Hana chiru Yuube ni Ada hasaki



 俺は薩摩を知らない。西南の役で鎮西の土に足をつけたとは言え、実際に役に参戦したのは五月からだったし、日向にいた七月には右上腕を打ち抜かれて戦線を離れざるを得なかった。貫通したのが幸いだったが、包帯所での疵(きず)療養は意外に長引いて、遂にそのまま城山での薩軍全滅の日を迎えた。だから一度も薩摩の山も谷も踏んでいないのだ。

 時折、傷が痛む。

 瞼に浮かぶのは高く、青い空。陽光を浴びて誇らしげに輝く紺碧。

 あいつが生まれて育ち…二度と、帰れない国。




 東京に訪れた春は淡く、強い嵐でも来ようものならいまにも掻き消されそうだった。急いた桜が蕾を見せるぐらいで、春らしさは充分ではない。

 俺は暖炉の炎の揺れる執務室で書類を見ている。赤々と、それは書類の束を彩って長椅子に座る俺を背中から暖め、まだ昼間だというのに暗い室内を照らしていた。

 低く垂れ込めた雲が鈍く光る。驟雨が訪れては忽ちに去って、時折落ちる稲妻が大久保の彫りの深い容貌を露にするのを、俺は視界の端に捉えていた。

 何かを考えているようだった。肉体的にも精神的にも激務というのも憚られるほど、一息入れることすら許されない政治と言う名の「現実」に直面するとき、大久保が周りの人間に声を掛ける暇(いとま)を与えることはない。勿論俺にも。

 窪んだ眼窩の奥にある灰色の瞳は翳を含んで目の前の机を見つめている。角膜には平行な木目が映っているが、網膜から先には、おそらく室内の何れも刻まれていないのだろう。

 大久保の思考は、その殆どが本人以外の誰にも分からない。分からせない、といったほうが相応しいのか、言葉数も少なければ、確証を含んだことしか表に出さないから、聞き手には大久保の目的が浅くしか把握できなかった。だがそれは余計な操作が為されるのを未然に防ぐ為なのだと、気付いたときには大久保の策中に嵌っていて、張り巡らされた網に四肢を絡め取られていてもがきようもない。

 そうして、大久保は己を実現していく。忍びやかに、それは日本全土を覆って、やがて鮮やかな世界へと繋がるのだ。

 俺には、それが見える気がする。他の人間にも予感があるらしく、大久保の判断に異議を唱える者はひとりとしていなかった。

 異議どころか―――流石だと…、こいつでなければあの幕末を動かせなかっただろうと、誰もが口を揃える。それだけ大久保を畏れている、とも言う。もしも大久保が太政官側でなく旧幕府側の人間であったなら、維新回転は実現しなかった。そんな科白が、西南の役を終えて漸く穏かになった太政官内で囁く声も聞こえた。

 尤も、そういう大久保を阻止できる存在が消え果てたからだという見方も成り立つわけで――――それだけ、薩摩は大久保の重荷でヤツを苦悩させていたのだ。様々な過去とともに。

 …あのとき聞いた話は、今となっては遥か昔の出来事だ。俺はそう思っている。が、大久保は。

「……」

 俺はちら、と横目で大久保を見た。

 ――――痩せた…な…

 もともと酷く痩せているやつなのだが、頬の肉は完全に削がれ落ちて本当に皮だけになった。だけでなく、黒いスーツに包まれた躯も更に厚みを失ったことも、俺には、分かる。

 冷たい胸。頬を押し付けるたびに、俺は奥から聞こえてくる音を探っていた。

 海から響くような深い鼓動。

 だがそれは、波のように力強く往来を繰り返し、凪ぐことはない。今日も明日も続くのだ。

 だから無用の心配は、しなくていいのだ。

 俺はそうやって、自身を励ましていた。そうでもしないと、俺までも、絶望の闇に喰らわれてしまうから。

 …大久保は常に闇を飼っている。そういう人間でなければ俺のような存在を雇えるはずがないし、日本を掌中に納められるはずがない。

 しかし今回の闇はそういった類のものではなかった。これは、大久保の心の、もっと言うと感情の問題だった。

 省内だけでなく、太政官全体で密かに囁かれている。大久保は危ないのではないか、と。

 やつの配下で働く俺にも、そんな声が届いていた。どこかお悪いのではないかとか、できるなら暫くの養生を差し上げたいのだが、とか。

 公私共に付き合いの深い連中は、本人に言ったところで大久保が聞き入れる人間でないことは充分に承知している。だから大久保の身近にいる俺をつかまえて、体調の異変を見つけたら決して無理をさせないようにと半ば命じるような口調で言ってくる者もいた。

