KOHIBITO YO
おまへがやさしくしてくれるのに
私は強情だ
鎮西から帰って初めて会った大久保は、最後にみたときと同じく、まったく痩せこけた髭面をしていた。
「よぅ」
努めて俺は平静を保ったふりをする。
大久保はちらりとこちらを見て、すぐに政務に戻った。
灰の視線はひたすら冷たく、その冷たさに安堵する。こいつは変わっていなかった、変わったのは寧ろ俺のほうかも知れないと。
…毎夜、夢をみる。大久保が、自分で葬り去ったはずの彼と睦み合う光景を。
別にそれを嫌悪しているわけじゃない。俺が拘っているのは、何故そこまで想った男を消すことに、大久保は何も訴えなかったのかと、そこまで俺を信用していないのかと言いたかったのだ。
幕末の動乱を、生きて生きて生き残って、辿り着いた地が焦げ付きそうな情念だったとは。
俺は、先に死んだ方が楽だということを知っている。恥も外聞もかなぐり捨てて自分のためだけに生き、死ぬこと方が、その後を永らえて妬みと嫉みを真っ向から浴びながらも国家のためにと凌ぎを削って生きることよりも、余程楽だ。
僅か数年前までは、大久保も西郷も後者の立場であった。それが西南の役を挟んで分裂し、一人は残り、一人は消えた。俺と違うのは、ふたりとも時代の推進者として政府の最上階にいたということだ。
影の立場に徹する者が日の光を浴びないのは当然のことながら、西南の役が勃発するまで、否、西郷が東京を去るまでは、大久保よりも寧ろ西郷の方が世間の光を浴びて―――――どころか、光そのものであった。
役が終了しても尚、鹿児島県人のみならず民衆のなかには、西郷生存説を否定しない者が多い。それは西郷が彼らにとっての世の光、希望だったからだ。
幕末ですらそうだった。大久保一蔵の名は、常に島津久光あるいは西郷吉之助の後ろに控えており、奴は自らを補佐役に据えていたのだ。
西郷は光、こいつは影。
俺は―――――影。
影の俺に…こいつを繋ぎとめる術を生み出せるか。
大久保を覆う失望感から奴を引っ張り上げても、俺という闇に来てしまっては意味が無いではないか。
「…」
ぱたん、と小さな音がして大久保の手元が動いた気がした。はっとして顔を上げればそこにはどこまでも鉄仮面の大久保がいた。灰色の瞳で俺の腕を凝っと見つめている。さきほどの音は、大久保が手にしていた筆が置かれた音のようだった。
大久保は席を立って真っ直ぐにこちらへ歩いてきた。久方ぶりの低い声。
「…怪我を負ったと聞いている」
「大…したことねぇ」
「弾は」
「貫通した」
「見せてみろ」
「!っ、ちょ…」
言うなり大久保は俺の右腕をぐいっと引いた。いきなり傷に響いた。
「痛(い)っ」
「……すまん…」
断っても大久保の視線は俺の腕から離れず、包帯を巻いた右の上腕の稜線を追っている。気付かれないようにと、出来るだけ薄く包帯を巻いたつもりだったが、傷は未だに治っていなかった。
大久保は俺の意など聞かずに、俺の上着の釦(ボタン)を外し始めた。躊躇いも無く上着を左右に開き、掌を這わせて右肩から右腕へと滑らせる。掌の冷たさに自分と大久保との体温の違いにぞっと背筋を強張らせながらも、なんとか耐える俺だった。
するりと腕から上着を抜いて、大久保は包帯を巻いた俺の腕を剥き出しにした。制服が左半身だけに突っ掛かって、だらしなく伸びている。
「……」
大久保は暫し俺の包帯をみつめたあと、何も言わずに執務室を後にした。
「何なんだ一体」
ひとり愚痴てはみたものの、何がしかの言葉を吐かないでは、この息の詰まりそうな空間にいられなかったのだ。ただの執務室なのに、最後にここに来たときと現在とは、まるで違った空気が漂っているように思う。
西南の戦場では実に多くの被害が出た。戊辰よりも酷かったと思うのは、政府軍の兵器が戊辰時より格段に進化していたためと、向かい合った陣営がともに戊辰を戦い抜いた人種であるためだ。あの戦いを挟んで俺たちは、幕末という時代の産物を自らの手で廃棄し、革命の象徴たる西郷の息の根を止めなければならなかった。
玄丈から大久保と西郷との云々を聞いて以来の俺は、戦について本当にこれで良かったのかと悩むようになった。この国から西郷を喪うことは正しいことなのか、大久保から西郷を奪うのは最も優れた解決方法なのか、と。常に戦は、最終手段として行われるものであって、他に術があるのならまずそちらを考える方が圧倒的に良いだろう。
そんな俺が右腕を打ち抜かれたのは、ある意味当然の結果だったのかも知れない。戦場に於いて迷いのある者は生き残れないのだから。そして俺は生き残り、西郷は死んだ。
城山で薩軍が全滅したという知らせが俺のいた療養所に届いても、周りの者は大して喜べないでいた。「ほんとうなのか」「あの薩兵が滅んだのか」が繰り返された。暫くして玄丈がやってきて、負傷した部下たちの見舞いをした。俺のところにもやってきて、何か言うでもなくぼんやりと隣に座っていた。
