kizuato


updated on 29th Sep.2005 for St.Michael festival


 大久保が自分と同じ年頃のその患者を看取ったのは冬が始まろうとする季節であった。臨床からはだいぶ前に身を引いて、今は基礎研究に携わっている彼であったが、昔担当していた患者に請われて往診した。短期間とはいえ互いに天涯孤独のもの同士が過ごせた数週間は、末期癌と診断された患者にとっても告知を望まれた彼にとっても、残されたたった一つの希望であったかもしれない。

 せめて患者の願いを叶えたいという気持ちが、大久保のなかに確かに鼓動している。

 だから、彼は引き取った。

 この不思議なオスを。



「ほらご飯だよ」

 大久保がトレイを差し出すと、隣においた水には目も呉れず、“それ”は顔を突っ込むようにして貪りだした。大久保はここしばらく食欲が無い。束になった書類と数本のアンプルを書斎兼研究室に置いて来ると、少し離れて腰を降ろし“それ”を見て“夕飯”にした。

 何を食べさせればいいのか、人間しか専門に診れない彼には分からなかったが、帰宅途中に野良犬が捨てられていた鮮肉を食べているのを目にして、試しに与えてみたら全部平らげた。だから冷蔵庫は鮮肉のパックであふれている。

「美味いか?」

 だが話し掛けても“それ”は何の反応も示さず、生肉をトレイの縁に引っ張ってきて一方を前足で器用に押さえ、他方を尖った牙で引き裂いて食べ続けるだけだ。

 小さく溜め息をつく。引き取ってから数日が経過していたが、“それ”が大久保に懐く気配は無い。

 常時怜悧で研究に没頭する筈の大久保であったが…すっかり心奪われてしまっていた。

 触れることが許されるのならばさぞ滑らかであろう白…というよりも銀色の豊かな毛皮と長くて立派な尾。

 ノートパソコンを閉じた程度の大きさしかないが、その辺で飼われている動物とは比べ物にならない無駄な脂肪のない肉体。

 それに…思わず覗き込みたくなるような金の瞳が、二つは正常の位置に、もう一つは額の中央に90゜回転して体軸と同じ方向に縦に存在していた。

 三つ目などありえないはずだが、…確かに三つある。大久保の観察するところ、額の瞳は他の二つの目とは違う動きができるらしく、貪食に集中しているときも、威嚇するように大久保のほうを見つめてくるし、物音がすると尖ったウサギのような長い耳と同時に音がした方向へと敏捷に動く。

 猫科を思わせる賢そうな瞳にウサギの耳、豊かな尾をもち、常に小さな体から煌々とオーラを発して大久保を惹きつける。

 何てヤツだ。

 驚嘆と…感動。

 むしろ突然電撃に撃たれたような感覚ですらある。未知の生物に巡り会えた喜びなど、初めて会ったときに越えていた。

 出会ってからというもの、気が付けば姿を探している。見つけると手を伸ばしそうになる感情を押さえるのに必死なのは、既に飼主の気持ちではないことの証拠だ。…いい加減腹を括るしかなさそうだった。

 しかし“それ”は大久保の気持ちなど一向に気に留めていない様子で、この家に来たときから、まるで自分の家で過ごすように堂々としている。食事を終えると晒していた身をフイと翻して、気に入っているのか、リビングのソファにぴょんと飛び乗り尾で頭を包んだ格好をして寝入ってしまう。

 その凛とした姿と、更には無遠慮さも気に入っている。次に目を覚ますときにはここから消えているのではないかという不安をもたげさせる神秘に近い魔力がこいつにあることも、大久保は嗅ぎ取っていた。たぶん本能で。

 できることならいつまでも見つめていたいくらいだ。観察ではなく。

 この気持ちには覚えがある。もう長いこと忘れていた、辛くて甘い…。

 馬鹿な。

 愚かな気持ちに困惑する。

 “それ”には名前をつけていない。未知生物だからではない。どうにもしっくりくる名前が思いつかなかったし、何やら適当に呼び名をつけるとあの三つ目で睨まれるか、悪くすれば逃げられる気がしてならなかった。

 最も“それ”の主は既に無く、その気になれば家を抜け出すことも可能なのだが。

 逃げないということは、ここが気に入っているということなのか。単に冬越しのために留まっているだけなのか。

 初めて会ったとき、余りにも“それ”が綺麗だったので無意識に手を伸ばしてしまい、ガブリときつく噛まれた。実際にはそれ以来、ツンと自分の前を横切るだけで、触らせてもくれなかった。

 嫌われたかもしれないと、予想以上に落ち込んでしまう。

 だが、あの誇りの高そうな生き物を手放したくは無かった。だから彼にしては珍しく、少々臆病ともいえる態度で“それ”に接している。動物に対して抱く恐怖とは明らかに違う、失いたくない存在への……