 俺も気をつけてはいる。なのに、大久保の目を見つめるたび、言いようのない思いに捕われて、結局時を埋めるしかできなかった。

 灰色の瞳。何事かを決心したかのような透明な色合いに、胸が痛む。

 微かな希望すら日に日に薄まっていく気がして、時折大久保を自分から抱き締めたりすると、やつに薄ら笑われるのが常だった。その笑いすら、限りなく切なくて。

 俺は…

 と、拳の音。執務室の扉が三回叩かれた。

 大久保はやや俯きがちにしていた頭をあげて扉をみたが、呼ばれたのは俺だった。

 長椅子を立って途中まで開かれていた扉のノブをぐい、と掴んで開けると、懐かしい人物がそこに立っていた。

「玄丈さん…」

「近くまできたものだから。…元気そうで、なによりだ」

 そこにいたのは、玄丈将明、豊後口警視徴募隊・二番隊隊長を勤めた男である。西南の役で同隊の半隊長を勤めていた俺の上司であった。

 優秀な指揮振りを買われて、陸軍に仕官するように言い寄られていたと聞いたが、制服は、陸軍のものではない。

「君の腕の具合が気になって…その後、どうかな」

「は…」

 俺は扉を半開状態にして、制服の袖を捲り上げた。俺は西南の役半ばで右上腕を銃弾に打ち抜かれて戦線を離れることを余儀なくされたのだが、

「このとおりです」

 雨の日に疼くぐらいで後遺症もなく、すっかり完治している。

「良かった」

 塞がった傷跡と自由に動かせる腕を見せると、玄丈は笑った。そう、傷の手当てをしてくれたのはこの男だったのだ。役が治まっても、直ちに東京に戻れるわけではなく、俺を含めて多数の重軽傷者の傷に目途がつくまで殆どが鎮西に残ることになった。その間、隊長である玄丈は自分の部下などの状況を細かに把握し、手当ての甲斐もなく死んでいった人間の墓などをつくってやりもした。

 余り喋らない人間らしいのだが、俺のところにもやってきて、腕にまかれた包帯をじっとみつめたりした。

 玄丈は、政府軍が勝利した、とは言わなかった。彼は薩摩の人間で、こんな時代でなければ同国人同士で殺しあうことなどない。彼にとってあの戦いは苦悩でしかなかっただろう。

 隼人と謳われた人間は皆死んだ。…西郷も、死んだ。西郷が死んだから、太政官政府が役の始まる前と同様に存続していられるのだ。

「……玄丈さんの、お怪我は如何ですか」

 城山から帰ってきた玄丈は、右腿に血の滲んだ包帯を巻いていた。それは、と俺が尋ねても薄く笑っただけで、どこでやられた、などは言わなかった。玄丈はそのときの包帯を軽く洗いはしたものの、ほかのものに換えることはなかった。

