Everday Midnight Heart



updated on 29th Sep.2005 for St.Michael festival



 気がつけば、世界はふたりのためにあるという陶酔が俺達を包み込み、差し出された掌を取ってこのままどこまでも進んでいきたくてたまらなくなる。

 窓から射し込む西日眩しい東京の夕暮れ―――――――



 tururururu...

「はい、救急外来です」

 午後6時。都内のほぼ中央にある私立病院の救急外来のコールが鳴った。これから患者が搬送されるという連絡である。

「55歳の男性ですね?胸が苦しい?はい、はい…」

 看護師らが集まってきた。救急救命士の報告によると、患者は20分まえから前胸部の苦悶感と疼痛を訴えているという。同居人が様子に気づいて慌てふためき、兎に角119番したのだそうだ。

 電話応答している看護婦のとなりで、別の看護婦が患者の情報から該当患者を割り出した。

「じゃ、循内(じゅんない)と心外(しんげ)ね。先生呼びます~」

「はーい、お願いしますっ」

 看護師らはそれぞれの分担についた。パタパタとナースシューズの音が軽やかに響く。

 1分後。

「うーす」

「あ、先生お願いしまーす」

「(げっ、斎藤先生じゃん)」

「(なんで?!なんかマズイの?)」

「(うう~ん)」

 そこに救急車が着いた音がした。救急入り口が開いてストレッチャーが入ってくる。

「お願いしますー柏崎さんです」

「はーい、こちらです。頭からお願いします」

 救命士は看護師の指示どおり、患者の頭を先端にしてストレッチャーを部屋に入れる。それぞれがストレッチャーの周りに集まり、患者を「よいしょ」と診察台に移す。続いて、技師がポータブルで患者の仰臥位胸部X線写真を撮り、看護師が患者の服をすべて脱がせた。

「循内、来ねえの?」

 斎藤が看護師に尋ねながら、酸素の準備をする。患者の表情は不安げである。主治医である(はずの)循環器内科の医者がまだ救急に来ていないのだ。ちなみに、本日救急当直の高荷恵医師は喘息発作で来院した小児の診察をし始めたばかりで、手が離せないでいる。

「あ~…さっき、ちょうど5時に患者さんが搬送されてきて、いまも検査中…かな?結構Severeで」

「ふーん…ま、俺がやるからいいけどさ。えーと、柏崎さん?これ酸素。ゆっくり、普通に息してて下さい。足とか動かさないで。気分はまだ悪い?苦しい?だよなーそうだよな」

 と、そこにカラカラとポータブルが移動してきて、装置を運ぶ長身にどこか見覚えがあると思いながら全員がちらりと視線を送ると、そこに大久保がいた。

「(大久保先生!!)」

 一同、息を飲んだ。

「………」

 周囲の視線をものともせず、大久保は素早く患者の胸壁に端子を着け始めた。隣で看護師があたふたと患者の両手首・足首を電極で挟む。ピコっと音がして、心電図の記録が始まった。

 しばらくすると記録紙に記録された心電図がポータブルから出てきたので、大久保はそれに一通り眼を通すと適当なところで千切って、わらわらと集まってきた他の医者らに渡した。同時に先ほど撮影された胸部X線写真が出来上がってきてシャウカステンを点けて写真を挟む。シャウカステンの灯りを見て、写真の前にたむろする同僚等に聴診を終えた斎藤が聞いてきた。

「写真できたか?」

「はい、心陰影異常ないです。ECGは~ん~~~~~LCXかなぁ」

「かもな。入院カルテとかねぇの?」

 斎藤が尋ねると、

「…新患だよ」

 という低い声がした。声の主は無論大久保である。

「ん、じゃ、心カテ準備」

「は、はい…」

 対応した看護師は、声を震わせながら受話器を取って心臓カテーテル室に検査準備を依頼した。表面上、斎藤と大久保を除いたスタッフも一応冷静に対処しているが、実のところ全員極度に緊張している。対照的に普段どおりに平然としていられる斎藤の様子が、そこだけ浮いてみえた。

