KIMI ga JINSEI no Toki







 ときは待ってくれない

 近づき、掠めて、過ぎ行くばかり






 東京は快晴が続いている。

 湿度の少ないこの土地で珍しく雨雪が鬱陶しく感じられた時期が過ぎた頃、斎藤が役に一隊員として向かうことが正式に通達された。無論大久保の直接の管轄ではなかったが、彼を護衛として雇っている関係上、川路から許可を請われた。

 迷いは無かった、といえば嘘になる。

 既に始まっている政府存続を賭けた戦いに政府軍きっての剣豪を向かわせることは至極当然のことであり、斎藤を往かせるのは政府統率者として回避の許されぬ使命であった。

 しかし胸の深くには、辛うじて沈んではいるものの何がしかの弾みを受ければいまにも喉から飛び出しそうな科白があるのだ。

「………」

 ―――――――この感覚をなんと言おう?

 大久保は指で貌を覆った。その指は彼から見える視界の極一部を閉ざしただけで、現実には何の解決も導かなかった。

 わかっているのだ、すべて。

 この戦いは、政府軍の勝利で完全に終わらせるべきものであり、敗北は絶対に許されない。日本国の過去のため、未来のため、賊軍は壊滅されなければならない。そのためにも一切の私情を挟んではならない。

 …わかっている。

 それが、なにを意味するかも。

「ふ…」

 知らず、溜め息が漏れた。それは苦汁とも取れて、大久保の机についた両肘が鳴る。脳裏に焼き付いた記憶はいまもなお鮮やかで、そのことが更に大久保を苦しめるのだった。

 広い背中。

 大きな躯。

『一蔵……』

 高崎崩れの後の暮らしの中で、あの声だけが俺の支えだった。城下士に何をされようと“あれ”さえ居れば平気だった。平気だから、生きてこられた。太政官が征韓論で割れて、“あれ”と自分が当事者になろうとも生きてこられた。

 同時に、こうなることを知っていた。既に大久保たちはそういう、すべてを飲み込め得る性質であり、互いを理解できないはずがなかった。

 明治六年十月二十三日。

『今後(あと)の国事(こと)は、よろしゅう頼ンみやげもす』

 それは、口先だけの嘘。

 真実は“お前の正義を以って俺を殺せ”を指した。

 だから頭に血が上った。冗談には取れなかった。普段から諧謔じみた男であるが、あのときだけは絶対に違った。

 ――――殺してくれ、だと? 殺されたいのか?

 俺に殺させるのか。

 お前を。

『………』

 ぎりりと睨むと西郷は静かに微笑んだ。声を出さずに微笑んだ。それだけですべてが、こうして向き合うのはこれが最後になることが、わかった。






 ときは 止まってくれない

 如何にこの心が壊れようと 決して止まらない

 嘲笑うかのように運命を刻み続ける

 それが唯一の使命であるかのように





 執務室で山積みにされた書類を片付けているおりに、ひとりの薩人が訪ねて来た。

 名を、玄丈将明と言う。見た目大久保に瓜二つの男であった。

 官職にはつかずに東京で刀を打っていると言った。…それは、薩摩勢を率いて奔走する大久保に対する痛烈な批判でもあった。

 尤も、大久保は気に留めない。誰に何を言われようとも、何にも動じない自分で在り続けることを、あの日以来自らに強いていたのだ。それが己に課せられた使命と信じていた。

 玄丈は勧められもしないのに部屋にあった椅子に座り、物珍しそうに室内を目で物色した。

 彼は、桐野らのような短絡的で愚かな人間では決してない。政(まつりごと)に関心がないだけで、大久保は彼の思考能力を買っているくらいである。それは西郷も同じだった。

 良く似ている、と言う西郷に大久保は眉を顰めてみせた。

『似ちょらん』

『似っちょる』

『…似ちょらん…っ』

 珍しく大久保が意地を張ってみせたのは、西郷が玄丈を閨に引きずり込んだという噂を聞いていたからである。それまで玄丈を、常に周りにいる人間に比べて全くといっていいほど意識したことのなかったが、その話題を耳にして以来、どうも玄丈が気になって仕方がなかった。

