kizuato 3


updated on 29th Sep.2005 for St.Michael festival


 あの金色の瞳には見覚えがある タイガーズアイともキャッツアイともつかぬ微妙な色合いが僅かの光の加減で変化する これこそが美の精緻だとか言って彼は笑っていた いつか必ず自分のものにするのだと そういう彼に自分も微笑んだりして

 あれは俺が未来を信じていられた頃の

 …ずいぶん昔のはなしだ



「ん――――…」

 毎朝“斎藤”は同じ時間に目を覚ます。気に入っているらしいソファから小さな体を起こして前足をぐっと前に突き出して伸びをする。その様子を見ながら、大久保は焼きたてのパンケーキを皿に取り、斎藤には生のベーコンをその上に乗せて、テーブルに置いた。

 斎藤は雑食らしく、結局のところ何でも口にすることができる。味覚は殆ど人間と同じなのだろう、昨夜は大久保がもらってきたお好み焼きをぺろりと平らげた。毛並みや表情を窺っても、体調を崩している様子はないから、出来るだけ斎藤の体に見合った量の食事を食べさせることにしている。…毎月訪れる、満月のために。

 な ぜ だ…

 四十センチにも満たない身長が、一瞬で大久保と並ぶ大きさ―――――百八十センチは軽く越えている―――――に成長するのだ。ということは体全体の細胞数はオーダー(単位)のレベルが異なっている筈であり、斎藤はそうやって何年も過ごしてきたと言うのだから、通常の細胞分裂をしていたら、斎藤の生体はとっくに“老化”していた筈である。…生物の細胞分裂能力には限りがあり、残存する分裂能力が減少していくことが老化現象なのだから。

 しかし斎藤は衰えない。小さな体に傷跡はないし、無論初めて人間の姿を大久保に曝け出した夜に大久保に噛み付かれてついたはずの引き攣れもなく、寧ろ毛並みはいつも艶やかで、きらきらという輝きを放ったまま次なる満月を待つのである。

 ――――永遠か…? まさか…

 大久保は永遠など信じない。生きとし生けるもののすべては変化するものであり、我々はそういうふうに、つまり死ぬことを前提にして造られているのだということを、大久保は誰よりもよく知っていた。

『助けて…!!』

 そう言って差し出された子供の胸郭は成長することを知らなくて、

「……」

 …よそう。立ち戻れない過去に怯えるのは…

 大久保は思考を現在に戻して、テーブルのナイフとフォークを手に取った。斎藤は既にパンケーキの三分のニを片付けてしまっている。

「今度はお前の分のお好み焼きも買ってこよう」

 昨夜は一枚を半分ずつ食べたのだが、斎藤には足りなかったらしい。大久保はがつがつ食べる斎藤の皿に、サラダボールから生ハムを数枚とってやった。それに噛み付いた斎藤の歯型のフォルムの鋭さが大久保の脳裏に焼きついて離れなかった。

 食事の後ソファのうえにころりと体を丸めて再び眠った斎藤を横目に、大久保は書斎兼研究室へ入って行った。

 大久保が冷蔵庫から取り出したのは試験管であった。なかには斎藤の狂犬病の治療効果を確認するために今朝採取したばかりの抹消血液が入っている。それから抹血プレパラートを作って染色液で処理し、カバーグラスをかけた。

 一人暮らしであるために気づいたときに掃除洗濯をしておかなければ大変なことになるため、それもした。天気が良いために洗濯物は外に干しておいたが、その間に掛かってきた電話に応対したり、昼飯を作ったり、また書きかけの論文に手を加えたりして時間を過ごした。面積の狭い机が、みるみるうちに書物に埋もれていくのだ。

 そして漸く落ち着いた頃には徐々に空気が冷えだして、洗濯物が夕日を浴びて狭い庭に影を作っていた。洗濯物を取り入れてふと空を見上げるとそういえば今夜も満月だったと気が付いた。

 部屋に入り、まだ狼の姿をして眠る斎藤のとなりにジーンズとTシャツを置き、やや不審気に目をしばたかせた斎藤の背中を撫でると、再び大久保は研究室に入った。

 椅子に座って顕微鏡を覗き込む。ギムザ染色やほかの染色を施された血球と、そのなかで紫色に染まった白血球の核を確認して暫しその形態を見つめ、ふと視線が止まった。



 夕飯の片付けをしている間、狼から既に人間の形になった斎藤は退屈そうにソファに座ってテレビから流れてくる音声を、時折欠伸をしながら聞くとも無しに聞いていた。尋ねてみたところ、テレビやラジオは前の飼い主の家で普段から耳にしていたため、快感とは言えないまでも不快というわけではないそうだ。

