Akatsuki no Corundum
忘れることなどあるのだろうか 全身の血液が滾(たぎ)るような鋭覚は
あれを何というか知らない たぶん、知る必要もない
ただ俺は確かに生きていたのだ
密やかに気高く燃え上がる 永劫のような灼熱を
「は…ぁ…」
山県の厚い舌が斎藤の白い顎を下から上へと舐めた。首筋に戯れ、戯れてはところどころ小さな傷の残るそれでいて陶器の如く滑らかな肌に自らの跡をつけていった。
こうして互いに咆哮しあうようになってから、幾月が過ぎただろう。斎藤は、既に戻っていた。未だ古傷の疼く山県からみれば憎らしい程に回復した彼は、昼夜を問わず精を出して働き、警視庁内に宛がわれた個室に大量の書類を持ち込んでは折角時間を作って訪れた山県を完全に無視して読み漁った。相変わらず琥珀に澄んだその瞳に、一切の迷いはなかった。
なにがあったのか。或いは、なにもなかったから諦めて正気を取り戻したのか。
長年、その身を統率側に置いてきた山県に、単独での歩兵役を買ってきた斎藤の詳細など分からないし、分かりたくも無い。分かったところで、この男は決して統率されないだろうから。
―――――ならば俺は支配するだけだ。
そう山県は決心した。己の身持ちは何としてでも保持するべきであることを、身を以って山県は知っている。崩したところで、変遷の時代を生き抜くことは不可能だ。もはや政敵のいない今こそが、山県の正念場である。
政敵だと…?
「…ふん…」
山県は笑った。木戸が没して以来長州勢は衰え、残る伊藤はただの小才である。自分には政敵どころか、恩師のみならず同士と呼べる輩すらこの世にはいないのだ。それが可笑しかった。
だが、ふと気が付く。
自分以外に誰もいないのは、目の前で猶も山県を殆ど無視しているのであろう斎藤も同じなのだ。新撰組時代、会津時代、斗南配流、そして明治下。
化身と呼ばれた男のもとに跪いた日々。
「……」
山県の聞き及ぶ限り、斎藤は、一(いち)斗南藩士として雇われたわけではなかった。
『我々は集団を欲している訳ではない』
彼(か)の声が蘇る。
『集団でしか動けない人間は腐るほどいる…むしろ、求めるのは単独行動の出来る人材…訓練されていればいるほど、その価値は上がるものだ』
君もよく分かるだろう。そう言って彼は嗤った。山県を嗤ったとしか思えなかった。確かに大久保の言ったとおり、山県は故高杉晋作のもとで訓練された人間である。それは、いい。解せないのは、山県と異なり斎藤はどう考えても旧幕側であるということだ。
妻を始めとする周囲を旧会津藩で固めている。新撰組というとうに頭領も機能も失った抵抗勢力ではなく、再起不可能ではあるが未だ盟主ともども精神的結束力ある会津藩のなかで息づいているのだ。
山県はそう告げて、「貴方が理解できない」と加えた。
『…我々の戊辰をお忘れになるとは正気と思えませんし、あの男を貴方の傍に置くなど、いつ寝首をかかれるか知れたものではない。見過ごすわけには参りませんな』
呆れ返った声を、精一杯作ったつもりだった。もう何度、こうして意見したことだろう。何度も、ということは今の今まで大久保を説き伏せられなかったことを意味する。いい加減終わりにしたかった。
『…たかが密偵だと言っても?』
山県の気など知らずに問い掛けてくる低い声が浮かれている。吊り上る唇に、やれやれと山県は息をつくしかなかった。
『若い男がそれほどまでにお好きですか?』
苦汁交じりに訊くと、大久保はさも可笑しそうに薄い肩を揺らしながら上着の胸ポケットから舶来の紙煙草を取り出した。
