anata no umini kaeru made



 てのひらからこぼれたのは なんだったのだろう


 私に故郷は無い。目的地と目的があるだけの毎日を過ごしてきて、故郷など意味をもたなかった。

 父というひとと母というひとはいる。だが血はつながっていないと思う。思う、というのは、私が彼らに尋ねたことがないからで、そしてこれからも訊くつもりはないからだ。血が繋がっていようといまいと、私たちには既に関係なかったから。

 こんなことは周りにもあった。いや、周囲の“家族”なるものは殆どがそうだった。幕府の抱える秘密職には形態が様々あって、家で代々相続するものもあれば、非血縁で相続するものもある。物覚えのつく頃には、私は後者の家で育っていた。年を重ねる毎に兄が増えていって、私は末っ子になっていた。兄たちは皆顔も体も誰とも似通っていなかった。

 そんな家族形態ではあったけれども、別に不自由を感じることもなかった。数年毎に拠点を変えて移動を繰り返すうちに、時代を如何に生き残るかを最優先して考えるようになっていたため、或いは、そうでなければ生き残れないと感じていたため、自然家族は力と知恵を合わせるようになり、いつしか“家族”になっていった。たとえ地理的に距離が離れていようと、“家族”であれば良かった。

 そしていま、私は斗南にいる。

 父と、母と、男とともに。



 私より四歳年下の男は当初、一戸伝八と名乗った。

「嘘」

 私が言うと、男は綺麗な二重の瞼をきゅっと上げて、あからさまに嫌悪感を白い肌に露(あらわ)にした。

 肌が本当に白い。私も斗南に流れてきて、北の人間の白さに多少驚いていただけに、この男の白さは増して本物だと思った。なのに顔立ちはちっとも鄙びてはおらず、実にすっきりと整っているのが周辺の人間との違いであろう。

「……」

 男は答えない。紅い唇を引き結んだまま、珍しい色の眼で私を睨んでくる。誘われるように私は声を出していた。

「誤解なさらないで下さいな。私はあなたをお見かけしたことがあるのです」

「……」

 まだ答えない。結構強情だ。

 そう、この強情さに、覚えがあったのだ。

「五条大橋で母を介抱して下さった時の恩名です。斎藤様と仰いましたね」

 私がそこまで言うと、男はややあって顎を掻き、やがてああ…と言って一度視線を落とし、ふぅと息を吐いて再び私に向き直った。

「鼻緒の女か」

 あのときと寸分変わらない、琥珀色の綺麗な眼を忘れるはずがない。

 母は滑った際に鼻緒を切り、足首を捻挫し擦り傷まで為してしまったが慣れている事だし大丈夫だと言ったにも関わらず、彼は介抱すると言って聞かなかった。母は酷く感謝したが、彼は名乗るのも億劫がって姓だけ言って去った。

 彼が新撰組隊員として活躍するのはそれから暫くたってからのことである。昼間動き回っていた母は彼の姿をだんだら浅黄の間に見つけ、今日はどうしたなどいちいち私に報告した。私は京都ではなく殆ど大阪で仕事をしていたので、京都時代の彼をみたのは五条大橋のときだけだった。

 この家で同業者を預かって欲しいと仲間から言われたときにはなんとも感じなかったのだけれど―――――

「…それも、俺の本名ではない。それにもう捨てた名だ。今は取り敢えず一戸と呼んで欲しい」

「…わかりました」

 強情なところは、捨てないらしい。



 そうして私たちの不思議な生活が始まった。

「お母さん、もう十分よ」

「お前はそうだろうけど、伝さんは違うだろう」

 父も母も、彼を伝さんと呼ぶ。その“伝さん”はまるで昔からこの地にいた人間のような素振りで行商を始めた。家の近くに土地があったから、どこから仕入れてくるのか種を持ち込んで開墾まで為した。その姿を満足げに眺めながら、母は笑うのだ。

