golden boy 6


updated on 29th Sep.2005 for St.Michael festival

 斎藤は考えた。

 スキーを始めて履いた時や、スキーヤーの道を選んだ時のこと、スキークラブでトレーニングを受けるのが楽しかった毎日、遊びで緋村とモーグルをしたときのこと。

 どんなときでも、スキーの世界で思い切り走りたかった。世界中の真っ白い雪山のなかを、まっしぐらに突っ込みたい。

 突っ込んだその先で自分を待つもの―――――最高の感動―――――に、一歩でも近づきたいんだ。

「俺…優勝したい」

 斎藤は大久保の目をみて言った。

「スラローム(回転)はまだだけど、GS(ジャイアント・スラローム。大回転)とSuper-G(スーパー大回転)で今年もメダル獲る自信はあるんだ」

 斎藤はいままでに、アルペン競技のなかでスラローム以外のすべての種目で少なくとも一度は入賞を果たしている。スラロームで足を引っ張っているぐらいで、それさえなければ総合順位がさらに上がるところまで来たのだ。「なんで日本人がスーパーGの表彰台に立つんだよ!」という罵声を浴びてもふふんと鼻で笑う。

 束縛はしないされない、が信条のDankにおいて、日本人が放ってきたこれまでの「パワー不足」のイメージはチャラになる。それを、緋村に続いて斎藤も遂行した。荒削りな滑りから、ますます荒っぽい滑りへ。自分の滑りをレース向きに昇華させた斎藤が目指すものは、優勝だ。

「初めて表彰台に上ったときは三位でももちろん嬉しかった。すぐ親父とお袋と…あんたに電話したぐらい。だからまだやれると思う」

 勢いのある若いレーサーと落ち着いたベテランのごった煮のなかで、ひとりひとりの成績の差はごく僅かだ。その僅かに喰らいついて、いつか追い抜いてやろうと思った。それは斎藤だけでなく、緋村も、他のメンバーも同じである。なかでも緋村はジャンルは違えど、一番のライバルだ。

「俺と緋村、どっちが先にW杯でトータル(総合優勝)決めるか勝負してんだぜ。あいつより先にクリスタル、あんたに届けられるかな…てさ」

 アルペンW杯総合優勝者に送られるクリスタルのトロフィーとメダルは、勝利の証。濁りのない輝きは、オリンピックのメダルと同等に、W杯を戦い抜いてきたアスリートに送られる最高の勲章なのだ。

(クリスタルってこいつに似てるし)

 そこで斎藤は、ああそうかと思った。

 大久保を意識するようになったのは、今は亡きレーサー、アルベルト・マイエが斎藤にサインをくれたときに首から提げていたクリスタルメダルの記憶に重なったからだ。

 角が綺麗にカットされていて、思わず手にとってずっとみていたくなるもの。自分のものにして、「これ俺のなんだ」と世界中に自慢して、それからも、大切にしたいもの。

「……」

 斎藤の視界の真ん前で、灰色の瞳がじっとこちらをみている。光の辺り加減によっては、冷たいだけのクリスタルの輝きが虹色になるのも、斎藤は知っている。やり手の実業家があたふたと料理する姿になるのも知ってる。

「…クリスタル獲ったら、あんたにやるよ」

 緋村は恩人兼友人のために沢山のメダルを。

 自分は、鈍い鈍い恋人のためにクリスタルを。

「……もらって、くれる?」

 らしくなく、おずおずと聞いてみた。いらんと言われたら押し付けるのはやめようと思ったから。大久保は「大切にする」と答えた。斎藤は「ん」とだけ言って、「じゃぁ次は、鶏の唐揚げだ」と声を励ました。