 大久保は循環器内科の教授なのだ。それも、若い時分から繰り返しScience誌etc.に論文が掲載され世界にその名を知らしめ、いまもなお日本の循環器医といえば彼を数えずにはいられまい。その彼が喜々として救急外来で心電図を取っている姿は、世界中を探してもきっとこの病院でしか拝めないだろう。

「(来週学会の準備だとかで、お忙しいはずなんだけど…)」

「(ほかの日にここに現れることなんて絶対ないのに…)」

「(ていうか、コレが本物っていうかぁ)」

「(写真撮っていいですか?みたいな)」

 病院内に大久保先生ファンクラブがあるのは、あながち嘘ではないらしい。というか救急医の高荷を始め、アダルト好みの女医、看護婦、更には密かに院長も入会している。尤もそれは斎藤についても言える事で、彼は研修医の頃から熱い視線を浴びていた。外来で診察をすればするだけ、毎年バレンタインデーに研究室あてに届くチョコレートが増えていく。退院したくない、あの声と視線をいつまでも浴びていたい、そしたら私の心臓は頑張れる、などと言う患者まで出てきて、それは心臓外科医局の悩みの種だったりする。それは兎も角。

 病院内の人気を二分する二人が接近した位置で一人の患者に接している様子は、妙に不思議な感じがした。まったく印象の異なる者同士なのに、そこだけ空間が切り取られたかのようで。

 …なんと表現したらいいのか。

 大久保と斎藤以外の全員が互いに視線を交したと同時に、患者のインフォームドコンセントを取った斎藤が指示して患者を隣の心臓カテーテル検査室に向かわせた。大久保はシャウカステンにかけてあったX線写真とECGをもって斎藤のあとをひょこひょこ着いていく。その後姿からも、普段無表情に近い大久保がいまは心底楽しんでいることが覗われてしまう。

「(大久保先生、まさか御自分も手術に入るなんて仰らないですよね)」

「(さぁ~今日こそ入るかもな)」

「(いや、入らないに葵屋のうな重1杯!あのひと、斎藤先生がなにかするのを見るのが好きなんだよ。今日たぶん緊急Opeだろ?絶対観察だって)」

「(観察して何が楽しいんだろう?)」

「(日記でもつけてるんじゃないですか?)」

 言いたい放題とはこのことである。

 皆が、日記じゃない診察だ、そうかカルテを書いているんだ!、診断名は何ですか?、日本狼に決まりでしょう、などとこそこそ喋っているうちに、ふたりは患者を乗せたストレッチャーをカテ室に入れ、患者をさっさと術台に上げていた。

「お願いしまーす」

「はーい」

 看護師と放射線技師の声がカテ室を往復する。しばらくしないうちに、斎藤の助手をするためにカテ室に入った医師と入れ替わりに大久保がカテ室から出てきた。途端に、カテ室の外でモニターを見ていた一同が緊張したが、構わず大久保は、一同が大久保のためにひとりも座らずにいたソファに腰を下ろした。

 脚を組む。乱れのないその姿は完璧すぎて、普通の人間にはとても近寄れない。空気までも大久保に合せて凍り付いてしまいそうなのに、どちらかというと体育会系の斎藤がどうして寄り添っていられるのかと、この場にいる全員が疑問に思っていた。

 しかし当のふたりはそこが病棟内だろうが外だろうが構わずに極自然に寄り添うのだ。斎藤は教授である大久保に対し最初からタメ口だし、大久保はと言えばもしかしたら他の誰よりも斎藤と親しくしているのかもしれない。そしてそれは決して贔屓とかそういう次元の話ではないのだ。

 …十中八九、彼らの親しさは極めてプライベートなものなのだろう。噂では斎藤が学生の時分からの関係だというのだ。ただし、そのことを誰一人として本人に尋ねるつもりはない。尋ねなくてもわかるから。

