Semete mono Itsuwari wo


Too Soon to Say Goodbye/the Mirror Story...second version




 まだ朝だというのに、大久保の顔色が異様に悪かった。執務室に入った途端、あまりの具合に俺が足を止めてしまったほど。

 大久保の顔色については普段からずぼらに不健康で今更躊躇するものではないのだが、今日は何処か俺を不安にさせた。

 だから、あいつの隙をついて腹に拳を叩き込んだ。直前に煌いた灰色の瞳がなにがしかを訴えるようで若干の罪悪感が燻ったが、割り切って大久保を抱きかかえ救護室に運んだ。廊下で官吏に見つかるよう、わざと足音の多い時間を選んで。

 そして寝台に横たえる。がっくりとすべての力が抜けた大久保は、普段感じるよりも細く、やたら儚くみえた。…だけでなく、このごろの大久保はおかしかった。

 煙草の数が増えた。帰宅時間が遅くなった。やたら仕事に打ち込んでいた。なのに、ふと見ると窓の外を眺めていた。

 そんな大久保を目にするたびに、俺はすべてを忘れて頭を抱えたくなった。

 危険だと。

 もう、引き戻せないかもしれないと。

 死に急ぐ人間の如何など見飽きている。京都で、会津で、西南で。誰もが生きたいと叫び、誰もが届かなかった。人がひとの形を為さなくなるのを、長い間俺は見てきた。

 ――――こいつも?

 想像した瞬間(たび)に、胸の奥が締め上げられる。そして誓うのだ。それだけは、させないと。

 …俺はこのところ眠りがやたら浅い。原因は、らしくなく続く夢の所為。川路に志々雄討伐隊を整えるよう指示され、警視庁の名簿を漁って選りすぐりながら思い出すのは、血に塗(まみ)れて土にのめり込んでいった連中の顔。裏切りと信頼は、紙一重だということの真実を知った。生と死もまた同じだと。

『隊長…ッ』

 突如、如来堂を襲った新政府軍は瞬く間に十数名を撃ち殺し、それでも足りずに射撃を続けた。当時の俺は、既に新撰組を離れ会津の土となることを望んだ同志とともに会津郊外の守備を任されて如来堂に布陣していたが、恐らく敵軍に買われた農民の口から漏れただろう会津藩の――――余りにも脆弱な装備の背後を衝いた新政府軍の格好の的になった。

『テェッ!!』

 敵は目のまえだ。なのに鉛玉が四方から飛んできて、視界を濁らせる。同時に吹き上がる液体は、京都にいた頃余裕で眺めた血の色よりも遥かに赤くみえた。

 俺には見慣れた光景のはずなのに。

『散らばれ!』

 知らずのうちに口が動いていた。刀を握った手よりも早く、駆ける脚より的確に。…でなければ、折角俺に付き添ってきた藩士がこんなところで命を落とすことになる。

 こんなところで、という表現には少し語弊がある。俺も同志も、会津に身を捧げるために玉砕を主張してここまで来たのだ。だから会津で死ねるならそれが本望である。

 問題なのは、彼らが“俺”を庇って鉛弾に向かって胸を張ることだ。

『さっさと行けっ!!』

『ぐぅ…ッ…』

 ひとり、またひとりと倒れてゆく。お前たちが死んでいいのはこんなことのためじゃない。俺のためじゃない。

 煙る雨に濡れた肩を庇い、腿から血を流して俺たちは走った。それでも途絶えない敵音は、一息も与えずに詰め寄ってくる。堕ちるのは時間の問題となったとき、背後にいた高橋渡と丸尾啓二郎が、漸く見つけた空き屋を敵の死角にしたところで何者かに憑依されたかのような声で、言ったのだ。

『隊長…、俺は此処で逝きます』

『…俺も……』

『?!』

 突然のことに俺が驚いている間に、二人は額に捲いていた鉢巻をきつく締めなおし、乱れた隊服の皺を伸ばした。息を整えて耳を澄ませる。それが殉教者の、覚悟を決めた際の様子を思わせた。

『阿呆ッ、まだ進めるだろうが!城下は近いぞ、諦めるな!』

 小声で一喝したが、二人の顔色は変わらない。前髪から滴る水が鼻筋や頬を通って、透明なそれに赤い色を含みながら左右から下り顎で融合して隊服に染み込んでいく。そして、会津の泥となる。

『俺たちが薩摩イモを惹きつけるから、隙をみて隊長は城下へ走って。そこに吉田さんもいる』

『いまのうちに、はやく』

 ほらほら、と俺を急かす。確かに、いま城下へ入れば城内で体制を立て直し、戦闘に備えるか篭城に加わるかが叶うだろう。だからといって、こいつらを死なせるわけにはいかなかった。

『いい加減にしろ』

 はぁ、と俺は息を吐いた。度重なる戦闘と、急な敵襲で二人の思考回路がイカているんだと、俺は自分に言い聞かせた。だが、隣はやけに落ち着いてじっと前をみつめ、飛び出していく瞬間を脳裏に描く。彼らの瞳は、数日前見上げた会津の空のように澄んでいた。