 そして見かける玄丈将明は、薄い茶色の瞳以外は酷く自分に似て、それでいて完璧とも言えるほどの示現流剣法を身に纏った男であった。対して、大久保は幼少時から虚弱体質で、剣法なぞ真似事も出来ない。

 正直、悔しかった。大久保は冷淡で沈着な人間として傍から見られているが、その実は自分でも手を焼くほどの情熱家―――――西郷と刺し違えようとしたのも、それ以外の事柄もすべて情熱が故の本気なのだから―――――である。だから、玄丈という人間が薩人によく好まれるところの颯爽という、大久保が決して持ち得ない魅力を持っているとわかったときは、悔しくてたまらなかった。

 彼が政治に興味がなかったことは大久保にとっても玄丈にとっても幸運だったろう。或いは玄丈がそれすらを見越していた、という疑問が大久保の心底にこびりついて離れなかったが、多くの薩人のように職を求めて大久保の家の敷居を跨ぐこともなく、また彼の噂が流れることもなかったため忘れかけていた。

 だから政局の落ち着いたいまになって訪ねて来るのが大久保には解せない。

 一体何の用だ…

 喉の奥から出かかった質問を食道に流し込みながら、大久保は彼に背を向けて書棚へ歩き、書類の整理を続けている。

 玄丈は黙ったままだ。薩人にとってこういう態度は極ありふれたものだから、とくに何も感じないが。

「……」

 大久保は思考がそこまで来て、一度息を吐いた。

 感じないどころか、やはり玄丈の気配に聞き耳を立てているのだ。

 こんな俺の姿をあいつが見たらどう思うだろう。

 金色の瞳を想像しようとして、やめた。

 黙っていたはずの玄丈が、口を開いたのだ。

「…刀砥ぎをしちょると、見えぬもんが見えるもんでごわす」

「……」

 妙な語り出しだ。思いながら大久保は自分の作業を続けた。書類をめくる音が二人しかいない部屋に響き、それに玄丈が椅子から立ち上がる音が重なった。

 そのまま草鞋で歩いて、玄丈は窓枠の下の壁に立てかけられた日本刀を手に取った。

 …それは斎藤の刀である。ついさっき、捕り物で得た男を尋問するために警視庁に行くと言って、放り投げて行ったものだ。警視庁にサーベルもあることだし、別に常時刀を帯びなければならぬ性分の、そんな腰抜けではない。

「触れるな」

 玄丈の動きはすべて分かった。知らずのうちに、振り向いた大久保の唇が動いていた。

 その刀に触れるのは、主以外許されないのだ。しかし玄丈は大久保の言葉に構わず鞘を払って刀身を抜いた。

 ぎらり。

「触れるなと言っている」

 刀は斎藤の分身…“それ”に触れていいのは自分だけである。思いながら目を軽く細め、大久保はもう一度繰り返した。

「聞こえんか? それは君が触れていいものではない」

 薩摩弁で語る気にはならなかった。玄丈を前にした薩摩弁は余計なことを思い出させる。

 薩摩に隠遁している男を。

「離れろ」

 過去に襲われそうになって声がやや強張った。その声音の変化に気づいたのか、玄丈は抜き身を覗いて俯いていた貌を漸く上げて、大久保をみた。

「……分かりますか?刀は持ち主のすべてを受け継ぐということを」

「……」

 そして玄丈は思いがけない言葉を吐いた。

 大久保と同じ唇から。

「これは、私が一月前に砥いだものです」

 玄丈は斎藤の抜き身を握った手首を捻くった。刀に窓から差し込む光を反射させてその無駄の無い曲線を薄茶色の視線で追いながら続けた。

「正直、驚きました。これほどの業物には明治の世では逢えないと思っていた…刀自体ではなく持ち主のもつ“気”のことです」

「……―――」

 そんなことは分かりきっている。いまさら誰かに諭されることではない。

 下らん。

 大久保は玄丈に再び背を向けて、書棚に戻った。そのあいだにも玄丈の低い声が大久保を捕らえて離さなかった。

「凡その剣豪は己の腕を極めたと判断すると次に名の知れた業物(わざもの)を求め、手に入れようとする。或いは己の腕ではなく刀や剣技にその業を頼もうとする。だからそういった人間のもつ刀の“気”は、微かであれ自身に対する不満を含みます。…しかしこの刀にはそういうものは全くない。あるのは信念だけです」