…あとで人づてに、玄丈は城山総攻撃に参加したのだと聞いた。かつて(オ)先師として崇めた人物=西郷(と率いる軍隊)に銃口を向けるのはどんな気分だったのか、俺には想像がつかなかった。果たして自分は、本気で大久保に刃を向けることが出来るのだろうか。出来ない、と即答する俺がいるだけだった。
―――――それを、大久保は遣ったのだ。先師どころか、自分の“男”と決めた相手に対して。
大久保は自身の長所短所を遥か彼方に葬り去ってしまうことで、明治政府の頂点に立っている。そうすることが決済屋として冷静で公平な判断をして国家の利益追従のために存在し続けるに丁度良いからだろう。奴の遣り方は徹底を極めているから、政府は奴の思うが侭に動いている。
彼は大久保のそんな性質を唯一狂わせる男だった。これが何を意味するかは、考えるまでも無い。
大久保は彼無しには存在しなかったのだ。そしてこれは彼についても言えることで。
生まれたところは同じ町。
三歳違いで、家は同じく貧しい下級武士だった。毎日毎日顔を合わせて、兄弟のように育った。
大久保の父親が政治犯として遠島を言い渡されたときは、大久保も罷免され、家のあまりの窮状さに大久保は彼の家で飯を食べたのだと聞いた。その後大久保が藩政に関わるようになり、次々と昇進を重ねるなかでも彼のことは片時も忘れなかった。
そんな男と殺し合うなぞ、お前らしくて涙が出る。
歪んだ視界の奥から黒い影が生まれて俺のなかの大久保を覆っていく。
維新の最期を抱き留めて永劫彼方に連れ立った、余りにも偉大な先の陸軍大将。
西郷、か…
勝てねぇよ
勝てるわけが無いだろう
俺にどうしろと言うんだよ
ややあって大久保が戻ってきた。室内に呆然と立ち尽くす俺を長椅子に座らせて、腕の包帯を取り始める。
「…?」
視線を走らせると、大久保の膝には応急箱らしきものが置いてあった。どうやら包帯を取り替えようとしているらしい。
大久保は俺の視線を浴びながら、黙々と作業を続けていた。包帯を全部取り終えると、生物の観察でもするかのような目つきで傷を見る。
「…膿んではいないようだな」
「膿んでたら俺はとっくに死んでるぜ」
俺が答えると、大久保は鼻でフンと笑った。そして瓶から綿球をつまみ出し、液体に漬けて俺の傷に当てて軽く叩いた。
「……っ」
突然痛覚が鋭くなって全身を硬直させてしまった。そんな俺を大久保は再び笑うのだった。療養していたとは言え、夏場の銃傷であったために数回膿んで、焼き刃で膿んだ箇所を切り取るという医者の手当てに、自分流の治療を適当に加えていたためか、傷の治りは良くなかった。医者に骨に達していないのが幸いと言われた状態である。
室内に薬液の鼻につく匂いがぷんと漂ってくる。この匂いは、従軍していたときに嗅いだ匂いとは違うことからすると、大久保は気を利かせて、良い薬でも持ってきたのだろうか。
痛みに耐えて歯を食い縛る俺の様子を見ながら大久保の治療は無言のままに終わった。するする音を立てて奴の白い手が俺の腕に新しい包帯を巻いていく。
慣れた手つき。こうやって、自分の“男”にも接していたのか。
「まだ痛むか?」
「…いや」
「そうか…」
痛んでるのは腕の傷じゃない。
こひ人よ
外が暗くなっても、大久保の仕事は続く。
俺は上着を放り投げ、椅子に座って煙草をふかしながら、奴が終わるのを待っていた。
ひとに言わせると、大久保は変わったのだと言う。
以前の大久保は、常に深く沈毅して考え込んでいるようだったが、役が終わってからは、急にはきはき物を言うようになったそうだ。
『今まではいろいろの関係に掣肘(せいちゅう)されて思うようなことが出来なかった。君らもさぞ頑迷な政治家だと思ったと思う。これからは大いにやろう。私は元々進歩主義なのだ。ひとつ積極的にやろうじゃないか』
などと言っているらしい。これを知る大久保の関係者は素直に喜んだそうだが、俺には奴が無理をしているとしか思えなかった。
自分の光を失ったものは、己の暗闇を克服しない限り、生きてはいけない。いま大久保は西郷を喪った。西郷の代わりを求めることなく、政界で身を立て続けられる自信がどこにあると言うのだ。これまで四十年だ、四十年連れ添った相手無くして、「これから」に立ち向かっていけるのか。
西郷の呪縛から脱することを、お前は望んでいるのか。
彼が死んだとき、両目にいっぱいの涙を溜めていたくせに。
…いまもなお、その瞼の裏に、かの残影を思い描いているくせに………
「どうした」
大久保の声が何かを言っている。それが、遥か虚空を隔てた酷く遠くから聞こえる気がする。
出会った頃のお前なら、こんな儚さなど垣間見ることすら叶わなかった。
いまのお前はまっさらなのだ。襲ってくる悲しみに対しても、政府人としての役割を最後までまっとうするため自らを励起させようとする理性に対しても。そしてそれは―――――どちらが勝つ?