『……』

 雨足が、強さを増した。朽ちかけた屋根が唸っている。

『俺、嬉しかったです』

『あ?』

 さっきとは異なる丸尾の明るい声がして、再び俺は混乱させられる。

『なにが』

『隊長が仙台には行かないと言われたとき』

『あ、俺もー』

 言って二人は童子のように無邪気に笑った。ともに汗を流して働いて見慣れた、屈託の無い顔が、ここが戦地と言うことを忘れさせる。四方を取り囲まれつつある会津にとって、それらが最後の救いかもしれないと思ってきた。若さと、無邪気さ。純粋さ。彼らの高らかな声は窮地でも濁ることはなかった。

 藩を覆う絶望すら霞みそうな彼らの明るさに、働き盛りの男が軍役に取られた村々が一時とは言え活気を取り戻したのを、俺は眼前でみていた。

 そして、彼らを守りたいと思った。

 なのに。

『土方先生が会津を離れるって言ったとき、隊長もきっと仙台に行くんだろーな、って思ってたからさ…』

『そうそう』

『でも「俺は会津のために死ぬ」って言ってさぁ。カッコ良かったですよ』

『あれ聞いて俺たち、会津に残ろうと決めたんです。だから隊長には生きてて貰わないと』

『あ、俺たち、てのは、玉砕組全員のことスから』

 へへ、とまた笑う。

『冷静な斎藤先生がーって、皆で感動して残りました』

『だから、いって下さい。早く』

 ――――――馬鹿だ、こいつら…

 お前等のほうが若い。未来がある。なのに、使い古しの俺なんざに情けをかけやがって…

 阿呆が!

 そう言おうとした瞬間だった。

『俺たちを信じろよ、なぁ隊長』

 にぃっと笑って、高橋が雨に消えた。続いて丸尾も、バシャバシャと草鞋を高く鳴らして溶けていく。

『………』

 俺は呆然と、遠くなる背中を見つめるしかできずに佇むだけだった。彼らが、まるで、昔の自分のように思えたから。

 京都が蘇る。もう二度と訪れないだろう、あそこは俺の楽園だったのだ。未来を無条件に信じられた。例えそれが儚くとも。

 …同じか。俺たちは、同じ穴の狢か。こうやって繰り返していくのか。

『…そうだな』

 信じるままに行くがいい。何者かを…たとえそれが負けつづけの俺であろうと信じ、誇らしげに笑えるお前たちこそが正しいのだから。

 溢れ出るすべての感情を俺は飲み込んで、鍔元を鳴らす。握った柄には古びた俺の“誠”がそれでも猶、鈍い光を放って剣先までを包んでいた。この光は、十数名の命が灯すものだ。いまも未来も、決して消させない。

 納屋裏を飛び出して城下を目指すと、ややあって、向こうで銃声が轟いた。

 それから数年後、一斉射撃よりも熱く凍った瞳が真っ直ぐに俺の心臓を貫くことになる。

 そして命にかけて、今度こそ守るのだ。







 目を覚ますと、例の視線が俺を見つめていた。

「……大層な拳だな」

 やはり声に張りが無い。それでいて透明な響きに、俺まで引きずられそうになる。だから、せめて俺だけは大久保の絶望に飲み込まれぬよう、唇の両端をぎっと引き締め瞼に力を込めてヤツを見返した。

