itsuka kiseki no Honey-bean


 その日久しぶりに山県が密偵宅を訪ねると、見知らぬ女がまかないの老女と密偵宅の割に広い庭先で談話しているのが目に入った。

「おや、陸軍卿、本日も御出座しで御座いますか」

「厭味は良い。上がらせて貰うぞ」

「どうぞ藤田様の御邪魔はなさいませんように」

「分かっておる」

 山県は、老女の戒めをさも忌まわしいというふうな表情をして受け流し、勝って知ったる斎藤の家の上がり框に足をかけた。普段よりも床板が輝いて見えるのは気のせいだろうかなど考えながら。

 そうでもしなければ逸る心を抑えることなどできなかっただろう。斎藤に逢うのは、実に数ヶ月ぶりのことだったのだ。

 互いに仕事に忙殺する日々―――――そんななかで常に脳裏に描くのは、既に亡き人といま在るひと。似ているどころか全く異なる人種になぜここまで惹かれるのか分かるのなら教えて欲しいと呟きながらも、山県は心に棲み付いた男の貌を思い浮かべていた。時を経るほど思いは募るものでここ数日は完全にその数はひとつ、ひとりになっていたのだ。

 斎藤、斎藤、斎藤…!!

 自分が自分であることのまえに、彼ひとりが大切と思う自分がここにいる。それを、こうして階段を上るたび階段が軋むたびに思い知らされる。山県が不幸なのは、そこまで思いを積み上げても斎藤には届いていないということであったが、そんなことすら山県は構わなくなっていた。肌を合わせられる幸せに脳の髄まで満たされているから。

 戸の前に立つと、障子が西日を浴びて薄紅に透けている。この奥に、斎藤がいると思うと、無意識のうちに太い喉を鳴らしてしまう山県であった。

「…斎藤」

 一応、声をかける。返事がないなら昼寝の最中かもしれない。斎藤がこういうことで細かい神経をしているわけでないことを山県は十二分に分かっているが、どうも彼を相手にするとあらゆることが気にかかって仕方がない。

 などと思いながら山県は、日中でもいやに艶を帯びた声を想像していたが、彼の耳に届いたのはまだ生まれたばかりであろうことが察知できる、幼い声だったのだ。

 しかも望む相手から喰らったのは、折角逢いに来た人間に対するものにしては余りにも痛烈な一言だった。

「入るな」

「…しかし!」

「お前は来るな」

「今日は漸くとった非番なんだ。少しぐらい…」

「帰れ」

「赤ん坊の世話ぐらい、俺にもできるっ」

「………」

 よし、黙った。やや鼻息を荒くして、山県は障子に手を掛けた。

「…?」

 が、その頑丈な指のうえに気配もなく重なってきた白い手の甲が、彼を押し止めた。

 山県が我に返ってぎろりと大きな両目を剥いてその手の続くほうを睨むと、先ほど庭で老女といた女が切れ長の、それでいて大きな瞳でしっかり山県を見据えて佇んでいた。

「なにか用かね」

 尋ねると、

「陸軍の大将様が御無体なことをなさるべきではありません」

 とまるで我が子を諌めるような口調で諭してきたのである。

 山県はむっとして自分よりは若いその女を食い入るようにみつめた。

「ここは婦女子が来る場所ではないはずだが?」

「…大将様こそ、御出で遊ばすには遠い御身分と存じますが」

 女は穏やかに微笑を湛えながらも、一歩も引かぬ勢いで山県に迫ってくる。落ち着いて見れば女はかなりの美人でありこんな状況でなければ押し倒してやったかもしれないほどの色香を漂わせている。果たしてどうしたものかと山県が思いあぐねようとした瞬間、障子の向こうで斎藤の笑い声がしているのに気がついた。彼にしては珍しく澄んだ声だったから、山県の怒りも収まりをみていく。

