golden boy


undated on 29th Sep.2005 for St.Michael festival


 雪が舞い上がる。

 常設ポールをリズミカルにクリアして、硬いアイスバーンを風のように滑り降りていく。

 真っ青な空の下、彼は自由だった。



 ぽーん、と飛び上がった体が空中でくるくる回転して、人々の羨望の眼差しを浴びながら着地するなりわっと上がった歓声がゲレンデを包んだ。いまやフリースタイルはスキー競技の華で、スピードだけが求められるアルペンオンリーに興味を惹かれる若者はひところに比べれば随分減ったように思う。将来を期待されていたアルペンスキーヤーが自由を求めてフリースタイラーに転向することも珍しくないこの頃。

「大久保さーん」

 向こうから見慣れた顔が駆け寄ってきた。チームDankのチーフマネージャーの伊藤だった。

 大久保はDank創設の際からスポンサーとして出資・応援している。Dankは、それまでのスキーチームの性質を覆し、メンバーの思い思いのトレーニングとレースをさせて向上させるチームであり、日本人だけでなく、他から援助を受けられない選手らの育成も行っていた。成果は上々で、未だW杯での総合優勝経験は無いが、ワンシーズンごとに着実に成績を伸ばしている。尤も、どこのナショナルチームにも所属できなかった選手が集まったために、設立当初は殆ど注目されなかった。しかし、チームに縛られることを嫌ってフリーで転戦していた選手に残された最後の楽園でもあり、選手数が増えるに従って、専属トレーナーを含んだスタッフは量も質も良いものになってきている。

 なかでも伊藤は小回りが聞く男であり、大久保が最も信頼する人間のひとりだった。大久保は動かしていた手を止めて立ち上がり、伊藤のほうを向いた。

 キッツビューエルは快晴である。

「なにかあったかね」

 ベランダから顔を乗り出した大久保が尋ねると、彼は戸惑った表情で近づいてきた。

 吐く息が互いに白い。

「…なんですか、それ………」

 さくさく、と道を外れたところの深い雪を漕ぐようにして歩いてきた伊藤は、ベランダに飾られた塊をみて口を開けるしかなかった。

 対して大久保は楽しそうに答えた。

「可愛いだろう」

「…はぁ」

 伊藤は思わずがっくりと首を垂れそうになった。大久保は鼻歌を歌いながら、数十個の雪うさぎを一匹一匹満足そうに見回した。

 昨日は大雪だったのだ。大久保が過ごしているこのバンガローも雪に埋もれ、朝カーテンを開けたら窓の下三分の一が真っ白だった。仕方が無いから窓をそっと開け、伸ばした足で新雪を踏み踏みしてどうにか空気の通り道を作って換気した。しかし昼間とくにすることもない大久保にとってふわふわの雪を無碍にはし難く、さんさんと降り注ぐ冬の日光を浴びながらうさぎを作っていたのである。

「なかなかの出来だと思わないか」

「……とっっても、お上手です…」

 だろう、そうだろう、と喜ぶ大久保の姿は、ゲレンデ以外の場所でもみたことなんかないと伊藤は思った。雪ウサギの目にはきちんと赤い実が入れてある。おそらく、ヒマを持て余した大久保がその辺りを散策して、拾ってきたものだろう。オフシーズンには世界中を駆け回る世界ランク十位の実業家も、雪山では子供に帰るようだった。

(…いや、このひとにはもともと、こういうところがあったっけ……)

 でなければ自由志向のチームに大規模出資など出来るはずも無い。チームDankには今でこそ複数のスポンサーがいるわけだが、創設当初は大久保ただひとりがこのチームに期待を抱いていた。チームと言っても最初Dankが抱えた選手はひとりだけだった。だからDankは大久保とその選手の二人から始まったのだ。

 伊藤がせききって駆けて来たのは、その選手のためである。

「あのー、えーと、緋村さんがですね~」

 そこで、大久保の顔が引き締まるのが分かった。伊藤は丸太で作られたベランダの枠に両腕を乗せて、ベランダに顎を入れていった。

「立てかけていたスキーが落ちてきて受け止めようとして失敗して、エッジで左腕切っちゃったんですよぉ。大久保さんから何か応援メッセージなりいただけたら~安心するんじゃないかと~~」

