
TOKI no IZUMI
細い指が私の前髪を掻きあげた。体温の無さにはもう慣れていたが、尖った爪に焦らすような速さで額を擦られて、思わず体を震わせた。
唇が近づいてくる。呼吸が、止まる。
「…ん……」
どうして、このひとの舌はこんなにも熱いのだろう。
そんなことを思っているうちに絡んでいた舌が離れて、大久保卿の指がもう“覚えた”私のなかを探った。
熱くなっている自分の熱を感じて、私は瞼を閉じて大久保卿の動きを追った。緩やかに、緩やかに、大久保卿は私をひらいてゆく。
「あ…っ」
卿が入ってくる。平素穏かな振る舞いからは想像つかないほど、この方はこういうとき強引だった。
いちど慣らすように奥まで入り、抜いて、再び向かってくる。
「ひあぁ!!」
大久保卿は真上から刺すようにして体を進めてきた。そこにはもう、痛みとか感覚などはない。あるのは肉欲…このまま溶けてしまいたいという、願いだけ。
こうして抱かれるようになって半年がたった。そして間もなく大久保卿は海外へと発たれる。たぶん今夜が出発前最後なのではないかと、思っていた。
その所為か私の腕にも知らず力が入る。せめて今夜はこのひとを離さない為に。どうかこのひとが私を忘れないように。
大久保卿がどういうひとなのかは、同じ職場で働いていると分かる。賞賛は勿論だが、良くない噂も自然と耳に入ってきた。
閨房をやらせても右に出るものはいないとか、君は若いのだから気をつけたほうがいいだとか。
…昨夜は誰だったらしい、とか。
つまり大久保卿はそういうひとらしかった。そのことに意味があるのかどうかさえ我々には知らせずに、我々…といっても上級官が殆どだったが…を弄んでいるといった感じだった。
だが誰もそれを戒めたりはしなかった。…敵うはずなどないのだから。
例に洩れず、私も組み敷かれた。そうして過ぎていく毎日は、しかし私にとって酷く心地のいいものだった。
旧御家人階級のつねとして、私は最下級の判任官を務めていた。御一新のおりの早い時期に父が明治政府軍へ恭順を申し入れたため、嫡子である私も新政府に仕えることになった。
心得だけの武術とは異なり、比較的数術に長けていたので大蔵省に向かわされた。
そして会った。…このひとに。
尤も、最初からこんな関係があったわけではない。私は下級官で、大蔵卿である大久保さんとは省内で擦れ違うぐらいしかなかった。
きっかけは些細なものだった。大量の書類を両腕に抱えて考え事をしながら廊下を歩いていたとき、視界が殆どなかった私はやはり人にぶつかってしまった。ついでに掛けていた眼鏡も零れてしまった。
書類を手放すわけにもいかず、眼鏡は取り敢えず放って、申し訳ありませんと頭を下げた。するとすっと黒い背広を着た腕が伸びて、目の前に落ちた眼鏡を手に取った。白くて綺麗な肌だと思った。
『これは君のかな』
しかも、かなり聞き取りにくい低い声だった。
『はい』
『顔を上げて』
『は…?』
答えた瞬間に顎がぐい、と斜め左に持ち上げられた。
そこで、彼が大久保卿であることが分かった。
目を瞠った私だったが、私を見下ろす大久保卿も瞼を上げていた。印象的な灰色の瞳が露になった。
大久保卿は唖然というより、驚愕の表情で私を見ていた。数秒数えられるくらいの時間を、みつめあった。
『…あの…?』
私がなにかしたのだろうか。
普段“驚愕”とは縁の無いひとと耳にしていたから、私も驚いていた。
『……いや』
そう言って大久保卿は現実に戻ったらしかった。開いているほうの手で眼鏡を開き、私に掛けた。
『ありがとうございます』
『ああ』
私が今度は気をつけて浅く低頭しているうちに、大久保卿は靴音を硬く鳴らして去った。どこか甘い香りが辺りに漂った。
気を取り直して、私も再び廊下を歩き出した。その間にも、大久保卿の瞳の意味を考えていた。
やはり、この目かな。私の目はやけに薄いから。
厄介なことに、日本人の癖に私は黄褐色の瞳をもっている。両親も姉も普通の色なのに、どうしてかこんな色をしていた。
『いや、』
あいつのほうが凄かったな。
完璧な金色だった。
大久保卿に呼び出されたのは、その夜のことだった。
「あ…っ、も、うっ…」
有無を言わせず私を押し倒して、こんなふうに抱いた。それからはもう毎晩のように呼ばれて、夜を過ごした。
逆らわなかったのは、…私自身が卿に惹かれていたからだけではない。
私が“務める”ようになってから、他の人間と交わったという噂を聞かなくなったから。
真面目が取り柄だけの私に“特権”が与えられて周りがやっかんでも、私が同僚等から酷い扱いを受けることはなかった。大久保卿と…ということはそういうことなのだ。背広の襟元から愛撫の印を見つけても、からかわれることもないままに過ごしてきた。
昼夜を問わずこのひとに守られているようで、どこか嬉しかった。たとえ、こんな声を出すように躾られていても。
「あ…っ、あぁ…っ!」
もう限界だった。きっと大久保卿も。
私は卿を抱く手に力を入れて自分の体を彼の動きに合わせた。掴んだシャツの下の肌は冷たいままだったが、私のなかのこのひとは燃えるように熱かった。