「大将も、お前の口には敵わねぇとよ」

 笑いながらこちらに近づいてきて、斎藤は障子を開けた。瞬間、さっと女の手が山県から退いて行く。が、山県は久方ぶりに目にする思い人の貌にくぎ付けになってしまい、女の手がどうしたなど視界の隅にも捕らえていなかった。

 からり、と開けた視界は明るく、つい小半時前まで降り続いていた雨の水気を含んで清らかに冴えている。新しい畳の香りがそれに混じって、混迷する国内情勢を忘れてしまいそうな空間になっていた。

 その和室の真中に――――――…

「あう、」

 と小さな声を上げながら産着に包(くる)まれた両腕を懸命に動かす赤ん坊が、赤子用の布団の上で横になっている。

「…ほう…」

 斎藤がなにも言わないのをいいことに、山県は和室に入っていき、その子を抱き上げようと身を屈めて両腕を伸ばした。ふわ…と持ち上がった体は柔らかく甘い匂いがして、いかにも、であった。

「どれ…」

 至って優しくしたつもりだったが山県の不幸は続くらしい、

「ぎゃぁ~ん」

 と、抱き上げた途端に泣き出されてしまった。それも両手両足をばたつかせるから、かなり本気で嫌がっているのが素人目にも分かる。それを横目で見て密かに笑っている斎藤の姿が更に山県の神経を逆撫でた。

「…ほら寄越せ」

 斎藤が笑いを忍ばせながらも助けを向けてくれたので、山県は腕のなかを明け渡したが、山県の手から離れてすぐ泣き声がぴたりと止んだのがいやらしいと思った。

 無垢なはずの子供に対して抱く感情にしては、少々可笑しかったが。

「よしよし。怖かったか」

「うう~」

「もう怖くないだろ」

「あ~☆」

 …なんだか斎藤は、自分にあてつけるように「怖い」を連発しているような気がする。それになんだ、その子の反応は。

 山県はいらついたが、それを体で表現すればまた泣かれるかもしれないと思い、なんとか踏みとどまった。

 しかし更に山県は不幸だった。

「だんなさま、湯船が整いましたが」

 口調から、どうやら女は老女とともにこの家に勤める手伝いだな、と山県は思った。

「そうか。こいつ来たから、お前先に入ったらどうだ」

 と、斎藤が答えるまでは。

「…何?」

 山県は、窓辺に立って子をあやす斎藤と、部屋と廊下を仕切る障子の位置から僅かに部屋に入る姿勢でいる女を、室内の真中に立ち尽くしたまま交互にみた。

 …普通、まかないの女が出来上がったばかりの風呂にその家の主人より早く入ることはしないし、でなくとも入りはしないだろう。

『だんなさま』

 ―――――と、いうことは。

「…斎藤。彼女はお前の…」

 次第に顔が蒼褪める山県であった。

 藤田時尾といえば、旧会津藩大目付の娘で負け行く会津藩士にとって伝説と言われた斎藤と並んで、仰ぐべき最大の存在だったのだ。無論今もである。その時尾に斎藤との逢瀬を見られたとあっては、たとえ官職にある身分と云えども山県の将来は夢見るまでもなく墜ちてゆく。ゴシップは政治家にとって最大の敵であるということを、山県は彼の人生のなかで痛いほど理解していた。

「阿呆」

「…え」

 みると、夕陽を背中に受けながら、斎藤は呆れ顔で山県をみている。

「一体どこの誰が、自分の妻に密偵やってる家に案内するか」

「あ…」

 少し思考すれば分かるだろう事に気づかないでいたことを、山県は恥じた。尤も、それは斎藤を想えばこそのことであったが斎藤はそんなこと思いもつかないようだった。

「第一、俺が時尾には何も言ってないのはあんただって承知だろうが」

「…そうだった」

 斎藤は妻の立場を考えて、政府密偵を請け負っていることを彼女にちらとも仄めかさないでいるらしいことは、山県も聞いていた。年中飛び回り、落ち着いて自宅(本宅)で過ごす暇(いとま)もなく働く関係で、斎藤が人間的に甘い存在であれば妻には特別に自分の正体を明かしたかもしれない。が、斎藤は妻にも甘えはしないようだった。

