Akai Paradox



 後ろ手に縛られた姿勢のまま、斎藤は冷たい床に投げ出された。

「…くっ……」

 額を強かに打ち付けて、意識が遠のきそうになる。その名の如く強姦され続けたために肉体が自分のものではないような感覚であった。

 視界がやたらと暗い。犯された体内からはもはや腰から下を動かせるだけの力は出なかった。

 暗闇の中で耳をすまして気配を窺うしかできない己が憎らしい。

「……断ったそうだな」

 部屋の中央でひとり優雅に椅子に腰掛けた山県の声が、彼が組んだ脚に連結する硬い靴のつま先から数尺向こうで床に伏せる斎藤の神経を逆撫でる。が、斎藤は反応することはない。

 声と言う声が嗄れていた。繰り返された激しい姦淫に、口をあけるために顎を上下させるのも辛いのだ。

「……」

 沈黙に、山県が椅子から立った。靴音が床に横顔をつける斎藤の頬骨に響いて、近づく振動が斎藤の誇りを蘇らせる。息を詰めて両腕と足首を戒める縄を解こうともがいたが、一向に緩む様子はなかった。

「!」

 その間に斎藤の横へ回った山県が、足首まで剥かれたほかは一糸も纏わぬ斎藤のきつく縛られた腕を掴んで仰向かせた。硬いだけの床に自由を許されない腕と手首が打ちつけられて、意識して背中を反らせないと自分の体重に潰されそうになる。

 その格好をさせて橙色のランプの灯りに露になる斎藤の胸に、山県の嫉妬はさらに激しい感情へと変わる。生まれて初めて覚えた、地獄で煮え繰り返る業火の如き怒りへと。

 山県は二重瞼をカッと見開きその下の大きな黒目を潤ませた。

「…ハっ!……っ!!」

 尖った音が無惨に空間を引き裂く。山県が腕を振り下ろすたびに、斎藤の白い肌が裂けて真紅が飛び散った。

 振り下ろされる鞭は、今は亡き彼の想い人の膚を望まれて傷つけたもの。恋うひとには出来ないはずの行為を残酷に命じ、いたぶられて見世物小屋の犬猿のように鳴いて悦んだ、在りし日の彼のひとの。

 同じように白い膚が紅く泣き、喘ぎ声が室内に充満する光景に、山県の悲哀は募るだけであった。いつのまにか下唇は噛み切られて血が滲んでいた。

 いままでの苦悶を紛らわすように振り下ろす。振り下ろし続ける。

「っ…!…ゃめろっ!!」

 許しを乞うても、やめない。

 やめるなと言ったのは、貴方だから。

 …命じられて、それに服従するしかなかった私の気持ちが、貴方に分かっただろうか。一体誰が、真に想うひとを傷つけられるのか。どうして痛みに歪む顔を喜んで作らせることが可能だろう。

 命令に顔を蒼白させた山県に告げた大久保の言葉は、山県の心を痛烈に打ち砕くだけだった。

『もっと強く……』

 そう微笑んで胸を突き出した貴方。…従うしかなかった、私――――

『ッ!』

 目を閉じて喉を反らせながら悲鳴を上げる大久保は、まるで牢獄でわなないて蠢く罪人のようだった。痛みのみを己に課してそれしか許さず、磔にされるのすら厭わないのではないかというほどの狂態がありありと見て取れた。

 その己に酔っているのか、大久保の唇から洩れる甘みを帯びた苦しげな喘ぎが、鞭打つ行為に耐えられない山県を奥底から疼かせる。衝動が脳髄を貫いて、鞭を床へ落とした体が大久保を抱き締めていた。

『…でき…ません…これ以上…』

 山県の服が大久保の血の香(か)を含んでゆく。胸に抱いた躯の薄さに山県の太い腕が震えた。

 数ヶ月の間に大久保の体は見るかげもなくなっていた。眼窩は深く窪み、元々細かった肉付きが落ちて、いつ止んでおかしくないくらいに弱った呼吸が彼の生命を現在に繋ぎとめているような状況であった。