 玄丈の科白に大久保はフ、と鼻で笑った。そして動かしていた腕を止め、答えた。

「…俺がそういう人間しか必要としないことは君も良く知っているだろう。それがどうかしたかね」

 大久保の言葉に玄丈は柄を両方の掌で玩(もてあそ)び始める。手首を返して刀の重みを前腕に伝えさせ、切っ先を上下させて空気を掻き回した。剣先から鍔元までが床に影を作ってさながら刀の本来の持ち主が大久保に喰ってかかってきそうな姿が目に浮かんで、大久保は鼻を鳴らした。玄丈は続けた。

「しかしいくら砥いでもその信念が掴めなかった。これは可笑しなことです。掴めないはずがないのに、あと少しのところで掴めない。こういった場合考えられる原因は二つです。一つは、この刀の持ち主が信念をひた隠しにしていること。しかしこれほど強い“気”を携えている刀においてそれは考えられません。つまり原因は二つ目のほうということになる」

 薩人の割に言葉が達者だ。焦らすような口調にうんざりし始めた大久保は玄丈に聞こえるように大きな溜め息をついた。

「随分酔狂な講義だ…それから? 二番目の、その理由とやらはなにかね」

「……」

 玄丈は口を噤んだ。彼から発せられていた気配が呼吸を止めたので、それを弾みにして大久保はくるりと踵を返して玄丈に向き合った。空間に舞う漆黒の洋服が僅かに風を起こした。

 二人の鳶色の髪が揺れ合う。そこだけ色彩の異なる視線が、絡む。

 向き合った途端、玄丈は唇を開いた。

「…やはり気づいておられない」

「なにが? 時間がないんだ。もうすぐその持ち主がここに現れるが、そうなれば君の命は保証できない。なにせ不死身と謳われる男でね…」

 これがもし山県への科白ならば、大久保は唇の片端を吊り上げていただろう。しかしいまの彼にそういう余裕はなかった。

 あるのは、玄丈に対する憎しみ。なにもかもを知ったような口調で捲くし立てることが出来ることへの嫉妬。

 なれそうでなれない瓜二つの自分。

 そして自分の影は言ったのだ。

「二つ目の理由は、持ち主の“気”が刀つまり持ち主だけに留まらず、ほかの対象、更に言うと持ち主以外の人物へ向かい、それが常に完全に受け止められているということです」

 言って玄丈は視線で大久保の瞳を貫いた。

 心臓までも貫いた。

 ここまで来て、大久保は玄丈の意図することが掴めた。

「…だまれ…」

「先だって、川路殿が訪ねて来られました…私に、戦への徴募に応じるようにと…迷いましたが…引き受けました…真実をみるために……偶然かは分かりませんが、この“主”が私の配下につくことになりまして…聞けば新撰組に所属していた大幹部…」

「黙れ……」

「斎藤一…忘れるはずがない……会津で彼が篭っていた如来堂を襲撃したのは私ですから……彼は生き残り…貴方に逢った」

「―――殺さなくて良かったな。あれの息の根を止めていれば、俺が貴様を許さなかった」

 本音が出た大久保に、玄丈はまるで自分のことのように苦しげに眉を顰めて言った。

「そこまで求めた人間をこれから苦悩で満たすことを、貴方は許容されていますか? いえ、していませんね。寧ろその逆だ。…先生を下野させたおりに貴方は腹を括られたはずです。二度と誰も苦しめないと」