「お前の阿呆ぶりも久々だな。…ともかく、やそ、お前先に入って来い。俺たちは勝手にやってるから」

「そうですか? では御先にいただきます」

 深深と礼をし、女は障子を閉めて部屋を出ていった。

「突っ立ってないで座れ」

 斎藤は勧めたが、

「…やそ?」

 彼と彼女の関係を知るまでは、落ち着きようがなかった。その山県の様子を覚った斎藤は、ふぅと溜め息を吐くと円卓の上に置いてあった灰皿を向こう、山県の方にどけて子を抱いたまま座る。自然、山県も卓を挟んで真向かいに腰を下ろした。

「あいつは、俺が斗南にいた頃妻にした女だが、俺が上京するときに離縁して五戸(ごのへ)に置いてきた」

「…どうして別れたんだ」

 いまさっき二人に交わされた会話から想像しても、不仲からは程遠い気がした山県だった。黒い瞳でじぃっと斎藤をみると、彼はやや俯き加減で睫毛を伏せながら意外なことを言ってきた。

「俺が、明治政府に囲われたからな」

「…! しかしお前は、」

「大声出すな」

「…すまん」

 折角落ち着いたのにまた泣かせたいのか。そう言われて、山県はその濃い容貌に更なる陰鬱を加えたが、どうもその暗さが場に合わない。赤ん坊の所為だろうかと考える間もないまま穏やかなときが過ぎてゆくのは、大久保が死んでから或いは初めて感じる空間かもしれないと山県は思い始めていた。なによりも、斎藤の表情が明るいから。

「……」

 それは不思議な情景だったのだ。思えば、今日最初にこの部屋に脚を踏み入れてから、普段感じる山県に対するささくれ立った感じがいまひとつ欠けていた気がしてならない。

 そうして斎藤のこの穏やかな貌はなんだろう? そういえばさっき笑っていた。俺が子供に泣かれたのにも、笑って応えられた。以前はそんなこと出来なかったのに。…悲しみに塗れて、彼自身の為にすら微笑めなかったのに。

 山県がここを尋ねなくなって四ヶ月経った。四ヶ月しか経たない。なのに、この変わりようはなんだ?

 山県は舐めるように斎藤を観察した。

 赤子の髪の毛をそぅっと撫でながら斎藤が言うには、明治政府に初めて接触を持ちかけられたのは明治になって四年目を数えたときで、しかしそのときは状況が状況だったから正式採用は断り、全国各地の不平分子に混ざってその様子を探る秘密職について寝食を得ていたとのことだった。

「情報提供もその正確さも俺ひとりの判断で行う、という前提でな。俺は殆ど会津に組していたから、会津に不利になる状況は作りたくなかった」

「…成る程」

「最初の頃あいつ…やそも俺に着いて来たが、両親と離すのは気の毒だったから置いて、俺一人で斗南を出てきたというわけだ」

「で、東京に身を落ち着けてから正式採用されたのか」

「そうだ」

 それからはお前の知っているとおりだ。そう言った瞬間だけ、斎藤の表情が曇ったように山県には見えた。卓を挟んで向かい合う二人の横顔を、眩しいほどに明るい夕陽が染めて彼らの肌に濃い影を刻んでいる。斎藤が右腕をやや高い位置に上げて、赤ん坊の顔に光が当たり過ぎないようにした頃には、斎藤はもとの顔に戻っていた。

