Forever the Good-bye






 君の涙が止まらないんだ







Forever the Good-bye







 緋村を訪ねて五日目の朝――――――…

 内務省の仕事が絶えることはない。ふらつく足元を無視して大久保が登庁したのは午前八時過ぎだった。自分は余程貧相な顔つきをしているのだろう、歩を進ませる先々で官吏がこちらを見ては頬を強張らせていた。

 もう長くはないかもしれない。

 そんな鬱蒼とした思いが、薄汚れかけた脳裏を駆け巡る。もはや気のせいでは済ませられなかった。

 そして大久保は、無言で彼らの横を通り過ぎる。執務室の扉を開き、そのまま閉めた扉に背中を寄り掛からせて、止まった。

 瞼に浮かぶ別の視線が彼らの視線に重なる。

 痛々しげに細められる金の瞳がみえそうで、大久保は目を閉じた。

 このごろ夢をみる。彼の夢だ。…泣いていた。

 斎藤は、まるで自分と同調するように痩せ方が目立つようになった。その割にやたらと動いているから余計に際立ってみえる。尤も彼自身は気に掛けずにいるようで、連日、省内の警備室か警視庁に泊り込みで書類を追っていた。

 大久保と直接接触する機会は激減している。あの日から、斎藤を近づけないよう配慮したのは自分だった。

「……」

 いくなと。

 いくなと繰り返し、呟いていた。それしか知らないこどものように。

 涙は温かく乾いた肌を潤した。が、“大久保”を温めることは出来なかった。

「……」

 そこで思考を閉ざして瞼を開き、扉から背を離して机に向かった。硬い床を踏み締める音が、ひとりきりの執務室に響く。

 微かであれ、必要なのは感傷ではなく未来への希望なのだ。

 たとえそれが、形だけの話であっても。





 その日は一日中部屋にいた。日暮れまでは接客と執務に追われ、川路と志々雄討伐の密議を交わす頃にはとうに日が暮れて、窓外は視界を認めなかった。

「…また、討伐隊が全滅したと聞いたが」

 それは、闇で蠢くだけだった志々雄が徐々に牙を剥き出しつつあることを指す。

 警視庁で厳正に選抜されたはずの剣客は、ひとりの人物に尽(ことごと)く消されたそうだ。これで三度目。そろそろこちらも本腰を入れなければならない。

「既に新たな隊が整っています」

 川路はこれまでどおり、動じることなくそう告げた。胸元から紙片を取り出して、油の切れそうなランプに灯された机の上に広げる。

「こちらが新たに占拠された土地です」

 手袋を嵌めた指が文字の上をなぞる。流石に鎮西にはなかったが、畿内から始まり、東海道沿いの山間、小さな村々の名のうえに朱色の×印が乗っており、日が過ぎるごとに増えていった。そしてそれはここ、東京を目指している。

 志々雄は、戦国を繰り返そうとしているのか。

 それとも西南をか。

 潜めてもなおよく通る川路の声を聞きながら、大久保はあの戦いの始終を思い出していた。

 故郷ごと鎮西の地は血に塗れ、掘り起こせば亡骸が出て来るという。政府の存続を懸けた戦いは、双方に拭いようのない傷を負わせながら終焉を迎えることでしか、治まり方を知らなかった。

 その結果全国の統治権はここ太政官に集まり、士族は敗退した。彼らの誇りも何もかもを、奪わざるを得なかったのだ。

 すべては国のため、未来のためだった。大久保は今も猶、己の決断を違えたとは思っていない。思っていないと信じたかった。

 が、問題は“あれ”が逝っても己が生きているということだ。

 俺はなぜ生きている

 どうやって生きてきた

 なんのために、生きてきたのだ…

「………」

 “あれ”がいなければ、存在すらし得なかったであろう自分が生き長らえているなど、―――許されようか。

 玄丈に言われた科白が鼓膜の奥でこだまする。毎日毎晩、大久保を傷付けた。

『殺しモしたはおはん(貴君)じゃ』

 間接的どころではない、と彼は言いたかったのだろう。玄丈は頼まれてもひとを苛める言葉を吐く人間ではない。つまりこれは、彼が見た紛れもない“事実”ということになる。

 大久保に反論の余地はなかった。大久保は項垂れ、あらゆる筋肉を萎えさせるしかできずに沈んだ。

 この時期、大久保は人生で初めて、どうしようもない孤独と絶望に襲われている。理性が感情に追いやられてついに喰われ、激しい自責の念に溺れていくしかない己が見えていた。それを玄丈に再確認させられた。終いだと思った。