 よく創られた耳である。尤も、最近のペットにとってはテレビもラジオも別段珍しい機器ではないのだろうが……

 皿を食器棚に戻しながら大久保は思考を巡らせた。彼の脳裏には数時間前に目にした顕微鏡視野が明瞭に描き出されている。

 斎藤の末梢血塗末標本――――――

 彼の体の異常なまでの回復力に気づいたのは、最近のことだ。

 斎藤と過ごし始めて暫くの間は、狂犬病の治療を行うことで精一杯であった。致死率が高いからだ。

 そして治療は成功した。斎藤に噛み付かれた大久保自身も、自分でワクチンを繰り返し注入し、斎藤の恐水発作や大久保の食欲不振などの狂犬病罹患症状も無くなった。

 しかし、だ。

 狂犬病の発症後に対する有効な治療方法は、現在のところ皆無なのである。

 大久保が反復したワクチンも、所詮ワクチンであって、治療薬ではない。中枢神経系(脳、脊髄)で増殖しはじめたウイルスに対する抗ウイルス薬ではないのだ。狂犬病発症後の死亡率はほぼ100%。当初大久保は、「統計上100%と言っても、稀に助かる症例もあるのだろう」と軽い気持ちでいた。

 そこで思考が停止すれば良かったのかも知れないが、大久保の研究者たる姿勢が疼いてしまったのだ。

 野生動物あるいは野生化した家畜同士の喧嘩は凄まじいものがある。食料や縄張り、伴侶を巡っての争いはそれこそ命懸けであり、噛み付いて体毛を毟り取るのも、耳や尾を齧り取るのも至極当然のことだ。しかし斎藤にはその形跡がないのだ。野鳥や野犬に狙われて攻撃されていた、と言ったのは斎藤自身なのである。

 なぜ、俺たちは後遺症も無く助かったのか。

 なぜ、こんなにも平穏でいられるのか。

 なぜ、斎藤の体は幾多あるはずの傷跡が見当たらないのか。

 そういえば大久保が最期を看取った斎藤の元飼い主が言っていなかったか?

『手にとると、毛皮が大層濡れていて…しかも血を流しているのです…とても冷たくて…』

『動物など飼ったことがなかったので…戸惑いましたが…取り敢えず包帯を巻いて血を止めて…体を暖めてやりました…』

 飼い主初心者が、負傷したうえ雨に打たれて冷たい土に半ば身を沈めていた小動物に対し、包帯を巻いて暖めるという単純極まりない介抱をしたところで、果たして助かるのだろうか。そしてその後、回復した斎藤は、三つ目が故無論のことだが開業獣医の診察を受けたりはしなかったのである。

 つまり、夥(おびただ)しい出血により起こり得たであろう虚血による知覚障害および運動障害といった後遺症、創傷からの感染、さらに負傷にも数えられる微小骨折などによる二次障害等は、素人が対処できるものではない。なのに斎藤に尋ねても、心身ともにまったく変わりないと言うのだ。

 度重なる負傷と狂犬病発症後の、完全なる回復である。

 偶然か?それにしては斎藤の生命力には不可解な点が多いのではないか?それとも、人間の好むところの“奇跡”なのか?そんなもの、存在するのか?

 考え始めたら、いてもたってもいられなくなった。三日置きに狂犬病ウイルス抗体価を調べるため行っている採血の量を若干増やして、採血管を複数並べた。当然だが見た目には正常血液と変わらない。しかし、あるはずだ。三つ目で長い耳をもつ斎藤の体を決定付けて、かつ、それ以上のものが…!

 思いながら大久保は採血管を遠心分離機にかけ、血清と血球成分に分けた。血清中にある抗体価のほかに、大久保が目をつけたのは血球成分だった。

 血球成分のなかで、赤血球には核がなく、核があるのは白血球である。だから遠心分離処理された採血管のなかにピペットを静かに入れ、最上層の血清部分を通り抜け、赤血球成分から成る最下層と最上層の間にある厚さこそ薄いが血清層と赤血球層とは明らかに色調の異なる白い層だけを、ピペットの先端でゆっくりと吸い出した。

 ピペットに満たされた斎藤という動物の白血球。彼の遺伝情報のすべてがここにある。

 細胞核。

 核のなかに満たされる、遺伝情報を構成する染色体のセントロメア(動原体)DNAはヒトと同じく171のbase pair(塩基)から成るαDNAの多リピートであり、リピートのひとつひとつはセントロメアに特異的なタンパクCENP-Bの1分子が結合する部位として働くだろう。

 テロメアDNAもまたヒトと同じく――――なぜなら斎藤は人に変化するのだから――――5´-AGGGTT-3´の多コピーから成って、ヌクレアーゼの攻撃から染色体末端を、満月を迎えるたびに起こる急激な細胞分裂に耐えうるだけの複製起点認識複合体を守っているのだ。

