Kegarenaki KOUHUKU 2




 ランプの火が赤く燃えている。

 部屋の中にそれ以外の明かりはなかったが大久保の顔は見て取れた。

 不健康な白さはともすれば彼を病弱にすらみせる。しかし

「く…ぅ」

 斎藤の隙をついて手首を戒め、寝台に括りつけるとはどういうことだろう。斎藤は今更ながら大久保という人間が読めなかった。

 大久保は斎藤の制服のボタンを外し、下のシャツをスボンから引き出して左右に開いてしまうと晒された肌に唇を落とした。

 髭の柔らかさに震えた体を、大久保の唇は楽しむように綺麗に浮き出た鎖骨の肩口から胸の中央に向かって殊更にゆっくり辿る。その感触にいちいち感じている自分を、声を上げないように抑えるのに斎藤は懸命だった。奥歯を噛み締める力すら、忘れていた。

 そうしているうちに大久保が斎藤の視界から一瞬消えて、再び現われた。目を覗き込みながら近づき、睨みをきかせる斎藤の顔を覆って息を重ねる。

 体が強張る。その間に大久保の舌の侵入を許してしまった。

「ん…」

 斎藤は眉を顰めて与えられるキスに耐える。大久保の舌が斎藤の舌の上に乗り、曲線に沿って斎藤の舌の上側を這う。そのまま少し体重をかけて斎藤の顎に手をかけた。

「!!」

 暴れようとした斎藤を繋ぎとめる鎖がガチャガチャ音を立てる。だが大久保は斎藤の顎を固定したまま、許さなかった。

 むしろ顎から移って、斎藤の頬を挟んでしまう。冷たい掌。

 動きを封じられて斎藤は大人しくなる。そして大久保はあっさり舌を引き抜いた。

「ゲホゲホッ」

 開放された途端、斎藤の喉が引き攣った。胸が大きく上下して囚われの身が捩れる。

「う……ぐ……」

 口腔に広がり喉へ注ぎ込まれたのは、きつい洋酒。幕末の京都の花街で何度か飲んだが、喉越しの悪さ故に好きにはなれなかった。

 大久保は寝台に腰掛けたままだ。床から舶来の瓶を取り出して、斎藤に見えるように、ランプの灯を浴びて琥珀色になったそれをゆっくりと回転させる。

 中の液体が大久保の意のままに揺れて波が立った。

 それが自分と重なるようで。

「…っ」

 なんで、俺が。

 灼(や)けるような胸で思う。何度繰り返したか知れない。

 大久保が瓶を床に戻して斎藤のベルトに伸びて金具を外しにかかった。

「やめろっ」

 …繰り返してきた。これも。

 その度に根こそぎ力を奪われて、思い知らされるのはこいつには敵わないということ。

 きつい視線を浴びせかけても、鼻で笑っただけで大久保は斎藤のズボンに手をかけ、剥いだ。体を火照らす羞恥は、既に晒されているが故ではなかった。月影さえ侵入できない張り詰めた空間に、白い肌が露になる。これから訪れるであろう時に慄いて粟立った肌に、氷の掌が重ねられ…震えた。

「……」

 大久保は無言のまま斎藤の肌を眼だけでゆっくりと舐めまわしている。熱を帯びていく斎藤の躯を嘲笑うかのように、ときおり斎藤の目をみて、唇だけで笑った。

 斎藤は、自分が怯えていることに気が付いた。男と、男のもつ残虐性に対して。普段執務室の机でもはや一切の雑念を殺して黙然と思考する男の様子からは覗えない男の本性が―――――男に接した人間が畏れる正体がこれなのだと、僅かの時間で把握できたのはやはり、この男があらゆる意味で自分よりも際立っていたからである。だからこんな下劣な時間まで、逆らえない。

 例の視線は左右に開いたシャツの中の肌理細かい肌を一箇所一箇所、確かめているようだった。みられているだけなのに、鼓動が胸壁を越えて届いてしまうのではないかと思われるほどに高鳴っている。先ほどのきつい酒の所為だと思いたかった。

