golden boy 4


undated on 29th Sep.2005 for St.Michael festival


 Dankにも休暇がある。緋村と彼のトレーナーを除くメンバー全員が故郷でのんびり過ごすため、春のプレ・トレーニングを終えてからそれぞれ帰路についた。緋村たちはニュージーランド・クウィーンズタウンで観光するらしい。斎藤は今シーズン故障もなかったので、プレ・トレーニングをあっさりと終えて日本へ帰ってきた。

「ただいま…」

 久しぶりに帰国してまっすぐ帰宅したというのに、都内の斎藤の家はがらんとしていた。それもそのはず、スノーボーダーが増加しているため都心から車で二時間で行ける立地条件にあるスキー場経営が波にのった斎藤家は、公務員一家から瞬く間に成金一家になり、長期旅行が趣味になっていたのだ。

 冷蔵庫にメモが貼ってある。

「お帰りなさい。疲れが取れたら一もこっちに来なさいね。携帯℡090-××××-××××」

「北海道か、いいなぁ」

 携帯に電話して合流してやろうと一瞬思ったが、斎藤としては北海道はやはり冬だった。

「ニセコがいい。ニセコ。の、パウダースノー。俺もフツーに滑りたい、てか」

 ぶつぶついいながら冷蔵庫を開け、中から牛乳を取り出して飲み干した。ごくり、と喉に下して左手の甲で唇を拭った。

 そのとき、左の手首でチャリと音がしたのでスッと視線を走らせる。

「………」

 五月は嫌いだ。

 尊敬するアルペンレーサーがコース横に設置されているガードに激突して死亡した季節だからだ。

 レース中の悲劇だった。

 アルペンはスピードの世界だ。スピードを早めるためにレーサーは身体のバランスを崩れるか崩れないかのぎりぎりのところまで削る。最低限のバランスでレーサーはスピードだけになる。だから…バランスがアンバランスに変われば、レーサーはスピードが故に命を失う。

 正確には、斎藤は彼と握手したかっただけだ。だが彼は、頼んでもいないのに斎藤がしていたヘアバンドとグローブ(手袋)にサインを書いた。そうして彼はもう一度大きな掌で斎藤の手を握り、その手でぽん、と斎藤の背中を叩いて笑って去っていった。彼の背中を見送り、はっとしてヘアターバンを頭から外すと、いまさっき彼が書いてくれたサインがくっきりと記されていた。彼と握手したときに彼のウェアの袖から覗いた某メーカーのチタン製三連ブレスレットを思い出した。斎藤はそれと同じものを買い求め、トレーニングのない日も含め、毎日着用していた。

 だから彼がニュージーランドで開かれていた国際大会出場中に亡くなったのを知って以来、ブレスレットは彼の思い出とともに大切なものとなった。

 ちゃりん、と再びブレスレットが鳴った。

 それが、「お前は死ぬなよ」と言っているようで。

「………」

 W杯で何度も優勝を決め、毎年表彰台の上の彼の笑顔をみるのが好きだった。決して派手な男ではなかったらしいが、大きな安心感を放つような選手だった。斎藤は、彼が滑っているシーンのポスターを買って部屋に貼り付けていた。

 真っ青な空を背景に細かい雪を舞い上げながら風になって滑走する一流のレーサー。

 風になったまま、彼は逝ってしまった。

 フランスに渡ったばかりで、ヨーロッパアルペン世界のなにも分からず、無我夢中で毎日を過ごしていた頃、同じスキークラブにいたタケシと一緒に夏にバイトしてためた金でオーストリアまで行って彼が滑る姿をみた。ああこれが世界一の滑りだと、全身に震えが来た。掌を交わすだけでいい、そう思って観衆のなか身を乗り出しただけなのに、彼はにっこり笑ってサインをくれたのだ。おそらく日本なんて訪れたことすらなかっただろう極東の地からやってきた駆け出しの若者に最高の言葉をかけて。

『Boy!いい眼だ。今度一緒に戦おう』

 …あのときあんたは生きていたのに。

 彼の明るい声と笑顔を思い出して、斎藤は閉めた冷蔵庫の扉に背を預け、ずずず…と背中でずり落ちて床に座った。

 いつか俺も死ぬのかな…、などと考えながら。

(このままあいつと離れ離れになるのはいやだな…)

 脳裏に色素の薄い男の顔が浮かんだ。

(恋をしよう、か………してんのかな、俺たち…)

 ちゃりん、とブレスが揺れた。

(会いたいけど……忙しいよ、な…)

「……」

 斎藤は立ち上がり、二階の自分の部屋へ行ってベッドにごろりと横になった。飛行機のなかで寝たとはいえ流石に疲れていたから、若い体もすぐに眠りについた。目を覚ましたのは夕方だった。