 そうして守られた複製起点認識複合体は、外傷などで消費される斎藤の体の細胞――――たとえば、出血に対しては赤血球、血管に対しては内皮細胞――――の産生を促してきたのだ。

 しかしそんなことは正常の人間の体も極普通に行っていることである。つまり斎藤には、正常を上回る機能が存在しているということであり、その機能はDNAが規定していると考えられる。

 つまり斎藤のDNAは、度重なる過度の細胞分裂に十分に耐久し得る情報が組み込まれていることになる。

 だから斎藤には、前の飼い主に保護される前に野犬や野鳥に襲われたときの傷がひとつも見当たらないのだ。大久保が彼の肩につけたはずの噛み跡の形跡すらなく、そこは綺麗に治っている。

 尤も、これらのことは大久保の推測に過ぎない。彼の斎藤に関する研究は初期であり、今日行った研究も染色体レベルに留まっており、DNAを抽出できる段階ではない。焦らずゆっくりいこう――――――しかし大久保の視界には特殊染色処理された斎藤の末梢血塗末標本があった。

 それを顕微鏡に乗せて、双眼で覗き込む。

 そして大久保は確信した。

「お前は研究室で、NT152と呼ばれていたんじゃないか?」

 台所を出てソファに座った大久保が尋ねると、ソファに座っていた斎藤の顔からさっと血の気が消えた。間違いないのだ。再び確信して、大久保は続けた。

「NTはつまりNewTypeだ。152番目のニュータイプ」

「!…そ、れがどうしたっ」

「“斎藤”はお前の名ではない。お前の名は日本名ではないんだ」

「…?…」

「Super Analogue of new type Idealized by Toshimichi OOKUBO、略して“SAITO”…これがお前の本当の名だ」

 俺がそうつけたのさ…そう付け加えることを、大久保は忘れなかった。大久保の告白に、斎藤の金の瞳が大きく開かれた。

「!!…そ…ん、な…」

 口を半開きにしながらも、斎藤の頭脳は記憶の淵に手がかりを求め始める。テレビの音が遠ざかる。急激に甦る過去の残像は、しかし、決して色褪せてはいなかった。

 …大…久…保…、大…久保…、…大久保―――――…

『私の師に大久保という人がいてねぇ…欲深いのか欠如しているのか分からなかったけど、とにかく研究熱心で実力も随一だったよ』

『いずれは日本の…だけじゃなく、世界の医学をしょって立つ人だと噂されていたんだけど、ある日ひょいっといなくなってしまった。ま、私に影響はなかったけどね』

『上手くいかないなぁ…大久保先生はこんな失敗しなかったよ。私がどこか見落としていたかな? あのひとが間違っていたら、君が世に出ることはなかったから、このやり方でいいハズなんだけどねぇ』

『君は傑作だよ。さすが大(おお)先生がプロットしただけはある。尤も、今となってはこの研究はすべて私のものだがね。これを論文にすれば私もノーベル賞受賞者として残りの半生を送れるわけだ。目出度い、実に目出度い!』

 言って男は高笑いした。コンクリートの実験室に彼の甲高い声が響き渡り、シンとなって消えた。

「…あいつが言ってた大先生って、あんたのことか…?」

 斎藤の赤い唇が震えて声を発した。

「武田観柳君か…? よく覚えてるよ、一番優秀な後輩だったからな。ということは、お前は武田君に育てられたんだな?」

 彼はあのあと―――――

「…育てられた、のかは、知らねぇ。物心ついたときには、あいつが俺を斎藤と呼んでいたんだ…」

 研究室のなかで―――――――

「最初は培養されていたのさお前は…桑実胚の段階でお前を飼育舎にいた動物の子宮に植え付けてお産させた…それからは武田君がお前を育てたんだ…お前は完璧だよ斎藤…奇しくも、俺の研究は成功していたわけだな…」

 大久保の唸るような呟きに、斎藤は体全体で反応した。

「!!…っ、なにが完璧だっ! こんな…こんな体で生まれてきて俺は!」

「今までお前は人間の姿を前の飼い主と、武田君と俺以外に見せたことはなかっただろう? 他は狼としてのお前の姿しか知らない。第一、お前は狼として生まれる予定ではなかった」

「何だって…?!」

「俺は人間の遺伝子としてのお前しか研究していなかったのさ。だから狼形質の発現には関与していない。おおかた、武田君が操作を加えたんじゃないか?彼は狼男の伝説に妙に惹かれていたから」