 ゆっくりとシャツと肌の間に手を這わされて生じる妙な感覚に斎藤が背中でずり上がると、ひたり、と指が脇腹の肌を押さえた。そこは斎藤がつい最近、捕り物で追い詰めた輩と斬り合ううちに折れた刃が飛んで出来た、浅い傷である。大きさも出血も大したことはなかったが、執拗に大久保はそれをねめつけていた。怒りでも憎悪でもない非情の、器械の検査でもするかのような無機質な視線であった。

 わからない―――――こいつが何を考えているのか。

 わかりたくもない―――――こいつが何者なのかなど。

 敢えて言うなら、不快の二文字であろう。姦淫されるだけの動物にならされるのは御免だから捕まるたびに抗ってはみたが、緩急混在の手によって阻まれ、斎藤は陥落するしかなかった。

 耳に入る愚弄の声…「壬生狼?壬生狼どころか、いまやあの男は大久保卿の狗なのだ」…つまり周りの連中は斎藤が大久保に飼われていると――――しかもこういう意味で――――認識しているのだ。内務省を訪れるたびに浴びる色のついた視線が背中に突き刺さって、流石の斎藤もうろたえる。

 昨夜もそうだった。斎藤は本来の、護衛のために内務省に来たのである。徹夜明けに相応しい、単なる雑務処理だけの仕事が終わり、やれやれやっと…と思ったときに使いがきたのだ。仕方が無いから差し出された夜食に箸をつけて数分後に意識を失い、次に気がつくとこうなっていた。「貴様…ッ」尖る斎藤を背に大久保は背広を脱いで隣室へ消えたのだ。「お前は割りと単純だな」腹が立つ台詞を残して。

 斎藤が寝台できつく括られた手首を外そうともがいているうちに、戻ってきた大久保の手に透ける容器らしきものがあったが、暗がりの所為でよく見えなかった。それからは何の躊躇いも無く大久保が手を伸ばしてきて―――――今に至る。

 褐色がかった橙の灯りのなか、大久保の武骨な手が斎藤の白い膝頭を外側に向けて開こうとしている。斎藤は息を潜め、羞恥に耐えた。

 ヤツの手が、中心で弾けそうになっている斎藤を無遠慮に掴む。

「…ッ!」

 斎藤は顔を背けた。濡れているのだ。

 それを灰色の視線がじっとみていた。

 焦げそうだ。




 わからない のは、

 自分という存在の意義

 剣鬼として闇を刻んできたが

 抱かれて悦ぶ俺は何なのだ




 ヤツが近づいてくる。無表情にこちらを嘲いながら。

 先ほど注ぎ込まれた酒が大久保の唇を濡らしていた。自分の唇をも、同じ色艶で染めて、―――――紅い。

 赤いのは己の血。目の前の男の体にも流れる毒々しいまでの色。

 大久保が指を舐めて割り込むように斎藤に入れてきた。

「痛(た)…ッ!」

 尖った爪が粘膜に突き刺さって、正直、切れたと思った。

「……」

 痛みに顔をしかめる斎藤をみて大久保はいったん指を引き出し、ランプの灯りに当てて、それを確かめているようだ。それは例えようも無く淫靡であるはずなのに、大久保の行為は常に淡々としていた。

 大久保は斎藤の視線を集めながら、指の先についた液体を舐めとり、更に唾液を含ませている。身構えた斎藤をよそに大久保は再び入れてきて、増やした指と指の間を開き、斎藤の体から力を奪っていく。

 斎藤は暴れようとしたが、逆に手首を戒める鎖をひねりすぎて自由になる鎖の長さを失った。しまったと思って斎藤が怯える間に大久保は自分の服を開いて、例の姿勢をとってきた。

「ア…」

 大久保の先端を感じて、思わず斎藤は声を出した。一瞬、低い、くぐもった笑い声が聞こえたように思ったが、そんな思いは次の行為で吹き飛んだ。大久保が一気に腰を進めてきたのである。