「黙れ…っ」

 声に力が込められない。

 唇が震えて零れるなにもかもが真実だった。

 こけた頬を流れる、敗北でさえも。

「そのためにこうしてここにおられるのでしょう」

 ――――己の一身にこの世のすべてを背負ったふりをして、その実(じつ)周りのすべてを引き擦りまわしている――――

 “あれ”は俺のそういう性質を理解(わかっ)ていた。だから俺の影に徹する役を引き受けた。あの別れの日の微笑みは、自分にすべてを任せろの意味だったのだ。

 抱えきれない重責を任せろと。だから安心して進めと。

 俺の、望むままに。

 そしてその結果がこれだ。それすらも…“あれ”は許しているのだ。

 俺は許せないでいるのに。

 知ってか知らずか、玄丈の声が更に俺を追い詰めた。

「何度でも言いましょう…。廃刀令が発布されて以降の刀というのは、単なる飾りでしかなくなった。だから刀の持つ“気”も相当濁りました。迷いといつか刀を奪われるという怖れ」

 言いながら玄丈は剣尖を天井に向けて、窓からの日光を刀身に当て、眩しげにそれをみた。なによりも美しいと思った。

「しかしこれは違う。悲壮感がまったくない。あるのは誇りです。生きる――――信じて生きていることへの誇り―――そしてその信条は信頼でも信用でもない――――貴方も御身に覚えがおありでしょう…捕らえたい…ただひとりへの……、」

「…やめろ」

 大久保の姿勢がふらついた。

 このままここで消えてしまいたかった。

 それでも声は続く。既にそれは玄丈の唇を借りた大久保の声であった。

「………何故、会津の英雄ともなった剣豪のもつ刀がこんなにも悲壮に満ちていないかがお分かりですか?」

「………」

「持ち主の感情の向かう先が廃刀令を出した本人だからです」

「…ッッ!」

 瞬間、ありとあらゆる感情が溢れ出して、大久保の腕は書類を捨てて玄丈目指して掴みかかっていた。蜘蛛の脚のように痩せ
て尖った爪間を開いて、襲い掛かった。

 しかしされるままの玄丈ではない。玄丈は、手にした斎藤の刀で虚空を切った。衝撃が、大久保の左頬の皮膚を裂いた。

 はらり、と鳶色の髪の毛が木の床に落ちる。

 血が零れ、虚しく伸びた大久保の首を濡らした。

「信じているのに…貴方を信じているのに、貴方は彼を突き落とす…しかし突き落とされても彼が貴方を憎むことはしないでしょう…貴方への想いは決して憎しみではないのだから…貴方を憎まずに彼自身を憎むのです」

 昔から、玄丈が嫌いだった。抹殺したいぐらい嫌いだった。

 認めるから。遠くではなく目の前の真実だけをみつめ、受け入れるから。

 そのためだけに生きられるから。

 そうするだけの強さがあるから。

 悔しかった。一方で、妬ましかった。

 今まで大久保が求めてきた人間に共通するのは、限りなき崇高さと強靭さであった。斎藤もまた、そういう存在なのだ。

 それは、大久保が弱いことの裏返しである。

 そして大久保は己の弱さ故に、彼らに剛(つよ)きを要求し彼らはその身をどこまでも磨り減らすのだ。そして薩摩に還った“あれ”のように、身を滅ぼしていく。まるで自らそう望んだようにみせて、大久保を守ろうとする。

 ―――――何故、俺を責めない。誰よりも消えるべきはこの俺なのに、どうして命を賭(と)してまで俺を生かすのか。

 死者が蘇る。大久保の思想のためにこれから死に逝く彼らの貌が浮かんで、大久保は呼吸を止めた。彼らの身体にもたれて安住していた過去が頭を擡げて、息をする資格すら奪ったのかもしれなかった。