「……じゃ、俺は」

「そうだ。俺がつくった」

「!!」

 大久保は、染色体を抽出した採血管とは別の採血管の静脈血から作られた末梢血塗末標本に、大久保が以前の研究で独自に開発しおそらく全世界でただひとりで利用していた特殊染色法を施して、その染色法にしか反応しない、大久保が作り上げたSAITOのテロメアDNAに組み込んだ塩基配列――――大久保はそれを大久保フラグメントと呼んでいた―――――DNA特殊断片を染色させたのだ。そのフラグメントこそ、生体の用途に応じて無限大に細胞分裂を行うことのできる機能を果たす塩基配列だったのである。

 そしてフラグメントは染色された。更にはには染色体末端を保護するテロメア領域も大久保が開発した特殊染色液に反応して染色された。斎藤の遺伝子はSAITOのものだったのだ。

 大久保は続けた。

「…まさかこんな形で会うことになろうとは、思わなかった…。あのとき俺は、「核」でしかなかったお前を研究室の冷凍庫に保管した段階で、研究を打ち切ったのだから…技術的に不可能だったわけじゃない。まだ世間が俺の研究についてこれる状態じゃなかった。それが理由だ」

「…どういう意味だ…」

「クローンが一匹世に出ただけで世界があれほど騒いだんだ。いまから十年以上前に、遺伝子操作どころか遺伝子を塩基の段階から作製して遺伝子全体を構築する技術を持っていると公表したところで、倫理が理由で袋叩きに遭っていたさ」

 言いながら大久保は思った。それは理由のひとつではあるが、他に更に大きな要因があったのだと。時代や世論云々で可変し得る倫理規定に振り回されるほど、自分の研究は不完全ではないという自信ももっていた。

 しかし、そんな自負を一瞬で瓦解させる事態が、彼の身に生じたのである。

 大久保にはかつて妻がいた。

 古典的な日本女性としてのおとなしさを生まれながらにしてもってそれを保ち、穏やかな毎日こそを幸せとして捕らえている、静かな水色のような女だった。医学界という一見華やかにみえて実際は欲と権力の密集する世界に身を置かねばならぬ己に辟易していた大久保にとって、彼女の優しさや温かさは完全な救いであった。

 その彼女がある日、照れくさそうに大久保を呼んだ。どうしたのかと尋ねると、子供を身ごもったことを告げてきた。

 大久保は嬉しかった。心が張り裂けそうになった。目の前で涙ぐむ満寿の細い手指を取ってもなお震える自分の子供が、最愛の妻の体に宿っていることを、何よりも誇らしく思った。

 俺のことはいいから、これからは自分自身と子供のことをいちばんに考えてくれ…大久保はそう言って、満寿を抱きしめた。幸せだった。

 ところが検診のおりに、胎児に異常があることが分かったのである。妊娠28週の超音波検査で、四肢短縮傾向と肺低形成を指摘されたのだ。

 大久保にとっては意外な展開であった。その後羊水過多がみられ、更にCPD(児骨盤不均衡)があったために帝王切開が施行された。子は無事に出生したが、ApgarScoreは5/5…神経学的予後は決して、良いとはいえない状態であった。加えて、出生前に、出生後起こるであろう呼吸障害に対しては気管内挿管はせずに、出来るだけ子の生命力に任せるという方針を立てていた。…つまり、長期生存は難しいという判断がなされていたわけである。

 医師である大久保にはそれがどういうことか、受け入れられるはずだった。彼には、疾患の名前も症状も分かっていた。そしてそれが自分の所為であるということも。

 疾患の遺伝形式は常染色体劣性遺伝。即ち、大久保と満寿の両方が保因者だったのだ。

 …なんてことだ。

 皮肉とも言う。遺伝疾患に苦しむ患者を治療しようと研究を重ねてきた大久保に生まれた子供が致死的遺伝異常をもっていた。致死的というからには長期生存は望めない。世界で見ても、最長生存期間が生後8ヶ月間という報告しかなかった。大久保は絶望した。

 が、満寿は強かった。専門知識の全く無い彼女が、子供と生きるために立ち上がったのだ。

 新生児室に毎日通って眼(まなこ)虚ろな子の顔を見て、話し掛けたり看護婦とともに沐浴をさせたりした。気の弱かった女が逞しくなっていくのが、落ち込む一方の大久保には不思議で堪らなかった。

 すべては子―――――かわいい女の子だった――――のためであった…母親とはこういうものかと…いつそのときを迎えるか分からないまま或いは分かりたくないままに…不安だろうに、大声を上げて泣きたいのだろうに、彼女は懸命に子を育てようとしていた。母子同室の個室に移ってからも窓の外から聞こえてくる、ごく普通の子供たちの明るい声に時折動きを止めながら、それでも子の額を優しく撫でてやる満寿の姿は、あまりにも痛々しかった。