「…ひあ…!!」
大久保卿が一層体を沈めて、あまりの激しさに開かされた私の目が潤んだ。同時に、大久保卿が彼の熱を私に注いだ。
「んぁ…ッ!」
卿の掌に包まれたのを感じて、私も達した。
視界に紫煙が漂っている。机にひとつしかないランプの灯りが執務室を照らしていた。
大久保卿は机の縁に腰掛け、長い脚を組んで咥えていた煙草を外し、私の額にかかった髪の毛を撫でていた。
情事自体はついていくのが辛く思えるほどなのだが、そのあとのこのひとは穏かだった。普段あまり喋らないと聞いているのだが、私とは雑談もするから、どれが真実の大久保卿なのか分からなかった。
「君に…よく似た男を知っている…」
…ほら、こんなふうに。他愛も無いことを喋るこのひとなんて、省内ではきっと私しか知らない。
「わたしに…?」
声が掠れている。この年で誰かに似ていると言われたのは初めてだった。
「どなたでしょう」
尋ねると、大久保卿は予想だにしていなかったことを言った。
「…新撰組だったかな…人を斬って歩いたやつだ…斎藤一とか言って…」
その名に、満たされていた胸が一瞬で凍りついた。喉がひくついて私は呼吸を忘れた。
唇が震える。忘れかけていた名前に、凍った胸のもっと奥でわだかまっていた感情が破裂しそうだった。
…なのに、口が動いていた。
「そ…れは…」
「―――――うん?」
手の動きを止めた大久保卿の灰色の瞳が私をみた。
この瞳をみると、こころが見透かされるようだった。多くの人は抉られるようで苦手と言っているが私は好きだった。しかし、いつもは快感なのに、いまは…
「……私の、弟です……」
どうしてこんなときだけでも、私は嘘がつけないのだろう。どんなに楽か知れないのに。
「ほう……」
大久保卿の声が変わった。わずかだが、聞き取りにくい筈の声が潤っていた気がした。
私を抱いた、からではなく。
ずきり。
また、胸が痛んだ。
「斎藤一の名前を与えたのは私ですから…」
「なるほど、そうか…」
大久保卿の両肩が上下に揺れた。
「どうりで、覚えのある色だと思ったわけだ……」
フ、と笑った。このひとの笑いなど初めて聞いた。
そして、私にとってもっと酷い科白を寄越した。
「政府に仕える気はなさそうなのか?」
……ああ……
意識が遠ざかりそうなのを、私は必死で引き止めていた。…いや、このひとをこそ、引き止めたかった。
「…会津で死んだと、聞きました」
事実だった。でもこんなことを言ったのは、嘘をつきたくなかったからではない。
―――いつも、こうだ。どんなときも、私を通り越して求められるのは“あれ”だった。
目の前のひとも、また。
でも、お前はもういない。
このひとだけは、わたさない。
喉にせりあがってくる言葉を必死に飲み込んで、私は落ちていた瞼を上げて大久保卿をみた。救いを求めるように。
彼の瞳は普段と同じように凍ったままだった。
「――――そうか」
とだけ答えて、大久保卿は再び私に被さってきた。手を伸ばして、私も卿を抱き締めた。
同じ両親の作り物なのに、弟と自分とは似ても似つかなかった。
学問しかない私。刀片手に戦える一。
長男として厳しく躾られた私からみれば、末っ子で甘やかされて育った一は自由奔放すぎて将来が心配だった。
年をとってから生まれた子供だから、というのだけが理由ではないだろう。父は一が十九のときに起こした事件(口論の挙句、旗本を斬ったのだ)の処理についても
『儂が何とかする。京都に道場を開いている知り合いがいるからお前はそこで反省しておれ』
しょうがない息子をもってしまったと眉を顰め苦笑しただけだった。
それから一が東京に戻ってくるまで会ったことはなかった。だから、およそ十年ぶりに会ったときは、驚いた。
幼い頃はからかわれる程になかなか似ていたのだが、一は別人のようになっていた。
否、私の知っている山口次郎ではなく、“斎藤一”になっていた。
見違えた。明らかに。同性の私がみても、はっきりと分かるほどに。
本当にこれが自分の弟だろうかという思いが強くなった。しかし鏡を見るたびに少ししか違わない瞳の色がすべてを語っていた。
そして間もなく、仕官の話が来た。当初は法務省から、そして、内務省から。
一はあのひとの直接の指揮下に置かれることになった。それが何を意味しているか、私にはすぐに分かった。
ある日、用事で内務省の門を潜った。そこで偶然、一を見かけた。
同じだと思った。
昔、大蔵省内を誇らしげに闊歩していた私と。
そう思った瞬間、胸の奥が烈しく痛んだ。抉れるように深くが傷ついて、血が流れた気がした。
―――――この気持ちは私しか知らない。
だれにも、あなたにも、おしえない。
…時々夢をみる。あのひとに抱かれている夢だ。
それはきまって一に会った日の夜なのだ。
あいつから漂ってくる覚えある香りが、私を終わりない世界に閉じ込める。
涸れることを知らぬ泉のように、溺れる私を苦しめて、あとは それきり…
一の肌から紅が消えることはなく、あいつも辞めるとは言わなかった。
魅入られたのだろう。きっと、私のように。
違うのは、以来、大久保卿が私を抱きはしなかったことだ。