マッチで火をつけ軽く咥えて一度深く吸い込み、煙草を挟んだ指を唇から離して、仄白い手で空に緩やかな曲線を描きそのままこちらにゆうるりと差し出してくる。裏返った手首に浮き出た静脈が異様なまでに青く、掌に刻まれた幾多もの溝がランプの灯りに反射して鈍く光り山県を呼んだ。
細く立ち昇る紫煙に遮られた、その姿は帝王。
尖った爪の先に灯(とも)る温度までを計算し尽くして下された命令に、逆らえる術(すべ)があるなら。
『……――――』
暗い室内のそこだけを目指して進み靴音を鳴らして例の如、山県は跪いた。形良く組まれた細い両足に頬を押し付け衣(きぬ)越しに彼の脛骨をなぞって行く。やがて唇がズボンの膝頭を這う頃には大久保の鳶色の髪の毛がさながら幻影のように揺らめいて、椅子から床へと滑り落ちた。
「………」
何度思い出しても、まるで夢のようだと思う。鮮やかに過ぎ去ったなんという儚さか…。
確実にこの腕に抱(いだ)いたものの、しかし、いま目前にある存在――――斎藤―――に比較して、果たして彼はどれだけ自分にとって明(あか)いだろうか。
密偵宅に突然乗り込んできた山県を一瞥することもなく、まるで死の直前の大久保のようにこけた頬に暗い影を潜めていた斎藤。行灯を囲むようにして灯りに戯れる羽虫の微かな羽音しか響かぬ部屋の障子を開け放したまま、夕(ゆうべ)から降りだした雨に煙る東京をぼんやりと見つめていた。
『斎藤』
『………』
『口で応える気はないか』
溜め息を吐きながら山県は斎藤に近づき、額にかかった彼の前髪をその太い指で掻きあげる。その腕を乱暴でもなくまた情的でもなく薙ぎ払い、斎藤は視野を窓外へと戻した。
軽く溜め息を吐き、彼の背中を胸に抱くようにして胡座した山県は斎藤の浴衣を寛げた。白い肌に指を這わせるとき、斎藤の瞼がひくつくのを山県は知っている。違う、と言いたいのだろう。大久保の掌は酷く冷たかったから。
斎藤は山県の熱い掌に肌を細かく粟立たせた。その反応を愉しむように、ではなく寧ろ彼を慰めるように山県は指で浮き出た肋骨をなぞった。斎藤の躯はこの幾月で余計に痩せて、鍛えられた最低限の筋肉と腱と骨としかその稜線を辿ることができなくなっている。山県は斎藤を後ろから抱き締め、無駄ひとつない彼の首筋に唇を宛がいながら斎藤の帯を解き、細い躯を畳に押し倒した。
そしていま山県の躯の下で山県の体熱に時折びくりと震えながら金の虹彩を開いてぼんやりと虚空をみている。ランプの灯りをあびて艶めく肌はじっとりと汗ばんで、確かに斎藤の生(せい)の姿を証明していた。
大久保の乾いた肌とは異なり、花びらかなにかを撫でたような感触はこれが本当にあの幕末を駆け抜けた剣客のものなのだろうかと疑問に付せずにはいられぬほど滑らかで、かといって女の肌のようなしつこさがないため幾度絡み合っても不快に落ちることもないままに、山県の太い腕のなかで妖しく息づいている。斎藤の放ったものが山県の掌に濃く絡みついている。
体を伸ばして、山県は斎藤をみた。
煌く瞳はこうして組み敷かれる夜でもランプを反射している。まるで宝石のようだと思った。
斎藤の瞳の色に大抵の人間は驚き恐れをなして金や琥珀色などと表現する。未だに壬生狼と蔑みながら怖れるものもある。檻に入れられて人肉に飢える狼だと。
確かに直接的ならそれは言えると思うのだが、洋行したおりに山県は、地域によっては琥珀を燃やして香りを楽しむ習慣があると耳にしたことを思い出してから、斎藤の目は性質としては琥珀と異なると感じるようになった。
何故ならば、斎藤には煙草の匂い以外、体臭らしきものはないからである。実際かなり薄いのだろう。表裏差激しい政治の世界に身を置く所為か、斎藤に比べれば自分のほうが余程濃いと信じてさえいた。
