scarlet or purge






穢れを知らない魂のために



scarlet or purge




 ―――――セラフ

 と いうそうだ



 部屋に飾られた舶来の絵画は、豪奢な装飾に彩られた室内ではその静寂さ故に斎藤の目を引いた。

 英国の商社を経営する老人に招かれて大久保がその屋敷を訪れたときのこと。

「ミスター・オオクボ」

 と老人は大久保を呼ぶ。彼だけでなく、多くの外国人がこの国の最高権力者を親しみを込めてそう呼んだ。

 老人は革製のソファを大久保に勧め、座ったのを確認して自分も腰を下ろすとソファの軋む音が静かな部屋に響いた。

 テーブルに置かれた紅茶から漂う芳香が向き合う二人の鼻腔をくすぐって、変動の激しい国際情勢を一時忘れてしまいそうだった。

「………」

 忘れられるものなら。

 脆い土台の上に危うく建国された日本を置き去りにして、列強の貪欲ぶりは舞台を拡大しながら世界を巻き込もうとしている。貿易業を展開している老人の母国からの情報は、大久保の耳にも入り、この聡明な政治家を一層堅固につくりあげていた。

 ゆるぎない自信と大いなる思想を、実現するために。

「お連れの方は、ズイブンあの絵が気に入られたようですネ?」

「…?」

 唐突に話題が転向してそれまでの思考を打ち切り、大久保は目を瞠って老人を見た。

 老人は微笑みを浮かべたままの顔を左に向けた。つられて、大久保も向こうを見た。

 深い藍色のキャンバスに描かれた赤子は自ら輝き、三人の人物に護られている。その絵画の前で護衛に付き添っているはずの斎藤が呆然と立ち尽くしていたのだった。

「……」

 大久保はその姿に少々驚く。斎藤が形あるモノに執着するなど、想像もつかなかったしそんな態度は初めて見た。

 珍しいこともあるものだ。あの、斎藤が。

「Romeで買ってきたものですが、よろしケレバ差し上げましょう」

 穏やかな口調のまま老人は告げた。

「いや、それは……」

 当然大久保は断ろうとする。好意とはいえ賄賂の形をとってしまう行為に、訪欧から数年来の恩ある老人を巻き込みたくはなかった。

 老人に向き直り大久保は話題を変えた。積み重なる諸問題やら各国の思惑などを語り合えば半刻は驟雨の如くに過ぎるものである。

 その間も斎藤は身じろぎひとつせずに絵画の前に佇んでいた。彼の耳に、二人の声は届いてはいないようだった。  そのうち部屋に一つだけある大きな振り子時計が午後四時を知らせた。  弾かれたように大久保が斎藤に“目”で命じる。老人には向けていなかった尖った氷の視線が瞬時に蘇った。

 ――― !

