HISOKA



 重たい扉を開けると そこには

 一条のひかり

 ああ 貴方こそが求めていた

 メソテースにおわします



「っ!!」

「―――どうした」

「――…紙に、やられた」

 人指しと中指から鮮やかな赤が零れ出している。意外と深いらしい。なかなか勢いがあり、止まりそうにない。

 取り合えず傷の大きい人指し指を咥えて舐める。…俺の鉄の味は、結構薄いものだな。

 その間にも、読んでいた書類に中指からぽたりぽたりと滴りおちてゆく。……まずいな、川路の部屋にあったものを許可なく持ち出してきたものなのだが。

「ちっ」

 ばさばさ音を立てて厚い紙の束を俺の目の前から机の奥のほうへ押しやった。大久保の机の上はいつも殆どモノらしきものが上がっていないのだ。ガランとしてこの部屋によくあうと言えば聞こえがいいが、正直言って初めて目にする人間にとっては心細いだろう。他の省に比べても、部屋も机も物寂しい。

 最も、部屋の主は重圧感がありまくりで小心者が独りで訪れるにはかなり心細い場所なのだが。

 ポケットに開いているほうの手を突っ込んでも、止血できるようなものはない。かと言って、大久保なんかに頼めるはずもない。

「利き手じゃなくて良かったな」

 …頼まれても頼むものか。

「残念だったな、俺は右が利き手だ」

「――――そうなのか?」

 とぼけやがって。四六時中共にいて、気付かないわけないだろうが。

 カツ、カツ、と硬い靴音がして大久保が近づいてくる。その冷たい響きに一瞬胸が竦んだ自分が情けくなり、まだ流血の止まらない指を舐めながら俺はいらついた。

「うるさい!寄って来るな」

「――――そこは俺の椅子だ」

 …ますます腹が立つ。今日は他に椅子がなかったから仕方なくここに落ち着いたのだ。

 でなければ、誰がこんなところに座るものか。

 ガタ、と乱暴に椅子を立った。瞼を閉じて俯き、大久保と目を合わせないようにしてその場から去り、扉の方へ向かう。

 …向かおうとして、前を阻まれた。

「どけ」

 川路にバレる前に書類を戻すためにも、大久保に付き合う余裕なんかない。

「………」

 俺がいくらきつい視線を浴びせたところでこいつに効かないことなど分かっているのだが、大久保の灰色の瞳を睨みつけた。

 それを受けた大久保は、あろうことか唇を吊り上げて薄く笑い出した。

「さっさとどけ」

 イライラする。こいつは、まったく読めない。

 と、大久保はまだ舐めている俺の右手を掴んだ。

「…!」

 ひやり。

 氷のような体温が制服からはみ出た俺の手首に刺さってくる。本当に針に刺されたような痛みがそこから心臓に走って、危うく俺は背筋を震わせるところだった。

 大久保は俺の口から抜いた俺の右手を自分の口元に運び、二本の指の腹を流れる血を舐め取った。

「!!」

 俺の手が、震える。大久保のやたら熱い舌が傷に触れるたびに痛覚は増し、皮が捲れてさらに血液が溢れ出した。

 疼く……

「は…なせっ」

「―――俺はこちらが」

 俺の言うことを聞くつもりはないらしい……いつものことなのだが。

 大久保は違うほうの手で俺の左手首を掴んだ。

 そして指を舐める動きを止めて右の手首を掴みなおして冷たい掌が俺の手の甲に被さった。俺と大久保は互いに向き合う格好になっている。

「…!?」

 そのまま横の壁に俺の背を押し付けて、顔を近づけてきた。

 片頬を吊り上げる薄笑いに頬を引き攣らせた俺の顔をみて、鼻で嗤い低い声で言う。

「これがお前の利き手だと思っていた」

 ひときわ、俺の左手を鷲掴みにするように握る氷の手に力を込めて。

 そのまま俺に覆い被さり――――

「……ふ、…っん……」

 舌を絡め取る大久保の舌は、俺の血の味がする。変な感覚だ。この血は俺のものなのに。

 呼吸の隙も与えない大久保の口づけから開放されて俺は激しく胸を上下させた。ともに冷たい大久保と壁に挟まれている俺のほうは明らかに皮膚が熱を帯びている……皮肉なことだ。

 こんな熱などとっくに見抜かれているな。…くそ。

 大久保は相変わらず嫌な笑みを刻んだ顔で俺を真正面から見据えている。鳶色の毛まで俺を笑っていそうで、気分は甚だ不愉快だ。かといって暴力にものを言わせるなどしたくない。勝てるのだが。

