golden boy 7


updated on 29th Sep.2005 for St.Michael festival



「(ガガッ)マイクチェック、マイクチェック、うっふ~ん!」

 イヤホンからおかしな声が聞こえてきたので大久保は眉を顰めた。視界が悪いためレースが中断されていたときのことである。耳を澄ますと、あえいうえおあお、とか言っている。

 おかしな声はさらに続くのだった。

「ぱんぱかぱーん☆☆日本のスキーフリークのみなさんこんにちわ~天才フリーライダーの本条鎌足ちゃんと、」

「みんなのアイドル瀬田宗次郎、」

「でーす♪♪」(×2)

「アナウンスと解説のおじさんズがダウンしちゃったので、滑走二回目以降は、あたしたちが実況しちゃいまーす!いまは嵐で中断中なの。ていうかさ~みんなのアイドルって宗ちゃん、あんたそんなキャラだっけ?」

「いいじゃないですか~一度言ってみたかったんですよ~去年のバレンタインでもらったチョコの数、僕のほうが鎌足さんよりも多かったですし」

「やぁーねぇ!バレンタインのチョコは日本では男がもらうものなのよ。あたし女だからいっぱい貰うわけないでしょー!貰うんじゃなくて志々雄様のプレゼントしたわ」

「へぇーそーなんですかぁ。あれ、大浴場は男湯入ってますよね~」

「志々雄様のお背中を流すためよん♪この点で由美さんに勝ってるの!これからもガッツで行くわ!ところで宗ちゃんは、フリーライド始めて何年だっけ?」

「えとー…6年です。志々雄さんに拾われてから始めたのでそれぐらいです」

「あたしもそれぐらいかな。毎日楽しーよね~」

「楽しいです」

「あたしたち、冬は北半球、夏は南半球でライドしてるの。南半球はね~ニュージーランドが最高!ガイドのお兄さんも超絶かっこよくて、この夏一番の思い出になったわ。ヘリスキーで最高の滑りが出来たし」

「でもこの前、志々雄さんのなかで滑るのが一番って言ってたじゃないですかー」

「きゃーっ!!宗ちゃんたらこんなところで何言い出すのよぉ!でも自己アピールしまくりでいいってカ・ン・ジ♪今日も鎌ちゃん&宗ちゃんはノリノリでーす。じゃーここで滑走一回目の順位を紹介しちゃうわねっ」

「え~と、一位フェルダー、二位タナウス、三位マットリッチになってます。やっぱオーストリア勢は強いですね」

「イイ男ばっかりだしねっ」

「鎌足さん、本当に志々雄さんに恋してるんですかぁ?僕だったら浮気なんてしないけどなー」

「浮気じゃなくてただの遊びだけど。宗ちゃんていつもニコニコしてる分、怒ると怖そうね。浮気されたら絶対許さないってゆーか」

「絶対ってことはないですけど…とりあえず下僕に降格させます」

「…あのさー…そういうセリフをニコちゃん顔で言わないでくれる?超こわ。え?ああん、誰?」

「てめぇらなぁ…人の最高傑作を盗みまくって旅費用に換金しておいて、タダで済むと思うなよ(怒)」

「きゃーっ、比古ちゃんじゃなーい!どうしたの??」

「どうしたもこうしたもねぇ。馬鹿弟子がメール送ってきたから来てやっただけだ」

「へぇ~意外に弟子思いなんですね~」

「あいつが転んだ無様な姿をデジカメに収めて、世界中に流してやる」

「僕もお手伝いします。緋村さんみてるとムカつくので」

「やぁーん、二人とも怖ぁ~い♪」

「あ、空が晴れてきたみたいですよ」

「ほんとだわ。レース再開かしら?」

 飛び入りアナウンスに耐えていた大久保も空を見上げた。嵐のように荒れた雪を降らせていた雲の隙間から眩しい光が差し込んでくる。大久保もテントから外に出て、漸く視界が確保できたコースを仰ぐ。選手用の待機テントには専用リフトを降りた斎藤が順番を待っているのだった。