 それまで身動き一つしなかった斎藤が背筋を震わせ、視線の主にゆっくりと振り返った。革靴の踵が床を回転する間に斎藤が藤田五郎に戻っていた。

 営業用の笑顔で腰を下ろす二人を見る。立ち上がって丁寧に次の約束をして深く頭を下げ老人の前を辞す大久保の背中を追って、彼も軽く頭を下げて部屋を出た。

 部屋に残された老人の頬は若干蒼褪めている。

「Like the Arctic Ocean...」

 溜め息混じりに。




 馬車に揺られて内務省に着き執務室に入った途端、大久保が二人きりのときの顔になって、斎藤に問うた。

「そんなに気に入ったか」

「何が」

 帽子を脱ぎ、落ちてきた髪の毛を掻き上げる。剣客にしては細く整った白い指と漆黒の髪のコントラストが、ここが夕闇に覆われようとする室内とはいえ映えた。

 当の本人はさらりと一通り髪を整えると、腰にあった刀を外して帽子とともに机の上に投げ、人斬りの目で窓の外を眺めた。

 魂を抜き取られたように絵に見入っていた姿とはうってかわる態度に、どちらが真実の斎藤なのかを知りたくなる。

 スッと大久保の手が伸びて、白い項を捕えた。

「なっ…!」

 冷たさに怯えた斎藤が首を竦ませる。その隙に大久保が背中を抱き締めた。

「!」

「あの絵が、欲しかったのか」

 耳管に吹き込んでやる。斎藤の苦手な、甘い声音で。

「…っ!」

 予想通り腕の中の存在が震えた。決して恐怖ではない反応を愉しむために、大久保は唇を耳元から項、肩口へ這わせる。

「ちょ…なん…!!」

 拒絶が口先だけになったのは、いつだったか。

「はなせ…っ」

「―――何を見ていた」

 質問に斎藤は眉を顰める。

「…どうでもいいだろうが」

 そんなこと。

「離せっ」

「答えるんだ…何を見ていた?」

 訊きながら制服の釦を外す。胸が開かれズボンから裾を引き抜かれたシャツの下に手が這う頃になると、暴れることを諦めて斎藤はちっと舌を鳴らした。大久保はどうでもよいことにも執拗だった。

「羽根のついたヤツ」

「なぜ」

「別に……ただ、綺麗だと思っただけだ」

 そう言って斎藤は小さくうめいた。胸の突起を意地悪な指が摘んできたのだ。嫌がる素振りをしたため、大久保は斎藤を一度振り向かせ机に向かって押した。

「ッ!」

 そのまま仰向きに倒れてしまう。うえに、大久保が重なってきた。

 唇を奪われて優しく自由を封じられる。金属の音がして、冷めているはずの理性が濁りだすのを感じている間もなく、大久保の手が滑らかに動いて体だけでなく昂ぶってゆかされる。

 ヤツと会うまでは知らなかった、知らなくて良かった、熱にうなされて。

「やめろっ」

 大久保は斎藤の決して強くはない口調に頬だけで嗤った。そうして白い胸に唇を落として跡をつけるように吸うと途端にカラダが跳ねる。それを確認しつつ唇を下のほうへずらしていく。

 斎藤の手が大久保の鳶色の髪の毛を引っ張ってどかそうとするが、冷たい手に下半身を露にされ既に熱くなっていたものを掌で包まれると、髪の毛を掴む力が一瞬弱まる。二、三秒して震える指が再び躊躇いがちに細い髪に埋もれた。

 這う唇が滑らかな肌を戯れまわる。刻まれた十数個の刀傷を舌で抉るようにして愛撫されると流石に耐えられなくなったか、斎藤の指が逃げるように離れて机の縁を探す。が、片方しか掴めずに他方は軽く肘を曲げた形で彷徨うしかなかった。

 指が当たって、ガチャリと刀が床へ落ちた。

「っ!」

 悪戯な指が疼きだした双丘をそっと割り、優しく蠢く。

 とっさに斎藤は開いている指を噛んで淫らな声を耐えた。上目遣いにそれを見た大久保が斎藤の腰に顔を埋める。

「…く、っ!」

 噛んだ指の痛みなどどうでもいい。これから訪れる、ときに比べれば。

 腿を震わせながら下半身から自分を侵す熱に斎藤は目を閉じる。怒張した己が大久保の口のなかで愛撫されていると思うと、体中から炎が噴きだす気がして、噛む歯により力を入れるしかなかった。

