SHOUMU


貴方の消えたみ空には

泣き出しさうな夕陽燃ゆ



 勤務を終えて帰路についた斎藤の耳が、聞き慣れた馬車の音に鋭く反応する。

「……」

 目深に被った帽子の鍔から重い瞼を上げて、降りてくる人物を見ると、興味を無くしたかのように再び目を閉じた。

 密偵宅に使っている貸家の玄関を開けると、まかないに雇っている老女が彼を迎えた。

「…おかえりなさいませ」

「ああ」

 そっけなく言った斎藤を見上げて老女が言った。

「奥でお客様がお待ちです」

「……誰も入れるなと言っておいたはずだが」

 視線を尖らせて自分を見た斎藤の瞳を覗き込むようにして彼女は続けた。

「大警視様にあられますので」

「!」

 驚いた斎藤を廊下に残して、老女は炊事場に消えていった。

 斎藤はそっと溜め息をついて制服を着たまま、夕陽が障子に映って薄明るい客間に入る。

「…ご苦労」

 相変わらず精力の失せた顔をした川路が、斎藤の姿を認めて言った。

 あれほど精力的に活動していた川路は、大久保の横死以降衰弱しきった表情をしつつなんとか命を永らえていた。しかし頬はこけて眼窩が深く窪み様相ががらりと変化した。容貌は異なったが、周囲の人間はまるで死ぬ間際の大久保を見ている錯覚に襲われる、と口々に言っていた。

 斎藤もそんな川路を見ている。畳に膝を折ってこちらを向く川路を斜めから見るようにして自分は背中を壁に寄り掛からせると、彼を見据えた。

 睨むように。いや、睨んでいた。

「…こんなところに何の用だ」

 きつい言葉を掛けたが、既に川路に頬筋はなく人間らしい表情は見て取れない。口ひげを動かして答えるだけだった。

「…卿のおられない内務省にお前を呼び出すわけにはいかん」

 川路にとっての卿は、どこまでも大久保だった。

 斎藤にとっても、だが。

「…伊藤がいるだろう」

 斎藤は新たに内務卿に就任した偉大とは程遠い人物の名を指した。

 川路は頬の皮を歪めて皮肉に笑う。

「…小僧に何ができる………」

 らしくなく口の端を上げて嗤いながら呟く川路を目にするのが耐え切れず、老女に聞かれるかもしれないことなど構わずに斎藤は吐き出していた。

「――――殺したのは貴様だっ!!」

 怒号が鼓膜を裂くような勢いで川路を貫いた。

 川路は嗤いを止めて視線を膝に落とす。胸を煽がせて歯を噛み締め、体が揺らぎそうに成るのを必死に抑えている。

 哀れとしか言いようがない光景も、斎藤にとっては無様にしか見えない。同情などできるはずもなかった。

 大久保が彼の望みのままともとれる死に様を飾ってから五十日が経過している。その間、斎藤だけでなく多くの人間が川路を責めたてている。だが川路のやつれ様は責められることが原因ではなく、本人の失望が所以していた。

 川路が全生命を注いだ大久保の描いた将来は、一瞬にして消えうせた。彼さえいればどんなに遠い理想でも叶ったであろうそのひとを冥府へ送り出したのが、誰よりも大久保を信じていた自分であるとは!

 沈鬱に落ち込んで川路は口を閉ざした。

 そのとき近くの寺の鐘が鳴った。静かな音色が夕陽に包まれる辺り一面に響く。

 未来は終わったのだと、告げるように。

 鐘の音を耳にした川路の膝の上に置かれた拳が震えていた。

 本音を吐き出した斎藤の視線は怒りを抑えることなく、川路に突き刺さったままだった。

 大久保亡き後も警察の仕事は大して変わっていない。ただ密偵としての雇われ先が内務卿から大警視に移っただけだった。つまり密偵としても警官としても川路は斎藤の上司に当たるわけだが、