「もう平気だよ……俺のほう…は…」

 言って、玄丈は俺にあてていた視線を向こうへ、俺の背中のほうへやった。さっき腕を振り上げてみせた弾みで、半閉じ状態だった扉が殆ど開かれている。

 視線の先には、玄丈とうりふたつの大久保――――が、こちらを見ていた。俺ではなく、玄丈のほうを。

 蒼褪めた肌。灰色の視線と薄茶のが絡んで生まれる、冷熱。

「……?」

 異様な雰囲気に俺がぞくりと背筋を震わせた瞬間、玄丈が俺の肩をそっと寄せて、執務室に入っていった。

 真っ直ぐ歩み寄る。靴音が、響く。

 そして玄丈から突然発せられた殺気に、俺は体ごと室内に振り返った。

「玄丈さ…!」

 カツカツと早足で大久保に向かっていった。俺は間に合わない。

 そして机の横を回った玄丈は、書棚の前で書籍を手に取っていた大久保の襟元を片手で掴んで、他方の手でつくった拳で、大久保のこけた頬を殴った。

「……ッ」

「ちょ…あんた何を!」

 本が空を舞う。

 慌てて、倒れていく大久保を受け止めて助け起こし玄丈を睨もうとしたが、玄丈のきつい視線を斜め上から浴びて、俺は凍ってしまった。

 怒りとも、嘆きともつかぬ。

 そんな貌をしている。

 玄丈は大久保に良く似ていた。年齢も近ければ、声も見た目もなにもかも似ているのである。だから玄丈のそんな表情がまるで、悲しみすら表現できないほど痩せてしまった大久保のそれを、代わりに表しているようで、俺は悲しくなった。

 苦しくてたまらないのだ。

 玄丈も、床に脚を伸ばしたまま俺の腕のなかで力なく垂れている、大久保も。

「おィが洗いしモした」

 と、玄丈の唇がひらいた。訪れた静寂をうち破るかのように。

「……?…」

 大久保も目を上げたらしかった。俺も、床に膝をつけて大久保を抱いたまま、玄丈を見上げる。

 唇は血の色。なんて鮮やかな。

 薄いそれが小さく上下するのを、俺は見ていた。

「センセイの御首(おんくび)」

「……」

 センセイとは、故・西郷隆盛を指す。薩摩人は西郷をセンセイとかオセンシとか呼んでいた。彼らにとって仰ぎ見るべき、ただひとりの存在という意味のようだった。

 介錯されたのち胴体と分かれた西郷の首は、薩兵によって一度土中に埋められたが、政府軍によって掘り返され、幹部とともに浄光明寺という寺の墓地へ鄭重に葬られたと聞いた。

 その首を洗ったのが、目の前に立ち尽くす玄丈だったなんて初めて知ったが。

 そして思い出した。

 鹿児島を去るときに見た、玄丈の横顔を。

「……」

 まさか、と俺は思った。

 まさか――――玄丈が長いこと腿にしていた包帯は、西郷の血を拭き取ったときのものではないか。だからこの男は、べっとり染み込んだ血を大して洗いもせずに戦地にいる間中、身に付けていたのではないか――――

「よか御顔ごわしたど」

「……」

「じゃっどん、殺しモしたはおはん(貴君)じゃ、大久保さァ」

 途端、腕のなかの大久保が、鳶色の頭をびくりと震わせて、きつい瞳で玄丈を睨んだ。明らかに感情だった。感情を剥き出す大久保など、初めて見た。

 最近冷光の薄れ気味だった瞳をきっと上げて、細い躯に炎が走る。

 が、奥歯を噛み締めているようで、唇はきつく引き結ばれたままだった。

「どげん顔なさっとじゃっ思って来てみもシた。そいどんからん(しかし)…こぃがおはんか、一蔵!!」

 ―――― 一蔵。

 それは大久保のこと。利通、という名を使うようになってからも、一部の薩人が大久保をかつての名で呼ぶことがあった。俺も何度か聞いたことがある。尤も、その人物も今は亡い。

 ということは、正面切って一蔵と呼べるのは、玄丈が最後かもしれなかった。

 そして玄丈は、わざとその名を呼んだのだろう。昔、西郷も呼んだ名を。

 玄丈の尖った手がもう一度大久保に向かってくる。立ち上がることも忘れ、体全体が瞳になったような体で玄丈を見上げていた大久保の胸倉を、ぐい、と掴んだ。

 黒の背広から引きずり出された白シャツがしわくちゃになる。俺は玄丈を止めようと、片手で大久保を抱き、片手で玄丈の腕を掴もうとしたが、彼の勢いは俺などには抑えられない。