 緋村は大久保のいるスキー場の山を挟んで真後ろのコースで開催されているW杯の選手である。大抵、選手が負傷などした場合には即、大久保に電話連絡が入る予定なのだが、昨夜の大雪でラインが故障してしまったようで、入るはずの電話が入らなかったため、伊藤が直接話しに来たというわけだ。

 大久保は尋ねた。

「深い傷なのか?」

「いいえぇ~皮膚切ったぐらいらしいんですけどー試合明日ですから~こちらも心配で~」

 なんだ、と大久保は軽くため息をついた。軽い切り傷ぐらいなら大して影響はないだろうし、第一緋村は多少の怪我があっても入賞する男なのである。今回も心配なかろうと思った。

 が、伊藤の顔色が冴えないため、大久保はベランダに飾られた作りたての雪うさぎを一匹取り上げて伊藤に差し出した。

「ならばこれを緋村に渡してくれ」

「えー……これですかぁ……」

「これが俺からのメッセージだ」

「はぁ……」

 ぽりぽりと頬を掻いた伊藤が戸惑いながらも、雪うさぎを両手に乗せてその場をあとにした。雪うさぎを贈られた緋村が試合前の極度の緊張感を忘れ果てて、笑い転げる姿が眼に浮かぶ。

 Dankのスポンサーとなってからの大久保は、自分のキャラクターを使い分けることにした。小さなチームにおいては、選手とスタッフの距離も近く、ひとりの言動がチーム全体に影響してしまい、それが悪い風に移行すればチームの力はガタ落ちだ。何より選手にとって居心地の良い空間であること――――それが大久保が掲げた目標だった。

 幸い、大久保には冷徹な実業家としての顔のほかに、傍目からみれば首を傾げるような性質が備わっていた。真面目な表情でその場の笑いを取ったり、危機たる状況でも周りを前向きにさせたりするのが得意だったり。どんなときでもピンチがチャンス、とリラックスして思い込ませるような環境を自然と作って行きたい、そう思って創設したDankにおいて、大久保の雪うさぎ作戦は大久保にとって普通のことだった。

 尤も、この雪うさぎは緋村のために作ったものではなかったが。

 さくさくと雪を漕いで去っていく伊藤の背中の向こうには雲ひとつ無い青空が広がっている。その真下に、赤と青のポールをクリアして雪を舞い上げながらゲレンデを真剣に滑走する男の姿を認めた大久保は、整った貌をふっと和らげた。



「拙者、どーしていーか分からないでござる…」

 この冬でアルペンからモーグルに転向することを決めた緋村が浮かない顔で大久保のオフィスを訪ねてきた。

 緋村はその小柄な体からは想像もつかないほどダイナミックな滑りをする選手として国内で人気が高く、全日本Jr.選手権で連続優勝した期待の選手だった。

 だが国内の選手権に出場するのは多くが日本人で、海外で有名な選手が参加することはないため、いくら国内で優秀な成績を修めれば世界でも通用するとは残念ながら言い切れない。

 それに最近流行ってきたフリースタイルに興味をもち、自分もビッグエアを決めたいと思うようになった緋村には、国内でアルペン競技をし続ける意義を失ってしまったのだ。この馬鹿弟子が!!!と怒鳴られた挙句コーチと喧嘩別れしてきた「自由人でいたい」緋村に手を差し伸べるチームは無かった。

 だったら一人で世界各地を転戦してポイントを稼げばいい、と思ってしまいがちだが、異国の地でたった一人、言語も通じないままにバイトをしながら宿や練習コースの手配をし、トレーナーを雇って本格的にトレーニングすることは、肉体的にも資金的にもかなり難しい。若いからといって張り切りすぎてダウンしてしまっては元も子もないのだ。緋村が悩んでいるのはそこだった。