 同じ病院に勤務する大久保も、泊り込む満寿と子供を毎日のように見舞った。小児科のスタッフに伴われて、子の状態を専門的に把握するよう心がけた。見せられた子のX線写真は、しかしどう考えても異常であった。

 肋骨が成長しない。大腿骨の変形と胸椎の扁平化は誰が見ても明らかなのだ。

 小さな胸に聴診器をあててみると、聞こえるのは変わることの無い、左右の肺のrhonchi(ローンカイ)。陥没呼吸と尾翼呼吸が日に日に著しくなっていくだけで、成長する兆しさえ認められない。成長どころか、ただでさえ未熟児で小さな胸郭が、ほぼ正常の発達をする腹部に比較して、時を追うごとに小さくみえる。胸骨が胸に食い込んで、つまり肺を圧迫して、我が子を換気不全と呼吸不全に追い込んでいく。サチュレーション(SpO2)が90を切れば器具が警戒音を出す。慌てる満寿は額に脂汗を滲ませ、顔を青褪めさせながらも、震える両手でアンビューを動かすのだ。そうするうちにアラームを聞きつけた医者と看護婦が駆けつけてきて、そのなかに大久保自身が混ざったりした。しばらくするとサチュレーションが落ち着き、大久保はいまにも泣き出しそうな満寿の背中を抱きながら、ベッドに仰臥した我が子の小さな手を触った。

 駄目だ。助けられない。たぶんこのさきも、どうすることもできない。

 お前はこんなにも懸命に生きているのに!!

 …そして誕生から6ヶ月がたつ頃、大久保と満寿に看取られながら娘は綺麗に晴れ上がった空に向かって静かに上っていった……

 満寿と大久保は、ふたりきりなってしまった。しかしそれは娘が宿るまえの喜びに満ちた状況とは似ようはずがなかった。

 娘を亡くして以来の満寿は、表面上は変わらぬようにみえたが、少しずつ彼女の時を止めていったようだった。

 呼んでも膝を折った姿のまま、返事をしないことが増えた。ベビー服を胸に抱き締めて突っ立ったまま動かないときもあった。彼女まで遠くに失ってしまいそうで慄いた大久保が名前を呼ぶと、ふっと我に返って、また昔のようにふわりと微笑み返してきて、胸を撫で下ろしたということが繰り返された。実に危うげではあったが、少なくともふたりの生活は穏やかに続けられていたため、大久保は遺伝子の研究を続けていた。

 しかしそれは大久保の誤算だった。…満寿の心は、既に崩壊をはじめていたのである。彼女は、大久保との日常を崩すのではなく、彼女自身の精神を病むことで、娘を失った悲しみへと埋没していったのだ。

 大久保は気づかなかった。気づいたのは、ちょうど娘の誕生日にあたる日に帰宅したときのことだった。

 その日は朝から冷たい雨が降っていた。

『ただいま…。…満寿?いないのか?』

 しんと静まり返った家屋。ひとの気配はない。買い物にでも出掛けたのだろうか。いや、食卓にふたりぶんの食事の用意がなされているから、それは違うだろう。町内会の回覧板でも回しに行ったのか。思いながら、大久保はふと部屋の奥をみた。

 娘の位牌がなかった。

『!…』

 はっとして大久保は振り向き、玄関の傘立てをみた。傘はいつもどおりの数が揃っていた。なのに満寿のサンダルがない。

 今日は朝から雨。「お気をつけて…」と微笑んだ満寿の顔はこんなにも記憶に鮮やかなのに。

『!!』

 嫌な予感がした。大久保は鍵もかけずに、傘を二本もって家を飛び出した。

 彼の足はまっすぐに町のはずれにある共同墓地に向かった。

 そしてそこで――――――小さな墓の前で全身を雨に浸からせた満寿の姿を見つけたのだ。大久保は駆けより、倒れていた満寿の体を抱き起こし、体を揺すぶりながら名前を呼んだが、彼女の青褪めた貌はひくりとも動かなかった。満寿の手からするりと抜けて落ちた娘の位牌だけが、変化らしい変化であった。溺死状態の彼女には無論、脈も呼吸もなかった。

 冷たい体を抱きながら、大久保は泣いた。満寿と同化してしまいたいぐらい泣いた。

 悔しかった。満寿の変化に気づけなかったことが悔しかった。悲しみに心を喰われてしまった満寿を現実に引き戻せなかった自分が情けなかった。

 研究など放り出して、満寿とともにいてやるべきだったのだ。彼女の悲嘆、憤慨、絶望のなにもかもをまっすぐに受け止めてやるべきだったのだ。そしてそれは大久保にしか出来なかったのに。