「だからあいつに会うとは思っていなかったさ」

「どうして会ったんだ」

「……あいつ、政府の諜報員になっていたんだ」

「!」

「職を得るため、とかなんとか言ってはいたが、どうだかな」

「…そんな信用ならぬ人間を、まして女を、お前はここに入れたのか?」

 山県にすれば信じられないことである。たとえかつての妻であっても、素性の怪しい者を政府の息のかかったテリトリーに入れてはならない。

 言うと斎藤は、夕陽を浴びている所為で一層赤くなった唇を歪ませてこちらをみてきた。

「言葉に気をつけるんだな。俺だって元・諜報員だぜ?」

「…っ」

「それに年でもう勤まらねぇから、ここに身を寄せてきたんだ。こいつもいることだし、あいつがいればなにかと助かる。生活費なんかは誰かさんの経費で落とせばいいさ。…なぁ? 陸軍大将様よ」

 言い終えた斎藤はクク、と笑うと、再び瞳を赤ん坊へと向けた。注がれる視線は自分に対するものとは明らかに違っていることを見せ付けられた気がして、山県はひとりごちた。

「俺は格好の金づるというわけか」

「今ごろ分かったか」

 最愛の――――はずである、少なくとも山県のなかでは――――恋人は、この阿呆、と付け加えるのを忘れなかった。

「…ふん」

 と拗ねて煙草を吸いたいが、斎藤の腕のなかの存在があるのでそれは止める。今日は最悪の非番だ…この仇は今夜じゅうに取らねば気が済まない。

 ちらり…山県の視線が斎藤の肌を舐める。が山県の眩(くら)いそれに気づいた斎藤が切れ長の双眼から琥珀の瞳を上げ、互いの視線が絡み合うか、というところで階下から老女が斎藤を呼ぶ声がした。

「そっか、飯」

 言って斎藤は畳から長い脚を伸ばして立ち上がる。

「どうやらお前の分も出るらしい。感謝しろよ」

 当然だ、夕飯にありついて目でも思う存分愉しもうと思っていたのだから、と言いかけて山県はひょい、と目の前に出された赤子の重さにやや慌てた。

「持ってくるからそいつあやしてろ」

 斎藤は障子を開けて階段を降りている。

「おい、」

 と言おうとした山県の腕の中で

「ぎゃぁ~ん」

 夕陽の中で、再び子供が泣き出した。



 斎藤と子供が風呂に入っている間、女が部屋に来て山県の分も布団を敷いた。山県の不審気な視線を浴びながら全く動じず、飄々と仕事をこなす様子から考えて、やはりこの女がかつて諜報員だったのは本当かもしれない、と山県は思っていた。

 既に窓の外は黒く、所々に街の明かりが灯って狭い路地を照らしている。風が少し出てきたが、ちょうど良い湿度の所為で寒さは感じられなかった。

 女が階下から持ってきたランプにどこかから入りこんだのだろう、小さな蛾が一匹戯れている。この家の裏庭には小さめではあったが竹薮があり、夏には様々の虫が部屋に入ってくるのだが、いまは遅い春とあって蛾などが迷い込むだけだった。

「大将様」

 突然、女が話し掛けて来たのに、多少ぼんやりしていた山県は反応が若干遅れたようだ。

「…なにかね」

 山県は卓の上に出されて幾分時間が経った所為で温くなった茶を飲むことで、慌てた様子を隠したつもりである。実は山県は、きびきびと、それでいて妙に色気のある女の仕草を視界の隅で観察していたのだ。この女、どうも斎藤に似ている、などと思いながら。

「わたくしのこと、大層お疑いの御様子と伺いましたが」

 女は振返って、真っ直ぐに山県をみつめてくる。

 整った顔立ち。背中で緩く編んだ髪は漆黒で艶があり、薄紫地の着物に良く似合う。帯に締められた腰が相当に細くて、…やはり斎藤に似ていると思う。

「…さ、藤田が言っていたのか」

「斎藤で通じますわ」

 ふわり、と微笑んだ女は整理していた箪笥からおそらく赤子のものであろう、まだ新しい小さな浴衣を取り出した。白地に藍で染め付けられた毬の文様が美しい。

 女はこちらを向いて、浴衣を折った膝に置き、その毬を細長い指で辿っている。

 山県は彼女のいじらしい様子にやや立腹して、半ば彼女を責めるような口調で話しはじめた。

「君は諜報員だったそうじゃないか。知ってのとおり私は政府の者で、関係者とはあらゆる意味で繋がっているといっても過言ではない。だから君のように身元の不確かな人間などどうにでもできるのだ」