「強くなりたいんでござる…世界の大舞台に立ちたいでござる…でもいまさらどこかのチームに入って細かい制約受けるのは、もうイヤなんでござる…」

「………」

 緋村は幼少時から地元のスキークラブに所属し、チームという集団のなかで育ったため、チームの不便さも知っている。チームが硬ければ、個性も硬くなる。具体的には自分の滑りが出来なくなる。緋村にはそれが耐えられなかった。

 大久保は、そんな緋村のよき理解者だった。もともと、施設にいた緋村を迎えた養父母の会社に出資していたのが大久保だったのだが、養父母が早いうちに他界し、ある男に緋村が引き取られてからはときどき会って会食する関係になっていた。その男と大喧嘩をして京都から飛び出してきたと聞き、相談に乗っていたのだ。

「ふむ、」

 大久保は小さく唸った。いつも単純明快な緋村の顔が酷く沈んでいるのは、流石に居たたまれない。

「緋村」

「…はいでござる…」

「…そういうチームを、つくってみないか?」

 え、と緋村は顔を上げた。大久保は続けた。

「君と俺とで、新しいスキーのチームを創る。誰もを束縛しない、伸び伸びとしたチームだ。俺の取引先のマテリアルを君が使ってアピールするかわりに、こちらは資金とスタッフを提供しよう」

 緋村の顔が輝いた。

「ほんとうでござるか?!!」

「俺が嘘をついたことがあったか?」

「ナイでござるぅ~♪」

 その日から、大久保と緋村の試みは始まった。チーム名は、緋村が大久保に対して「ありがとうでござる~」と連発したところから、ドイツ語で感謝の意味のDankに決定した。

 チームDankは始動した。大久保が海外を回る際に緋村が大久保について回り、キャンプ地として相応しい場所を探し、トレーナーをみつけて契約を交わした。幸い、大久保のつてでみつかったトレーナーが日仏ハーフだったため言語面での苦労は多くはなかった。トレーナーの紹介でフランス語指導者もみつけることができた。宿は大久保が経営するホテルがあった。

 緋村に適応能力があったことと、トレーナーとの相性が良かったことが重なり、緋村は翌年にはW杯出場権を得た。出場したW杯ではメダル一つと数回の入賞しか獲得出来なかったものの、世界ランキング17位という大躍進を遂げた。

「チームMercyのほうが良かったかな」

 そんな冗談が交わされるようになった頃。

 緋村が一人の日本人をみつけてきた。

 ―――――それが斎藤であった。日本国内ではまったく無名のアルペンレーサーで、中学になって初めてスキーを知った、素人上がりの男である。

 斎藤は東京生まれ東京育ち、ウィンタースポーツとは縁のない世界で育った。しかし斎藤が14歳のときに妻子のない親戚が亡くなり、スキー場の経営権が斎藤家に譲渡されることになった。斎藤はその冬初めて訪れた自分の家のゲレンデでスキーを知った。

 もともと運動神経に恵まれていたお陰か、斎藤はメキメキ実力を伸ばしていった。スキースクールに入ったわけではなく、インストラクターから教わっただけだったが、彼にはそれで十分だった。翌年には、イイ滑りするねぇあの子、そう言われるようになった。

 だが斎藤は、一般スキーヤーである自分に納得出来なかった。世界には凄いレーサーがいるじゃないか、俺だって追い駆けたい、そんな気持ちが彼の視線を世界へ飛ばした。スキー場経営は順調で資金面で問題はなく、せっかくだから一の好きなようにさせようと両親が諦め半分で、斎藤がスキー留学することの了承を出した。

 英語とフランス語の特訓をして中学卒業後、斎藤は単身でフランスにわたり、夏期に地元で働き、冬はスキースクールで滑りまくる生活をするようになった。斎藤が滞在したところには斎藤と同じ理由で単身渡欧してきた日本人がいたため、彼からいろいろ教わり、充実した毎日を送った。

 尊敬するレーサーを追い駆けてオーストリアの会場まで行き、サインをもらったこともある。夏場知り合った元日本人レーサーらと一緒にアルプスを登ったこともある。彼の毎日はスキー塗れだった。もちろん貯めた金で各地を転戦し、徐々に成績を上げていった。日本流の洗礼を受けること無しに世界の奔流を身をもって体験した斎藤の目標は「絶対勝つこと」になっていた。