 あらかた食べ終わった頃には十一時を過ぎていた。途中から大久保は自分でついでビールを飲んだ。斎藤は日本では未成年だから手を伸ばさなかった。

「流石に腹いっぱい…」

「でもメニューはクリアしていないじゃないか」

「残りは明日…大久保、シャワー貸して」

「風呂が出来てるから、風呂に入ったほうがいい。せっかく日本に来たんだ、深いバスタブは気持ちいいだろう」

「…うん」

「服は乾燥機の中にあるものを自由に着ていいから」

「……うん」

 立ち上がった斎藤は胃の重さに、うう、とうめき、よろめきながらバスルームに消えていった。

「…ふむ」

 大久保はテーブルの片付けを始める。流石に体が資本だけあって、食べた量は半端じゃなかった。皿にこんもり盛ったはずの料理が、全部平らげられている。

「これだけ食べてくれると作り甲斐があるというものだ」

 だが、メニューがまだ残っている。鍋のなかにはまだ焼かれていないローストビーフ。型から外したパウンドケーキ他。

「明日の朝に食べるんなら、パンも焼いておけばよかったか…」

 今日は金曜で、明日は土曜日、明後日も会社は休み。斎藤は一ヶ月日本にいる。斎藤の家族は長期旅行中。

 がしゃがしゃ音を立てて、食器を洗い終わった大久保は、リビングの―――――先ほどまで斎藤がもたれかかっていたソファに腰を下ろした。

 深夜の東京とは言え、流石に外は静かである。更にこの部屋には自分たちしか居ない、完全な密室。

 しばらくすれば、もう一人が風呂から上がってくるのだろう。

 二十歳を数えていない男と、四十を過ぎた男。並んで歩けば、あるいは親子かと思われても仕方がない年齢差の、いままで何もなかった恋人同士。

 大久保の手料理を食べる斎藤は、やけに幸せそうだった。大久保がキッチンに立つ間、雑誌を読みながらもちらりとこちらを窺って、視線を向けるとさっと戻る。

 クリスタルをもらってくれと斎藤は言った。

 …自分に出来ることは、そんな斎藤に対して真正面から向き合うことではないだろうか。

 自分が鈍いばかりに、斎藤の苦悩に長いこと気付いてやれなかった。彼は本当に一人ぽっちだったに違いない。それでも誰にも当たらず怒らず、笑顔だけ消して、黙々と生きてきた。

 そんな斎藤を苦境から救えるのが、あろうことか自分とは、大久保も驚いたのだが、こういうことは決して不快ではなかった。

 寧ろ、芽吹き始めた若い力を、せめてオフのときだけでも真綿に包んでやりたいと思った。

 たとえ結果がどう出ようと構わないではないか。今までだって、会社が思うように動かないときでも、落ち込む部下たちを自分は慰め、彼らのエネルギーを静かに充填させてきたではないか。

 だからやれるかもしれない。斎藤の―――――

 今のために。

 とんとん、と音がして振り返ると、風呂から上がってタオルを肩にひっかけた斎藤がいた。

「ジェットバス気持ちよかったぜ」

「そうか?」

「おう。せっかくだから日本にいる間は温泉とか行こうと思った」

「いいんじゃないか?裸で入れるしな。…ところで斎藤」

「ん?」

「そんな格好でいて…寒くないのか」

「寒くないって。俺、いっつも風呂上りはこんななの」

 とは言われてもな…

 正直、大久保は目のやり場に困った。二十歳を越えていない男の剥き出しの筋肉がショートパンツから伸びて、体の他の部分は全く衣服に覆われていないのだ。

 しなやかに伸びた手足はまるで、サバンナを駆けるチータか何かに思えた。無駄の無い筋肉と、細そうな骨が目の前でリアルに動いている。

「綺麗な体をしているんだな、斎藤…」

 何気なく言ったにしては刺激的じゃないかと思った途端、ふっ…と、斎藤の体が揺れて彼の声が聞こえた。

「触れば…いいじゃん……」

「……」

「…て言い方は、卑怯だな……俺さ、」

 言って斎藤は、はっと顔を上げて大久保と見詰め合う姿勢を取った。

 斎藤の角膜に、大久保の青白い顔が映る。

(だって二人っきりなんだよ、もう―――――)

「あんたが…好き……なんだ………ほんとだよ…」

「…斎…藤……」

「俺、男なのに…ヘンだって、自分でも良く分かってるよ…でも…女が嫌いとかそういうのじゃないってことも…やっぱりあんたは、こんな俺なんて、気持ち悪いとか思ってる…?」

「…いや…思ってない」

「ほんと…?」

「本当だ」

「…サンキュ」

「斎藤」

「ん……?」

「…緋村から聞いたかもしれないが、俺は一度着手したものからは絶対に引かないんだ」

「…うん…」

「…本当に、こんな俺でもいいのか」

 大久保の問いに、斎藤は睫毛を震わせながらも確りと頷いた。

「俺……あんただけのモンになりたい……あんた見てると、腕とか背中とかにしがみ付きたくなるんだよ」

「………」

「ガキ臭いって笑っていいぜ……他のヤツなんかに取られたくないんだ……あんたの周りってキレーな女ばっかだし……笑っちゃうだろ?」

「笑わないさ」

「え…」

「俺は、笑わない」

 言って大久保は斎藤の腕を引いて、斎藤の体を抱きしめた。初めてこんなにも近くに感じた大久保の躯の冷たさに一瞬怯える。

 そんな斎藤に、大久保は低く囁くのだった。怯えた動物を更にくすぐるように。

「やめないからな」

「…うん」

「お前が泣いても、俺はやめないから」

「いいよ」

 斎藤が応えるなり、髭をたくわえた唇が近付いてきて斎藤は目を閉じた。

 あの夜のことを、俺は忘れない。

 繋いだ手の温もりも触った柔らかい髪の毛の何もかもを。

 誓ったんだ、このひとに恥をかかすような真似は絶対にしないって

 このひとが誇らしくあれるように、俺はやるんだって