 一回目の滑走では6位と上々の記録を出している。Dankはもちろん、日本人応援団の期待も大きかった。

「楽しみでござるな」

 試合を終えて、ここ、GSの会場にやってきた緋村が大久保の袖をつかんで言ってきた。彼の首から下げられた銀メダルが、赤いウェアに映えている。

「緋村のメダルパワーで応援してやってくれ」

「もちろんでござる♪…と、次が斎藤の番でござるな。応援応援!」

 二人が笑う間も鎌足らの元気な声が流れてきた。

「さぁーって、お次は斎藤一。今期でプロ3年目のレーサーちゃんよ♪」

「日本人離れした滑りが特徴です。っていうか、中学になってからスキー始めたというのは本当ですか?」

「ほんとみたーい。あたしヒムラーに聞いたもん」

「ヒムラーって緋村さん?」

「そ。赤毛のヒムラーちゃん」

「馬鹿弟子に“ちゃん”なんざ付けるな。うざったい」

「馬鹿弟子ってムカシのことでしょ。今日メダル獲ったのよぉ。褒めてあげなきゃ」

「俺の弟子だから獲って当然だ」

「ちょーこわーい、あっそろそろスタート切るわね。天気も上々!」

 鎌足の声に吊られて、大久保もコースから視線を上げて空を見上げると、雲の間から青空が覗いている。

 風はだいぶ止んだ。

 あとは彼自身が風になるだけ―――――

『スキーの何が好きって、風になれるからだと思う』

 いつか斎藤が言っていた。

『刹那的な意味じゃなくて、風になりたい。で、ゴールに突っ込むの』

 言いながらうっとりと瞼を閉じて、両腕で抱えた膝に横顔を伏せたのを覚えている。

『スタートから一人で滑ってきたのにさ…ゴールした途端に、歓声が聞こえるわけ。身震いするぜ、あれ。いいタイムだと歓声もすげぇんだ。気付いたらもう、やめらんなくなってた』

『自分のためのレースがさ…知らないうちに誰かに見られててさ…俺がぶっかけたスプレー喜んだりしてさ…嬉しいんだ、すっごく。お互い大して相手のことなんか知らないのに、握手したり背中叩き合ったり…ずっとここにいたいって、思うようになったよ』

『でも…あんたのこと気にしてから、他の誰かじゃ足りなくなったんだ。ショックだった。どんなに歓声が大きくても、あんたがいなけりゃ意味ないって考えるようになって…』

『だからさ、風になりたかったんだ。あんたのいるところに届けーって。今考えるとバッカみたいだけど、当時の俺は本気でそう思ってた。…あんたに、俺に気付いて欲しかったよ』

 そこで彼は瞼を開いて大久保を見たのだ。

 白い肌から途端に現れる、黒い睫毛に縁取られて輝く金の虹彩。

『今はさ…ゴールに、あんたがいる。それだけで俺…走っていける…』

 ―――――自分など、ただの仕事人間と思われても文句の言えない性質(たち)なのに、こんな男のどこが良かったのだろう。

 ママゴトから始まった二人の関係を推し進めたのは、自分ではなく斎藤の方だ、と大久保は思った。

 真っ直ぐな気持ちと、へこたれない行動力と、静かな祈りが大久保まで昇華させたのだ。誰かとともにいたい、そう、岩の大久保に思わせてしまうほどに。

 だから、例えこれからお前を讃える歓声がいなくなっても、俺はひとり彼に拍手を送り続けていたいと思う。

 いま、この瞬間もだ。

 大久保がそう心で呟いて会場に設置された巨大液晶画面をみると、斎藤がゴーグルを確認して、最終調整をしているところだった。

 雪も無い。風も無い。トライするのに絶好のシチュエーション。

 主人公は、斎藤。

 体を前に倒し、ポール(ストック)を雪面について、息を堪える。

 ランプが点滅を開始する。レーサーが最も緊張する瞬間の一つだ。

 ひとつ、ふたつ…

 三つ目のランプが付いて、

 Go!

「キックスタートォ!今日もいい滑りを見せてちょうだいね~」

 鮮やかな滑り出しに、大久保の横にいたトレーナーのシュテファンが両の拳を握り締めていた。Dankに入ったときから、斎藤を一流のレーサーに育てるために全力を尽くしてきたシュテファン。元はアルペンのレーサーだったのだ。不慮の事故に遭って両膝の膝蓋骨と前後十字靭帯を痛めるまで。

