USUKAZE


 薄風太夫(うすかぜだゆう)と言えば吉原で知らぬ者は潜りと言われるほどでしてね、女の妾(あたし)からみても大層綺麗な女(ひと)でしたよ。お忍びで来られた偉いお方にも贔屓にされておりました。外八文字の花魁道中もまた見事でしてね、ほわりほわりと厚い草履の鳴る音まで薄風さんのお人柄を表したかのような優しい音をしてました。

 詳しいことはよくは知りませんが、生まれはお武家さまだったようです。美しくて教養のある薄風さんは江波(えなみ)楼に入られてからすぐに松の位に昇ったと聞きました。どこかのお殿様には身請けを請われる始末でしたが、新造のこまさん―――――こまさんは妾の古馴染みなんですけどね―――――にも妾にもよくしてくれましたよ。

 だから―――――薄風さんのお腹が大きくなったときも、こまさんとふたりで、薄風さんの常連だった大店の旦那様が準備してくれた貸家に移って、そこでお産となったんです。生まれた子供も可愛くてねぇ、妾は隣に住んでたんですが、こまさんの子守唄聞くのが楽しみだったんですよ。

 でもそんな日もその子が生まれて二十日も続きませんでした。夕方急に薄風さんが胸を押さえて苦しみ出されて、お医者を呼びに言っている間に花魁はこときれてしまいました。残された乳飲み子を抱えたこまさんが泣きながら妾に、どうかこの子をみてくれないかと言ってきました。妾はそのとき、上は十六、下は四月の子供を抱えていましたし、四人も五人も変わらないということで―――――と申したのは妾の良人でしたがね―――――その子を引き取りました。妾がしていた仕事をこまさんが引き受けるという条件つきでしたがね。

 その子には長く生きられるようにと、やそ(八十の意味)と名づけましたよ。薄風さんが随分儚く生きられたひとでしたからねぇ、この子が母親恋しさのあまりに母の後を追いませんようにとね。幸い、やそは元気に妾の乳を吸いましたよ。こまさんは毎日のように様子を見にきてくれましたが、ああ良かった良かった、これで薄風花魁にも安心していただけるよぅと言って袖で涙を払いましたよ。

 それからしばらく経って、良人の仕事の関係で妾たちは京都に向かうことになりました。京都はいつでも賑わってましたが、妾どもの耳にはそれまでの賑わいとは違う足音が聞こえておりましたよ。江戸はもうお仕舞いだとか、天変地異だとか、穏やかじゃない足音がね。

 妾の良人は幕府お抱えの庭番でしたから、何とかなるだろうさとか言う戯言は申しませんでした。身分を偽って京・大阪の店子になったり、何々の役目をいただいたりして、飛び交う噂の真偽を確かめたり、噂を作ったりしていたんです。動乱は、すぐそばまで来ていました。子供は上の二人は妾が産んだ子で、あとはみんな貰い子でしたけど、元気にやってくれましたよ。途中、仕事で四人が妾たちから離れていきましたけど、埋めるように子供が次々と仲間うちから移ってきましたから、寂しい思いはしませんでした。妾たちはいつでもそんな感じでね、賑やかな大所帯でしたよ。というか、秘密職なんて物騒な役目ですから、せめて家庭だけは幸せでありたいと、良人がどんどん連れて来たんです。裏稼業だけあって、どんなときでもお金には困らなかったのが幸いでした。

 やそは末っ子でした。たったひとりの女の子でした。血のつながりが無くても男親とか男兄弟というのは不思議なものでしてね、兄弟喧嘩をしていても、やそだけはいじめないんですよ。寧ろ、負けた兄の代わりに、やそが仁王立ちになって上の兄の前に両手を広げて立ち塞がったりなんかしてね、その姿があんまり真剣だったから、兄弟を諌める妾も笑わないように必死でした。妾がこんなですから、やそは「自分が確りしないと」と気負っていたのかもしれませんねぇ。

 仕事の覚えも早かったんですよ。妾は十五で世間に出ましたがね、やそは十三でした。こういう仕事に男も女も関係ありませんがね、難しい御時世の難しい土地で、やそはするすると仕事をこなしてました。それが宮中まで聞こえて、今上様を欺き奉るなんて大仕事を仰せつかるなんて思ってもみませんでしたがね。やそは目立つ子でしたから、薩摩人にも顔を知られてしまったんでしょうねぇ。背の高い、紋付袴姿の立派な方がみえられて、大きな掌から妾の掌に紙と金子をぽとりと落とされましたよ。良人はそれを持ってやその潜む大阪まで行き、やそに命じたのでした。それから数日ののち、先帝様が崩御されたと流れました。