「貴様のツラなど見たくもない」

 帰れ、と吐き捨てた。

 川路はさらに顔を蒼ざめさせて卓に手をつき、音も失くして立ち上がった。同時に卓に紙の束を置いて。

 幽霊のような手が制服の袖口からのぞく。足音重いまま川路は去った。

 それを目の端にしながら、斎藤は川路の出て行った部屋に座り書類を手に取った。



 目の前に広がる紅い絨毯は常に建物の最も奥へ繋がっている。

 三回叩く前に、必ず扉が開いた。

「早かったな」

 抱き締められる。後ろで扉の鍵をかける音がする。

 突然与えられる口づけにはいつまでも慣れることはない。

「…座れ」

 命じられて気が付くと制服の釦が外されている。机に腰掛けた斎藤のシャツをめくりあげ胸に冷たい掌を滑らせながら大久保は斎藤を押し倒した。

「!…っ!」

 固くなった体を更に強張らせる冷たい肌を重ねて、大久保が覆い被さってくる。死者のような温度のその腕は斎藤のベルトを抜き取り床に落とした。

 金属音が、それがどういうことかを斎藤に示す。鼓動が高鳴って彼を見上げると、普段の嫌味に片頬をあげる髭面があった。

「ん…」

 声と同時に心までも奪われていく。斎藤は既に抵抗することを止めていた。

 ズボンと下着が脱がされて肌を大久保に晒す。もう熱を帯びて震えている斎藤を大久保の氷の掌が包んだ。

「あ…っ!」

 声が濡れている。それはそのまま斎藤の心身をあらわした。

 大久保の顔が近づいて真冬の視線で斎藤の瞳を覗き込み、口づけて舌を絡め取り息を奪いつつ斎藤を嬲る。氷の手のなかで、斎藤が昂ぶらされてゆく。繰り返された感触に今では斎藤の皮膚から吸い付きそうだった。

 欲しいと言えないかわりに。

 そんな斎藤を分かっているのか無視しているのか、大久保は斎藤の唇を開放すると浮き出た鎖骨にある紅い跡を舐めた。

「…ぅ……!」

 それは先だって大久保が鎖で斎藤を戒めたときに刻まれた痕。想像以上に斎藤の肌が弱かったために血が滲んでしまい、未だに痛さが残っていた。

 しかし斎藤がうめいたのは、傷になったそこをまるで愛おしむかのように繰り返し舐められて、たまらなく辛くなるからだ。

 からだが奥から疼くようで、大久保を求めていまにも唇が開きそうだったから。

「あぅ…っ!」

 大久保がそこを甘く吸った。斎藤の目が潤んだ。

 舌は斎藤の肋骨を丁寧になぞりながら、下の方へ楽しげに向かう。わなないて大久保を待つ処へと。

 斎藤の息は秩序を失って完全に乱れている。期待に高鳴る胸を大久保に突き出すようにして背中を反らせた。

「欲しいか」

 意地悪な声。自分で握っている熱がすべてを訴えているのに、大久保は聞いてくる。斎藤が応えないでいると、欲しいと言うまでは許さない、とでも言いだげに掌を離した。

「!」

 斎藤が突然開脚された。太腿を持ち上げて大久保はいきなり腰を押し付けようとする。

「い……っ!!」

 痛い。ただでさえ狭いのに大久保にいたぶられてきつく緊張しているそこに、大久保は無理矢理入ろうとした。

「アッ…やめ…っ!!」

「力を抜け」

 冷酷な命令が無慈悲に斎藤に降りる。が、欲情した躯はそれを受け入れられるはずもなかった。斎藤はぎこちなく首を横に振る。

「む…り…っ」

 途端、疼く斎藤に冷たい指が優しく挿された。

「――!」

 根元まで滑らかに入り、蠢いて濡れた音を立てて広げていく感触に、斎藤は目を閉じるしかなかった。

 入口を除いて、斎藤の体は大久保を包むために息づいていたのだ。それを確認させられて更に昂ぶって心までも露にした。

 理性などどうでもいい。二人で抱き合いたい。

 …愛したい。

「大久保……」

 震える声で唱えるたびに切なさを覚える言葉を呼んで、斎藤は自ら手を伸ばして大久保を抱き締めた。

 だが。

「!?」

 突然大久保が血みどろになってどす黒い血液を真上から浴びせて斎藤に覆い被さり、斎藤をすり抜け机を透過して床に消えた。

 ひとり残された斎藤に与えられたのは、冥界の静寂と冷寒だけ。

 身震いして――――覚めた。

「はぁ…っ…はぁ…っ」

 白昼夢から現実へ戻った斎藤の目に映ったのは、川路から渡された書類だった。それを読みながら卓に突っ伏していたのだ。

 厚いとはいえない書類には、大久保の字で川路に宛てた密偵指揮文書が書かれていた。

 あいつはこんな字を書くヤツだったか?と思えるほど質実で無駄な虚飾のない文字で綴られていた。その字がところどころ滲んでいる。

 斎藤の目尻から透明な液体が綺麗に弧を描いて頬を落ち、目の粗い紙を濡らしていた。その光景を見ながら斎藤は思った。

 大久保が死んだのは、ほんとうに川路だけの所為か?