「ああ、なんだかこっちまで蘇る。やっぱり年若い殿方がいると違うねぇ」

「嘘ばっかり。引退する気なんてさらさら無いでしょうに」

 母はここでも“仕事”している。老いたといえども彼女の腕は実に良い。その母は、目立つ皺ひとつない頬を綻ばせながら言った。

「あたしじゃない。お前のことだよ」

「…なんで私が」

「とぼけたって駄目。綺麗になっちゃって。まぁあたしに似て、もともと綺麗な顔してるけどねぇ」

「変わってなんかいません!私は…」

 反論しようとした私を、母は殊更に無視する。

「伝さんだってまんざらでもないだろうに、お前が強情なばっかりにお気の毒。実際モテるんだよ伝さんは」

「……」

 それは知らなかった。

「仕事はこなすわ、若いくせに円熟してるわでね。同業者のくせに暗さを感じさせないなんてなかなか出来るものじゃない。…ほんとに、お前たちの間にはなにもないのかい?」

「…ありません」

「じゃ、嫌われたんだね」

 …むかっ。どうせ私は年増ですよ。

 そう思って舌を出した瞬間、がらりと戸口が空いて、斎藤が入ってきた。左手に、江戸にいたころから身に付けているという刀を携えて。

 あれは、あの目は、殺しをしてきた証拠だ。

 惚れた男のことは、女は何でも知っている。



 いつしか私は身篭った。膨らんでいく体が嬉しくて、毎日気がつけば腹を撫でていた。斎藤は普段と変わらぬ様子で仕事をこなし、家にいたりいなかったりの日々であったが、ここに来たときに比べ私の傍にいる時間が長くなったかも知れないと思うくらい、彼の息を近くに感じていた。それも嬉しかった。

「産婆は呼ばなくていいよ。あたしに任せなさい」

 母はそう言って、子供の取り上げに腕を捲くっていた。父と斎藤は汲んできた水を沸かしたり産着を準備したりで慌しく動いていたが、母の「さ、男衆は出た出た」との言葉につまらなそうに家を出て、農作業に戻っていった。二人の後姿をみて、母と顔を見合わせて笑ったりした。

 もうすぐ、この子に会える。

 春に生まれるなんて、なんて幸せな子だろう。この北の大地において、春は長い冬を越えて漸く訪れたひかり溢れる季節なのだ。いのちそのものなのだ。

「あたしの家系は安産だから安心おし」

「…はい」

 母と私に血の繋がりはないと思う。でもたぶんこうやって私たちは家族になるのだ。そしてこの子は私たちを確実につないでいくだろう。

 だから焦らずにいらっしゃい。あなたは私の子供なんだから…

 耕を繰り返して漸く柔らかくなった土に芽吹いた双葉をみつめているであろう、斎藤の横顔が、ふと浮かんだ。



 どのくらい時間が経過したのか分からないほど苦しかった。死ぬかと思った。筵(むしろ)に体液が大量に零れるのが分かる。でも、下腹から響く圧迫感が取れて、間違いなく生んだと思った。

 なのに様子が可笑しかった。どこか、なにか、違っていると思った。

「………」

 泣かない。泣き声が聞こえない。母の息遣いしか、私の耳には届かないのだ。

「お母さん…?」

「……っ」

「子供は?ねぇ…」

「……」

 母が無言のまま、その子を産着に包(くる)んだような音が聞こえた。向こうで、小さな頭がみえた。私の子だ。思って、私は痛みを忘れて体を起こした。

 そしてみた。



 生まれた子は、赤く剥(むく)れた肌をもつ



 ひとつ目だった




「嫌ぁぁぁぁ!!!!」




 私の叫び声に引き戸を開けて物凄い勢いで斎藤が入ってきた気がした。

 そのあと、どうなったのかは覚えていない。気が付けば、私は家の天井を見上げていた。頬が涙で濡れていた。或いはそれはあの子と分け合った血だったのか…

 時折、父と母が私を覗き込んできた。意識が明瞭でない私を介抱しているようだった。近くに斎藤は見当たらなかったり、すぐ傍にいたりした。毎日が呆然と過ぎていった。辛いだけだった。

 夜になると時折私は熱発した。夢に魘されては、いつも斎藤が私を揺り起こし、頬に伝いそうな涙を拭ってくれた。

 いまの季節はなんだろう。私はどこにいるのだろう。

 もっというと、私はどこを生きているのか…ほんとうに、これは生きているという感覚なのだろうか…夢なのではないか…目を覚ませば、私は子供を腕に抱いているのではないかしら…あのひとに似た切れ長の瞳をもつ可愛い子を…

 私は、狂いそうで狂えない心を持て余すだけであった。狂えたらどれほど楽だろうと、そればかりを考えていた。狂うことさえ出来ずこうしてのさばるだけの私はなんて情けないことか―――――

 狂えないのは、彼を失いたくないから…?あの子を忘れたくないから…?