 階下で電話が鳴っている。

 斎藤は跳ね起きてベッドから降り、急いで階段を下りた。北海道からかかってきたと思ったのだ。

「もしもし」

 だが声の主は家族ではなかった。

「…斎藤か?」

「あ、…うん」

 電話の相手は大久保だったのだ。

 国際電話とは違って、受話器からの音が近い。

「お前も東京住まいだったなと思って……これから出てこられるか?」

「いいけど…どこに行くんだ?」

 尋ねると斎藤は、大久保が住んでいるという地区の駅の名前を告げられた。そこならすぐに行けるということで、斎藤は貴重品だけもって家を後にした。

 告げられた駅まで電車に揺られて十数分。斎藤はホームに降りて改札口で突っ立っていた。スポーツ記者にみつかると面倒だったから、フリースキー系のサングラスをかけた。Nailの女性用グラス。女用だけど、かけてみたらぴったりだったから買ったものだ。グラス全体が灰青色で、ちょっと大久保に似ていた。

 大久保はすぐに来た。というか、すぐに分かった。いくら髪の毛のカラーリングが普通となった日本のなかだとしても、本物は群を抜くものなのだ。大久保の髪の毛は、生まれたときから鳶色なのだそうで、化学的な色合いじゃないし髪質も荒れていないため、遠目でも見分けがついてしまう。斎藤はグラスを外した。

「待たせたか」

「全然」

「夕飯を一緒にどうかと思って呼んだんだが…なにか食べたいものとか、あるか?」

 聞かれて斎藤は、思い切って言ってみた。

「あんたの手料理」

 斎藤の答えに、大久保は目を丸くした。じぃっとみつめられて、斎藤の胸はどきりと高鳴ったが、息継ぎをしてなんとか会話を繋ごうとした。

「料理が趣味って、聞いてたから」

 斎藤が言うと、大久保は「緋村か、そういうことを言ったのは…」と苦笑した。斎藤は尋ねた。

「あいつに作ってやったり、したのか?」

「腹が減るといまでも家を訪ねてくるさ。ひとりでいるのが寂しいのだろう」

「………」

(それは俺だってそうだよ)

 心の中で斎藤はひとりごちたが、このひとは鈍いんだっけか、とすぐに気を取り直すことにした。せっかくふたりでいるのに、落ち込むなんてもったいない。

「どうした」

「…いーや別に。大久保、俺、すき焼きとお好み焼きが食べたい」

 ジーンズのポケットに手を突っ込んで歩き出す。大久保が隣についてくる。

 鈍いのか、鈍いんだな、と斎藤は考えている。鈍い大久保は聞いてくる。

「それだけでいいのか?なにかもっと、」

「すき焼き、お好み焼き、焼きそば、湯豆腐、炊き込みご飯、わかめの味噌汁、つみれ鍋、鶏の唐揚げ、カレイの煮付け、イカの丸焼き、ハマチの刺身、それからえーと…」

「…おい」

「おでん、高野豆腐の含め煮、茶碗蒸しと春巻きはちゃんと手作りしたやつ。マカロニグラタン、ローストビーフ、ブイヤベースも食べたい。あと海老チリと、サラダと、青梗菜の炒め物」

「……それだけ作るとなると、時間がかかりそうなんだが、いいのか」

「デザートはレーズンとブランデーの入った、甘くないパウンドケーキでいいよ」

「……」

 アスファルトの歩道を歩く大久保の足音が流石にぐったりしている。それを確認した斎藤は、食べ物の名前を挙げながら考えた「これだ」と思ったひとことを投げかけた。

「全部喰うまで俺帰らないから」

 言うなり斎藤はぷいっと顔をやや背けた。それだけでいくら鈍かろうと大久保には通じると思いたかったし、実際斎藤の本音は大久保に届くことになったのだ。

(なるほど、そういうことか)

 今夜は帰らない。帰らないから、好きにしろ。

 恋をしようと言ったのは、自分のほうだった。あれから三ヶ月。二人は全くと言っていいほど進展していない。なにせ、会えなかったから。

 久しぶりに会って、シーズンが始まれば斎藤と大久保は再び離れ離れになる。互いの身に、いつ、なにが起こるか分からない。

 だから傍にいられるこのときに。

「…わかった」

 大久保は返事をした。

「……うん」

 斎藤は俯いたまま、小さく応えた。

 五月下旬の爽やかな風を頬に受けながら、ふたりは黙々と歩く。そのうち、ポケットに突っ込まれていた斎藤の手が掴まれて大久保のサマーコートのポケットに入れられると、ふたりの距離が無くなった。