「(世界が完結してるんですよね)」

「(俺もそう思う)」

「(大久保先生って独身じゃないですか、モテるのに。それってやっぱ斎藤先生とマリッジするためとか)」

「(だろー?俺らなんていつ斎藤先生が薬指にエンゲージリングはめてくるか学生混ぜてトトカルチョしてるぜ?で、はずれたら即、入局。心外は将来明るいな~)」

「(うわー)」

 放射線技師と、狭いカテ室に入れずあぶれてきた心臓外科医とがひそひそ話しているうちに、カテ室のなかの斎藤は術衣を纏い、手袋をはめていた。

「お願いします」

「お願いしまーす」

 検査が始まる。ガイドワイヤーが患者の血管を進み、するすると大動脈-冠動脈分岐部に至った。斎藤の声かけに応じて放射線技師がX線を照射して、冠動脈造影が始まった。やがてカテ室とカテ室の外でシネフィルムをみる連中は、患者のRCAに90%狭窄部位を発見し、続いてそこにPTCAを行う方針を固めた。

 その頃、隣のカテ室から午後5時に緊急搬送された患者の、同じくPTCAを行っていた循環器内科医らがどやどやと出てきて、ソファに座る大久保に挨拶した。

「大久保先生」

「…御苦労。こちらも順調だよ」

「ああ、斎藤先生でしたか。いやぁ申し訳ない」

「?」

「ここ数日ほとんど休んでいないと思いますよ。西崎先生のお孫さんで昨日未明にBirthした患者が、TAPVR infracardiac typeでして緊急Opeだったそうです。T大の事件がありましたでしょう?だからこちらへの転院患者が多くて、Opeも多い。聞いているだけでも今週の心外は悲惨です」

「そうか。平野君(心臓外科教授)は学会で出張しているのだったな」

 心外チームは平野という、大久保よりも若い40代の教授を筆頭にした非常に若いチームである。医師数も多く、充実しているのだが、都内の某病院で心臓外科関連の事件が起こり、そこに入院していた患者がこちらの病院に転院を希望し、まさか拒否するわけにもいかず、出来る限り患者を受け入れたのだった。

『戻ってきてからは僕がやるから、いま少し辛抱していてください』

 にっこり笑った平野は、お土産買ってきますと言い残してタクシーに乗ったそうだ。

「平野君らしい」

 平野は、一見すると文科系なのではないかと思わせるほど外科臭さのない男であり、大久保の長年の友人でもある。無論、教授の権力を荒使いすることもなく、若い人材を育成することがOpeの次に大切であるというのが持論の、根の明るい、良く言うところの好かれやすい人間だ。それでいて優秀で「日本で心外といえば平野」で通っている。だから噂を聞きつけた患者やその家族が、競って平野のもとに訪れるため心臓外科は大忙しなのだ。そして海外誌に掲載される論文は質数ともに大久保の教室に匹敵するのである。国際心臓外科学会の会長席に座る日もそう遠くないのかもしれない。

 そんな平野のもとで生き生きと仕事をしている斎藤をみつめるのが、大久保は好きだった。学生だったころの荒削りな印象をいまも残したまま、しかし、斎藤が次第に“より”彼らしくなっていくのは、若木が枝葉を伸ばして太陽を目指すのに似ている。大久保の視線の先で、斎藤は落ち着いて操作を続けている。

 果たして彼には自分の視線が伝わっているだろうかと思ったとき、狭窄していた冠動脈がふわりと開いて、PTCAは無事終了した。同時に大久保がカテ室に入って、患者の様子をみた。なにやら簡単な説明をしているらしい。見たところ患者に著変はなさそうで、バイタルも落ち着いている。

 それを確認して斎藤は術衣を脱いだ。ほかの医師が斎藤のあとを引き継いで、患者をストレッチャーに移してカテ室を出て行く。そのあとを追う大久保が、追いついた斎藤にカルテを渡して、そのまま廊下に消えた。

「お疲れさまでしたー」

「お疲れさまでした~あっ、だからヤバイじゃん!」

「なにが?」

「知らないんですかぁ?斎藤先生が当直のときは、大久保先生も当直室にいらっしゃるんですよぅ」

「うわ~ラブラブですね~♥」

「笑いごとじゃないですよ先生!患者さんが来て電話してもポケベルしても、繋がらないんです!!だから患者さんには来て欲しくないんですけどっ、そういうときに限って搬送が多かったりするんですよぉ」