「―――なんだ」

 力ならば俺のほうが完全に上回る。というか、こいつは武芸などいささかも積んでいないだろう。歩き方で分かるのだ。

 最強の藩の重役であったとはいえ、護衛もつけずにあの幕末をよく生き残ったものだ。俺ならとっくに斬っている。

「!」

 大久保はさらに顔を近づけて俺の頬を舐めた。…髭の感触がたまらなく嫌なのだ。もう。

「…めろっ」

 大久保は応えたかのように耳元で低く笑った。この声も、嫌だ。人を小馬鹿にして己だけ楽しんでいるようで。

 耳朶をかるく齧られて、突然のことに俺は背を反らせてしまった。また笑いやがる。

「いい加減にしろ!」

「――――昨夜は、見事だったな」

 再び俺の頬を焦らすように舐める。さっき指を舐めたときと同じくそこにある傷を抉じ開けるようにして、俺を疼かせて。

「……狙われるようなお前が悪い」

「…フ」

 各大使館を巡って帰路についたのは昨夜の七時頃だった。うるさい馬車の音に紛れて追ってくる刺客の足音は二つ。内務省門に入る前に大久保に馬車を止めさせて、俺は馬車から降りた。

 空を切った刃は大物を仕留められるだけの腕ではなく、もちろん牙突を出すまでもなかった。大久保の視線を背中に感じながら一人を峰討ちにして黙らせ、残りを斬った。

 火花が飛ぶ。俺はそいつを切り上げたが

『…っ』

 相手の折れた刃が衝突の勢いで軌道を変えて大久保の方へ飛んでいく。慌てて俺は阿呆のように路地に突っ立ったままの大久保の腕を引いた。間一髪、刃は俺の肩の辺りをかすめて去った。

 頬の傷はそのときにできたものだ。

『……お前な』

 俺ははぁと溜め息をついた。

『逃げるかなんとかできないのか』

 大久保は俺の肩に顔を埋めて、癇に障るセリフを吐いたのだ。

 そして笑っていた。…いまも。

「お前は守るからな、俺を」

 どき、と心臓がいった。大久保にも届きそうな大きな音に、俺の呼吸が乱れたかもしれない。

 左手はきつく握られている。大した痛みではないはずだが、雰囲気に飲み込まれて骨が軋むように体中が悲鳴を上げた。

「この腕で」

「……っ」

 鼓膜に響くのは既に聞きなれたはずの声。なのに、聞こえるたびに胸で何かが跳ね上がる。

 俺のことをすべて見越しつつ、言葉と体で嬲って喜ぶ。弄ぶ。卑怯だ。

 なのにそれは真実なのだ。いつも俺の、心を衝いていた。

 僅かでも抵抗する術があるのなら教えて欲しかった。

 二人でいるときも、省内で擦れ違うときも、大久保の空気が俺を逆撫でて、撫でて、撫でては、喰らった。

「ちがうか?」

 大久保からはもう意地の悪い笑いは消えている。真っ直ぐな視線で俺を貫いてくる。

 じっと、見つめられる。これでは俺が責められているようだ。

「他の人間を、本気でお前は守るのか?」

「!!」

 俺はビクリと瞼を広げてしまった。それを見た大久保が、時間をかけてニヤリと薄い唇を吊り上げる。……これでは、もう。

 俺は唇を噛んだ。悔しさに目が潤みそうだ。

「どうなんだ?」

 歌うように聞いてくる。核心など分かりきっているだろうに、この男はこんなところでも俺をいたぶる。

 きつい視線が刺さって角膜やら網膜が痛い。瞬きも許されない追及に、俺は固まったままだった。

「…言えないか?斎藤」

 言えないか、だと?

 言えるものなら、俺はとっくに…

 大久保は手を離して、冷たい指で俺の下唇を撫でた。噛んでいた歯から粘膜を剥がし剥き出しになった歯列を割る。口腔壁に沿って俺の唾液腺を探し当ててそこをくすぐった。

 大久保の意のままに、唾液が洩れてくる。指がさらに動いて、反対側で行為を繰り返し、指を抜いた。

 大久保の細い指に俺の唾液が絡んでいる。いやらしい光景。

 大久保はその指をみ、俺をみて言った。

「言えないなら、俺が教えてやろう」

「――…っ」

「俺の後ろに控えろ……その牙で、好きなように」

「!」

 ……それはいつ殺してもいいということ。

 そしてそんなことはさせないということ。

 ―――そうだ、こいつは、こういうやつなのだ。だから俺はこうやって。

 俺の口が勝手に動きだしていた。

「……それは命令か?」

 大久保はフ…と笑う。満足げに。

「―――好きなように」

 言いながらふたたび口づけた。

 てのひらを重ね、俺もゆびを絡める。既に止まった俺の血も、見えない色に湧き出て大久保につたってゆく気がした。

 そのあと始まった愛撫に俺は―――――………




 扉を開けると そこには

 一条のひかり

 ああ 貴方こそは届かない

 凍てつく北の氷海か

 わたしの血では溶かせない



 なのに私を溶かすのは

 戯れまわる貴方の気

 ずるいと叫んで暴れても

 笑いながらに捕えられ



 遊んでおられるふりをして

 随分なことをなさいます

 私はもう いえ はじめから

 騙されたなどは思わない



 扉を開けると そこには

 黄金のひかり

 ああ 貴方こそは我が至上

 玉座のデウスにあらせらる




 激しく息を乱したあとの冷たい肌はやたらと気持ちが良かった。

 冷たいままの唇も、良かった。