golden boy 3


undated on 29th Sep.2005 for St.Michael festival


 同じ布団に入っても幸せそうに夢を見続ける斎藤を眺めながら思ったのは、俺は還るべきところに還るのかもしれないと言うこと。

 …若い頃から仕事だけで生きてきたわけじゃない。気が付けばそうなっていた。独立して以来自分についてきた社員を守ろうと必死だった。彼らの人生のために自分が犠牲になっているとは思っていなかったが、考えてみれば社員ひとりひとり、あるいは取引先のひとりひとりとの関係を重視するあまりに、自分ひとりの生活や空間、もっと言うと感情――――に対して鈍感になろうとしていたかもしれない。すべての関係者との距離を均等に保つために。

 その結果として、大久保は“自分”のために、または“誰か”ひとりのために、何か決断をしたことがないまま来たのだった。

(還れということか…?)

 自分のための時間。

 自分のための人生。

 楽しむということ、

 喜ぶということ、

 そして誰かと寄り添うこと…生き物として、あるべき姿へ還れと。

「………」

 斎藤が笑った。それを眩しいものをみるような瞳でみつめた大久保は、そっと息をついて目を閉じた。

 朝起きると斎藤の姿はなく、部屋を見回してもいなかった。起き出して自分の部屋に行ったのかと思った大久保は、テーブルの上に置かれた置手紙に気が付いた。

『昨夜はお世話になりました。風呂入ってくるので鍵借りていきます』

 ボールペンの文字が、まるで彼の心情を表しているかのように硬かった。

 メモ用紙を手にとって字面を追ううちに、斎藤が戻ってきた。手にした鍵を大久保に返し、立ち上がろうとする。

「部屋に戻るんで」

 斎藤の視線は大久保を一瞬見据えるなり、すぐ畳へと落ちる。そのまま彼がどこか遠くへ行ってしまいそうで、大久保は声をかけて彼を止めた。

「斎藤」

「…?」

 いつも斎藤のあとに「君」をつけられている斎藤はいぶかしんだ様子で大久保をみてきた。

 斎藤が風呂に入っている間に鏡でみた大久保の顔は目の下に隈が出ていて、目の奥も重くて、とてもみられたものじゃない。痩せていてもしっかり筋肉のついて不眠に縁の無い斎藤に比べれば、随分貧相だった。百戦錬磨の大久保を不眠にさせるなど斎藤は大した男かもしれなかった。大久保は斎藤に座ってくれるように言うと、続けて

「すまないと思ったが、」

 と切り出すことにした。

「君の寝言……全部聞いてしまった」

 斎藤は「え」という顔をした。ちらりと瞼を上げてそれを見、大久保は畳み掛ける。

「俺のことが………、好き、なのか?」

「!!」

 斎藤の顔がさっと青褪めた。正直、もうだめだと思った。

(っ、こんなふうにして知られるぐらいなら、一生隠しておくほうがマシだ…!)

 上手く隠しておきさえすれば、Dankのメンバーである限り、大久保に嫌われないで近くにいることができたのに。

 心で叫びながら斎藤は俯いた。角膜に畳が映ったが、斎藤の視界には何も像を結ばなかった。

『俺を嫌わないで』

 喉が痙攣して、すぐにでも声に出してしまいそうだった。

(昨夜はちゃんと部屋に戻るべきだったんだ…夢のなかはすっげぇ幸せだったけど……目なんかさめなければよかった…俺はあのまま、どっかに消えちゃえばよかったんだ…)

「斎藤」

「……」

 とてもとても遠いところから、大久保の声が聞こえる。鼓膜を静かに震わせる、低い響き。気になり始めたのはいつだったろう。…分からない。どうしてこのひとを意識するようになったのかも、それが何をきっかけにしたのかも、分からない。

 それでも大久保をその他一般の人間と同等に扱うなんて絶対できないことを、昨日久しぶりに会って思い知らされた……

 斎藤の心は硬くなるばかりだった。ゲレンデを滑るときのような軽やかさがない。ひとりでいるときに大久保のことを考えれば考えるほど落ち込むだけだった。そうやってぎりぎりのところで生きてきたのに、大久保本人に気持ちを知られ、これから斎藤に下されるのは差別と軽蔑の目だけだ。

 色を失っていく斎藤の顔をみていた大久保。対照的に、普段の斎藤がみせる飄々とした表情を思い出していた。

 アルペン競技の世界で、斎藤は不思議なレーサーとして知られている。

 なぜなら、多くのレーサーが苦戦する強風や横殴りの雪の降るコースという、非常に悪い状況で良い成績を残すからだ。だから当初、斎藤はラッキーな男としか認識されていなかった。ベテランのレーサーがアイスバーンの上に積もった柔らかい雪にスキーを取られて転倒・失格するなかで、生き残っただけだと。