「大久保先生がコード抜いてるんだろ多分。ポケベルは電源を切ってさ」

「あ、あたし見たことあります。大久保先生がナースステーションから「面会謝絶」のプレートを持ち出して、当直室の扉に掛けてるとこ」

「そういや斎藤先生が当直のときって、両隣の当直室は使用禁止になってたな」

「そうそう!とくにバスルームが賑やか♥で他の先生が眠れないらしくて。だから急遽、別のフロアに当直室を作ったんですよね。院長先生、泣いてた」

「さいて~」

「さいて~」

「さいこ~(笑)」

「ああ、どうか今日は患者さんが来ませんように」

「ムリムリ」

「じゃぁ先生が当直やってくださいよぉ~」

「…そうきたか」

 一同、互いに目を合せると笑った。



「俺、消化器やりたいから」

 国家試験を数ヶ月先に控えた冬の初めに呼び出された斎藤が出入りばなに口にしたのは、これだった。

 心臓をやってみないか―――――――普段、執拗に学生を勧誘する必要のないほど人気の高い大久保の医局には、既に数名に医学生が就職を決めている。大久保に師事して循環器の専門になりたいという気持ちの侭に入局して伸び伸び仕事をしている医者らや、何度もScience誌etc.に論文を掲載させている医局というものをみれば、やはり大久保というひとはただのヤツではないのだろうという感じは抱くのだが、かといって自分の将来を自分以外の人間に完全掌握される斎藤ではなかった。

「または脳外。何度も言ったけど、俺本気で循環器“超”苦手なんだって」

「関係ないさ」

 これが最後だと思って少少きつめに言ったつもりだったが、あっさり交されてしまった。斎藤は溜め息をつくしかない。

 そんな斎藤の様子を、大久保は教授室とひとつ扉で通じる応接室のクラシックなシングルソファに腰を下ろしてさも楽しげに眺めている。その余裕の表情が頑ななはずの決意を容易に溶かしていきそうで、斎藤はいったん目を閉じて、ついでに大久保にくるりと背を向けた。

 視界から大久保が消えて、窓枠からぶらさがるブラインドが映る。斎藤は指でそれをいじった。カシャカシャとその場しのぎの音がふたりしかいない応接室に響く。尤も、その音は大して響くことなく――――斎藤の動揺を大久保に知らしめるだけ知らしめて、ほかに役割を果たさない侭――――エアコンで暖められた空気に消えるだけだった。

「……」

「どうしても嫌か」

 耳のすぐ傍で囁かれているような音に欠けた、やや掠れた低い声が、斎藤の背中を襲ってくる。

「……」

 斎藤は再び溜め息をついた。

 ずるいと思う。大久保はいつも、どんなときも。

 その貌も声も体もつくりもののように整っているのに、黙っていれば穏やかな印象のそれを自在に、たとえ様も無い凶器に作り変える。教壇に立つときと、こうしてふたりでいるときとは明らかに違った大久保像を作っている。どちらがほんものの彼なのかが読みきれなくて、しかしこちらはいつでもほんとうの自分でいるしか知らなくて、だからいつだって斎藤は大久保に対して腹を立てていた。

 はじめて会ったのは、斎藤が三年に進級する前の春休み。部活をさぼって木陰で昼寝をしていたら、いつのまにか誰かに貌を覗き込まれていた。

 ずいぶん、目の色が薄い。しばしその透明さ加減に驚いて灰色の瞳をみつめていると、西洋人形のように彫りの深い貌の髭がゆっくり動いて、そいつは斎藤に声をかけてきた。

『…おはよう』

『………おはよう…ございます…』

 誰だこのオッサンは。

 そう思いながら訝しげに大久保の貌を眺めても誰なのか検討もつかない。尤も斎藤は漸く基礎医学を終わろうとするところで、つまり臨床医学の関係者は全然知らなかったのだから無理もないのだが。

『……』

 男は斎藤の隣に腰を下ろしていた。ふわふわと容貌に合っているのかそぐわないのか判断できないような柔らかさで男の鳶色の髪の毛が春風に揺れて、なんだか不思議な光景にみえた。…綺麗とでもいうか。