 妾どもは別に、幕府のみの動向を先取りするために放たれているわけではございません。良人が繰り返して申しておりました。時代が我々を選ぶのではない、我々が時代を選ぶのだと。妾どもはそれを、実行していただけでございます。尊皇攘夷なんかを抱えるお武家様たちとはまるで違うのでございます。その日そのとき生きながらえていられれば、それでいいのでございます。それを卑怯とか無法とか言われましても―――――それが役目でございますから、妾どもは何とも思っていませんでした。いえ、思わないようにしておりました。なにせひとりひとり抱えている仕事が違うものですから家族がいがみ合うこともありましたけど、せめて家族そのものが憎しみ合わないようにと心がけておりました。

 やがて戊辰の役が始まりました。京都の空が真っ赤に燃えました。妾どもの暮らしていた一軒家も燃えました。着の身着のままで逃げて参りました。妾たちは散り散りになって、再び集まって、江戸で腰を据えたと思うまもなく、会津に流れたのでした。

 辿りついた会津は、容保公が京都所司代を仰せつかった時点で、既に負けていたのでございます。時代という名の勢力に、圧倒的に飲まれておりました。それでも会津のひとびとは自分たちの勝利を疑いませんでしたよ。来る時代がみえなかったのか、それともみないでいたのか、妾には分かりませんがね、余所者の妾たちが城下を歩いていても、そ知らぬふりでした。逆に言えば、それが気持ちよかったんです。だから…伸び伸びと仕事できました。手引きをして官軍を会津に送るという、会津のひとが聞いたら激怒するような仕事でしたがね。

 会津からは這う這うの態で逃げてまいりました。次に定住した斗南は、妾どもが経験したことのない寒冷の地でした。蝦夷地よりは住みやすいなんて言われましたけど、冬の地吹雪には本当に閉口しました。

 それでも新政府となってからも妾どもの仕事は絶えませんでしたから、裏切り者と蔑まれながらもやってこれました。家族は集まったり離れたりでしたけど、やそはいつも妾どもと居りました。無粋な連中に袖でもひかれたら、この土地では凍死したっておかしくないですから、家を訪ねる男には妾も目を光らせていましたよ。やそは薄風さんから預かった子供ですから―――――

 そんなやそでしたがね、どうやら懸想をしたらしい。相手はきつい眼をした若い男でしたが、良人とも仲良くしてくれていたから、なるようになるんだと、そのときは軽く考えておりました。やそも今年で二十八の女ざかりですから、当然といえば当然でしたでしょう。伝さんとは違って妾どもは武家の出ではありませんから、立派な式はあげられませんでしたが。

 お腹が膨らんできてから、やそは幸せそうにしてました。でも、妾は怖かった。薄風さんのことがあったから、元気な子供が生まれても、やそに悪いことが起こるんじゃないかって、お腹を撫でながらにこにこするやそと対照的に、ずっと怯えていましたよ。いま思えば、やそを育ててきた親としての勘か何かあったのかもしれません。



 生まれた子供はひとつ目で御座いました。



 以来、あの子は狂いましたよ。毎日毎日、虚ろな瞳で木目しかない天井を見上げて、気がつけば涙していました。泣き叫ぶとき以外には唇まで凍ってしまって、重湯を飲むのがやっとの有様でした。

 それでも伝さんは我慢してくれてましたよ。暴れるあの子に髪の毛を引っ張られても肌に爪をたてられても、あの子が黙るまで抱きしめてくれました。明け方になってあの子が泣きつかれて眠るまで、布団を被ってじっと耐えていましたよ。まるで子供を寝かしつかせる母親みたいにしてね。

 まぁあの子は、百日ぐらいでまともに口が利けるぐらいにはなったんですけど、その後は産まず女(め)になりました。よく言いますでしょう、はじめの子供は流しちゃなるまいよって―――――どこか傷つけちまったんでしょうね、あの子に二度とややは出来なかった。毎月の通いが来るたびに薄暗い土間の隅で泣いてました。妾ったら情けないことに、なぁんにも出来ませんでね、ただただあの子の小さな泣き声を聞くしかなかったですよ。

 伝さんは鍬を野畑に放り投げるようにして草むらに座って煙管を吹かしてました。煙を風に靡かせて、遠くの林をみているようでした。あの林の先に、赤子を流した海がありましたんです。寺に葬るにしても、これだけ小さな体を収める棺桶を作るのは若いひとには酷でしたのでしょう。赤子は生まれてすぐに冷たくなりましたので、赤子のために用意していた産着でくるんで、伝さんが海に流したんです。普段は竃に立たない良人も、こうなってからは腕をふるって濃い味の夕餉を拵えてくれましたよ。まぁ、妾があの子と一緒に嘆くばかりでしたから、伝さんと並んで炊事場で男同士面白おかしく過ごすほうが楽しかったんでしょうね。