 その間にも熱い舌が溢れ出した液を執拗に舐め取る。ときおり舌先で先端を嬲られて、斎藤は狂ってしまいそうだった。

「う…ふっ」

 舐め上げられるたびに閉じた瞼が溶けそうだ。

 こんなことは厭なはずなのに。

 なのに。

「んっ!」

 脚を抱え上げられる。男は取らないはずの姿勢で達(い)かされそうになって、かたく歯を噛み締めた。だが斎藤に抗う様子はない。大人しく、されるがままになっていた。

 理性も感情も奪われてもなお、この男を欲しがる自分が信じられなかった。指から、血が漏れた。

 …と噛んでいた指が抜かれる。恐る恐る瞼を上げると、指に刻んだ歯形と血液を舐めている大久保と目が合った。

 髭が白く汚れている。斎藤の、で。

「!!…ッ」

 目の奥が真っ赤に灼けた。大久保が、その髭で笑う。

「!?」

 突然両腕を掴まれて世界が反転する。その間に斎藤が大久保の上になって双丘に大久保の先端を含んでいた。

 冷たい手が腰を掴んで斎藤を支えた。だがそれ以上は、しない。

「もう、できるだろう?」

 冷たく言い放たれた斎藤の目が潤んだ。

 動けない。動けるはずが、なかった。

「…っ」

「どうした」

 小さく頭を横に振っても意地悪な声が返ってくるだけで。

 その間にも追い上げかけられた斎藤自身が彼の腰の中心でわななき叫んでいる。

 欲しい、と。

 はやく、と。

 斎藤は目を閉じた。心と体が大久保に屈してから、もうどのくらいたったのだろう?

 今では、こうして大久保と肌を重ねることに疑問など浮かばない。

 理由はひとつしかなかったから。こうまでする、所以など。

 斎藤は決心するかのように深く呼吸して脚に込めた力を適度に抜いて、動き始めた。

「ぅ、ん……っっ」

 甘やかなこえを吐きながらゆっくりと大久保を包んでゆく。

 それを目で追うたびに、大久保の脳裏には透明な記憶が鮮やかに思い出されるのだ。

 ―――謁見の度に大久保の後ろに控える斎藤はことごとく西洋人の目を引く。日本人など彼らに比べれば遥かに容姿劣るはずなのに、彼等が斎藤を見る目は驚嘆などではなかった。

 今日の英国商人もそうだ。大使館で噂の斎藤を見つけた視線は、大久保はとっくに気付いていた。もっとも老人の期待を裏切って、斎藤は彼に背を向けて絵画にすっかり気を取られていたが。

 いつだったか、ふとした折に藤田五郎の貌を消した斎藤を目にした西洋人が、持っていた書物を大げさにバサリと音を立てて床に落として唖然と呟いた。

『Ohh...my ――― seraph...』

 斎藤ははっとして、恐がられたと勘違いしたのかすぐに営業用の貌に戻ったが、周りからは賛同の声がどっと上がったのだ。

 英語で喋りだした彼等の通訳に「セラフとは何ですか?」と尋ねると、彼はちょっと考え込んで答えた。

『天の神に仕える白くて大きな翼をもつ使者のことです』

 そう言って壁を飾る宗教画を指差した。そこには赤子に微笑む輝く翼の白い使者がいた。男は書棚に置いてあった聖書を取り出して、通訳をはじめた。

『「……つまりその火の中には、琥珀金の輝きのようなものがあった」とあります。あの方の瞳の色を見た主がセラフを思い浮かべたのでしょう』

 たかが警備を相手に敬語を用いる辺り、この男もやはり斎藤をそういう目でみているのかと大久保は苦笑した。

 斎藤は外界へ神経を集中させて、彼の話題で盛り上がっていることなど知らないでいる。

 だが、天から許された者しか纏うことの出来ない至高の輝きは隠すことはできない。既に興味関心といった俗心理を越えた視線を集め続けているのだった。

『ミスター・オオクボ』

 呼ばれて振り返った。要人等の頬はまだ興奮で染まったままだ。

『ミスターに相応しいseraphをお選びになった。流石ですネ、Primacy…イヤ、seraphとかけてthe Lordとお呼びスルべきですかな』

 人は、自分を神という。

 支配されることを許さないはずの斎藤すら命じたわけでもないのに自分に付き添う。たとえ命令でも逆らうことなど、彼にとっては容易いだろうに。

 鋭利な刃物を思わせる瞳は、いつのころからか自分の前でかすかに潤むようになった。こうやって涙も流す。

「……ぁ…んっ……」

 息も絶え絶えに、俯くたびに透明な滴が大久保の服を飾ってゆるやかに染み込んでいく。濡れそぼった斎藤に指を絡めると上半身をしならせて応えた。

「ひっ…!」

 頂点が近いのだろう。体を動かすことを忘れて、切なげに噛んでいた下唇を開き開放を求めるが、応えてはやらない。まだ。

 替わりに自分を途中まで咥え込んだ斎藤の粘膜を探るように、指で更にそこを拡げようとした。斎藤の腰が震えて、なかが潤ったのだろうか、睫毛を伏せたまま再び腰を下ろし始める。