だから寧ろ斎藤に相応しいのは、欧羅巴で数々見た装飾具のなかでもとりわけ山県の目を惹いた鉱石―――――
透明で、澄んでいて、冴え冴えと冷たいくせに中枢で静かに燃え続けて濁ることを知らない、青いコランダム(サファイヤ)。
山県は鉱石の色を思い出しながら、自分の下に敷かれている白い腿に厚い掌を這わせその奥を弄った。瞬間びくりと細い体が跳ねて、形の良い顎が不意に奥歯を噛み締める。まるでそれが、大久保以外に甘えた声を漏らすことを決して許さないとする斎藤の頑なな心情を表象しているようで、苛めいた山県は、乱暴に体を進めた。
「あっ…あぁ…」
斎藤はその美しい金の瞳(め)を閉じて整った睫を震わせた。山県を感じなどしていないだろう、おそらくは、彼の人の面影を追うためだけに。
…こうして体を合わせていても、互いの瞼の裏からただひとりが消えてなくなることは決してないのだ。
彼に重なっていく斎藤の躯。太政官の密室でみせつけられた二人の様子に立腹と同時にドス黒い嫉妬を覚えた日々が、いまは懐かしくすら思える。
空間が、恐ろしいほどに澄んでいた。
執務室の扉を開けた瞬間、廊下へ流れ込んでくる眩しくも誇らしい透明な空気が、この汚れた肺臓を通り抜けた。そのあまりの輝きに、一体何度胸が竦みかけたことか知れない。
ここは至上の烙艶(らくえん)なのだ、約束された未来とともに。
それは、残酷な運命に飲み込まれる侭ひとりを残して途絶えてしまったがしかし、彼を求めて彷徨う魂はその崇高さ故に例えその身は隔てても猶、しなやかな背中を伸ばしてひとり闇を歩いている。やがて空からの声が彼を呼べば、躊躇うことなく彼はその両腕を遠く伸ばして悠遠の彼方を目指すだろう。
その光景がみえる気がして、思わず山県は感嘆を声に出し、斎藤のなかに放っていた。
「ああ……」
同時に達したらしく、涙で潤み僅かにその双眸から覗いた斎藤の瞳が煌いた。そして彼の精神は遥か高みを目指して駆け上るのだ。
天を睨み地を蹴ってどこまでも駆け上る。その姿はだれも寄せ付けず追随も許さない。いつしか斎藤は己の琥珀を溶かしながら山県が恋焦がれた男の炎となって、ともに青く輝き続けるのだ。
あのひとが夢見た、生まれ育ちと関わり無く誰もが生を謳歌する時代にすべてのひとが仰ぐであろう、晴れ渡る空のために。
…この日、山県はいつになく穏やかだった。思い出したくなくなるほど執拗なのは常と変わりないが、彼の行為の奥底に、何かしら情が混じっているのを斎藤は肌で感じていた。いや、それを感じたのはいまより少し前だったのかも知れぬ。
ただ、この想いには覚えがあると思った。斎藤自身も抱いているからだ。
しかし山県に応える気はない。なかったから斎藤は固くその双眸を閉じていた。彼が応えたい人物は、もういないから。
いないのだ。
「………」
斎藤は息をつきながら起き上がった。窓の奥にはあと少しで夜明けがみえる。
人の死など自分は慣れきったものと信じていた節があった。そうでなければ斎藤は斎藤一たり得なかったし、動乱の真っ只中で生き残れるはずがなかった。多くの死臭に塗れ、血痕で煙る大地を踏みしめて歩き、出逢ったひとは
いまは亡骸。
「……っ」
瞬間、内股が震えて山県の迸りがどくりと溢れ、そのまま白い腿を緩く伝って落ちた。応じて呼吸が止まる。後に吐いた息が震え、静寂に溶けて瞬く間に闇に同化した。…こういうとき、いつも冷たく唇を奪われた。
低い声で斎藤を笑って。
『泥眼(でいがん)……』
あるとき大久保が、未だ熱の冷めない体を持て余していた斎藤の目を覗き込んでそう呟いた。
『泥眼?』
