なのではなかったか。そう思いついたときには既に彼の命は絶えていた。
何をしてでも護るべきだった。大久保は消えてはならなかった。何よりも大久保の為に。
夢に出てきた大久保は、皮肉に釣り上がる唇を自慢気に俺に寄越したのに、今のお前はこんなにも儚い。涸れた筈の涙が頬を伝った。
そして唇を突くのは禁じた筈の言葉。
なぜ一人で逝かせてしまったのだろう!
引き裂かれるような痛みが俺を大久保のもとへ連れていってくれればどんなに楽だろうか。
逢えないと分かっているのに、手を伸ばしそうになる。伸ばして名を叫び、奈落から引き上げたくなる。
ああ…俺はこんなにも大久保を。
けれど、あいつが最後まで求めたのは、死地をもともにと選んだのは、あまりにも巨(おお)きな軍神だった。
自分で殺したくせに。
大久保、聞いているか。
お前のいない世など、まるで生き地獄だ!!
地獄なら俺と共有できるのか?それが望みなのか?
ひとの気も知らずに、あんたはどこでだって非道い…
闇で大久保がいつもの顔になって嗤った気がした。
声が聞こえて来そうで、悔しいのか嬉しいのか分からないまま俺は涙を零した。
「っ!!」
目を閉じて、味わう。
互いに、今は亡きひとの面影だけを追いながら。