「……ッ…」

 苦しい。しかし苦悩は薩南から続いていた。

 或いはこの世に生まれ出でるまえから宿命付けられていたのかもしれない。

 高みを望んで手を伸ばしても、決して天には届かない。その度に克己しても身を擦り切らすだけだった。

 辛かった。弱かった。なにをしても結果胸が押しつぶされそうで、夢みることさえ億劫になりかけた。そしていま無二の人間さえも失おうとしている。

 生きれば生きるほど、亡骸だけが増えていく。

 しかし大久保は知っている。斎藤を彼らと同じ目には遭わせない、それだけは出来ないことを。

 煌く剣尖を休ませて一瞬前まで生きていた遺骸を見下ろすときの頬。幾度となく敵の血を浴びても決して濁らない背中は寧ろ澄みゆく一方で、だから、どうしても欲しかった。

 毎晩組み敷いて、飽きることなく自分を注ぎいれた。それでも足りなくて手足を戒め、口腔を冒し、息をさえ奪った。

 そして手に入れた。もはや躯だけではなかった。

 あの瞳に常にみつめられたくて、片時も離さなかった。かといって決して“あれ”の代わりではなかった。それは斎藤が、

 俺に残されたたったひとつの希望だから。

 ――――――ひかりが、欲しかった…

 そしてみつけたのは

 あまりにも聖らかな

『大久保…』

 俺の、seraph……

「……」

 目頭が熱い。零れた想いが止めどなく溢れてしまいそうで、大久保は嗚咽しそうな口をその掌で覆った。

 大久保は斎藤の想いに気づいていた。互いが想い合っていることもそれを受け止めている自分がいることも知っていた。

 しかし気づかないふりをしていた。もう二度と誰も傷つけない、そう決めたあのときから心を凍らせてきた。…そのはずだった。

 なのに生まれてしまった激情は留まることを知らぬままに膨張し、いずれ間違いなく斎藤を飲み込んでいく。いままで大久保が関わってきた人間と同様に、やがて大久保とともに絶望を渡ることを彼に強いる。

 そして斎藤はその運命を受け入れるだろう。それだけの強さを、斎藤はもっているのだから。そういう人間だからこそ捕まえたのだから。

 斎藤一に躊躇の二文字は一時たりとも存在し得ない。だから大久保への想いが今以上に募れば、斎藤は一瞬で闇に突き落とされる。突き落とすだけ想っている自信が大久保にはある。

 そしてもうひとつ、確信があった。

 自分こそが、この世を覆う孤独と虚無を知り尽くした絶望の中心であるということだ。大久保を中心にした絶望が円錐状に無限を廻り続けている。

 つまり斎藤は大久保を目指して両手を伸ばした時点から既に引き込まれていたのだ。気づいたときには絶望に飲み込まれこの先深みに墜ちるしかない彼はそれでも猶、大久保の盾となって刀を振るい続けるだろう……すべての力を信じたただひとりに削ぎ取られながら…

 玄丈が責めるのはそこだった。

「貴方への想いは彼を苦悩させるだけだ。同じことの繰り返しです。いままでこの刀は彼が立ち向かってきた絶望のすべてを切り裂いてきたでしょうが、次に訪れる絶望を斬ることはできない。その絶望は貴方そのものなのだから」

 言って玄丈は刀を鞘に納めて立ち上がった。刀を元あった壁に立てかけて、玄丈は去ろうとした。もう彼は大久保を見ようとはしなかった。それはこれから故郷の土を踏んでかつての同志と刃を交わす玄丈の、大久保に対する憎悪の現れであった。玄丈もまた、大久保の絶望に飲み込まれつつある人間なのだ。

「玄丈」

「なんですか」

「吉さぁに抱かれたか?」

 声が掠れる。構わなかった。

 ここに、もはや己を克服することを忘れた自分がいることも。

「――――まさか。私は幸せに出来ぬ人間と交わったりはしません。貴方とは違います」

 冷たく、普段の大久保のままに玄丈は言い放った。

“幸せに出来ぬ人間と交わったりはしない”。

 一度でいいから、そう言ってみたかった。





 玄丈が去って半刻ほどして斎藤が戻ってきた。その間大久保は玄丈が座っていた長椅子に腰掛け、斎藤の刀の鞘を払って膝のうえに置き、曇りひとつないその刃を見つめていた。そしてこれまでのすべてを思い返していた。大久保が生まれ、育ち、駆けて、出会ってきたすべてのひとを。