 こんな幼稚な感情が、幼稚とは程遠い年齢である自分に宿っているとは。

(思い起こさせたお前は本当に魔物かもしれない)

 喉に出かかる届くはずの無い言葉を飲み込んで、ふっと鼻で笑うと、トレイに残った血を舐めていた“それ”の耳がピンと動いて例の額の瞳がぎろりと煌く。赤い舌。

 どきり。

 高鳴ったのは、威嚇された故の恐怖からではない。

(まいったな…)

 長い睫毛を伏せて、そう思うのだ。



 季節柄、冷え込むようになった。

 夜になると“それ”は部屋の真中にあるソファから音もなく降りて、南側の出窓に跳んで空を眺める。

(またか…)

 大久保は、普段は何にも興味を示さない“それ”が一途に空を見つめる光景を当初は興味深げに眺めていたが、この寒さにやられたらと心配になり、思い切って声を掛けた。

「冷えてきた。もうこっちにきたらどうだ」

 …無視された。

 もう一度掛けてみる。

「俺は獣医じゃないんだ、風邪をひかれても上手く治療できるかわからん」

 だからこっちに来るんだ。

 と言おうとして、大久保は

(おや?)

 と思った。

 “それ”が振り向いて、自分と視線をしっかりと合わせてきた。

  (……)

 こんなことで感動してしまった自分に溜め息をつきながら、再び自分に背を向けた“それ”に惹かれるように近づいていく。

 “それ”がさっき自分に見せた表情が、何やら人間じみていたのだ。

 苦しげな、もっというと切なげな貌だったから。

 目の前には銀に光る毛皮。

 静かに触れてみた。

 “それ”はびくっと体を硬くしたが、次第にゆっくりと力を抜いていった。 それを待ってから、大久保は体温を確かめるように毛の中に指を埋める。

 驚いたことにかなり痩せている。豊かに生えている毛が、触ると凹凸までをもなぞれるほど浮き出た骨を覆っていた。

 眉を顰(ひそ)めながら、自分も出窓に腰掛けて脚を組み、両手で“それ”を腿に抱き上げる。

 三つの目が網膜を貫く勢いで、大久保の瞳を覗き込んできた。

(…綺麗だ)

 ツンとこちらをあからさまに拒絶する様子はなく、見上げて言葉を待っているように見える。

 こんなことは初めてなので、多少どぎまぎしながら、大久保は言葉を紡いだ。

「…星が好きなのか?」

 ふるふる、と二回首を横に振ったように見えたのは錯覚だろうか。

(言葉がわかる…わけはないか)

 しかしわずかでもいい、コミニュケーションが取れるかもしれないと思い、そのまま会話を続けることにした。

「じゃぁ…月か?月が好きなのか」

 ふるふる。

(……)