 長い睫…

 がさがさ音がしてなにかが近づいてくるのが分かったが、それでも斎藤は大久保と数秒はみつめあっていた。音はやがてすぐそばまで来て、人間の声になった。

『教授、こちらでしたか。会場はあちらです…あら?一、なにしてるの?』

 声に聞き覚えがあったところで、夢から覚めた気分になった。とりあえず斎藤はおぼろげに返事らしいものをした。

『あ、うん』

 男の髪が揺れて、声の方向を向いた。

『??君達は知り合いなのか?』

『知り合いどころか…弟です』

 木の幹から現れたのは、循環器内科で秘書をしている斎藤の姉のひさだった。去年の秋に、循環器内科医局員(要するに医者)の相馬という男と結婚して、いまは相馬姓を名乗っている。

 ひさはまだ仰向けに寝ている斎藤を起こすと、シャツの背中についた草を払った。

 …姉貴はさっき教授って言ったよな。

 ってことはこのひとがあの大久保教授…

 そう思って斎藤は心底驚いた。噂に疎い斎藤でも、この大学になにやら凄い教授がいて、そのひとが最近ナントカ賞を受賞したことも知っていた。しかもそいつは大層見た目も整っているようで、大学内で一番カッコイイと女学生どもが騒いでいるのだ。

 こいつなんだ。

 思いながら斎藤は、同じく立ち上がった大久保をみた。斎藤よりも背が高い人間はそうそういない。痩せた躯に張り付いた白衣が風に靡いて、それもまた綺麗だと思った。

 大久保は言った。斎藤をみつめて。

『そうか、ひさくんの弟か。そういえば少し似てるよ』

『…はぁ…』

『そんなに暇なら遊びにくるといい。研究室で遊んだっていいし、休み中ならどこかに連れて行ってあげよう』

『…どうも』

 どうして言われたままに電話なんか入れてしまったのだろう。大久保教授はお優しいかただわ、という姉のコメントを鵜呑みにしたのが間違いだった。

 大久保は、研究室の見学をしてみたい、と電話した斎藤にしばらくの間は真面目に研究室の案内をし、研究の話もしていたが、斎藤の空腹の音を耳にするなり斎藤を連れてさっさと大学を出た。

 姉が世話になっている教授の誘いを断るわけにもいかず、そのまま斎藤は大久保の車(外車)に乗せられた。

 車に乗るなり大久保はサングラスを掛けて、どこに行きたい?と助手席に座った斎藤をみて尋ねた。そのときどきりと胸が高鳴って正直、かっこいいと思ってしまった。…それがすべてのはじまりだった。とてもじゃないがその先は言えない。

 そうこうするうちに斎藤は最終学年まで来て、だから進路については真剣に考えたのに。

「…このうえ俺をどうしようっていうんだよ…」

 未来がわからない。折角決めかけた将来への道がみえなくなりそうで、やはり斎藤はここに来るんじゃなかったと後悔した。そしてこんな自分の背中でも大久保を楽しませているのだろう。

 ここまできて斎藤は、心臓をやる、と言わなければこの部屋から出してもらえないのだろうということが分かった。そして再び溜め息をついた。

 そのとき扉がノックされ、「ごめん、いいですか?」と聞き覚えのある穏やかな声がして斎藤が振り返ると、心臓外科教授の平野が立っていた。途端、珍しく大久保がむっとした貌になる。

 平野はにっこり笑ってそれをかわし、「斎藤くんこんにちわ」と言った。

「…ちわ」

「折角斎藤くんがいるのだから、珍しいものをお見せしましょう」

 言って応接室に入るなり、平野は鞄からシネフィルムを取り出した。それをセットして部屋の灯りを消し、応接室の白い壁にフィルムが映し出される。

“T.OOKUBO 45Y.M”

「え……」

 フィルムには壁に二月前撮影された大久保の冠動脈造影(CAG)が記録されていたのだ。しかしシネフィルムが回るに伴って、斎藤は自分の体が冷えて行くのを感じざるを得なくなった。

 大久保の冠動脈は、ほとんどすべてが狭窄していたのだ。

「…なんだ、これ……」

「俺のCAGだよ」

「それは分かるっ…でも…っ…」

 造影された冠動脈は、太い箇所でも正常人のそれの半分しか直径をもたなかった。全体的に動脈が50%以上狭窄しているのだ。つまり、今後加齢や他の疾患に伴って冠動脈の狭窄が更に度合いを増せば狭心症を発症し、酷ければAMI……

