ADA-BANA
南国の星は高い。
風呂上りの火照った体に夏風を浴びせながら斎藤は思った。
彼が豊後口警視徴募隊・二番小隊の半隊長として上陸して数日が経過している。一番隊の小隊長である日野重晴三等小警部が旧会津藩士であるためか、藤田五郎こと斎藤が元新撰組の隊長であることは、徴募隊全体に知れ渡っていた。
『斎藤一??』
『って、あの鬼斎藤? 冗談だろ…全然そんな風にみえないが』
『日野さんが言うんだ、間違いネェ……』
『だって藤田さんて、俺と同い年だぜ?!』
いくらなんでも若すぎる、のだそうだ。
実際二十歳のときから京都で牙を振るっていたのだ。余計なお世話だ、とじろりと睨むと、彼等はそそくさと割り当てられている自室へ逃げ込んだ。
徴募隊に採用されたのは薩長勢に蹴落とされた藩の人間が殆どで、この機会に薩摩を討ってやろうと幕末の悔恨を一気に晴らすために駆けつけた連中の集塊になっていた。
磨き上げられた廊下を軋ませながら歩く。その間にも興味と恐怖の入り混じった視線を散々浴びては、まるで汚らわしいものを振り払うように急ぎ足で斎藤は自室へ戻っていった。
お前らに何が分かると、怒りに似た感情を抑えて。
幕末は確かに新政府軍と旧幕府軍がいがみ合うだけで足りただろう。だが、この明治になっても未だそんな感覚で生きている輩のなんと多いことか。
今更ながらにあの男の壮大さが身にしみた。
出会わなければ俺もああなっていたのか、と思うと苦汁の満ちる気がする。
目の前の襖を開ける手に力が入った。
「……まだ休んでおられないのですか」
言うと、相手は月光を燭りにして寝酒を続けていた。
はは、と笑い大きな杯を目の高さに持ってきて「斎藤くんもどうかな、一杯」と答えて来る。
「新撰組の組長殿と死に酒に与(あずか)れるなんざ、滅多にない賞禄だ」
ここでも素性がばれていたとは。性を問わず噂は早いものだ。
「頂戴しましょう」
苦笑して斎藤は近づき差し出された杯を受けた。
日本酒ではない。焼酎であった。
それも芋焼酎。
「……焼酎もなかなかでごあんそ」
酔いが回ったのか、男の国の言葉が出てくる。そう、この男は薩摩の人間であった。
名を玄丈(げんじょう)という。玄丈将明(まさあき)。年齢は斎藤よりも一回り以上大きく、二番隊の隊長を務めていた。もちろん腕は相当なもので、日比谷連兵場でも指導役を任されていたほどである。
だから斎藤は当初、剣客警官隊か何かに属している人間だと思った。だが政府の人間ではなかった。
徴募に応じる前は、東京で刀を打っていたという。警視庁から要請されてもなお拒んだが、川路から直に懇願されて前線への任務についたそうだ。
そういう辺りが自分と似ていることもあって、斎藤は玄丈という男に好感を抱いた。
いや、最初から悪い印象ではなかったというか。
失礼しますと玄丈のそばに膝を折ったが「崩してよか」と言われた。上官の勧めと開き直って言うとおりにし、差し出されるままに酒を流し込んだ。
「お前さァはまっこて、よかユシな」
「?」
聞きなれない音律に目を丸くした斎藤を見て、ああ、と玄丈は笑った。すまんじゃった、と言って標準語に戻す。
「いやなに……警視庁に元・新撰組がいると儂の耳にも入っていたのだが、この役でともに戦うことになるとは思いもしなかった」
「…は」
「君もまさか鎮西に下るとは思わなかっただろう?」
―――――儂もだ。…そう聞こえる気がした。
この男にとって故郷である薩摩を自らの手で討伐するという極論は、私情を入れるなと求めるほうが難しいだろう。今日捕虜にした薩兵の中には「捕虜を殺すでない!」と叫ぶ玄丈を見て目を潤ませる者もいたのだ。
幕末をともに切り抜けた仲間も多いことだろう。玄丈はなかなかの器量の持ち主であったが、薩摩の人間でありながら維新後の薩摩に組しきれずに東京に留まったままだと噂で耳にした。
かといって政府にも仕えていない。今回の徴募にも川路が家を訪ねるまでは頑なに拒み続けたそうだ。そこまでこの男を悩ませたものは何なのか。
そして“薩摩”を滅ぼす決心を、なぜ、したのか。
心理的にはもしかしたら斎藤と似通っているかもしれない。斎藤もまた、あの戦いを繰り返さぬために政府に身を置いたのだ。たったひとりで。
京都で会津で、殆どの戦友を失ってきた斎藤にはこの男の孤独が分かる。まして今は政府軍として故郷を壊滅しようとしているとあっては、孤独などでは済ませられない。