 それだけならば自分も含めて周囲の人間が短期間でも療養するようにと勧められるだろうが、…大久保の罪深さは覆いようがなかった。灰色の瞳は透明度を増して蝦夷にあるという幻の清(きよ)らに澄む湖を思わせ、皮膚から発せられる空気には夥(おびただ)しい清霊が漂っていた。

 …数年前から国家建設を単身で開始したその人とは思えぬほど、疲労困憊した大久保。彼が自分と向き合うに付け、重ねて脳裏に思い浮かべるのが誰であるかなど、いかな山県であろうとも想像はついていた。丈夫な体躯と大きい真っ黒な目を食い入るように見つめる大久保の瞳に現われるわずかの動揺の理由を知ったのは、西郷従道と欧州視察した明治二年のときであった。

 王政を否定し共和制を成立させようとする気分で沸き立つパリのホテルで食事を摂っていた山県であったが、いかんせん食欲が全くなく水を飲み込むのが精一杯であった。理想と信じていた君主主義を倒すなどという猛挙は、由来王政復古のために人生を捧げて翻弄してきた彼にとっては信じられない現象であり、それは同行していた従道も感じ入っていたことだった。

 だが生来陰気な山県とは異なり、従道は数回食欲をなくしただけで、そのときは目の前で料理を平らげている。十数分たっても山県の食指が動かないのをみた従道が、ぼそりと昔話をし始めた。滅多に口に出さない兄である隆盛と大久保の、昔話を。

 帰国して大久保の傘下に入り、しばらくして大久保に“誘われ”たわけだが……。

 山県自身、大久保という人物を間近にみたのは幕末、彼が狂介と名乗り奇兵隊総督であった頃である。その頃大久保を見ても、身分の違いからとくに何も感じなかったのだが、……感じないように努めていたのだが。

 明治後は、違った。とても並ぶことはできないが、太政官で顔を合わせることはできる。そして今、貴方は腕の中にいる。

 なのに、漂うこの死の香りはどうだ――――――。

 西洋で聞いた十字架を背にして燃え上がった神聖。焚刑のサヴォナローラ。

『……っ!!』

 貴方は消えてしまうおつもりか!

 激情に襲われる。抱き締める腕に力が入りそうな自分を極力抑えつけて、山県は大久保を抱いた。

 普段なら抱き締められることを厭うはずの大久保には、振り払う気力すら残っていなかった。厚い胸に抱かれたまま抵抗も出来ない。山県はそんな大久保の頭にそっと掌をあてがい、肩口に大久保を埋めた。

 貴方がどこにも行かないように。

『……』

 大久保は無言だった。それがさらに辛いことを貴方は知っておいでだろうか。

 大久保の視線は山県の肩から覗いて暗い宙をじっと見つめている。何を求めるでもなく、彷徨うでもない。

 鳶色の柔らかい髪の毛が山県の指に絡んで淡く香っては、通り抜けていった。山県は腕の中の存在を確かめるようにその行為を繰り返しすしかなかった。

 彼の人を思い出す。いかな栄光を身に纏(まと)うことも約束されていたであったろう人生に、あろうことか死への情念を注いだ、貴方の遠い想い人を。

 巨体に輝く黒曜石の瞳は、それだけとれば自分も似ていた。

 従道の話を思い出して傷ついた山県であったが、それでも共に過ごせるのならばそれで構わなかったのだ。命じられるまま乱暴に扱うことを強制されても、私は嬉しかったのに。

 薄い背中を抱く山県には、血色に染まった傷だらけの片翼が生えている気がした。いまにも羽ばたいて黄金に輝く天へ還りそうな。

 ……金の瞳をもつ藤田になら、このひとを止めることが可能だろうか。ふとそんな疑念が浮かんだ。

「………」

 それが叶わなかった。山県の最後の希望が、叶わなかったのだ。

「…ァッ!…っ!!」

 だから許さない。どうあっても赦せない。

 いまもなお貴方に愛された印が肌に色濃く残るこの男に私は鞭打つのだ、あの日貴方に命じられたように。

 山県は鞭を振り下ろされるたびに床で飛び跳ねる斎藤を見下ろしながら、怒りにまかせて行為に没頭していた。

 斎藤の胸に残る、大久保が死んでから一月以上を経ても消えない薄紅の跡を否定するかのように、新たな血色の痕(きず)を刻みながら。




 顔を蒼褪めさせて突然書庫から出てきた山県の姿に、川路の脳裏には数刻探し続けている斎藤が重なって見えた気がした。靴音を響かせて廊下を去る山県が視界から消えた後、管理室から奪ってきた鍵を扉に挿し込む。