「……」

 訳もわからず涙が零れる。悔しくて、情けなくて、惨めだった。

「…あの子は…?」

 私は、驚くほど近くにいた斎藤の長着にしがみ付いた。

「あの子はどうしたの」

「…聞くな」

 いや、彼は何も言わなかったかもしれない、私の心の声がそう囁いただけで。でも問わずにはいられなかったのだ。

「…嫌よ!私は母親だもの!」

「知らなくていい」

「――――嫌っ!」

 私は暴れた。暴れて斎藤の着物や腕を掴み、斎藤の薄い胸を叩いて訴えた。対照的に斎藤は、静かなまま私の拳を受け止める。力の限り訴えて、だんだん力無くなって拳が緩んだ私の掌を掴んだ斎藤の手は、冷たいようで温かく、それでいて強く、逞しかった。その瞬間に、この…掌が、あの子をどうしたのか聞かぬうちに……私はすべてを理解した気がした。

「いいかよく聞け。時折、ああいう子は生まれるんだ。なんの理由も無くな。俺は江戸の下町に育ったから何度もみてきた。世に出ないだけで、生まれてくるのさ」

 彼は言った。海に流したと。漁師の釣船に乗って沖まで漕いだ後、俺が流したと。

 狂気の、嵐が来る。

 ……景色がみえそうだ。波がぶつかっては砕け、私の心も砕けてゆくような………

「埋めればその辺の野犬に喰われちまうからな」

 言って斎藤は私を抱きしめる。頭を撫でて、乱れた髪を戻して、私を宥めようとした。

 …このひとが、私以上に傷ついていないと一体どうして言えるだろう…

「だからお前の所為じゃない。もう忘れろ。お前はお前のことだけ考えていればいいんだ…分かったな」

 …嘘ばっかり。普段のあなたなら、こんな声じゃないでしょうに…

 …ごめんね。傷つけてばっかりで。許し、てね…

 それでもあなたが好きなのよ…――――――



 私が漸く動けるようになった頃、斎藤は両親がもっていた畑を耕し始めた。自然と、私も畑に出るようになった。何も考えずに体を動かして日が暮れていき、自然と夜眠れるようになるから、あまり苦しさを感じなくなった。ただただ、静かな日々が戻ってくればいいと願った。

 しかしあるとき、つい目にしてしまったのだ。私たちと同じ年頃の夫婦と小さな子供が戯れながら道行く姿を。

 あれこそが、手に入れられそうで私の腕を掏(す)り抜けた私の夢――――

「……」

 喉が引きつった。もう平気だと思っていたのに。

 やっぱり駄目みたい…

 私はそこに蹲(うずくま)った。立ってなどいられなかった。

「ふ……」

 涙が零れる。零れて、畑の土に落ちていった。

 生まれるはずだった、ちいさな女の子。どんなに泣き止まなくても、ずっと抱いていてあげたかった。赤いおべべを着せて、誰よりも慈しみたかったのに。

 泣くまいとすればするほど、涙が溢れてくる。…幼い頃から、闇の世界だけで生きてきた。そういう意味で凄腕の父と母に育てられて、私も同じ道を歩んできた。そうやって生きてきて出会ったひとの妻になって、母になりたかった。それだけで良かった。

 あれ以来、私が身篭ることはなかった。どうしても出来なかった。もう二度と戻ることのない喜びだけが、私の望みと思い知らされた。同じ景色なのに、五戸の空が違ってみえる。もう二度と幸せになれないのだと、告げるように…