加えて、幕府・政府と対抗できるだけの勢力とエネルギーと生んだ藩の人間なのだ。薩摩に縋るしかできなかった他藩の武士とは、抱いている誇りのレベルが違うだろう。
幕末から薩摩は超然としている。その姿が大久保と重なってみえた。
いつか、この男もあいつと同じで孤独から孤高へ昇るのだろうか――――――そんなことを考えて斎藤は言葉を失っていた。注がれた杯の動きも止まっている。
「…どげんしたちいうとな…?」
「――――いえ」
ぼそぼそと呟くよう低い、それでいてよく通る声に再び身震いしそうになって、斎藤は背筋に力を入れた。
似ている。
玄丈は、大久保に妙に似ているのだ。
怜悧な容貌をしている割りに穏やかな表情。丈の高い体についた筋肉に無駄は一切なく、頬などは骨が浮き出ている。
頭を支える細い指に絡まる鳶色の髪の毛に映える白い額。乾いた薄い唇。その色が薄茶色であることを覗けば、暗闇でもわかる鋭い眼差しなどもまさしくあの男のものだった。
思わずごくりと喉を鳴らしそうになるのを耐えるので斎藤は必死である。
「…昔、薩摩に精忠組いうのがごわしてなァ」
話題が変わった。斎藤はその精なんとかという組の名は聞き覚えがないため怪訝そうな表情をしたが、玄丈は伏せ目がちに視線を開け放たれた障子の向こうの狭い庭を眺めたままだ。
玄丈は一度ふう、と息を吐いた。
「…おいの親父の話じゃと、加冶屋町の次右衛門さァといえば気骨で知られたお人じゃってナ。西郷(せご)サンと仲ンよか人がその息子じゃっいうからどげんお人じゃー思て西郷サンのお家を訪ねっとォ、あンお人がおじゃった」
玄丈の口調から、あの人とは大久保のことだと斎藤は思った。「そンときも一瞥くれただけじゃった」と玄丈が言ったので、噴出してしまう。
斎藤の様子に玄丈は口端を吊り上げるようにして笑った。それも……似ている。
大久保が薩摩弁を喋るとこういうふうになるのか、などと思いながら、幕末には標的の証としかならなかったそれを聞いている。慣れると独特のリズムが穏やかな海を往来する波のようで、なかなか心地良かった。
「あンお人はこまんかときから ――― 子供の時分からどこか超然としていてなァ……ひとを近寄らせん感じで、怯えたもんじゃ」
言いながら斎藤に焼酎を飲むように顎をしゃくり、乾いた杯に再び注ぐ。
「いつもむっつりしてなァ、顔に表情がないというか…わいどんも見っじゃろ? 薩摩におじゃった頃から変わっとらンさ」
斎藤も鼻で笑った。どうやらあれは生まれついてのものらしい。玄丈は懐かしそうに目を細めて揺れる杯を見た。
「あン目で睨まれると体が芯から冷えてなァ、氷とか岩とか徒名されておったもンじゃが、あンお人はそいも薄ら笑ってナ。まっこてわざえ―――恐ろシお人じゃった」
目に浮かぶようである。可笑しくなって歪んだ口を開いて、斎藤は酒を舐めた。
「…そいどん、精忠組ば牽いて藩ば動かしっとはあンお人しかおらんじゃった」
玄丈の言うには、精忠組は藩の下級武士を中心とした急進派、もっと言うと過激グループだったそうだ。
へぇ、と思った。木戸孝允などと比べれば、はっきり言って大久保は漸進派である。確かに考えようによっては、過激グループの首領を務めつつ漸進に事を進めたために、薩摩藩は分裂を見ることなしに強大なまま幕末を掌中に治めた、とも言えるかもしれない。
その間も例の冷笑が絶えることはなかったのだろう。
「と思っと…フシギなこっもあってなぁ、西郷サンといるときのあンお人はまっこて、笑っておじゃった。他モンには絶対見せん顔ば向けられて流石の西郷サンも嬉シそうでなァ……」
「………」
斎藤には大久保の心からの笑顔も西郷の気持ちも想像がつかない。だが玄丈の科白から、人間的魅力がありすぎるとされる西郷と、人間味の感じられない大久保という、奇妙な組み合わせが浮かんで、なにやら落ち着かなかった。
「こまんかときから兄弟の如(ごった)に育った二人じゃって。あン二人じゃればこそ、維新も為っとじゃ」
「………」
意外だった。大久保のことだから、てっきり西郷の強大な人望を利用したものとばかり思っていたから。
兄弟のように、仲が良かった、のか。
ふぅん……
「じゃっどん、日ィ落ちてあンお人と間違われて西郷サンに誘われっとは、…笑えんじゃったわぃ」