「いまのところ原因は不明だ」

「CABGとかあるだろ、なんでしないんだよ!!」

 斎藤が答えると、それはもっともです、と言って平野が続けた。

「ただし最初からこの太さならば既に順応しているでしょうから問題はないのですが、一年前と二年前撮影したCAGは正常だったんです。つまり動脈の狭窄はここ一年以内に急激に起こった。加えて、バイパスしたところで心筋を栄養するすべての血管が細いので、そういったところに急激に血流がわたるとむしろ危険なんです。AVM術後のNPPBと同様のことが起こる可能性があります。こちらは動脈ですが、起こりうる疾患を挙げるときりがない」

「……じゃぁ……」

「そう。移植が一番いいでしょうね。僕も移植されたほうがいいと再三ご忠告申し上げているのですが、斎藤くんも知ってますよね、大久保さんは頑固なんです。折角の心臓なのだから自分ではなく、ほかの患者にまわせと仰る。CABGについてもそうですよ、ほかの患者の手術を優先するようにと。そうですよね大久保さん」

 大久保は再び不快だという表情をつくって脚を組みなおし、平野に言った。

「患者のシネフィルムを正統な理由無く勝手に持ち出してはいけないと指導する立場にあるのは君じゃないか。俺の個人情報の保護はどうでもいいと?」

「いやだなぁ、僕は貴方の主治医ですよ。それに斎藤くん以外のひとには見せたりしません。…さて斎藤くん、僕達はこれからどうしたらいいと思いますか?」

 平野と大久保の視線が斎藤に向けられた。平野の明るい眼差しの隣から、真正面から幾度も網膜を貫いた鋭いそれが今度こそ斎藤の心を引き裂いて、認めたくない斎藤の本心を外界に晒け出してしまいそうで、斎藤はぶるっと震えた。

「……」

 患者は移植を拒否している。ほかの治療法の適用もない。今後いつさらに悪化するか分からない。でも。

 生きていて欲しい。

 これだけはゆずれない。

 いつまでも大久保とともに生きていたい。離れてはいたくない。離れるなんていやだ。

 そうだ……これが本心だ。

 だから。

「……ない」

「うん?」

 呟くように言った斎藤を、平野が誘導した。だから斎藤は今度ははっきりと言った。

「あきらめない」

 空気が震えた。

「…!」

 僅かだったが、大久保が驚いたのがみてとれた。平野は体を揺らし、手を叩いて喜んだ。

「そう!その気持ちがいちばん大事です。さぁて、これで決まりですね。大久保さん、斎藤くんは僕が引き受けますよ」

 平野は喜々としてシネフィルムを片付け、部屋の灯りをつけた。これで決まりです~と浮かれる平野を横目に、大久保は納得行かないと言ってきた。

「横から掻っ攫うなんて君らしくないな…斎藤は俺が貰うはずだったんだぞ。きちんと消化器外科の岡君に許可を貰っていたんだ」

「だって外科医志望なんでしょう?だったら僕のとこじゃないですか。僕は、斎藤くんに心臓外科は合ってると思うけどなぁ。そんな恐い目でみないで下さいよ。岡先生にもそういう貌で睨んだんでしょ」

「失礼だな。書状を書いたのさ」

「あっはっは。それを世間で脅迫と言うんです」

 ひととおり笑うと、平野は「じゃぁ斎藤くん、あとでね」と言って応接室を出て行った。

「……」

 また、ふたりきりになった。

 斎藤はどこをみていいのか分からなかったから立ったままでいたが、大久保はソファに座ったままズボンのポケットから煙草を取り出すと、ライターで火を点し、深く吸い込んだ。途端に静寂が途切れて斎藤の体が動き、大久保の手から煙草が奪われてマーブルの灰皿に押し付けられる。

「煙草はやめろ」

 喫煙は血管に悪影響を及ぼすと講義したのは大久保なのだ。当の本人は灰皿で塵と化してしまった煙草を見、灰色の視線で斎藤をみた。

「……心配してくれるのか?」

「っ」

 顎を引き加減にしてこちらを見上げる大久保の、いつも斎藤にみせつけてやまない余裕の表情が、憎たらしくて斎藤は下唇を噛んだ。強かった所為で血の味がしたが、構わなかった。