 大久保の髪の毛が空に乱れて、場にそぐわない甘い香りが漂った。

「玄丈さん!」

「皆死にモしたぞ、何もなか! そいどん、おはんも消ゆっとか!!」

「…ッ」

 俺は息を詰まらせた。

 ――――分かるのだ。

 分かるのだ。

 玄丈にも、分かるのだ。

 自ら追いやったはずの彼方に、大久保が既に飲み込まれているかもしれないことを。

「………」

 大久保は答えない。答えずに、おそらくはすべての感情で玄丈を睨んでいた。

「―――…」

 はぁ、と息を吐いて玄丈は手を離した。大久保が再び俺の胸に落ちてくる。二人の白い頬は更に蒼褪めていた。

 背を向けて、玄丈が部屋を去る。来たときと同じく靴音を鳴らして、足早に扉のほうへと歩いていった。その音を聞きながら、俺は気を喪失したかのように項垂れる大久保を見、乱れた服を直してやる。大久保は人形のように動かなかった。

 と、足音が止まる。

「…藤田君」

 玄丈が俺を呼んだ。

 俺は大久保にあてていた視線を、声のしたほうに向けた。

 玄丈の背中がみえる。

 薄くて大きな、それは傷ついて見えた。そんなところも…、似ていた。

「君は東京の生まれだったな」

「…そうですが」

 俺の答えを聞いても、玄丈は振り返らないまま言った。

「…薩摩というところは…文よりも遥かに武を重んじる風のあるところで…鎌倉の時分から変わることがなかった」

「……」

 それは幕末に耳にしている。薩摩人が他藩の人間に比べれば、一見愚鈍にみえるのもその所為だろうと、言われていた。

 確かにそうだった。少なくとも俺はそう思ってきた。大久保と、関わるまでは。

「それが、我々の誇りでね…」

 今もなお、と玄丈は言った。先ほど怒鳴ったのとはかなり異なる、少し弱い声で。

「誇りなら、君にも分かるはずだ」

「…何を仰りたいのですか」

「――――君も新撰組の生き残りなら、薩摩を滅ぼしたその男の生き様をしかと目に刻みつけておくがいい…!!!」

 ――――― !!

 玄丈は半ば暴力ともいえるような腕力で扉を開け、閉めた。

 バタンッ!

「……」

 玄丈の背中が廊下に消えても、俺は動けなかった。

 “薩摩”がどんななのか、「何」なのかが、分かった気がしたから。

 いまはもう、ない国だけれど。

 大久保の中にも未だ、薩摩が息づいているのだろうか。俺が新撰組でありつづけるように。

 でも、いまはもう、新撰組だけじゃない。

 俺はしばらく呆然としていた。が、ややあって、腕のなかがもぞりと蠢いて現実に戻った。

 大久保が体に回された両腕から逃れようとしている。

 反射的に、俺は腕に力を込めた。

 大久保は無言で俺を引き剥がそうとするが、腕力でこいつが俺に敵うはずがない。諦めて、大久保は小さく溜め息をついた。

「離してくれないか」

「……」

「斎藤」

「厭(いや)だ」

 いま離したら、あんたは埋もれてしまうだろう。

 真正面にぱっくり口を開けて大久保を待つ絶望に。

「厭だ」

 俺が捕らえてやる。

 捕らえて離さない。

 渡さない。…渡さない。地獄に沈んだこいつの“薩摩”になど―――…

 いつまでも腕を緩めない俺。なかに、大久保がいる。

「………可笑しなやつだ…」

 大久保は笑った。或いは大久保自身を笑ったのかもしれないが。

 ようやく十八番の冷笑を耳にして安心する。俺は手袋を脱いで、殴られた所為で腫れた大久保の口元を拭ってやった。血が、絡んだ。

「斎藤」

「なんだよ」

「抱いてやろうか」

「…好きにしろ」

 フ、と笑って、大久保は俺の頬を触って顎を引き寄せ、そのまま口づけた。

 熱い舌が潜り込んでくる――――それは、こいつが生きているという、確かな証。

 貴方の為に俺はもう、かつての誇りを乗り越えた。

 花散る夕べに仇は咲き、それでも貴方を守りたい。



 このさき再び、俺の血が流れることがあっても

 どこまでも輝く透(とう)い未来へ。

 ふたりでいくんだ、これから―――――――――