 かさりと葉を踏む音がして、斎藤の気配がした。

「ほら」

「………?」

 私が何も答えずにいると、目の前で斎藤は屈(かが)み、屈んだ背中に回した両手をぶらぶらさせた。ますます訳がわからない。

「…なに?」

 私は涙声。

「いいから乗れ」

「…乗れ…って…」

「早くしろ。置いてくぞ」

 ほれ、と言うように斎藤は更に掌をぶらぶらさせた。仕方なく、私は斎藤の背中に負ぶわれる格好を取る。私を負ぶって、斎藤は腰を上げた。

 そのまま、飄々と歩き出す。少し離れたところにあった籠に道具を入れて、その籠を斎藤の肩に預けた私の手に持たせた。斎藤は、負ぶわれたときに脱げた私の草履を手にしていた。

「軽いなお前。もっと太れよ」

「……ひ…ひとのこと言える?」

「言えねぇ」

 くすくす、と私が笑うと斎藤も笑った。

 久しぶりだと思った、こんな感じは。季節柄だろうか。北辺の地にも吹き始めた冬とは違う風が、私たちの頬を撫でて通り過ぎていった。

 ごうごう。遠くの森が鳴いている。

 ごうごう。もうすぐ、河の氷も溶けてくる。

 流れる河は、いつしか海へ着くだろう。あの子の眠る、冷たい海に。

「……」

 斎藤の背中が温かい。温かくて、再び涙が零れてきた。

 私はこのひとの子供が欲しかったのだ。

 ほかの誰でもない、このひとの子供を産んで育てたかった。このひとがどんな仕事をしていようと、どんな過去があろうと、このひとの誇りのままに子供の母親になりかった。

 私は声を上げずに泣いた。涙を斎藤の着物の肩に押し付けて、聞かせまいとした。…無論、逆効果だと言う事は分かっている。

「泣ーき虫やそ」

 斎藤はそういって、しかし笑い飛ばしたりはせずに、後ろ手にした手指で赤ん坊をあやすようにして軽く私を叩いた。涙は斎藤の肩に染みて溶けていった。

 斎藤の歩く足音が聞こえる。土を駆る鮮やかな音。蘇る京都の空は赤く燃えていた。続いて移った会津も燃えた。彼のすべてがあそこで散った。

 そして立ち上がった斎藤がこの先表の世界で生きることはもはやないのだろう。一戸伝八としての生命をここで得て、生きはじめたのだ。

 本名は山口次郎。出会ったときから嘘だった。新撰組をさえ長い潜伏先にした、約束された仮面の男。翻った浅黄色の羽織に隠した貌は、なににも群れることのない、孤高の狼だったのだ。

 しかし彼はここにいる。こうして私を負っている。私はただの人斬りに、心奪わせたりはしないから。



このひとの、

てのひらからこぼれたのは なんだったのだろう



 太政官が政府として機能し始めた頃、斎藤は斗南を去った。仕事だ――――そう言った彼の後ろ姿をみながら、私は、このひとはもう二度と戻ることはないだろうと感じていた。彼を引き止める勇気が、私にないことも。

 彼は東京に行くと言った。

 東京にはあのひとがいる。眦(まなじり)の美しい、小柄でいて存在感のある、生ける誇りのような女。

 あのひとに、私は勝てない。炎のなかを掻い潜って来た過去は同じだけれども、いまの私には背筋を伸ばして、敵軍のなか、まっすぐに歩む力はない。私は死んだのだ、あの子が死んだときに。それが分かるから、斎藤は私のもとを去るのだ。去って…あのひとのもとへ行くのだ。

 高木貞。

『こちらへ。私の着物を着て、ここからお逃げなさい』

 指し伸ばされた手指は、埃に塗(まみ)れても猶美しかった。それはおそらく、

『時尾様っ…山口二郎殿、如来堂にて急襲された由(よし)!!全滅かと!』

 いまも。

『―――――――私は信じませぬ』

 ……勝てない……

「達者でやれよ」

「……」

 ほら、声すら出ない。

「阿呆。永遠の別れじゃないだろうが」

 言って斎藤は両の掌で私の頬を掴むと、互いの額を合わせるようにして顔を近づける。私の脳裏に彼と過ごした日々が往来するうちに彼は離れて私に背を向けて歩き出した。私は呆然とその後ろ姿が見えなくなるまで見送り続けたが、彼は二度と、振り返ることはなかった。



