Nibiiro no Cassis






最果てのひとを思ふ かの夢は

崩壊とともに消え去つた





「北海道」

 とだけ言った斎藤は、事も無げにいまさっき渡したばかりの合鍵をあっさりと投げ返して寄越した。こういう反応を予想してはいたものの、深い雪に閉ざされる北の大地など、東京で暮らす山県には地理からみても。

「遠い」

「…あんたは長州の出だろうが」

 阿呆、と息をつく白い貌は、あのときから全く変わっていないと山県は思う。尤も、他から比べれば山県も大して外見的には変化を来していない。その心はともかくとして。

「何時(いつ)、出発だ?」

「来週中に向こうに着く」

 来週か…

「何もしてやれなさそうだ」

 ややトーンを落として付け足すと

「何もせんでいい」

 年を経て一層艶を増した声がきつい科白を返して来た。

 それすら馴染んで手放すまいと斎藤を半ば囲ってきた山県としては、やはり辛さを覚えずにはいられないのだがしかし、斎藤にとってこの別離は如何な感傷をも齎(もたら)さないらしく、開け放たれた障子から入ってくる夕陽となりはじめた光に遠くを求めながら、ぼんやりと東京の午後を眺めている。…金の瞳に映るのは、もはや現実ではないのかもしれなかった。

 とおく。とおく。

 向かうのは、あのひとの眠る静かな園。

 奥底から搾り出した純粋さだけを捧げて。

「……少し歩かないか」

 知らず、唇が動いていた。

「ああ?」

「夕飯までまだ時間があるはずだ。外の空気でも吸おう」

 何気に誘った山県だったが、自分以外の人間を薄い瞼の裏に熱く恋い描いているお前をみるのがどうしようもなく辛いのだ、とはまだ言えそうになかった。





 久々に足を運んだ公園は普段と変わらずひっそりしていて訪れる者もない。

 誰かが挿して行ったであろう花が枯れ始めて、醜い姿を呈しているのがここに眠る人間には相応しくないと思いながら、山県は斎藤の密偵宅の庭に咲いていたひっそりとした桔梗をニ輪供えた。去年まではなかった白い桔梗が一輪だけ咲いていたから、それも加えた。

 空気に透ける白は大久保を思い出させる。真夏でも酷く冷たいくせに吸い付きそうな膚をしていた。

 自分はこのさき老い続けるだけなのに、記憶の底の大久保は美しいままなのだ。

 ときを止めて永遠の眠りについたひと。

 誰ひとりを寄せ付けないようにみえて、誰よりも信頼されていた。そう、懐かないはずの壬生狼さえ容易く絡めとって、未だに追いかけさせている。おそらく北の大地で見上げる薄い色の空にも、くっきりと大久保の陰影を思い描くことだろう。

「狡い方だった。そうは思わないか」

 山県が呟くと、ひとひとりぶんの距離を置いて右に佇む斎藤は墓石を眺めながら

「…かもな」

 とだけ言った。

 紅い唇が開いて作った僅かの隙間からの声が潤んでいる。二人で重ねた夜のそれよりも聞き取れないほどではあるが微かに掠れていて切ないのが悔しいと思う。

 刹那、空気が泣いた。

 後ろで木の葉が舞う。例年よりも早くに始まり出した季節が、色とりどりに東京を染めていくかのように、ふたりの悲しみも深まってゆく気がするのだった。それをほんの少し軽くするかのように自分と斎藤との間を抜ける風の爽快さが憎かった。

 その風が斎藤の額を撫で、細い髪を玩(もてあそ)ぶように軽く絡み合わせ、何事も無かったかのように過ぎていく。この墓の主が彼に戯れたかにみえもする。

 憑かれたように斎藤が動いて、手袋をした指で漆黒の髪の毛を一度掻き揚げた。

 斎藤は睫毛を伏せて意識を墓の下に向かわせ、自分から遠ざかろうとしているのか。

 そうに違いないと感じた途端、反射的に手が伸びて、山県は斎藤の上腕を掴んでいた。

「…ッ?!」

 斎藤の細い腕が一瞬で強張り、乱暴に山県を振り払おうとする。

 どう解釈しても、汚らわしいものを寄せ付けまいという態度だった。そのことにも怒りを覚えた。だから。

「!」

 唇を奪った。

 その間に空いている手を忙しなく動かして暴れようとする斎藤の両腕を押さえ込む。温かい舌を絡め取る。唾液を流し込む。

「ん…んぅっ…!」

 どちらも本気なのだ。

 思いながら山県は、自分よりやや低い斎藤の背(せい)に空いた腕を回して抱き締めようとした。

 誰にも奪わせない…誰にも! たとえそれが、天に召された貴方であっても。

 初めての頃のように斬りつけられるかもしれない。そう思い、山県は斎藤の背中に回した腕で彼の細い腰を弄(まさぐ)り、彼の日本刀をベルトから外そうとした。

 刀の鍔元に触れると同時に、死体のまえで剣舞する斎藤が山県の脳裏を過(よ)ぎった。

 そして舞うのは己の血。鮮血に染まる大久保の墓。

 そうして躯を切り刻むのは、かつて大久保に抱かれていた男か。そしてその光景をみたいと思う自分がここにいるとは。

 しかしいまお前を抱いているのはこの俺だ!