 そんな大久保を抱きとめたのは、斎藤だったのだ。

 西南で傷ついたのは、寧ろ彼であったかもしれないのに。

「…も、時間の問題でしょう。あとは」

 川路は言葉を止めた。伺うように上目遣いでこちらをみて、大久保に言わせようとした。

 大久保は答えた。

「緋村が来るだろう」

「…はい」

 川路の声と同時に、もうひとりの気配が執務室を訪れた。

「抜刀斎が応じなければ、どうするつもりだ」

 ばたん、と扉が壁に叩き付けられて音のした方向をみると、目をぎらつかせた斎藤がこちらをまっすぐにみつめている。後ろ手でノブを回し、鍵を閉めた。

「ノックぐらいせんか!」

 いつものとおり川路が斎藤を戒めたが、聞き入れる様子もないまま、斎藤は近づいてくる。

「―――それはない」

 大久保は即答した。緋村はそういう人種ではないし、第一、断るような人間ならば、最初から目をつけはしない。

「…随分な自信だな」

 掠れた声。連日の激務の所為だけではないことを、大久保は知っていた。

 乱入してきた斎藤に川路があからさまに眉を顰める。それを横目で見た斎藤が呟いた。

「俺とは違うから、か?」

「……っ、…っ」

「廃れたとはいえ、あいつは志士崩れだからな」

「そうだ! お前等新撰組なぞに、維新の意義が分かってたまるか!!」

 噛み付くように川路が吼える。斎藤は、

「フン」

 と言って斎藤は制服の胸ポケットから煙草を取り出した。細い指が煙草を挟んで唇に持っていくのを、大久保は見ていた。

 指は震えていない。が、元より白い肌を通り越して、蒼褪めていた。

 自分と同じように。

「やつが京都へ行くとなると、御頭さんも追って行くことになる」

 マッチを擦って煙草に付けられた赤い色が、薄い橙に灯される机から少し離れた位置で、暗い室内を飾った。絶望に覆われたこの世界に灯る、微かな希望のように。

「……御庭番の残党か」

 かつかつ、と靴音を鳴らして大久保の横を通り過ぎて背を向け、外の気配を窺う。その斎藤を目で追いながら、川路は応えた。

「雑魚といえばそうとも取れるが、…あいつ(抜刀斎)のことだ、余計な節介を焼いて体力を失わなければいいがな」

 淡々と述べる斎藤とは対照的に、川路はかっと両目を開いて机に広げていた地図を畳んで胸にしまいながら言い捨てた。

「それはお前の思案するところではない! さっさと持ち場に戻れっ」

 川路は肩を怒らせながら、部屋を去った。

「………」

 廊下遠くに足音が消えた途端、物音一つしなくなる。二人の心のような、静けさだった。

 無言(しじま)―――――また、夜が訪れる。二度と迎えるつもりはなかったのに、互いの膚が叫んでいる。背を向けていても、わかる。

 おまえがほしいと。

 だがそれは戒めなければならないことだった。

 斎藤から体を離すために、大久保は席を立った。椅子はそのままにして書類を机に軽く打ち付けて端を整える。

「……、」

 机の角に忘れ去られたように乗っかっていた灰皿に煙草を置いて、斎藤が腕を伸ばしてきた。書類が音を立てて倒れる。両腕で、大久保の動きを止める。

 一瞬のうちに大久保は反転させられて、胸を斎藤のに重ねる格好で立ったまま淡く抱かれていた。

 睫毛を伏せなくても分かる、白い項。久方ぶりの彼の肌が、爛(ただ)れた心臓を癒していく。胸に耳を寄せれば、規則正しい鼓動が自分を慰めるだろう近さ。

 或いはこのまま埋もれてしまいたいと願いさえすれば、容易く叶うかもしれない。だがそれでいいのか。

 大久保を抱いている背が、酷く痩せてしまった。斎藤を心底苦しめるぐらいなら未練など葬り去って、はやくに手放してしまえば良かったものを。

「…久保…」

 細い腕が逞しく背中に回る。俺を抱き締める。

「い……やだ…」

「……」

「俺は、…許さないからな」

「……」

「大久保…っ」

 無垢な魂の求めるのが、これほどまでに穢れ果てた己であるとは。

 しかし、そうなるように仕向けてきたのは、自分の濃度に引き擦り込んだのは、他の誰でもない大久保自身だったのだ。

 そうまでしても、欲しかった。…愛していた。

 こうして突き放してしまえるほど。

「――――帰れ」

 今ならお前は傷つかずに、俺が無くても生きられる。

 俺のように、“あれ”が無くては居られない愚者に堕ちることはない。