「大人しくしない貴様が悪い」

 言って俺は、ズボンのポケットに手を突っ込んだ。

「あれくらいで倒れるなんざ…、話にならねぇ」

 声が震えないようにするのに俺は必死になっている。

「まだ痛むんだが」

 折り重なるような、大久保の弱い声。思わず両目を閉じたくなる。

 祈りたくなる。

 貴方がいまを踏み締めて、逞しく生きてくれるようにと。

「…ふん」

 乗り越えられるはずなのだ。あの維新を起こした貴方だからこそ、乗り越えなければならない。倒れた多くの命の果てに生き延びてきた貴方は、血の海を渡らなければならない。

 たとえそれが、かつての同志の血であっても。幾度となく、死への誘惑に脚を絡め取られたとしても。

 貴方の傍には…俺がいるから。守るから。

 だから貴方の明日を信じてくれ。

「俺はいつ、起きられるんだ」

 淡々と尋ねてくる大久保の顔色は、二時間の休憩後でも大して回復していない。血の気が失せて見えるのは、室内の暗さの所為じゃない。

「…さぁな。貴様の顔が人間色になれたら、起こしてやっても、いい」

 いまはまるで、あのときみた死体のようなのだ。

 体中血だらけになって、土と化してまだ見ぬ国の礎となることだけを約束された肉塊。

 人柱になってゆくのを、見過ごせるわけがないだろう? あんな思いはもう充分だ。

 まして貴方は俺の――――――

「酷いやつだったんだな、お前……」

 大久保の呆れた声。負けないように、俺も嫌味を返してやった。

「大方、…誰かから染(うつ)たんじゃねぇか?」

 鳶色の髪と灰の瞳をした誰かから染ったのは、冷笑と煙草の吸い方。敵の丸め込み方とそいつとの夜の過ごし方。

 そして、悔しさと頬を伝わる熱の入り混じる、たったひとつのことばの意味を。

「……ッ」

 もしここで俺が心中告白でもしたら、俺たちの、貴方の、運命は変わるだろうか。

 そんなことを考えたら、余りの情けなさに目が潤んだ。

 叶うはずの無い、手の届かない未来を、夢望んでしまうなぞ。

 “彼”に大久保を奪われたくないと一瞬でも思った自分の愚かさに、自ずから唇が歪んだ。

 隠すために俺は大きな欠伸をして、尻を滑らせて背もたれに後頭部をつけて目を閉じる。その様子をじっと見つめて、大久保が薄い唇を開くのが分かった。――――俺は、ヤツの些細な息遣いすら逃せない躯になってしまっているのだ…

「…お前も来るか?」

「―――なにが…」

 言われて俺は目を開けて頭を上げ、大久保と視線を合わせた。大久保はいささか穏かな顔つきで、

「…ほら」

 と掛け布団の端を摘み上げて、俺のほうに開いてくる。当然だというふうな瞳で俺を見た。

 俺の気など知らずに。

 ――――こんなふうに、“あいつ”も誘ったのかよ。

 布団に突っ伏して泣きたくなる。

「…言ってろ。俺はこれがあるからな」

 耐える為に俺が指の関節を鳴らした途端、大久保は大きな溜め息をつく。いかにも演技的で、余計辛かった。

「折角誘ったのに…」

 普段なら耳を澄ますはずの低い声が遠ざかった。現実が、ふたりで過ごす時間が、色褪せていく。俺の知らないところで繰り広げられていた世界よりも、遥か意味のない色彩に染まりかけて、染まらずに消えていく。…絶望が、みえた。

 俺では駄目なのか。

「………」

 沈黙が頭蓋のなかを駆け回る。白いシーツの上の蒼褪めた手をとって、真実を告げたくなる。

 だが俺にみえるのは、それでも動揺すら見せない、傷ついた氷の虹彩。…貴方に、俺のこえは届かない。

 俺はこんなにも貴方を望んでいるのに。

 居たたまれなくなって、俺は立ち上がった。

「うるさい…ッ」

 背中を怒らせて扉へ歩いた。

「どこへ行く」

「阿呆、俺は仕事だ」

 俺は部屋の扉を開けながら一度大久保に振り返った。途端、不覚にも頬が歪む。

 顔をみればみるほど、想いが募るから。

「…見張らんといつ起き上がるか分からんぞ。いいのか?」

「……」

 魘されながら探すのはこの姿と声なのに、夢の最後で、遠ざかってしまうんだ…

 俺は睫毛を伏せて、扉を閉めた。







 持ってきた書類は一応内務省が把握した志々雄の情報。だがそれは時間を埋めるための戯れに過ぎない。寝台の横に据えられた椅子に腰掛けて文字を字面だけ目で追っていると、大久保がむくりと起き出してきた。シーツについた手の甲が今にも折れそうだと思った。

「……」

 観察していると、軽く指を折り曲げて、大久保は掌を俺に差し出してきた。白い寝巻きから覗く肌は普段より増して蒼白く、腕は棒のようだ。尖った爪がなぜか痛々しげで瞼を翳らせそうだったから、気付かれないように目に力を入れる。

 俺は欲情していたわけではなかった。ただ、いま応えなければこいつは壊れるのではないかと思った。遂に、遠く離れてしまうのではないかと。

 だから、

「懲りないヤツ…」

 言って、大久保の手をとった。

 …抱いてやるよ、俺も。

 書類を棚に置いて手袋を外すと大久保は微笑んだ。普段と同じように唇を片方だけ吊り上げて、俺を引き寄せて体をずらし上辺だけの愛撫を始める。

 抵抗できるはずもないのに、俺が平伏すのを見下ろす瞳が追い求めるのは、冥界を隔てた男。

 あんたが俺を知り尽くしているように、俺だって、あんたのすべてを知ってるんだぜ? …あんたが“何”なのかなんて、とうの昔に知ってるんだぜ?

 そして俺を、―――――置いていこうとしていることも。

「…あんたなんか、大嫌いだ」

 吐くと、顎が細い指で捕らえられる。そのまま大久保は薄く笑い、掌で胸を冷たく撫でながらゆっくりと制服を脱がせていった。

 睫毛が震えるのは、欲情している所為だ。

 悲しいからじゃない。







 せめてもの偽りを




 せめてもの偽りを

 せめてもの強がりを

 それで貴方と生きられるなら




 せめてもの癒(いたわ)りを

 せめてもの繋がりを

 せめてもの     …愛を









To Killiko KINOSAKA,dear my brother,of KARAKURENAWI

From Reica OOGASUMI of Balsamic Moon

Faithfully,yours...                  7.7.2001



and changed a little on 16.Mar.2002