『能面の金目は高貴な女の嫉妬を表すそうだが…お前のは…少し違うな』
少しどころか大いに違うと言おうとして斎藤はやめ、大久保の灰色の瞳を睨みながら別の台詞を吐いた。
『俺は、目の色の薄いヤツは薄情だと聞いたぜ?』
『……』
大久保は、髭だけでにやりと笑った。その、彫りの深い容貌をよく覚えている。いやらしく笑った貌も生気を失った貌も、訪れた最期のときも。
こけて青褪めた貌を、形も残さぬほどに切り刻まれていた。
しかし斎藤は、今も猶大久保をひとり逝かせてしまった己の不甲斐の無さを自責しているわけではなかった。彼のなかで、そういう時期は既に去った。あいつは死んだのだ、他の奴等と同じように。悔いても既に遅いのだ。…それが彼に残されたすべてであると、腹を括るほか、自分には残されていないと斎藤は自覚し出していた。
…そして山県に抱かれながら、気づいたことがある。
例え山県と幾夜を重ねても、決して大久保の記憶は薄れないということだ。実際に抱くのは山県でも、斎藤は大久保に抱かれているのである。
記憶は薄れなかった。虚しく斎藤のまえに広がる現実にも汚されることも、歪むこともなかった。幾多の戦乱を越え血の雨を浴び不必要なものは人間だろうと過去だろうと構わずに捨てて来たのに、たったひとつの過去がこんなにも重いとは想像だにしなかった。
木椅子の肘掛に乗せられた骨のような手指に蹂躙された夜…低い声…鼻先で笑われ、思わず高鳴った胸にあてがわれた薄い掌の感触がこびりついて離れない。
細胞のひとつひとつに彼の息がしつこく塗り込められている。それを無くしては、生きていけないというくらいに。
「は……」
斎藤は右手で震えだした左肩を押さえた。それでも震えは止まらなかった。
大久保を亡くしてから、“それ”を思い知らされることが苦しかった。認めたくないがために山県に抱かれてきたのではないかとさえ思うほどだった。
しかしいまそれを認めることこそが、斎藤にとっては、大久保との過去を処理するのに最良である気がしてならなかった。
(そして多分、こんなふうに思わせているのも、そのためなのだ)
「ふ…ぅ…っ」
斎藤は息を吐き出した。吐き出しながら、いまのいままで己を埋め尽くしていた感傷のすべてと別離できると確信さえ覚えていた。
このさき生きるための真実(こたえ)は、ひとつ。
大久保を捨てるなんて出来ない。捨てたら、俺は生きていけない。
もがき、苦しみ、数え切れぬほど現実に紛れて消そうとしたが、ついに彼を捨て去ることができなかった。
何故か。
それは大久保が既に斎藤とひとつ身だからである。
あいつは、俺なのだ。そして俺もあいつだ。例え体躯が隔てて天地に引き裂かれようとも、俺たちはひとつなのだ。
だからこそこんなにも、離れることが辛いのだ。
「く…」
ならば離れなければ、いい。
既に肢体が遠かれども、忘れなければいいのだ。
そうだ忘れない…! 忘れてはならない…彼の記憶を守りつづけるのだ!
例えこの身が血飛沫を上げて果てても。
命朽ち果てるそのときがきても。
「う……」
こうして孤独を生き抜くことが、貴方に見(まみ)えた私の誇り。
「……―――」
涙が零れた。
零れて、幾度となく大久保が頬を寄せて慈しんだ胸につたって流れた。
重く憂いた瞼を上げて 目の奥に
別れたときと同じ朝日を映しながらに希(ねが)う
あなたに架された永い永い眠りがこの澄み渡る青空の如く 酷く幸福であらんことを
御魂(みたま)安らかならんことを
そのためになら何度でも立ち上がるから
こうして俺が忘れぬ限り
永劫御声(みこえ)が胸を満たしゆき 俺は
灼熱のままに生きるのだ
何度でも
何度でも
…何度でも………