 大久保は回された斎藤の腕をもぎ離そうとした。が、斎藤は許さなかった。がっちりと抱き締め、温かい肌で大久保を労わってくる。

 純白の翼ですべてから護るように。

「厭だ…ッ!!」

 ―――――ああ……

 大久保は思わず両目を閉じそうになった。

 干からびた手をこの薄い背に回せるものならば、俺は何をしてでも生き延びる。この魂を抱(いだ)くため、穏かな日常すら描くだろう。

 だが俺が道連れにするのは“あれ”で終わりにすると決めたのだ。

 燃え盛る。火がみえる。遥か昔、“あれ”と二人で情熱を注いだ維新回転の末が、“あれ”を冥界へと押しやった。

 そして誓ったのだ。二度と誰をも殺さない。俺以外の誰をも。

 お前を巻き込んではならないのだ。

 それが大久保のこたえだった。

 大久保は斎藤の白い頬に手を伸ばし、今にも零れそうな涙を掬い取ってやった。びくりと体を震わせた斎藤が、そっと力を抜いて上半身の距離を少し離し、恐る恐る大久保と視線を合わせる。

 そして一層翳った。大久保の、薄さしか増さない瞳の色に心の傷を深めて。

「帰るんだ…いいな?」

「―――ッ」

 再びぎゅっと力を込めてくる。躯が重なる。いずれ溶け合う。俺と“あれ”の如く、命運まで共にしてしまう。

 そうなるまえに。

「駄目だ」

 離れなければ。

「言うことを聞くんだ。…ほら」

 斎藤を追いやる。が斎藤は離れようとせず、息を飲んで胸を煽がせた。その紅い唇から次に呟かれた言葉は、既に決心したはずの大久保の感情を震わせるのには十分過ぎるものだった。

「…もう、尊敬…とか…そんな、じゃ…ない…」

「……」

「……だ…」

「……?…」

「…あんたが好きだ…っ」

 ――――――それは、決して言わせてはならない言葉。

 彼が孤高で在りつづける為の。

 これからひとりで生きていくために。

 なのに

 胸が

 澄んでゆくのを止められない。

 まるで自分が―――――荒(すさ)んだこころがどこまでも満たされていく感さえ覚えていた。

 俺にはまだ、そんな感情が残っていたのか? 馬鹿な。

 それとも斎藤が呼び起こしたのだろうか。

 …そうかもしれない。“あれ”と俺が殺しあう運命(さだめ)だとしたら、斎藤はどこまでも俺を生かす存在だから。

 魂は打ち震え、背に生える翼を拡(ひろ)げながら、あとは果てるだけを残した愚かな形骸を抱き締めている。

 ――――俺の死後、お前は己の無力さを責めるのだろう。

 だがこれは、決してお前の所為ではないから。

 どうか幸せに。

「…大…久保」

「同じことを言わせるな」

「…ッ」

「もう此処へは来るな。…出て行け」

 突き放す。薄い胸にあてた掌を力強くぐいと押して、斎藤との間を広げた。

 白い肌に涙が零れ落ちて、部屋の床を濡らしていく。どこまでも聖(きよ)らかなままに、そう、ふたりで過ごした幾千の夜のように。

 ひとつひとつが、熱く燃えている。

 それは大久保の心と同じ温度だった。





 君の涙が止まらないんだ





 天よ





 天よ 我が身を差し上げる

 よってこの身を焚棄せよ

 さもなくば俺は申し子を

 金の御魂(みたま)を連れ去るぞ





「これから死ぬ人には無用な心配ですよ」

 引き抜かれた短刀は、真っ先に心の蔵を貫いた。飛沫が狭い空間を飛んでゆくのが、見える。幻覚ではない。確かにそれは大久保の体を満たしていた血水だったのだ。

 もう涸れたと思っていたのに、革張りの椅子や内装が、己の緋色で次々に染まってゆく。

 死とはこういうものだと今初めて分かった。

 常に“あれ”と自分を苛んできた死への誘い―――――…それが今、漸く果たされようとしているのだ。

 なんと、喜ばしいことではないか。もしもそれに、一片の後悔をも伴わないとすれば。

 ふふ、と笑って刺客は扉を開閉して路上へ消えた。大久保から流れる血潮のように音も立てなかった。

 馬車の車輪の音だけが脳裏に響く。薄れゆく意識とは裏腹に、次第に大きくなっていく気がした。

 轟音のなか浮かぶのは、優しい琥珀。それを湛えて自分をみつめる、俺がみつけて捕らえ、俺が愛した恋人。

 白い翼が遠ざかる。もう二度と、手の届かない処へ。

 これでよかったのだ。そう思える、はずなのに






 僕の涙が 止まらないんだ





「…さいとう……」





 泣かせてばかりで   ごめん   ね