「…っ、ずるいよあんた」

 ふたりは向き合っている。みつめあう。

 互いの息が肌に降りかかるような近さで。

「何故?」

 相変わらずの低い声。

「……そうやっていっつも余裕かまして俺を翻弄して、なのに俺には全然あんたってやつを捕ませない。俺にはあんたがちっとも解らない!それに、」

「それに?」

「…なんで黙ってたんだっ…」

 あのシネフィルムは二月前のものだった。しかしここ二月の間の大久保は、それまでと変わることなくヒマさえあれば斎藤を連れ歩いたり、週末を問わず斎藤を家に引き止めたり、した。もし大久保の疾患のことを知っていれば絶対安静にさせていたはずなのだ。それでいて自分の治療をする気はないなんて、ふざけるにもほどがある。

 せめて自分の前でだけは演技なんかして欲しく、なかった。

「心配しないわけないだろっ!!」

 ―――――少なくとも、プライベートな時間を誰よりも身近にいる大久保が、重大なことを打ち明けてくれないのが斎藤には酷く寂しかった。

 自分は大久保の一体何なのだろう。

「本当は、あんた、なに考えてるんだよ…」

 ブラインドから分け入ってくる夕陽が、大久保の貌に影をつくる。こんな近い距離にいるのに、どうしてかこんなにも遠い。

 もしかしたら、あるいはもしかしなくても、大久保にとって斎藤とはからかうのに最適なだけなのかもしれない。しかし斎藤にとっては違う。とても冗談ではすまされない。この気持ちは冗談なんかじゃない。なのに。

 どうして、通じ合っていたいひとと擦れ違うのだろう…

 斎藤はすっかり沈黙してしまった。もともと大久保に比べて言葉が上手くないために、いったん沈黙すると次にどう切り出していいのか分からない。そんな斎藤を大久保は覗っていたが、やがてぼそりと呟いてきた。

「俺の本心はいつもお前にみせているだろう?」

「え……?」

「俺はお前の隣にいたい、と最初から言っているよ」

 あ…




 はじめてあったのは 若葉溢れる木の下で

 大久保は隣にいて たぶん笑っていた

 それからもずっと 隣で笑っていた

 きっとこれからもそうなのだ




 そうか…

 やがて斎藤はそれまでの尖った気配を消し去り、くすくすと笑った。突然変化した雰囲気に、大久保はいぶかしむ。そんな大久保が可笑しくて、斎藤は言ってやった。

「ばか」

「…馬鹿?」

 大久保の形の良い眉が微かに顰められた。

「こんな面倒なことしなくても、もっと解りやすい言葉で言えば俺にもわかるのに」

 斎藤が言うなり大久保は斎藤を抱き寄せて膝のうえに座らせた。そうして斎藤の耳元に吹き込んだ。

「…うん」

 斎藤が頷いて、それからはもう、ふたりしかみえない。





 瞼に光を感じて、斎藤は目を覚ました。朝日がカーテンを淡く透かしている。今回の当直も形だけになってしまった、と溜め息をつこうとして斎藤は、吐き出そうとした息を寸でのところで止めた。

 隣には大久保の寝顔。

 その安らかな寝顔をみていると、つい思い出してしまう。…昨夜も散々だったのだ。

 体は奥から節々まで軋むようで脚を動かすこともままならないのだが、大久保の貌をみるかぎり彼が満足しているようなので、斎藤は安心することにした。

 カーテン越しのやわらかい明かりが大久保の端正な貌に射し込み陰影を刻んで、薄い鳶色の髪を金色に照らしている。

 微かに聞こえてくる彼の呼吸音が寝起きの斎藤の鼓膜を静かに震わせる。この世のものとは思えぬほどの輝きを目にして、あまりの眩しさに斎藤は双眸を閉じて祈りたくなった。

 ……ああ……

 このひとは生きている。

 いま、この瞬間も大久保の冠動脈は狭窄を続けているかもしれないけれど、ここでこうして息をしてくれている。それだけでもう充分だと思ったが、光を浴びていない彼の白い手をみたら、少し不安になった。力無くシーツの上に垂れた大久保の青白く細い手の整えられた爪の先からも大久保の命が溢れ出ているようで。