 可哀想な満寿…!!どんなにか自分を責めたことだろう。自分を責め、責めつづけ、たった6ヶ月しか生きられなかった娘に詫びては、大久保の知らないところできっとずっと泣いていたのだ。それだけでは収まらず、ついに娘を追って冥界に行ってしまった。そうすることでしか娘に詫びられないと思い込んでしまったのだ…

 葬儀の際、満寿の両親が視線だけで「医者の癖にあんたは娘と孫のふたりを殺したんだ」と訴えてきたように感じた。弁解の余地もなかった。

 大久保は研究をやめ、職場も職種も変えて、満寿と娘の遺品だけをもって、悲しい思い出の宿る町を去った。満寿の死によって生き甲斐を失った大久保には、満寿の後を追う勇気すら、持ち合わせていなかったのだ。

 そして半ば死んだようにしてひとりで生きてきた。時を埋めるためだけの仕事をこなして、それでいて世間から己を隔離し、自分で自分を忘れるようにして、生きてきた。

 なのに――――――いま、あのSAITOが大久保の手の中に戻ってきた。SAITOを含め、自分の行ってきた遺伝子研究は、マイクロチップに書き込んで倉庫の奥に置いてきた。おそらくそれを武田がみつけ、パスワードを入力して、研究成果を我が物としたのだろう。そして彼なりに操作を加えて、“斎藤”が出来上がったのだ。

 現実に帰った大久保は、目の前の斎藤の腕を掴んだ。斎藤はびくりと震えて、大久保の手を薙ぎ払った。

「……斎藤…」

「嫌だっ…!」

「言うことを聞くんだ…武田君は、お前のほかに誰か、何か別のものを創ったか?」

 大久保の問に、斎藤はぎりりと睨んで言い放った。

「つくったさ!つくった!でもアイツがつくったやつらはすぐに死んじまって…生き残ったのは俺だけで…」

「…だろうな。いくら俺でもすべての情報を他人に譲渡したりはしない。お前以外の生き物が生きられなかったのは、武田君が俺の研究のすべてがあのマイクロチップに書き込まれていると信じていたからだろう」

「?」

「お前のように完璧な生物に仕上げるためには、マイクロチップには書き込まなかった行程を踏まなければならないんだ。武田君にはそれを教えはしなかったから」

「…なんで」

「俺も俗人だ。自分の研究を無償で提供するような馬鹿は科学者にはなれんよ」

 大久保が言うなり、斎藤は立ち上がって大久保の隣を離れようとした。瞬間、大久保はそのまま斎藤が二度と手の届かないところに行ってしまう気がして、いままで出したことのないような力強さで斎藤の腕を掴み、引き戻した。

 そのまま押し倒す。斎藤の長身がソファから落ちて二人は床に投げ出されて転がった。

 斎藤はそれでも逃げようとしている。大久保は、そんな斎藤の両の上腕を掴んで床に押し付け、仰向けの斎藤に覆い被さる格好で斎藤を上から見下ろした。

 強い金色の瞳。これは武田の夢だった。

 月の周期に合わせて28日周期で人体に変化する体も、武田の夢だった。

 しかし生体の状況に合わせて細胞を分裂させその生体を生かす体は、生まれつき胸郭が成長できない娘をもった大久保の夢だったのだ。胸郭と肺と心臓が正常どおりに細胞分裂しさえすれば、娘も満寿も生きられた。…斎藤は、SAITOは、大久保が自分では叶えられなかった夢なのだ。逃がしてはならない。

 大久保は続けた。

「俺はお前のすべてを知っているんだ。お前の塩基配列のすべて、お前の細胞骨格成分、お前を遺伝子レベルで殺す方法」

「……」

「―――――そしてお前をこの世で生かす方法もな」

「!…さ、わるなッ」

「斎藤…」

 シャツの裾から手を入れて、白い生肌に触れてみる。

 滑らかな肌のメラノサイトは白系ロシア人のメラノサイト遺伝子配列を参照した。肌のコラーゲンはきめの細かさでは随一の日本人のコラーゲン遺伝子配列から取った。大久保は、癌遺伝子も癌抑制遺伝子も組み込むことをしなかった。SAITOの遺伝情報は生存において完璧でなければならなかったのだ。

 ―――――すべてのいのちのために。

 二度と誰も、苦しむことのないように。

 SAITOは、そのために造られた。

「あっ、やっ…だ…!!」

 斎藤は暴れる。大久保は押さえつける。長い指を斎藤の腕に食い込ませるようにして片手で斎藤の両手首を鷲づかみにした。そしてもう一方の手で斎藤のジーンズを脱がせ、腿に掌を滑らせる。途端、斎藤の細い体が跳ね上がった。

 大久保は、斎藤の脚を折り曲げながら左右に開き、開きながらに斎藤のなかを指で慣らしつつ自分の欲を取り出して、そこにあてがった。

「いッ!…アアッ…!!」

 流石に狭かったが、強引に大久保が躯を進めると、斎藤は腰を反らして大久保をきつく締め付けてきた。熱かった。

(…あの男ともこうやって交歓していたのか?)