「………」
否、質問が違うだろう。
俺はどちらを望んでいるのだ。
「……」
それは
「斎藤?」
「………」
考えるまでもなく
「どうしたのだ」
「…………っ」
俺は両の奥歯を噛み締めて、大久保から顔を背けて椅子から立ち上がった。
みられたくなかった。
すべてを認めた表情を―――――大久保は俺の上司でも好敵手でもないと判った顔を―――――そして俺は、どんなに堪えても西郷には敵わないと諦めた貌など―――――
幕末から明治まで殆ど全ての薩人が先師と仰いだ男と、滅び行く徳川の皮を被って追い詰められっぱなしの人生しか選べなかった男。大久保で無くとも、どちらを選ぶのかは分かりきっている。
光と影が交差して、残るのは両者の明瞭さ加減の差異ぐらいだ。光はますます輝き、影は暗くなる一方で。
西郷は大将としての光を一身に浴び、また己からも放ちながらの死を遂げたが、俺はこれからも影として不死身の宿命を生き永らえなければならないのだ。
勝てねぇよ
最初っから
「クク…」
どうやら俺は肩だけで笑ったらしかった。背中に大久保の視線を感じて、皮肉にも唇が震える。
毎日届けられた電報を耳にしながら、自分の“男”の命が削られていく様を、こいつはどんな気分で迎えていたのだろう。
嘘だ、と跳ね除ける気持ちと、真実であると受け入れざるを得ない気持ち(なにせ、この明治政府を創りあげたのは他ならない大久保なのだから)が痩せ細った体のなかで真正面から衝突して、気持ちだけでなく大久保自身がいまにも砕け散らんとした時もあるかも知れない。それを、最後の力で踏み留めて、お前はこうしてここにいるのだ。
示し合わせたかのように、それが、薩摩集団の総統として責任をとって死んだ西郷の姿に重なって。
…あんたらには もう、俺の立ち入る隙間なんか無いさ―――――
気がつけば大久保は俺のすぐ後ろにいて、乾いた唇を俺の項に這わせていた。体を強張らせると、長い腕を俺の体の前にゆっくり回してくる。出会ったときから変わらない肉の無い腕が、俺の体に食い込んでいくのがよく分かる。やがて俺の体は奴の両腕のなかに包(くる)まれてしまった。
近づいた体温。相変わらず冷たいが、俺の肌にかかる奴の長い睫毛の動きが、こいつがまだ現世にいることを証明している。
「…大久保」
大久保は応えない。
「……俺は、生きてるぜ」
大久保の唇の動きが微かだが止まったのが分かった。奴の吐く息が熱を帯びている。
前を見たまま俺は言うのだった。ふたりきりの空虚を埋めるために。
「生きてんだろ、…あんたも」
「…確かめさせてやろうか」
一瞬の間をおいて、大久保は例の声で笑った。
青褪めた手が俺の服を脱がしていく。俺には、抗う気などさらさら無かった。
「…阿呆」
そうしてまた巡り来る季節の風に追い落とされないように、俺はただ漸進するだけだ。
背中しかみたくないと―――――ふたりの間を割ってはいることが出来ぬなら、せめて、貴方の背中を追いかけようと、俺は自らに課した。
俺が影に徹することで彼が影を抜けて光になるのなら、この命など惜しくは無いのだ。
こひ人よ おまへがやさしくしてくれるのに
私は強情だ 今朝目が覚めて、
おまへのやさしさを思ひ出しながら
私は私のけがらはしさを嘆いてゐる、そして
正体もなく、今(いま)茲(ここ)に告白をする
私はおまへを愛してゐるよ
いろんなことが考へられもするが、考へられても
それはどうにもならないことだしするから、
私は身を棄ててお前に尽くさうと思ふよ。
またさうすることのほかには、私にはもはや
希望も目的も見出せないのだから
さうすることは、私に幸福なんだ。
頑なの心は、理解に欠けて、
なすべきをしらず、ただ利に走り、
意気消沈して、怒りやすく、
人に嫌はれて、自らも悲しい。
されば人よ、つねにまづ従わんとせよ。
従ひて、迎へられんとには非ず、
従ふことのみ学びとなるべく、学びて、
汝が品格を高め、そが働きの裕(ゆた)かとならんため!
だから俺はお前に従うよ、たぶん―――――
お前が死を選ぶこと以外については、な
(中原中也「山羊の歌」~「無題」より抜粋)