 その迸りを留めるように斎藤の手が伸びる。しかし大久保は妙に敏感なヤツだから掌を握ったりしたら目を覚ましてしまうかもしれないと思い、斎藤は差し出した自分の手を宙で彷徨わせた。

「……!」

 瞬間、大久保の手が自動で動いて、斎藤の手首を捕らえた。はっと目をやると、大久保がこちらを見ている。斎藤と目が合うと彼は薄く笑った。こちらを見透かすような瞳から逃れられないでいる斎藤の目が潤んでいたのは、決して朝日の眩しさ故ではない。

「俺の隣にいてくれ」

 学生だった斎藤に囁いたのと同じ言葉を、大久保は呟いた。

「………」

 斎藤はゆっくりと頷く。斎藤が消化器外科を蹴って心臓外科に入局を決めた日からずっと、不意に大久保は同じ台詞を呟いてくる。

 迫り来る死の瞬間への想起が、少なからず―――――いや、おそらくは大いに大久保の精神を揺さぶっているのだ。だから大久保は斎藤に本音を言ってくる。世界で名を知られたあの大久保が、斎藤のまえではただひとりの人間となって、ありのままの姿を晒している。

 それでいいと思う。教授をしている大久保も、こうして斎藤の掌を求める大久保も、どれも本当の彼。だから斎藤はどんなときも、本当の自分で彼に応える。

 ほんとうの自分。ほんとうの彼。

 それは、ここにいる自身のことだ。迷いも不安も抱えた、未熟で未完成な自分が、ほんとうの自分たちなのだ。

 斎藤はほんとうの大久保に逢った。いや、きっと世界のどこを探しても、大久保はひとりしかいない。ほんとうではない、うその大久保なんていないのだ。そして、出逢ったひとは素晴らしい、かけがえのないひとである。

 いつか平野が言っていた。

 『きっと神様とか仏様にとってはどんな疾患をもっている患者はそのままで完璧なんだ、証拠に、患者の体は疾患に対し立派に順応している、ただそれが患者の延命に相応しくないだけだ、だから、同じく神様や仏様がつくったつくりものである僕達が治療して、みんながもっと楽に生きられるようにしよう。』

 大久保さんもだよ。

 言って平野は笑った。治療する意図の薄い大久保の傍にいて、壊れそうな心臓を抱えた彼とどうやって生きていけばいいのか分からなくなっていた斎藤は、そこで漸く自分の進むべき方向がみえた。

 かけがえのないひととともにあるために、彼の隣で歩くことを決めた。ふたりの世界をつくるために、大久保から逃げないと決めた。

 だから世界は自分たちのためにある。それが沈黙の時間であっても、秒針を動かすのは他の誰でもない。いまさえもその瞬間の連なりなのだ。

 斎藤は体を占める鈍痛さえを励みにして起き上がり、空いているほうの手で大久保の冷たい額に触れた。

 斎藤の手が、大久保の額にかかる色素の薄い髪の毛を掻きあげた。彼の体を蝕む病魔を掬い取るように。ささくれて沈みがちな精神を少しでも和らげるために。やがて、掻きあげた髪の毛に指先を遊ばせていた斎藤が、昨夜の緊急Opeの間もずっと浴びていた灰色の視線に応えた。

「…俺の方こそ…」

「………」

 ふ…と大久保の頬が緩んだ。

 そのまま手を引かれて上下が逆転し、大久保が覆い被さってくる。躊躇うことなく斎藤は彼の背中に腕を回して目を閉じた。

 来月、平野らが発表した最新の論文がScience誌に掲載されることが決まった。

 大久保の治療計画は、現在進行形で遂行されている。





 たとえ あなたの心臓が止まる刹那のうえをこれからふたりが過ぎようとも

 いつも

 俺達の鼓動は一緒だ



BGM : "I Believe in You" song by MIRKOFF/Ultra Dance NON Stop Megamix 008
for the patients of congenital or acquired disease and
for the endless hope and love


作者注※20年以上前の知識によるものですので、状況などは令和3年9月現在と大きく異なっています。