 大久保の脳裏を過(よ)ぎるのは、如何にも温厚そうな男の顔―――――…

 自身の寿命が残り僅かと知ったとき、あの男が噛み締めたものはなんだったろう。

 愛するものをひとり残して去る苦痛。

 愛するものと別れる孤独。

 そしてそれでも猶、真摯な瞳を占有できる至福を!

(俺は馬鹿だ)

 大久保は知っていた。

 自分は常に死者に負けてきたということを。

 満寿を逝かせたのは、あの子に自分が負けたからだ。生と死の精神的狭間から、満寿を引き戻すことが出来なかった。

 そして自身も、体が生き長らえているだけで、本当は少しも狭間から抜け出せていないのだ。

 なのに、あの男…斎藤の元の飼い主は、死にながらも生の輝きを斎藤に与えつづけている。

 それは悲しみの色かも知れぬ。絶望に近い暗闇かも知れぬ。しかし斎藤の涙はどうだ!主を遠くに失い、時を経れば経るほど、愛の想いは尊く澄むだけではないか!…その美しさを天国で、あの男は更に深く愛でていることだろう…

 そしてそんな斎藤のまえにいて、再び死者に敵わないでいる俺の姿は、あまりにも滑稽だ。

 ……しかし思うのは、斎藤を創ったのは自分だということだ。これが大久保のもつ、たったひとつの、そして絶対の勝利であった。

「斎藤…」

 体の下で喘ぐ身はすべて、俺が創ったものだ。この肌も骨も筋肉も核も染色体も塩基配列も、俺が最初から全ての神経を研ぎ澄ませ、最高の技術を駆使して創り上げたもの。死に行くしかない命運の子らと親を救うために世に出した傑作なのだ。思いながら大久保の唇は白い肌の上で蠢いていた。

「お前は俺の芸術だ斎藤」

「…ッッ!いぅ、あ、ハァ…ッ!!」

 傑作なのだ。零れ落ちる涙すら。

「…こうやって泣いて主を求める感情もな」

 そういうふうにつくったのだから。



「…!!!…化…け…もの…ッ!!」

 大久保の台詞に斎藤は大きく瞳を見開き、吼えた。

「化け物だお前なんか…!そうやって…俺を創る為に、一体どれだけ殺したっ」

 斎藤は覚えていた。

 研究室で生まれてしばらくは、武田は自分を可愛がってくれていると思っていた。毎日世話をしてくれたし、話し掛けてくれたし、遊んでくれた。

 しかし知能が発達すると同時に、武田の行動が斎藤には理解できなくなっていった。

 多くの受精卵を孵化させようとして、ある卵は成功し、ある卵は孵化しない。それまでは、わかる。しかし武田が、孵化しない卵や途中で成長を止めてしまった胚を失敗作として至極簡単に廃棄してしまうという行為の意味が、斎藤は分かりたくなかったのだ。

 君に兄弟を作ってやろう。武田はそう斎藤に言って聞かせながら、失敗作を次々と処分していくのだ。そして残酷なことに、武田の研究はすべて失敗作だった。骨や皮膚が形成されなかったり、虚弱すぎたりして、生きることが出来なかった。そのたびに武田は廃棄し、その武田の姿に斎藤は首を傾げた。

 それは俺の兄弟なのに、どうして捨てるの…?どうして育ててくれないの…?

『研究は常に完璧な結果を出さなければ研究とは言えないんだよ。不確かな結果なんて誰も要らないからね。実用化出来ると分かれば国と企業が乗ってくるし、第一特許を取得できるからねぇ、そうでなければ研究の甲斐なんてないよ。まぁ、君をプロットした大(おお)先生はそういうひとではなかったけどね』

『研究に失敗はつきものだよ。失敗したらまた新たに作ればいいだけだし、生命の神秘なんてあるわけないし。だって可笑しいと思わないかい? 我々人間は人間以外の動植物の遺伝子組み替えは食糧事情云々で肯定する癖に、人間の遺伝子操作には否定的なんてさ。つまりは人間の自己愛に基づく愚かな優越感が根底にある訳だよね。人間なんて環境の変化に最も適応できないというか、適応したくない、適応能力ゼロの動物だから、人間ではなく周りの、人間以外のものを変化させてるんだよ。それをヒューマニズムとか人間生命倫理のひとつとか言う人もいるかもしれないけれど、私はそうは思わないんだ』