「!!」

 声らしい声は出なかった。無理矢理飲まされた酒が胃からせり上がってきて吐き気を催し、それを耐えるので手一杯だったのだ。

 大久保は動き続けた。次第に抵抗を失っていく斎藤の上で斎藤を引き裂くかのように動き、抱くというよりは抱かれるような姿勢で斎藤の白い肌に倒れてきた。

 いつしか互いに眼を閉じていた。綯(な)い交ぜになった酒と血と汗の香りを掻き乱すふたりには、過去も未来もなかった。





 執務室の机の、倒れた酒瓶。なかに液体が残っている。斎藤は手を伸ばした。

 両手を戒めていた鎖はとうに外されていた。それがいつだったのかは覚えていない。いまの日付が何時なのかも知らない。

 斎藤はため息をついて瓶を掴んだ。

 大久保がしたように、揺らしてみる。底に僅かに残った酒が濃い匂いを放ち、腹が減っていることに気がついた。そういえば、寝台に括りつけられたため昨夜から何も食べていない。

 瓶を取って硝子に口をつけ、底に残る酒をあるだけ乾いた喉に流し込んだ。

 途端に唾液が溢れる。唾液と酒が綯(な)い交ぜになるのが解せず、斎藤は喉を鳴らして一刻も早く胃に落そうとした。

「………不味(まず)…」

 酒が食道を下り胃の腑に落ち着いて、燃え上がる。いままで経験した酒とは違う熱に、体中が侵される。手の甲で唇を拭った。

「………ふん」

 斎藤はひとりごちて、ポケットから煙草を出して火を点けた。煙が立ち昇り、隙間風に乗って横に流された。まるで翻弄された自分のようだと思った。そう思いついて頭に来たが…憤るのは止した。

 考え込んだところで何も始まらないのだ。自分が動かぬ限り、この不快感さえ拭えない。それに不快感とは言うものの、感じているのも生じさせているのも他ならぬ斎藤自身ではないか。だったらそれを―――――鬱々している自分を斬り捨ててしまえばいいのだ。

 そこまで解っているのに斬り捨てられないのは何故か。

「…斬り捨てたくないからに、決まっているだろうが」

 抱かれる自分も、なにもかも、あの男に会って初めて知った。

 浅ましい声を上げて果てる快感。、疼く躯で迎える朝。いやらしく伸びてくる腕の感触に、さらに次を求めていることも。分からないと言いながらも、それらはすべて自分の姿だったのだ。だから、受け入れるしかない。

 わからないのは、自分をひたりとみてくるあの男だ。わからない、わかりたくもない。だが、

 ――――― 一瞬たりとも堕落したらヤツの仮面の下を知るものとして、叩っ切る。

 情事のあと、まだ足りないとでもいうようにして指を絡めてきた男を睨みつけるが習慣になっていた。そのあとも笑われるのがオチである。その笑い声がやたら耳について――――離れない。

 嘲(わら)われて、嬲られて、俺が黙っているわけがない。だからそんな自分を斬り捨てるなどもってのほか。

 …あの男はそんな斎藤を知っているのだ。振り払っても払っても、斎藤が大久保から離れられないと知っているから、手を出してくる。自分の掌の上で抗う斎藤を笑うのが快感なのだ。

「…ただで済むと思うなよ」

 斎藤は立ち上がり、ひとり呟いて部屋を去った。まだ体が疼く。瓶から床に零れた液体が、斎藤が開けた扉から洩れた夕陽を反射してきらりと光った。

 窓ガラスから差し込んでくる西日を浴びながら、人気の無い廊下を歩いた。硬い靴音だけが響く。怪しい影をめがけて刀を振るううちに、いつしか“彼”を欲している自分に気づくのだ。





否何(いづ)れとさへそれはいふことの出来ぬもの!
手短かに、時に説明したくなるとはいふものの、
説明なぞ出来ぬものでこそあれ、我が生は生くるに値ひするものと信ずる
それよ現実! 汚れなき幸福! あらはるものはあらはるまゝによいといふこと!

 *

ゆふがた、空の下で、身一点に感じられれば、万事に於て文句はないのだ。




 名も無き輩の血潮の先に 哂(わら)うお前が待っている。

 滴る液体が銀の刃を洗っていく。

「貴様を斬るのはこの俺だ…」

 斎藤は笑った。有り得ない景色を夢見るなどらしくないと、自らを嘲いながら。



(中原中也「いのちの声」より抜粋)