 大久保とはその頃出会った。

「大久保さん、彼が斎藤でござるぅ」

「よろしく斎藤君」

 大久保は手を出した。

「……どうも」

 斎藤が握った大久保の掌は大きくて冷たかった。

(雪みてぇ)

 と、思った。

 その後、斎藤の所属していたスキースクール(斎藤は三年目の冬でスキースクールを卒業している)の校長が、是非チームDankに配属させて欲しい、と願ったトレーナーを紹介してきて大久保が快諾し、契約が成立した。斎藤に異存はなかった。すでに無名だったはずの緋村がぐんと成績を伸ばしていたことを知っていたのだ。

(もっともっと速くなりたい)

 そのためには自分の努力と自分以外の人間の力が必要だった。この時点での斎藤は、スキースクールを卒業しただけのレーサーのさなぎである。出来るだけ早く脱皮しなければならなかった。スキーの選手生命は決して長くないからだ。このとき斎藤は十八歳。早くて十年、長くて二十年しかもたない世界だ。

「Dankは拙者のような「るろう人」が自由に過ごしていけるところでござる」

「…分かった」

 一緒に世界で滑ろうでござる、そう行ってきた緋村を当初拒んでいた斎藤だったが、スキースクールでの教官が大久保を推したことと、資金面での全面協力に惹かれてDankと契約することを決めた。「君のご実家の了解はいただいてある」あくまで大久保は用意周到だった。

 かくして、斎藤と緋村のふたりの選手からなるDankとなった。緋村が言ったとおり、Dankはそれまで一匹狼で過ごしてきた斎藤にとって居心地が良かった。トレーナーのシュテファンは、休日でも斎藤に付き合ってくれた。集団生活なんて営めるか、と心配していた斎藤は、気が付けば鼻歌を歌いながらスキー誌を読んでいる自分に気が付いた。

(そーいや、タケシが「選手にとって一番大切なのは環境だ」って言ってたな)

 タケシは、スキースクールで一緒だった日本人留学生である。彼は日本に戻ってナショナルチーム入りしている。きっと戦う、と別れるときに約束した男だった。

(どうしてんのかな。今度葉書でも書いてみるか…)

 スキーは個人技だ。かつての友人もライバルになる。タケシも、それまでと違う環境で挑戦している。

(負けない、俺も―――――)

 斎藤は、タケシと撮った写真を眺めながら、遠い故郷で過ごしている友人を思った。

 そこで、ハタ、と大久保のことを思い出した。

「……」

 大久保は年がら年中仕事が立て込んでいて、殆ど斎藤たちと会うことは無い。仕事で偶然近くに来たときに様子を伺いに来るくらいで、本当に、資金と人材を提供するだけの役目を負うだけになっていた。

 斎藤はごろり、とベッドに横になって天井をみた。

「変な男だよな」

 緋村から聞いた情報によると、大久保はあの年(四十代半ば)で未婚なのだそうである。

「金持ちなのに」

 大久保は実業家+大変な資産家である。

「女とか寄って来そーなツラしてんのに」

 …綺麗な顔をしていた。

 後姿だけを見れば、どう考えても西洋人にしか思えない鳶色の髪の毛と、長くて細い脚。そして真正面から見ると、誰もが振り返ってしまう品の良い造り。

 日本人の割りに随分薄い色の瞳には、鋭さだけが宿っていた。こちらを見透かすような、ある意味恐怖心を抱く視線。だが、傾斜のきついコースに突っ込んでいく斎藤にとっては、決して不快を覚える存在ではなかった。

(雪に似てるから……かな)

 握った掌は酷く冷たかった。大久保が上体を揺らす度に揺れる髪の毛が柔らかそうだった。低い声で話す度にこくり、と動く喉仏がすっごく綺麗で、

「……………」

 なに考えてんだ俺。

 ぶは、と噴出して斎藤はベッドに潜り込み、目を閉じた。

 ブランケットが温かい。

「………」

 途端に、あの冷たい肌が蘇った。ぶるっと震えた。