「…っ…っ……」

 考えるたびに点滅するのは否定の三文字なのだ。

 ―――――ちがう

「…!!」

 …もう何度、こうやって両手で顔を覆っただろう。家に帰って窓を開け放ち、彼の消えたあとも変わらないまま日常を営む世界を目の当たりにして、何度嘆いたことだろう。

 大久保が死んだとき、斎藤は警視庁で仕事していた。その場にいた警官が一斉に川路に呼び出され、現場に駆けつけるよう命を受けた。

『お前が総指揮をとれ』

 蒼白で命じた川路の気がしれなかった。

 理性では分かっている。何もかも。混乱した市井のなかで最高権力者の亡骸を引き取り、検分し、下手人を縛り上げて吐かせられるのは、新撰組で生きてそういったことに慣れされた自分しかいないと。

 事実、斎藤はすべてをやってのけた。総指揮者ということで夜には大久保邸に出入りし、続々と集まる官吏要人たちの護衛も遺族の護衛も引き受けた。

 崩れ落ちそうな心で。

 それと反対に、理性は恐ろしく澄んでいた。庭に入り込んだ野良猫が毛を逆立てて怯えて逃げるほど、あのときの斎藤は冷たく冴えて尖る氷だった。

 すべては今にも崩落する己を維持するためだった。

『藤田警部補、少し休まれたほうが…』

 部下に勧められるぐらいに蒼ざめていたらしい。普段なら出るはずの営業用の笑みすら、作れなかった。

 食事も摂らないまま現場の指揮をとり、護衛も務めながら夜を跨いだ。

 肉体も精神も解(ほぐれ)れきった糸のように疲れ果て縒(よ)り戻す気力もない。同時にその裏で激しく求めていた。

 あたたかく潤うことを。

 安らかになることを。

 ――――まるで死ぬ間際のあいつだ……

 そのとき事件以来初めて頬が皺を刻んだ。皮肉だった。

 磨き上げられた廊下に川路が現われて、再び斎藤は表情を喪った。川路は事件以降、ほとんど誰とも口を利いていない。ざわめく官人らのそばを逃げ去るように通り抜け、廊下で警備する斎藤のほうへ向かってきた。

『お前も来い』

 擦れ違いざまそう呟いて、大久保の眠る自室へと歩を進めた。

「………」

 あの日からすでに二月が立とうとしている。季節は夏を迎え、世界は輝きを増している。柔らかな陽射しを忘れて、激しさだけが頭を擡げていた。

 喪った時代は還ることなく、光芒を遥か彼方に追いやって、新たな…歪んだ暗闇を造りだし後戻りしてはむやみやたらと突き進む、小賢しい新世紀を目前に控えている。

 誰が、何が時代を先導するのか分からないままだった。大久保が死んでから。

「大久保……」

 名を呼ぶ。軌道を修正できるのは彼しかいなかった。

「おおくぼ…ッ!」

 斎藤の前に立つのも命じるのも…抱くのも、大久保しかいなかった。

 憎らしくてたまらなかった冷笑とあの体温が恋しい。この手に掴んで抱き締めたい。もう逃がさないと、強く強く。

 だがそれも空しい想いだった。斎藤の求める人間は冥府へ旅立った。

 川路にしろ自分にしろ、大久保を護らなかったのではない。護れなかったのだ。

 大久保を喰らった死への誘(いざな)いから。

 できなかった。

 大久保邸で燻っていたあの日、己も覚えた、全諦(ぜんてい)と安寧への激しい憧憬の思いを、大久保に断ち切らせて彼の目を未来へ向かわせることが、自分にはできなかった。その悔恨が斎藤を苛み続けて、もう限界に近かった。

 夢のなかで大久保を呼んでも、朝には霧消するだけだった。空しさが募って、夢もみたくなかった。大久保が全霊で創りあげた尊いはずの現実もみなくて済むのなら、みなかった。

 まもなく堕ちる陽(ひ)が最後の光で街中を染め上げている。文字の上に横顔を伏せる斎藤の翳った頬も涙も、眩しいほど鮮やかにその紅と同化していた。

 それは大久保の流した血の色だった。



貴方の消えたみ空には

泣き出しさうな夕陽燃ゆ

見つめて明日を夢見てた

いまも愛しい遠い日よ

哀(いと)しいひとの亡骸に

暗く烈しく誓つたものさ!

このさき涙は流さない

拳を握つて生き抜くと

静かな街路に立ち止まり

真つ赤な波雲(はぐも)を仰ぐとき

もはやすべては空回り

夕べに響く鐘の音(ね)は

貴方と私の深き溝

私に渡る勇気は無く

黄泉が見え来る気配も無く

佇むことしか許さない

それでも途絶へることの無い

溢るる想ひをだうすれば

霧の如くに消え失せて

彼方(あなた)の果てにゆけるなら

苦しみさへも厭(いと)はない

哀しいひとの亡骸に

暗く烈しく誓ふのさ!

このさき涙に意味はない

どんなに泣いても叫んでも

貴方は二度と戻らない

私の胸にはかえらない