「諜報員だったことは確かですが、こうして斎藤の家を守る身分も確かですのよ」

 “斎藤”。

 …そう呼べるのは、いまは俺だけだ…

 かつて肌を合わせた思い人の彫りの深い容貌を思い浮かべながら、山県はまるで己に誓うかのように一度軽く目を瞑り、次の瞬間に黒曜石の瞳をかっと見開いて女を見据えた。

「それに、“あれ”はいま俺が握っている。君の出番はない」

「……」

 山県の台詞に、女は切れ長の横目で山県を見てきた。そんなところも、似ているのだ。

「…かつての妻が、それほどまでに御気に障りますか」

 紅い唇が上下するのを、山県は見ていた。

 負けるわけにはいかなかった。

「“あれ”が許しているのは、私だけだからな」

 名を呼ぶこと。部屋に上がること。薄い着物を寛(くつろ)げること。

 組織にいれば、その裏も掴める。山県は何度か斎藤の周辺を洗ったが、自分の妨げとなる存在が出てくることはなかった。

 この女に会うまでは。

「……」

 この女は同類なのだ。斎藤の裏を知る人間として山県と同類で、斎藤に寄り添っているために自然と斎藤に似ており、また“似る”という動作についても極めるプロなのだ。

 斎藤があのひとに、似ていったように。

「……」

 山県は暗い視線で女をみつめた。

 女も見返しを止めない。だけでなく、静かに追い討ちをかけてきた。

「わたくしを探してきたのは、あのひとだったと言っても?」

「…!」

「今年の初めでしたわ」

 さらりと言う。言いながら、“やそ”なる女は膝の上の浴衣を畳に広げ、その皺を丁寧に伸ばし、もう一度たたみ始めた。

「もう年だから無理だと…田舎で静かに暮らしたいと返事を返しましたのにあのひとったら、年ならば気候の暖かいところのほうがいいだろうと。しつこいひとではなかったので何かあったに違いないと踏んで上京しました」

 たたんだ浴衣を籐で編まれた籠に入れ、部屋の西角にある違い棚の上の花瓶生けてある、僅か二つの花を咲かせた桜の枝をそこから取り出して浴衣の上にそっと置き、さも愛おしげに眺めた。

「…こちらに着いたとき、正直言ってやはり来ないほうが良かったと後悔しました。別れたとはいえ、かつて夫だったひとに尋常の気持ちで会えるわけはございませんもの。あのひとには本妻様がおられますし、わたくしなど…」

「……」

 そういえば斎藤には既に息子がいる。あいつも一介の父親だったのかと、山県は改めて感じ入った。大久保も子供には恵まれていたから、どうも自分の恋う男には家族が付きまとうらしい。山県は己を、鼻で軽く笑った。

 そんな山県の様子など気にも留めずに女は――――いや、不幸は畳み掛けるものである。

「でもあの子の顔をみた瞬間、決心しましたの。形だけでも、あの子の母親になろうと」

「…?」

 ―――――ちょっと待て。

「いま、なんと言った」

「ははおやになろうと」

「…あの子は警察に届けられた捨て子か何かなのか?」

 二人の様子から、山県は赤子は斎藤と女との間に生まれた子だと思っていた。

「捨て子なんて酷い。あの子はれっきとした、斎藤の産んだ子ですわ」

「…そうか……」

 あいつが産んだのか―――――ん?