玄丈が苦笑する。彼の細い指が震えて、杯から酒が畳に零れ落ちた。
だが、そんな光景は斎藤の角膜に写るだけで、彼の脳髄には伝わらない。周りの空気が急激に冷えて、閉じ込められたかのような感覚に襲われた。
低い声が歌うように拍車をかける。
「西郷サンは大きゅお人でなァ、のしかかられっと重ぅておおごとじゃった。あげン甘えられっとじゃ、声も出せんでな。あンお人の細い体でどげんして相手なさるのじゃろうと、心配したもんじゃった」
ピク、と斎藤の瞼が僅かに開く。それを知ってか知らずか、杯に残った焼酎の液面をくるくると回しながら玄丈は続けた。
「あンふたりは衆道じゃと噂に聞いてはおったがなァ……もともと西郷サンはアィじゃー、まっこて稚児好きじゃっで、そげンもんかと思ったわぃ、じゃっどん、あンお人に似ゆっちゅーおいごたもんばぁ閨に引き摺りこむンは……ただゴトじゃなか。なァ?」
玄丈の薄茶の瞳が硬直した斎藤を見上げた。だが斎藤はその視線を感じる余裕など、なかった。
刀に刺されたように心臓が痛んだ。腰を下ろした体が跳ね上がってしまいそうだった。
いまさっき耳にした言葉が信じられない。
「…そいどん、」
と言って玄丈は残った酒を一気に飲み干した。ふーと息を吐き、杯を畳に置く。
「知ってからに、あンふたりの絆ン深さば…痛いくらい骨に響いてな……」
今も。
そう言うと玄丈は両手を頭の後ろに組みなおして仰向けに寝転がった。
玄丈の科白に斎藤は呼吸を忘れていた。そんなもの、どうでもよかった。
かわりに心臓がどく、どく、と高鳴る。風の音一つしない空間で熱い鼓動が玄丈に聞こえそうで、胸が鎮まるように祈るしかなかった。
だが止まらない。秒を重ねるごとに辛さが増して、斎藤は部屋から逃げ出したかった。
聞こえそうな気がしたのだ。
二人が互いを求める声が。
たぶん自分のときとは違う、大久保の甘い声が。
聞きたくなくて、斎藤は目線を落とした。睫毛が震えている。
『殺せ』
そう命じたのは、あんただったのに――――――
玄丈は虚ろな瞳で暗い庭を眺めている。
「……一番苦しいのは、あのひとだろうさ」
低い呟きが標準語に戻ったことに斎藤が気付くまでに、数秒が必要だった。
斎藤も思った。苦しいのは、たぶんあいつだ。
なのにどうして自分の胸が痛むのだろう。
その疼きに、この役に関して大久保の態度が珍しく乱れたことを思い出した。西郷が決起したという事実を最後まで否定し続けたのは、誰よりも聡明であるはずの大久保だったのだ。
数年前の佐賀の乱の折に自ら全権を行使した人間とは思えないほど、激しく動揺していた。ただでさえ白い肌が蒼褪めて、こちらが眉を顰めるほどだった。
以前、大久保は西郷と刺し違えて死のうとしたことがあると聞いたことがある。そのときはまさかと思ったが玄丈の話と合わせると、冗談どころではないかもしれない。
大久保の激情がどんなものか、おおよそ斎藤にも見当がつく。あの激情でこの国を一旦覆し、新たに築いたのだ。俺を、喰らいもした。
その激情が真実向かったのは、たったひとり――――――
そこまで想った男を血祭りに上げようというのか。己の手で? 数十年と付き合って何もかも知り尽くしている人間を……自分の“男”を殺そうというのか?
馬鹿な……
だが同時に斎藤の理性は理解している。そういうことが出来るからこそ、大久保なのだと!
ようやく大久保そのひとが掴めた気がして、同時に果てしない淵がそこに見えるようで斎藤の視界が揺らめいた。
―――――――――なぜ………
「こまんかときは今思うと幻じゃ。幸せな、幻じゃっで」
小さな頃から手と手を取り合って二人で創りあげた“明治”によって、二人が引き離され、壊されてゆく。その情景が玄丈にも斎藤にも見えた。
「あンまま、幕末を駆けておられっばどげん幸せじゃったろうな……」
どちらかが消えなければならない、二人。
だが二人でなければ生きていかれない、ふたり。
胸が引き裂かれそうだ。あまりにも残酷な、現実に。
だがその現実をつくったのも、あのふたりなのだ。
「夢ンようじゃった。なァ、大久保さァ……」
溜め息が漏れる。月光に照らされる玄丈の青白い肌が不気味なほど綺麗で、斎藤はその頬から目を離すことができなかった。
不意に、大久保の肌が蘇る。
抱かれたいと思った。
あの腕に抱かれて、泣きたくて、たまらなかった。