「………」

 …玄丈

 お前にひとつだけ言っておこう。

 俺は、この生き方を止めない。

 たとえどんなに血の沼を這いずり回ろうとも、止めることはない。

 手を取り合ってその沼を渡れる伴侶と出会うことが俺の運命(さだめ)だったからだ

 そしてそれは果たされた 俺はいまその運命を歩いている

 ひとの運命は偶然の齎(もたら)す産物とお前は思うかもしれないが 俺はそうは思わない

 西郷との出会いが俺に教えてくれた あれほど俺を知り尽くせる存在が偶然であろうはずがないのだ

 ましてそれが、生まれも育ちも年齢も異なる男だとしたら? 幾多に及ぶ敗戦を生き抜いてきた人間だとしたら? あいつの心の臓を取り出して頬擦りしてやりたいぐらい俺はあいつを欲しているのだ。そしてその男が俺のなかに未来を求めているのならば、俺はこの運命を土台にして独りで地獄に立ち続けてみせよう

 たとえ俺を待つものが絶望の果てであろうとも、最後まで真っ直ぐに立ち続けるのだ。そうすることで俺は俺の伴侶が絶望の淵に墜ちるのを妨げる盾となるのだ。来るなと、ここへ来てはいけないのだから。

 想いは、告げないと誓った。告げてしまえば最後、あいつはあいつのすべてを懸けて俺を守ろうとするだろう。

 …俺を、ともに生きようとすることで守るのは不可能だ。いままで関わったすべての命のように費やしても猶俺という絶望はとまらないのだから――――…

 とまらないのは、時と、絶望と、この想い。

 …とまらないのだ。

 とまらせない。

 決して。

「おい」

「……」

「大久保」

「…何か言ったか」

 ふと現実に立ち戻った。立ち戻らせたのは斎藤だった。彼は執務室に入るなり、長椅子に腰掛けて自分の刀に視線を落したままの大久保に近寄ってきて、大久保の痩せ細った手指から刀を奪い取った。

「返せ」

 斎藤は、大久保の手にあった刀を取って鞘に入れた。軽く金属の擦れ合う小気味良い音がした。

 想いを託した剣が、斎藤の手に握られている。

「斎藤」

 大久保は斎藤を呼んだ。呼んで、椅子から立ち上がった。

「なんだよ」

 鼓膜が覚えている全く違う声に、“あれ”の貌が浮かんだ。ともに血塗られた階段をこうして降っていくのだ。

 ふたりで選んだ道だ。

「西郷を殺せ」

 大久保は命じた。それが自分に残された最後の使命だった。

「ああ」

 斎藤は応えた。その声の力強さに大久保は斎藤の膝を抱いて縋りたくなって手を伸ばして斎藤の躯を抱き締め、白い項に唇を寄せ思わず吐いていた。

 がたん、と剣が倒れた。真っ直ぐに、西南を目指して。

「殺して、帰ってこい」

「ああ」

「必ず帰ってこい」

「ああ」

「…帰ってくるな?」

「しつこいな。俺は不死身の男だぜ」

 言って斎藤は笑った。つられて大久保も笑った。そのまま泣き崩れたかった。





 俺の代わりにあいつを殺してくれ


 そして俺も殺せ その剣で


 お前になら  なにをされても構わない


 あいつが俺に望んだように


 初めて逢ったときに感じたのは


 お前と生き


 お前に殺されたいという渇望だったのかも知れぬ


 ときをとめる こいびとよ


 君が人生のとき


 君が人生のとき




This novel is linked to "HOSHI HURU YORU WO WASURENAI" in La Campanella and "Scarlet or purge","ADABANA","HANA CHIRU YUBE NI ADA HA SAKI."
BGM:Juliet/THE ALFEE
Be on fire...!