 思いながら山県は斎藤を封じ込めた。日本刀は外れず仕舞いだったが、ややもすると諦めたかのように斎藤は山県の腕の中で漸く大人しくなっていった。

 山県は唇を離した。

 それでも腕に力を込めたままである。山県は、暫く剥いていなかった漆黒の眼(まなこ)をぎろりと見開いて斎藤を見下ろした。

 瞬間、彼の怒りは驚愕へと変化した。

「……!」

 ―――――これが、壬生狼か…

 なんという目。

 なんという強さ。

 水晶よりも眩しく澄み渡る輝きは、まさに貴方に寄り添うに相応しい。

 しかしそれでも欲しかった。

焦がれて焦がれて、やっと手に入れたと思っていたのに――――――

『京都で目をつけられたのですか』

 二人きりになれたある日、思い切って尋ねたことがある。

『……なんのことかね』

 大久保はそ知らぬ貌でペンを書類に走らせる。それすら演技であることを流石に山県は見抜けるようになっていた。だから自分も演技してみた。

『相変わらず惚(とぼ)けるのがお上手だ。…汚らわしい壬生浪ですよ、警視庁の』

 山県がそこまでいうと、大久保は両肩を震わせてペンを手から離した。離れたペンは机の上を転がる。

 大久保は珍しく声を出して笑った。その響きが余りにも愉しそうで、そんな大久保の様子は初めてだったから、眉根を寄せて大久保に問うた。

『…なにが可笑しいのです』

 そして大久保は、山県にとっては意外で、かつ彼の神経を逆撫でするために取っておいたのではないかと疑わせるほど、辛辣な台詞を吊り上げたその薄い唇から吐き捨てたのだ。

『あれは君なぞよりも遙かに美しい』

「…っ」

 山県は思った。いつなのかは分からないが、大久保がみたという斎藤の姿はこれだと。

 汚されたことへの怒りと、憤り。

 他の者ならば暮れるところの感嘆をこの男は昇華して、生のすべてにしている。攻め入ろうとするドス黒い嫉妬やら欲望やらを跳ね飛ばす。暗闇にひとり煌きながらに。

 ――――――――見事だ。

 こうだからこそ、あのひとはこれのなにもかもを奪ってしまいたかったのだろう。

 そして彼は奪った。躯も誇りも奪った。貴方もまた――――――見事だ。

「……ッ」

 斎藤は無言で山県の腕を振り払い、手袋をつけた手の甲で合わせたばかりの唇を乱暴に拭った。その様子さえ山県の眼(まなこ)は半ば呆然と見入っていた。

 斎藤の両目に宿る激しい想いが、屈辱的にも、彼から自分を跳ね除けたのだ。

 が、不思議なことに山県の情は寧ろ鎮まっていく。こんなことは最初から分かりきっていたことだ、ただそれを、いまさっき再認識させられただけで。

 斎藤は何も言わずに山県にくるりと背を向けて、去った。

 木の葉が立ち木から落ちて風に舞い薄い背中を隠していく。まるで山県の視界から斎藤を護るかのような光景であった。そして山県に、その後姿を追う気は更々無かった。

 銀杏舞うなかで猶も輝く、黄金の男。

 あのひとが選び、守り抜いた最愛の魂。

 たとえその身は滅びても、西洋の彫刻の如く白き衣を纏(まと)った神が降り立ち、なお下界を生きる使徒を彼の背中に生える大きな翼ごと抱きとめる姿がいまにも見えそうで、山県は知らずのうちに呼吸を止めていた。

 幽玄か―――――或いは夢幻なのか…

 そしてこのまま空間が止まってしまえばいいとさえ希(ねが)う。

 山県はそんな己を嗤おうとしてやめ、彼の足音を遠くに感じながら斎藤の去った方向に背を向けた。

 やがて足音は硬い靴音に重なり、在りし日の執務室へと山県を誘(いざな)うのだ。

 嘲笑っている。沈黙のままに。

 …貴方に敵(かな)おうとは、これまでもこのさきも決して思わない……

 呟きながら冷たい墓石を見上げ、山県は深い双眸を閉じ合わせた。





 ならばいまは、この国を手に入れようと思う。

 思うが侭に動かし、掌で転がし、いつか 最果ての男を跪(ひざまず)かせるために