 そんな伝さんの姿をみるたびに、妾は申し訳なくってねぇ―――――

 だから言ったんです、あの子と別れてやってくれませんかってね。

 伝さんは射すくめるような目で妾と良人をみましたよ。

 あのときはね、まるで妾らを責めたようにみえたんですがそれは当然なんですが、本当は伝さんは傷ついていたんだと気がついたのは、伝さんが家を出て行ってしばらく経ったときでした。でもそう知ったところで、伝さんを引き止めるべきだったなんて思っていやしませんよ。伝さんはまだ若かったし、こんなところで足止め喰らうのはよくなかったから。

 会津のお姫(ひぃ)さんと言われていた高木貞さんという人も、伝さんに目をつけていたようですからね、伝さんは会津に受けが良かったし。小柄な女(ひと)でしたけど妾とは住む世界が違うというか、こう、如何にもきりっとしていて、遠くから眺めるだけでこちらの身も引き締まるような方でしたよ。会津の女はああじゃなくちゃねぇ。

 …それでもね…

 伝さんはあの子が自分の足で立てるようになるまで、あの子の隣にいてくれましたよ。いずれにしろ伝さんは東京から御呼びがかかっていたんですから、五戸に骨を埋める妾たちにとっては、それで十分でした。



 そんなだったから、東京から手紙が届いたときには驚きましたよ。懐かしい伝さんの字が、とうに縁を切ったはずのあの子を頼ってきたんですから…

 尤も、あの子は乗り気じゃありませんでした。手紙を読んでも実感が湧かなかったのか、すぐに封筒へ戻して、針仕事に戻ってしまいました。まぁ、突然前夫から「出てこないか」って言われたって、どうしようもないじゃありませんか。ましてや伝さんには奥様がいるんですから…

 あの子は否定的な返事を書きましたが、次の月にまた伝さんから同じ内容の手紙がきてからは、気持ちが変わったようでした。ここまで言ってくれてるんだから行ったほうがいいんじゃないかィ…なんて妾の言葉も耳に届かないほど、あの子は何度も手紙を読み返しましたよ。

 迷ったんでしょうねぇ。あの子は日ごろからもう自分は若くないからと言っていましたから、東京なんて忙しいところで生きるのは難しいと感じていたんだと思います。それに東京は何をするにもお金がかかりますでしょう。あの子は諜報員として働けるか否かという瀬戸際の年齢でしたから、やっぱり迷っていたと思います。

 妾どもの家には頻繁に同業者として諜報員が訪れます。やそはそのひとたちから現在の東京の様子なんかを聞きだし始めました。あんた東京に出なさるのかい、と尋ねられても最初のうちは芳しい返事をしなかったんですが、次第にその気になっていきました。子供を失うより前の凛とした顔があの子に戻ってきて、妾も覚悟を決めました。俯いて、ただ黙って引きこもるのは、あの子には合いませんからねぇ―――――

 妾は銀線細工の簪をあの子に渡してやりました。昔、薄風さんが挿していた桜模様の綺麗な簪。いくら動乱のなかでもあれだけは手放さないで来たんです。それぐらいしか、母親の温もりを思い出させるものはありませんでした。あの子は半ば、妾が産みの親じゃないことは気づいていたんでしょうがねぇ、妾が普段するものとは様子の違う簪を手にしても、何も言いませんでしたよ。

 良人はただあの子の顔をみて、達者でなぁとしか言いませんでした。娘の旅立ちだと言うのに、良人は反物ひとつすら準備しませんでした。あれですね、なにかあったら困ったら、ではなくて、すぐに戻って来いと言っているようなものでしたね。いちばん下の、しかも女の子でしたから、一時期は裏の稼業から手をひけと良人が駄々をこねていたほどに、可愛がっていたんです。でも―――――あの子に必要なのは父でも母でもなくて、たったひとりのひとだったんでしょう。

 あの子は五戸を立ちました。雲の間から冬の陽の覗く、朗らかな風の日でございました。

 一月ほどして手紙が来ました。妾は元気でやって居ります、と書いてありました。何でも、いままで自分がしたかった仕事が出来るのだそうです。何のことだか分かりませんでしたが、伝さんと一緒にいることですし、安心致しました。

 五戸の妾どもも元気です。風がまだ冷たいですが、この風が東京のあの子のところに届く頃には暖かくなるんだと思うと、この冷たさを精一杯受け止めてやろうなんて気張ってみたりします。あの子がいなくなってからため息ばかりついていた良人も、一番上の息子が子供を、良人にとっての孫を連れてきてからは、現金なもので、すっきりと晴れやかな顔になりまして、いまではただの老爺です。

 妾は東京に送る着物なんかを縫っているところです。あの子は生まれの所為か、どこか色めいた華やかな柄が似合うんです。妾が渡した簪もきっと…つけてくれていると思います。

 あの子は、帰ったのかもしれませんねぇ。

 長い旅を終えて、請われるようにして、薄風さんのもとに帰ったのかもしれませんねぇ。