 だが時間がたつにつれて、それが違うことが証明された。斎藤のタイムは、本人のペースに依存するのであって、天気に左右されるのではなかったのだ。日本人の技術は世界最高だが、パワーとスピードに勢いが無いのが問題とされる。そのなかでスピードで勝負できる日本人は珍しい。毎回のようにラップをとり、自分のラップが破られるまでゴールゾーンに立つ「H.SAITO」が次第に知られるようになった。大久保も外国人記者に声をかけられたことがある。

『ミスター・オオクボ!ミスターのboyはミステリアスだ。コースが悪いほど燃えるレーサーなんて聞いたことがない!』

 やや考えた大久保は興奮する彼に向かって、こう言ったのだ。

『私のgolden boyですから』

『Oh...ミスター、なんて意味深な言葉だ…メモしておこう』

 次の日、彼が書いた記事のタイトルが「My Golden Boy」だったことは言うまでも無い。

 …あれはW杯で斎藤がはじめて表彰台に立ったときのこと。スポーツ紙に大きく斎藤のことが取り上げられたのを、よく覚えている。その後Dankで祝杯を上げたのだが、意外にも斎藤の笑顔は硬かった。大久保がなんの気無しに口にした「My Golden Boy」のひとことに、深く傷ついていたのかもしれなかった。

 もう一年近くも前の話だ。一年もの間、心理的に落ち込みながらも成績を落とさずに斎藤は自分を思い続けてきたというのか……

 一年間振り返る可能性がほとんど見当たらない相手を思い続けるのはどんな心境なのだろう。そして長い間を誰かとともに穏やかに過ごすのはどんな心地なのだろう。大久保には想像つかなかった。

(還るべきところへ還れ、か……)

 斎藤も大久保も、集団のなかで生きてはきたが、所詮は一匹者同士だ。企業の長として大久保には自分の部下が最初からついていたが、渡欧したとき斎藤は完全に一人だった。Dankに入ってからもひとりでやってこれたに違いない。だが自分の思いに気が付いた途端、ひとりではいられなくなった。斎藤の伏目がちな眼差しは大久保ただひとりへのメッセージだったのだ。助けてくれ、と。

(こんなことを考えるのは、俺がこいつの手をとってやりたいからに相違ないのだろう)

 大久保はふむ、と軽く頷くと、腹に力を入れて声に出した。

「恋をしようか、斎藤」

 そのひとことに、口にした大久保自身胸が高鳴ったことに驚いた。

 その鼓動と同時に、斎藤の肩がぴくりと震え、珍しい色の虹彩が戸惑いながら揺れた。

「…え……」

 大久保は繰り返した。まるで自分に言い聞かせるように。

「恋をしよう」

「…でも…俺……男だし……」

「俺には、同性愛を異性愛と区別するつもりはないよ。これは異性愛、これは同性愛、と名前をつけて区別して喜んでいるのは人間だけさ」

「………でも、」

「…どうやら俺は鈍感らしい。自分の気持ちに振り回されまいとするあまり、気持ち自体を封じ込めるのが得意になってしまった。だから…君も知っているだろう、俺が氷とか岩とか言われていることを。それは、ある意味で本当だ」

「………」

 それは知ってる。斎藤も、なんとなくわかっていた。外面からみると、大久保には人間らしさが妙に欠如しているということを。初めて会ったときに握った掌が酷く冷たかったことを。だがそれは、斎藤にとって不快なものではなかったのだ。

 そんな大久保も、緋村らと会えば笑うし食事もする。決して岩でも氷でもない、ちゃんと人間なんだと、大久保という男のことを斎藤は捉えていた。

(単なる冷たい男を好きになるわけないじゃんか)

 惹かれたのは、大久保の醸し出す人間離れした雰囲気と、人間らしさを取り繕おうとする大久保の努力と、それが削がれたときに垣間見える本来の彼の姿。それをもっと知りたかった。

 その大久保が訊いてくる。黙っていれば人形のように澄んだ灰色の瞳に、必要以上の冷酷さを漲らせて。

「…俺で、いいのか?」

 斎藤は大久保をみつめながら思った。

(綺麗なんだよな、このひと。感情なんかなさそうで冷たくて触ればこっちまで凍りそうでそれが怖くて。でも俺は、傍からみれば冷たくて怖いだけのゲレンデで滑るのが好きでスキーヤーになったんだから)

 …大丈夫。

「…うん」

 斎藤は頷いた。大久保の表情がほんの僅かだが和らいだ。

「本当にいいのか」

「うん…」

「変わってるんだな斎藤」

「……あ……あんたを好きになるやつでフツーなのは…いないと思うけど…。緋村だってヘンなヤツじゃん」

 斎藤が答えるなり、大久保は、らしくなく吹き出した。斎藤は、あ、と思った。

(笑った……)

 俺でも笑わせられるんだ、このひとを。それがなんだか嬉しくて、斎藤も笑った。

「恋人になろう」

「…うん」

 大久保は手を差し伸べた。それを斎藤が取って、それだけで嬉しかった。