 まさか。

 高鳴る胸を抑えて“それ”を見ると、いつもはピンと伸びている両耳が垂れ下がってきた。初めて目にする様子に更に大久保は囚われていく。

「どうした…?」

 震えそうな声で尋ねる。

 “それ”は大久保の手のなかで俯いていたが、大久保に背中を撫でられると 弾かれたように床に飛び降りた。

「おい…?」

 速い。

 干してあったバスローブに飛びついてハンガーから落とし自分で被ってしまった。慌てて助けようとした、そのとき。

「??」

 ローブが急に盛り上がったと思うと、…そこには人間がいた。

「…何だよ、その面は」

 とそいつは言った。

 大久保は随分間の抜けた顔をしているらしかった。だが、落ち着いてなどいられるだろうか。

 彼はローブの袖に腕を通して、そこに胡座をかいた。

「…だから嫌だって言ったのに、あのジジィ」

 余計なことを。

 …確かに人間の言葉で喋っているようだ。そいつはばらりと落ちた前髪をだるそうに掻き揚げながら、大久保を睨みつけた。

 表情はあの生き物そのままだ。

「俺は斎藤。あんたは大久保だったな、確か」

「…ああ…」

「ジジィから聞いてはいたけど、ほんと変わり者なんだな、コレもいねぇし」

 と小指を立てた。

 カワイイ顔をしてきついことを言ってのけるヤツだ。

「お前は人間なのか、それともネコウサギなのか?」

「ああ?!」

 金の瞳が大久保を射抜いた。

 その強さに再び胸は熱くなる。

「どうせ俺はできそこないの狼だ!」

 吼えるように言う姿は狼かもしれない。思わずにやけそうになる口元を咄嗟に指で押さえた。

「…随分カワイイ狼だな」

 言った途端殊更にキツイ貌をして、闇夜でも利くだろう目を光らせた。

「適当な名前で呼ばなかったことだけは誉めてやる」

 妙に艶のある声と容赦ない視線に後頭部が痺れるのを感じた。

 ぞくりとする…

 と同時に大久保の持ち前の頭脳が働き始め、斎藤と名乗った彼―――が言うには狼なのだそうだが―――の隅々を観察しだした。もとは彼も医者である。

 ローブからはみ出た項の辺りを忙しなく爪で引っ掻いている。視線が落ち着かないのは人間の姿を見られたからか。

「何を見ていた」

 口が勝手に開いていた。その間も大久保の目は斎藤の体を舐める。

「別に」

 と時々掻く手を戸惑うように休めながら、斎藤は答えた。

「月が好きなのか?」

「月なんか、嫌いだ」

「人間になるからか」

「俺は狼だ」

「あいつの前でもこうだったのか」

「しつこいな、あんた」

 イラついている。唾を飲み込もうとして不自然に白い喉が上下に引きつった。

 それで、大久保は確信した。

「お前…狂犬病だな」

 僅かに顔を顰めて、喉元を押さえていた斎藤は弾かれたように大久保を見た。

「助けてやるぞ」

 金の瞳が大きく開かれる。

「っ、な、んで…」

 大久保は安堵の息をそっと吐いた。

「お前を引き取るよう依頼されたときから何かあると思っていたんだが、水を飲まないし、妙にイラついているからな」

 あとは勘だ。

 顎鬚を擦りながら近づく。

 それでも斎藤は後ずさった。

〈ダメだ〉

「俺が信じられないか」

〈来…るな〉

 徐々に二人の距離が縮んでいく。

〈来るなっ!!〉

 斎藤は立ち上がり全身を強張らせて大久保から逃げた。が、大久保は迫ってくる。

 ついに出窓から対側の壁に斎藤は追い詰められてしまった。

 目の前に大久保の陰影のある顔がある。

「……」

 体中を目にして睨んだ。

 しかし大久保に効く筈がない。むしろ灰色の目の奥で笑っているようにさえ、見えた。

 髭をたくわえた唇がスローモーションのように動いて出た言葉を、斎藤は忘れないだろう。

「…血が欲しいか」

 壁にあてがっていた両手が熱くなった。

 そう言って斎藤の蒼白の頬に掌を当てた。

〈なんて冷たさだ〉

「助けてやると言ったろう?」

 頬の掌が後ろにずれて後頭部をそっと押さえ、大久保は斎藤の頭を自分の肩口へ持っていった。

〈…何で分かるんだ〉

 大久保の肌も随分白く、静脈が浮いてさえいた。こんな病的な人間から血を摂れるわけがない。

 斎藤は晒された白い項を見つめてるしかなかった。

 どれくらいたっただろう。

 ―――いや、数秒間だったかもしれない。

 大久保は言ったのだ。

「…なら、俺がもらうぞ」

「!!」

 驚いた斎藤が体を離そうとする前に、掴まっていた。

「…っ!」

 ローブをずらして肩に噛み付かれた。

 大久保の歯が、膚に食い込む。

「っ!」

 ――噛み付かれるのはこんなに痛いことだったのか。

 人間の皮膚は、なんて脆い。 

 染み出した血を大久保に吸われて、斎藤はずり上がるように背中を強張らせた。

 そのうち気づいた。

 滾(たぎ)っていた熱が奪われて、同時にもっと熱い痛みの如き炎が注ぎ込まれている。口付けに呼び覚まされた、野性。

「!」

 突然斎藤が大久保に跳びかかり、体勢が逆転した。

 床に押し倒されて、頭を打つところだった。

 寸前で首を持ち上げた大久保の口内には血の味がする。

 その主が、大久保を上から押さえつけていた。まるで獲物を仕留めるような貌をして。

「どうした」

「……」

「お前は狼だろう…?」

「……」

 声を聞いて、斎藤は一度ゆっくり確かめるように目を閉じた。

 そして、ひらく。金の瞳。

「!!…っ!」

 斎藤の牙はたやすく皮膚を裂いて大久保に食い込んだ。

 噛まれているのは自分なのに、彼の負った痛みのように感じるのは何故だろうか。

 目を閉じる。瞼が熱い。

 そんな自分に戸惑って、大久保は肩に喰らいつく斎藤の背を撫でた。



 目覚めると、斎藤は小さな姿で隣で眠っていた。

 毛皮の下には赤い引き攣れがあるだろう。

 自分の肩に指を当てると、彼の残した傷跡が今はかさぶたを被っていた。だが、思ったほど深くはない。

 安らかな寝顔を見つめながら、互いの皮膚に刻んだ跡がいつまでも消えなければいいと思った。