 だから、斎藤本人から連絡を受けたときは驚いた。私はあのまま斗南に留まり、両親とともに暮らしていただけで、警視庁に正式採用された斎藤との接点はまるでなかったのだ。私は昔の仕事の延長で政府側の裏稼業を得てはいたけれども、密偵間の連絡を務めるという大層地味な職だった。

「来いと言われて来るなんて、やっぱりまだ惚れてるのかしら…」

 指定された住所に着いて、思わず呟いていた。この戸を開けると斎藤がいるのか。そう思うだけで私の胸は竦む一方である。なぜならここは東京だから。高木――――じゃないか、今は――――貞がいるところだから。

『東京とは言っても、時尾にはち合うような場所ではない』

 と手紙にはあったが、不安なものは不安なのだ。

 それに時尾は彼女の源氏名なのに…そんな名前で呼んでいるなんて、やっぱり私…

 帰ろうかな。そう思ったときだった。

 目の前の戸が、からりと軽い音を立てて開いたのだ。そこには見知らぬ老女が立っていた。

「おや、あんたかい?藤田さんの古女房というのは」

 ……古女房?

「とにかく、来ておくれよ。いくら妾(あたし)だってあれじゃ手に負えない」

「…え?」

 なんのことなのか私には分からなかったが、勧められるままに私は家に入り、客間と思しき部屋へ行くことになった。驚いたことに、私のために用意されていた部屋まであった。この家は敷地面積は狭いが、敷地のなかは案外広い造りらしく、裏庭には竹薮まである。そんな様子に私の勘は働いてしまうのだ。

 ここは斎藤が個人で管理できる家ではない。斎藤の身の回りを整えているというこの老女は年の割に身が軽くどこか洗練されていて、ただの賄(まかな)いではないのは明らかだ。だけでなく、ここは一般の庶民宅とは匂いがまるで違う。しんと静まり返っていながらもどこかで熱く煮えている、たとえば、そう、何らかの組織が活動するために誂(あつら)えられた密室のような…

 密室――――――太政官―――――――…あの男。

『…君か…斎藤一の妻だったという斗南の女は…』

 揺らめくランプの灯りを浴びながらも冴え冴えと冷たい瞳を私はみていた。

『高木の娘もだが、…随分気の強い女が好みのようだな…あれは…』

 この男は魔だ。そう思った。でもどうしてこんな表の人間が裏の斎藤を知っているのか。

『あの娘は兎も角、君はこちら側の人間だ…さぁどうする…古き絆をつてにしてあれとともに私の下で働くかね』

 はい、と言ったらこの男は私をどうしただろう。

『私は構わんよ。君の腕は信用している…京都では…御苦労だった…』

 あのとき私たち家族は引き裂かれるような思いで、父の決断に従った。

(幕府は終わりだ、先が見えぬ。薩摩につかねば生きられぬ。

 生きるには幕府を捨てるよりほかはない。これを恥と思うなら、ここで親子の縁を切ってくれ。なんとしても儂は生きたい―――――

 あの男は身の保証はすると言いおった。

 儂らの情報はすべてあの男に流れている。…そんなつもりはなかったが…こういうことはよくあることだ、それがいま儂らの身に降りかかっただけのこと。

 ともに耐えてくれるか。

 それともここで儂を斬るか。

 儂は斬られるつもりはないぞ。

 やそ)

『しかしどうしたものかな…まさか君があれと夫婦になるとは考えていなかったから…君たちに寝首をかかれぬよう、私も用心しなければならぬということか…それも良い』

(あの男の条件は、確実に使える工作員を薩摩側に流すこと。しかし流すのは情報だけでいい、その先は自分たちがやるそうだ。

 こうやってあの男は何もかもを手中に収めていくのだろう。彼奴にとっては、儂らもそのひとつに過ぎぬ。

 だが儂は賭けてみたい。魔のようなあの男に…ともに墜ちるなら、どこまででも行ってやる。どうであれ、儂らの命は既にあの男のものなのだ。逃げるより…刃向かうより…ここで身を投じてみたい。