 山県は、飲んでいた茶を喉に詰まらせてしまった。そして震えた腕で円卓に湯のみを置き、開口一番に叫んでいた。

「男のあいつに産めるわけがないだろう!!!」

 そのとき、がらりと障子が開いた。

「あら、お帰りなさいませ」

「遅くなった…ていうか、山県煩い」

 斎藤は相変わらず、きつかった。

「追い出すぞ」

「…斎藤っ」

 斎藤はすたすたとシャボンの香りを漂わせながら山県の横を通り過ぎ、赤子をそっと布団に横たえると、自分の肩にかけていた布で子の首や脇の汗を拭くのだった。

「大将様はやっぱり信じてくださいませんでしたわ」

「なにが」

「トシ君が貴方の産んだ赤ちゃんだと言いましても」

「ほう…」

 斎藤は斜め視線で顔をみた。湯上りで紅潮のまだ引かない斎藤の貌と対照的に、山県は蒼褪めていった。彼には斎藤のそういう視線――――普段ならそれを“誘い”として受け取るのだが――――を受け止める余裕などなくなっていたのだ。

 いま、自分が最高に不幸だということを身に染みて感じているところだったから。

「トシ君……?」

 …嫌な予感が、山県の脳裏に点滅した。

「信じられんのなら、自分の目で確かめればいいだろ」

 と、斎藤は冷たく言い放った。呼ばれた山県はおずおずと座っていた位置から膝立ちし、赤子に向かって畳の上を移動した。

 泣かせないように、そっと覗き込んでみる。

 日本人にしては白い肌。先ほどは大泣きされて目を瞑られた為に見えなかったが、埋め込まれたような双眼の、右目は薄い灰色で左は金のオッドアイ。それに瞼に焼き付けたはずの珍しい鳶色が目の前にあって、子の額にへばりついている。手足は妙に長かった。

「似てるだろ、あいつに」

「取り上げたのはわたくしですのよ」

「俺も腹が膨れてきたときは腫れ物かなにかと思って焦ったが、出てきてすっきりしたと思ったらこいつだった」

「名前は利一くんと言いますの。将来が楽しみですわね」

「残念ながらお前には懐かねぇぜ、絶対」

「人見知りにはまだ早い月ですし、誰に対しても愛想の良い御子なのに、大将様が来られるという連絡が入ったときから御機嫌斜めでしたもの」

「いつも良い子なのになぁ」

「静かにおねんねしてくれますかしら?」

「どうだかな」

「わたくし、今夜は起きていましょうか」

「ああ、頼む」

「夕方に加奈さんも仰ってましたわ。今夜は眠れそうにないって」

 女の台詞に、斎藤は肩を揺らして笑い始めた。

 一応下の部屋にもお布団お敷しましたから、と女に言われたことにも気づかず、山県は沈んでいくしかなかった。

 あのひとが救世主だったとしたら、斎藤はマグダラのマリアだろうか。そんな途方もないことを考えることでしか、自分を取り戻せそうにない山県であった。

 見るからに落ち込んだ山県の様子をみて、女が声をかけてくる。明らかに勝利者な彼ではなかった。

「まぁいいじゃありませんか、このひとが一番に喜んでいるのですから。それとも大将様の戸籍にお入れになって、御自分の御子として育てられますか?」

「………」

 あなたはどこまでも私を苦しめるおつもりのようだ。

 冥界へ去った恋人の薄笑いがすぐそこにありそうで、込み上げる懐かしさとともに悔しさを覚えた山県は深いため息をついた。

 斎藤は斎藤で、おねむになった利一の小さな掌に自分の小指を触らせて、きゅっと掴み返してくる反応を満足そうにみつめている。

 いまはまだ、山県がこの現実を受け入れるのに相当の勇気が必要だった。

 或いはそれをこそ、喜びというのかもしれないけれど。





 沢山の優しい幸せを、この小さな体に埋め込むと誓うよ

 貴方が残した最高の奇跡に、果てない愛と、祈りを込めて。