『どうして人間は自分たちこそが最も優れた生命体だなんて思うんだろう? 私は長いこと疑問に思っていた。生命の流れなんて結局は進化の過程だからねぇ、いずれ人間より優れた生命体が現れると思うよ。私はねぇ、出来るならそんな生命体をつくってみたかったんだ。もしかしたら私のつくる命が次の進化の始まりかもしれないなんてね』

『だから大先生に君の遺伝子を見せられたときは驚いたなぁ、感激だった!でもそのままの君はただの人間になるだけの情報しかもっていなかったから、私が研究していた狼の遺伝子を組み込んだんだよ。小さい頃から狼男に夢中だったんだ。夢が叶って嬉しかったよ』

『どうして失敗作を捨てるのかって…?さっきも言ったじゃないか。失敗は研究のつきものだって。納得出来ない?じゃぁこう言おうかな。失敗作は私の夢を叶えないから。これでいいかい?』

 …ゆ、め…

 斎藤は、ポリバケツに投げ入れられた“夢の為り損ない”を見た。あるものは完全に脱力し、あるものはまだひくひくと鼻を動かしている。

 確かにそれらの全身は皮膚というよりは粘膜に近く、異常なまでに水気を帯びているけれども、一生懸命世話をすれば目を開いて、そうしたら名前もつけてあげて、一緒に遊んだり眠ったりするのではなかったか。そのためにこれらは生まれてきたのではなかったか。

 決してバケツに捨てられるために孵化したわけではないのだろう?それとも、もし俺がこんなだったら同じように俺も何事も無かったかのように廃棄されていたの…?

『……!!!!!』

 その瞬間、斎藤の胸に生まれたのは激しい怒りと憤りであった。叫んでしまいたかった。

 違う!違う!俺たちは捨てられるようなものじゃない!!そんなことは絶対に許さない!!

 だから、ニヒルな笑いを唇に浮かべる武田の首に噛み付いて、力の限り噛み切った。武田は驚いて斎藤を引き離そうとしたが、獣の鋭い歯牙は人間の軟らかい皮膚に引っかかり、僅かに首を動かしただけで皮膚を引き裂いた。暴れる武田をよそに斎藤は更に深くに牙を突き立て、ドクドクと脈打つ血管をも噛み切った。

『ヒィィィッ!!!』

 吹き出た赤い水が音を立てて視界を染めていく。そのなかでのたうちまわることもできずに頬を引きつらせる武田の体から飛び降りた斎藤は、振り向きもせずに研究室の窓から出て行った。武田の血で濡れた体を雑草に擦り付けて汚れた匂いを消そうとした。尖った葉で体がいくら傷ついても、構わなかった。

 それから出会ったものは野犬と野鳥と…“にんげん”で。

 あいつだけは――――――武田ともほかの動物とも違った。大切にしあえると思っていた。幸せだった。

 なのにどうして穏やかなときは長くは続かないんだろう―――――?

 大久保は、斎藤を傑作だと言う。しかし思うのだ。傑作は決して、だれかを苦しませたりはしないと。大切なひとを、ひとり冥界に逝かせたりは、しないのだと。

 出来るなら、いつまでもともにいたかった。離れたくなどなかった。なのにひとり生き残ってしまった。

 自分が、人工的に作られたものであることは知っていた。けれどあの男に抱いた気持ちやあの男との日々は、斎藤自身が選んだものであり、決して誰かに造られたものではない。だからこそとても大切だったのだ。

 しかし、自分が選んだ道はいとも簡単に崩れ、人工物である身だけが残った。そうしてそれは、いまに始まったことではなく、斎藤がSAITOとして作られる前から続いてきたことなのだ。

 無限に連なる死の連鎖。みながそこに飲み込まれていくのに、斎藤だけは違う。傷ついても治癒する。病に罹らない。このごろは老化も起こらない。こんな孤独を拵えたのは、いまこうして狂ったように斎藤を抱く大久保なのだ。

 ほんとうは、あのとき、あの男に拾われる前に泥に埋もれて死にたかった。死の連鎖に入っていきたかった。けれど温かい腕を知り自分も生きていて良かったのだと思い始めていた。それなのに…

 泣きながら、斎藤は男の名を呼んだ。俺を連れて行ってと叫びんでしまいたかったが、大久保にきつく責められて、呻き声だけが虚しく響いていった。



 もしここで立ち直れなければ俺たちは

 舌と手足を絡めとり 急峻な螺旋を描きながら

 無間(むげん)の闇へと  墜ちていくのだ…