『ミスター…僕を愚かだと笑いますか?ハジメの滑りに昔の自分を重ねていた僕を…』

『でも、彼と付き合って気が付いた…彼は彼のままが一番良いって……だから僕は、彼の魅力が一番に出る滑りを彼に提供したいと思うようになったんです』

 以来、彼と斎藤は一心同体の関係である。斎藤の成績がいい時も悪いときも、シュテファンがケアしていた。

『今はね…ハジメが勝つと嬉しい、嫉妬じゃなく、とても……彼と彼の滑りをこれからも伸ばしていきたいと思うんです』

 だから、それまでのシュテファンと斎藤の成果の出るレースは、自分がレースをしていない分余計シュテファンにとって心の抉れるような時間なのだ。

 シュテファンが大久保のジャケットをぎゅっと掴んできた。その格好で斎藤を見上げる。神にも祈る気持ち、とはこのことを言うのだろう。

「大丈夫だ」

 大久保はシュテファンの手に自分の手を重ねて呟いた。

「大丈夫だ。彼は君を悲しませることはしないよ。何故ならあいつは、俺の――――…」

 大久保がそこまで言ったのと同時に、イヤホンの瀬田がぽろりと言った。

「斎藤さん、カッコいいですねー」

「あいつぅ、口は悪いけど、滑りはキレイなのよねぇ。マシンガンみたいにズガンと行くと思えば、すいっとターンで切り替えしてさ、ほら、あの膝の角度とか」

「荒いけど良いですよね。どこか滑らかっていうか…んー、体が沈んで浮くまでが柔らかいのかな」

「あ、またビッグ・スプレー。あたし、自由を感じちゃう」

「比古さんはどう思います?」

「バネみてぇなイイ体してやがるぜ」

「いや~ん、比古ちゃんが言うとヤラし~の~♪」

 きゃーきゃー喜ぶ鎌足を他所に、瀬田の中継は続くのだった。

「ここまでのタイムは36秒38。トップとの差は0秒27です。…これって追いつけますよ?!」

「さっすがミラクル・ラップハンター☆あたし応援しちゃう♪一ちゃんってゴールド(金メダル)獲ったことあったかしら」

「無いです。最高がブロンズ(銅)ですよ確か」

「え!じゃ、もっと応援しなきゃじゃん!一ちゃん、頑張れ!行け、ニューカマー!!」

 大久保の耳には、既に鎌足らの声は届いていなかった。

 赤と黒を基調にしたスーツが白いゲレンデを派手に滑り降りていく。

 忙しく動く下半身に目を奪われがちだが、見つめていると、ターンに入ると同時に腕が大きく広がり、両腕の距離が狭まっていくにつれて上半身がつんのめるだけでなく、メトロノームのように規則正しく揺れるのが分かる。

 スキーはRossignol(ロシニョール)。漆黒の髪と黄金の瞳をもつ彼に相応しい王者のためのマテリアルだ。

 スプレーに隠れては現れる、逞しいのに細い体躯。

 日本人が得意のはずのスラロームを最も苦手とする異質の選手。得意はGSとSuper-G。

 あの瞳の強さは人種というよりも彼自身の質によるものだ、と彼の滑りをみたものは皆実感するというパワーとスピードがある。ここしばらく日本勢がアルペンで上位に上っていなかったところへ、JPN(Japan)が入賞者のなか、H.SAITOの名とともに乗り出るようになってきた。

 だが、日本のナショナルチームでもない。他の国のナショナルチームでもない。

 彼はDankのアスリート。

 大久保が緋村のために始めた事業に、緋村が引っ張り込んできた少年。当初、緋村にまとわりつかれて嫌がっていたが、各地を転戦するうちに増えてきた仲間とともに笑っている姿が見られるようになった。

 やがて大久保を想い、大久保と恋人同士になり、言葉を交わし肌を交え、

 少年は大人になった。

 もう、誰が見ても立派だと歓声を上げるくらいに。

「いいタイムだわ!このまま行けばトップ狙えるっ」

「うわぁ、何てムボーな突っ込み。見てる方が怖いですよ~」

「いいのよっ、行っちゃえっ☆」

 ターンで沈んだ体をストレートゾーンで立て直す。舞い上がるスプレーの途切れない流れが、彼が風であることを証明している。

「……」

 大久保はゴールゾーンの近くにいて、彼が降りてくるのだけをじっとみつめていた。手に汗握っているのは、大久保だけではなかった。

『風になりたい』

 お前は既に風じゃないか。観客に息もつかせぬ程、誰よりも速い風じゃないか。

 だからそのままで降りて来い。ここに、降りて来い。

 お前が進んでくるというのなら、俺はお前を受け止められるだけの男になろう。

 受け止めて、お前の速さについていけるだけの男に。