「――!」

 床に全裸に近い姿で転がっている斎藤を見つけ、慌てて駆け寄った。

 腕に抱き上げたが、息も絶え絶えで既に意識はないらしい。持ってきたランプを床に置いて、とりあえず服を着せて夜には急激に気温の下がる部屋から出す準備に取り掛かった。

 肘屈させられた両腕をきつく縄で縛られている。足首もだ。相当暴れたらしく、縄が肌に食い込んで鬱血していた。さらに目を襷(たすき)で覆われて視界を閉ざされている。

 痛々しさに目を瞑りたくなる気持ちを必死に抑えて襷を除き、部屋の隅に捨て去られていた制服を着せると、急ぎ部屋を出た。

 馬車を走らせている間中、斎藤は何事かをうめいていたが、川路には聞き取れなかった。

「……」

 目を覚ますと同時に激痛が全身に走った。

「!…――は、ァ、はぁ…!」

 胸を煽がせて深く呼吸しようとするが、その度に胸の傷が血を滲ませて巻かれた白い包帯の感触にすら痛みを覚えた。

 重い瞼を何とか持ち上げてぼぉっと明るい空間に自分以外の気配を感じ、視線を泳がせる。

「…!!」

 斎藤にとって最も見たくない存在が横に膝を折っていた。

 口を抉じ開けてそいつの名前を叫ぼうとした。が、声が出ない。

「…ァ…!…っ」

 掠れた音が空しく吐かれるだけだった。

 だが動かせない体のなかで、唯一自由の利く金色の瞳でそこに控える川路を睨んだ。

「―――眠れ」

 川路は死んだ魚のような目でそう答えただけだった。

 しばらく経っても斎藤の瞳が開かれたままなのを見て、川路はたらいに汲んでいた水で濡らした手ぬぐいを適度に絞り、斎藤の瞼の上に被せてやった。冷たさに肌を強張らせた斎藤であったが、

「……出て行け」

 そう呟いて、眠りについた。




 障子から洩れる月明かりに淡く灯された斎藤の青白い肌を見つめながら、川路は今日開かれた極秘会議を思い出していた。

 大久保が死んだのを受けて内務卿に就任した伊藤博文から依頼されて、大久保の頃に雇った密偵の一部を川路の警視庁から内務省に臨時に貸し出すために、ノミネートされた密偵を召集した。

 内務卿の座についた伊藤の前で伊藤の命令を聞く密偵のなかに、ナンバーワンである斎藤も当然並んでいた。

『君たちには是非とも私のもとで任務遂行してもらいたい』

 密偵に雇われた人間のうち、招集されたのは一癖も二癖もある連中であることもあって、伊藤内務卿の指揮下に入るのは任意とされた。

『ふざけるな』

 一言だけ言い放って、真っ先に部屋を後にしたのは斎藤だったのだ。人斬りの目を向けられた伊藤は真に怯えて、川路に制止させることも忘れ呆然と斎藤の背中を眺めていた。

 結局残ったのはわずか数名。……明治政府が倒れるのは時間の問題かもしれないとさえ川路は感じた。

 断った密偵だけではない。今日の山県の如くに太政官の官吏らも落ち着きを喪って、見えない将来に怯え、その怯えを打ち消すためだけに大久保の造った土台の上に脆い泥を塗りたくっていた。

 狂っている、という表現が最も相応しいであろう。

 ひとも時代も狂っている。

 大久保卿――――………

 貴方を失ったことは、何よりも大きな創痍(そうい)です……