 頬が紅潮している。大久保を埋め込むたびに唇から甘い声が漏れて彼の赤い口腔が覗く。必死に空気を吸おうとするが、ただ二箇所から与えられる感覚にすべてを奪われていた。さらに求めようとする愛欲以外には。

 そのとき、斎藤の背中が急に熱くなった。窓から差し込んできた西日に作られた斎藤の影が大久保の上に映る。

 まだこんな時間なのだ。いつ、扉が叩かれるかもしれないのに。

「んん……」

 開けていた口を閉じ、斎藤は下唇を噛んだ。苦しげに顔を歪めていたが、やがて聞こえるか聞こえないかの声で小さく呟く。

「もう…やだ…」

「――――なにが」

「…っ」

 言って大久保は動きを止めた斎藤の腰の中心ではちきれんばかりになっているソレを包み、円を描くようにして廻した。びくりと体を強張らせた斎藤が支えていた脚から力を失って真っ直ぐ大久保に落ちてくる。

「い…やぁ…!」

 悩ましげに伏せられた睫毛から滴が零れた。だが表情には苦痛と拒絶はなく、そのまま斎藤は沈んで、すべてを飲み込んだ。

 そこで両手で腰を掴んで突き上げてやる。

「――あぁっ!!」

 生まれる。

 斎藤の背中から、真白の翼が生まれる。

 自ら放つ純潔の光のなかで次第に羽を広げて恍惚へ飛びたつ――――彼が最も美しくなるときを、灰色の瞳が見上げていた。

 今にも天へ向かいそうな斎藤を引き止めるように、大久保は掴んだ細腰を高く突き上げる。

「んっ……ぅ、ふ…っ!」

 閉じた瞳から悦びの涙を零し、斎藤は翼を震わせるように甘く喘ぐ。その間にも彼の放つ光が大久保に降り注いだ。

 清らかに包む。……すべての罪を許すかのように。たとえそれが大久保の錯覚であっても。

 ひとは、自分を神という。

 そうでないことは自分が一番良く知っている。

 もう何度、己を呪ったか知れない。不完全さと…醜さに。

 なのにそんな自分だけを見つめる金色の瞳を感じる。

 俺を神か何かのように思っているのか、お前も? むしろお前こそ――――

 斎藤が多くの人間の目を惹きつけて止まないのは、貫き通している信念が薄い肌を通して周りの人間を刺激するためだけでは、ない。

 剣を振るうたびに血に塗れてきたはずの白い体は絶えることなしに澄んだ光を放ち、黄金の瞳には絶対の強さが透きとおる。鮮血を浴びても背中の翼が羽ばたいてそれを一瞬で振り払うのだ。一滴も残さず見事に。見惚れるほどに。

 しかしその姿は潔さ故に、他方で躊躇わず彼を焔火に放り込むだろう。夕陽よりもなお緋(あか)い、大久保という灼熱へ。

 血色に燃え上がる翼が目に浮かぶ。それは誰の所為か。

「……」

 迷いを断ち切るかのように大久保は斎藤を一層激しく揺すぶった。

「く……ぁあっ!」

 ほぼ同時に達して、斎藤の全身が弛緩する。自分の肩口に倒れこんできた背中に、大久保は腕を回して掌でそっと押さえた。息を整えるたびに、逞しいわりに細い斎藤の背で、呼吸に合わせて浅く浮いては沈む肩甲骨の凹凸がはっきりとなぞれる。

 肩甲骨は、退化した翼の生まれる場所。天使の名残。

 大久保はそこにあるだろう柔らかい感触を確かめるように指で愛撫を繰り返しながら、夕陽に舞い上がる羽根のなかで誓うのだった。

 お前には純白の翼があるから。

 この先俺が地獄に堕ちても、お前を連れてゆきは、しないから。











 my seraph,――――穢れぬまま生きるのだ。









 だから。











 愛しているとは、いわない。