 いや、投じるほかない。

 お前たちも気づいておるのだろう。ここ数日、儂らのあとをついてきた影音がどこのものかぐらいは。

 …恐ろしい男よ。目的のためには手段を選ばぬ。しかし、ああでなければ天下は獲れぬ。

 分かるか?天下は既に、あの男のものなのだ)

 その男がいま目の前で唇の端を吊り上げて私を嗤っているとは。

『君にとっての生き地獄が私の極楽だ…ただし言っておこう…あれを君にくれてやるつもりは無い。毛頭な…』

 低くこだまするのはこちらを嘲笑う声。そして密室に充満する得体の知れない空気のなかに、覚えのある薄い香りが漂っているように感じたのは、決して私の気のせいなどではなかった。

 忘れるはずがない。乾いた空気のようなこの匂い、この香りは。

 ま さ か……

『…分かったかな?あれは既に私の手に落ちている。…私は信じたいのだ。畏れ多くも天子を謀(ぼう)し奉(たてまつ)った君の愉快なまでの従順さと賢明さをね……私を消そうなどとは思わぬことだ…例え、かつての亭主が囚われようとな…』

 言って振り上げた彼の視線は氷よりも寧ろ火炎に近い温度に燃えながら、私の後ろの扉の向こうへと注がれていた。あのひとの息遣いが聞こえそうで、脇に汗が流れていった。

 その記憶が、静やかに現在へと繋がる。魔の男は死んだ。殺されたというよりは、自ら業火に捲かれたと思われても仕方のない死に様だった。

 そしてこれが―――――あの男の遺した奇跡の時代の残骸なのか……呟きながら私は斎藤の褥(しとね)に近づいて枕元に跪(ひざまず)き、数年ぶりに斎藤の名を呼んだ。斎藤は瞼を上げて、私をみた。

 その後起こったことは、斗南で悲劇を経験した私にとっては容易では無かったとはいえ受け入れられるものであった。

 受け入れられること、そうでないことの一体何処に、ふたつを分け隔てる境があるというのだ……斎藤とあの男の繋がりや…あの男が創り上げ儚くも消えた夢…そしていま、私がここにいることの…

 季節は春。私が抱き上げたのは、不思議な色の髪と瞳をした、小さな命であった。

「お前に任せる」

 斎藤はそう言って、子供の命を私に預けてくれた。それはあのとき海に流した子供と斗南で別れた私への償いだったのか…

 体が回復すると斎藤はさっさと仕事に戻った。私はまかないの加奈と名乗る老女とともに、自然とこの密偵宅で落ち着くことになる。赤ん坊の世話をしていると毎日が慌しく過ぎていき、それまでの私の虚しい日々はどこかへ行ってしまった。

 でもこれこそが、私が望んでいた生き方ではなかろうか……血の繋がりの有り無しに捕われず、ただ目の前にいる互いを慈しむ…それだけでいいと思うことが出来る…

「ん…ぁぁ…ふぁ」

「はいはい」

 私は布団の上で両手を動かす子供を抱き上げて、だいぶ温度が暖かくなってきた風の吹く庭に、その子を連れて行った。どこからか花びらが降ってくる。私はこの景色を美しいとさえ思えるようになっている自分に気がついた。

 風が吹く。北辺のあの地を撫でてきたものか…それともこれから向かおうとするのか…

 ぽたり、と子の白い頬に滴が落ちた。

 私の涙だった。

 私は……

 私はもう一度生きよう。ここで、この子を抱いて、あのとき止めた時間を再び始めよう。あの子の海に還るまで、胸を張って生きるの。あなたと一緒にきっともっと優しくなって、喜びも悲しみもすべてを真正面から受け止められる人間になるわ。

 斎藤がいる。そして奇跡の果てに生まれたこの子がいる。だから私は怖くない。もう、なにも恐れない。ここでこうして生きることが、私の誇りになるでしょう。

 凍てつき怯えていたわたしの心はいつしか癒え…よろこびの高らかに舞う春を知る…

 だからいまは…ここにいさせて

 ここはたぶん…私が微笑める場所…

 春も…夏も…秋も…冬も…

 越えてゆけるわ…あなたとともに…

 斯(か)くも愛しき………我が子よ……