Towa no Hajimari
はじめて逢ったのは元号が変わって間も無い頃
耳にしていた以上の魔性だった彼が自分に重ねてみていたのは
棄てたはずの遠い記憶だと信じていたのに
「…本気ですか」
提示された紙には見覚えのある三文字が綴られていた。
「貴方にはこいつの危険性が御分かりになる筈だ。犬なら、もっと相応しいのがあるでしょう? なにもこんな…歩く狂器のようなのを傍に置くぐらいなら、野に放っておいたほうがマシというものです」
「……」
「大久保さん」
端正な貌は歪むことはなく執務室の闇をみつめたまま動かない。思考しているのかいないのかさえ気づかせず、この場をやり過ごすつもりであろう。まるで情事を終えた後のように。
「……」
そいつとも交歓しあうのか。そう考えただけで名前しか覚えていない男を心底憎く思った。
いや、それ以上に憎いのは彼を止める糧にすらなり得ない己の愚かさか…
「兎に角、賛成は出来ませんな。川路殿とて“これ”を陣営に加えるのに賛成なさらないでしょう」
なにせ宿敵である。互いに殺人を重ねながら幕末を練り歩いた仲が、時代を超えて協力し合うことは容易ではなかった。ましてこの創世期にあたる時期に、新撰組など。
「…フ」
「…?」
大久保さんが突然笑った。はっとして名前を見入っていた視線を上げて彼をみると、ランプに灯された仄(ほの)白い頬が僅かに緩んでいるのが分かった。
決して自分には向けられない表情に、深くの胸が抉られる。
知ってか知らずか、静かな声音が胸の傷を這うのだった。
「…君は我々の…、薩摩の情報網を甘くみているようだな」
「……」
意味が分からない。顔を顰めた。
「どういうことです?」
訊くと、紅い唇が再び笑った。
その動きを食い入るようにみつめると、自然と体が乗り出して机に両手をつく格好になる。
すると大久保さんは逃げるように椅子から立ち上がってこちらに背を向け、決してその先を自分にはみせないのだった。
窓に向かって吐かれる息が、カーテンの隙間、透明なガラスを白く煙らせていく。かわされて行き場を失ったため、彼に体を寄せようとして前につんのめった上半身を支えていた腕を仕方なく机から放し、向き直る。わざとらしく吐いた息は、彼の耳には届かなかったかもしれなかった。
くぐもった声。
「“彼”がどんな働きをする人間であるかなどは川路君が一番良く知っている。川路君には当時密偵を務めてもらっただけでなく、幕府側の人材に目をつけておくという役を与えていた」
「…! では…」
「“あれ”が集団内でも個人でも良い働きをするという報告に間違いはない。我々が当時から注視していて泳がせた、いわば密偵された密偵だな」
「……」
つまり京都の頃から目をつけていたということか。かと言って宮廷に出入りしていた大久保さんとヤツの間には川路等の密偵が運んでくる情報しかなかったはずだ。
とすればヤツに較べて自分のほうが、このひとにとって劣る存在であると決め付けることもない。要するにただの駒なのだ。そう思うと急に腑抜けた気持ちになった。
交歓するならしたいだけなされば良い。こちらが相手をできない夜もあるだろうからそのときの穴埋めにでも。
見えない敵に怯えた自分に立腹した。
一旦溜め息を吐く。そうですかと言うために口を開いたときだった。
窓ガラスに映った大久保さんの貌が見えた。
背中から立ち昇る紅の炎。
長い睫毛を伏せ気味にして真っ黒な虚(そら)に何かを探し、更に瞳が微かに滾(たぎ)っていた。
あ…
それは彼が故郷へ帰ったただひとりにみせる情念の貌だったのだ。
ざわめく廊下を歩くとヤツが白い肌を一層蒼褪めさせて部屋から出てくるのが見えた。部屋の前で待っていた川路の前を突っ切って、斎藤は奥へと消えていった。
彼を追おうとして躊躇った川路に近づき、耳元で低く囁いた。
「傲慢だったな。密偵が二人も揃いながら、この事態を予測できなかったとは」
「……」
川路は応えなかった。判っている。川路は兎も角、斎藤は予測できなかったのではなくて、大久保さんが手を出させなかったのだ。
…密偵された密偵だと?
「は……」
たかが密偵を常時傍らに置いて抱き締め、自らの心を預けたまま黄泉に旅立つ貴方ではないでしょう。
それでいて道連れにするわけでもなかった。
…護りたかったのか?
あろうことか、命を賭(と)して
過ぎし日は瞬く間に忘れ去られ
この世に遺された絶望と言う永遠を前に
私に出来ることはひとつしかなかった
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