 途中、スーパーで大量の買い物をして大久保のマンションに着いたころには、六時半を回っていた。大久保は、自分ひとりで作るからと言ってキッチンに入り、斎藤はリビングでくつろぐことになった。

 リビングには沢山のスキー誌が積まれてあった。

「みていい?これ」

「ああ」

 スキーにも色々あって、斎藤がやっているアルペンもあれば、緋村が燃えているモーグルもある。他にも、クロスカントリー、ジャンプ、エアリアル、ハーフパイプに、フリーライドetc。長いスキー板に頑丈なブーツ、全身を覆うウェアを着ていかにも重そうにみえるスキープレイだが、他のスポーツに比べ、実際の自由度が格段に上なのだ。だから毎年毎年、テクニックもマテリアルもスキー自体も進化していく。普段アルペンの世界にどっぷり漬かっている斎藤も、元を辿れば雪山に魅せられたスキーヤーなわけで、スキーと名のつくものであればなんでも好きだった。

 斎藤は深い色のフローリングに座り、ソファの足に立てかけたクッションに背をもたれさせながら、雑誌を舐めるようにして読んだ。戦ったことのある選手もいれば、全然知らない選手もいる。引退した元選手の栄光記もある。大会で賞金稼ぎをしながら世界中の思いつくところをあちこちまわってトリップするのが本職のフリーライダーもいるし、斎藤にも出来ないだろうトリック(技)を決めるライダーもいたりする。

「どーやるんだよコレ…後ろから一回転半……無理、絶対ムリ」

 斎藤が呆れているのは、トリックSSBS(スイッチスタンス・バックサイド)540という大技で、ジャンプ台から飛び出して空中で体を一回転半させて着地するものなのだが、ジャンプ台から飛び出すときの格好が、所謂後ろ向きなのだ。ゲレンデの谷の方向に背中を向け、山の方向を見ながらジャンプする。向かっていく方向が見えないから、普通のトリックに比べて恐怖心が倍増することになる。

 一般スキーヤーにはリスキーだが、出来るヤツは出来るというトリック。モーグルは一応出来る斎藤だが、これは出来そうに無かった。

「なにが無理だって?」

 早速ホットプレートをもってきた大久保が尋ねる。最初はお好み焼きのようだった。

「これ。よくやるよな」

「どれ」

 大久保は、開かれた雑誌の写真を見て、次に揶揄うような目つきで言ってきた。

「緋村はできたと言っていたが」

「ンだとぉ」

 斎藤は緋村を嫌っているらしいが、懲りない緋村のほうが斎藤についてまわっていた。緋村は今はモーグラーだが、身軽なこともあって、ハーフパイプもエアリアルも、フリースタイルなら何でも出来る。アルペンで貫いてきた斎藤よりも、そういう意味で身のこなしは軽いのだ。

「…ムカつく。絶対やってやる」

「無理するなよ」

「ますますムカつく」

 緋村に対するライバル心というより敵意を剥き出しにする斎藤をみて、大久保は笑った。あ、こいつまた笑った、と斎藤は思った。

 それから斎藤はお好み焼きを焼き、大久保はただよってくる香りをよそに、あたふたと次の料理の準備を始めた。フローリングに直に置いたカセットコンロの上では、すき焼きがぐつぐつ音を立てている。

 部屋にかかるサウンドはケニー・ロギンズのアルバム「THE UNIMAGINABLE LIFE」。外国暮らしをしている斎藤にとって、洋楽はごく普通に耳にするもので、ラップでなければ歌詞をみなくてもリズムだけでなく意味も大体分かる。

 深刻な歌詞なのに、ゆったりと歌い上げられて、聞いているほうは「こんな簡単に歌にしてしまっていいのか」と思いながらいつのまにかグルーブし、コーラスしている自分に気づくのだ。

 海のような、空のような、とてつもなく透明な青い無限のなかであらゆる疑念と不安を手放して、思い切り腕を伸ばして浮遊しどこか明るい世界へ飛んでいくような感覚に身を委ねる。斎藤は、みていた雑誌を膝の上に開いたまま落として、歌を聴いていた。

「…あんたがこんなの聞くなんて知らなかった」

 ぽつりと呟くと、刺身を切ってきた大久保が「ん?」という風にこちらを覗き込んで来た。エプロンをつけてとにかく料理する大久保の姿と、流れる音楽の壮大さとのギャップに斎藤は苦笑する。

"All I am to be by your side..."

 鈍い癖にこんな感傷的な歌を聞くなんて、全然鈍くない証拠じゃないかと思った。

 歌いすぎて掠れた声に味がある。ただ叫ぶ歌じゃない。ちゃんと歌ってる。バックコーラスにも広がりがあって、世界が限定されないまま、綺麗に滲んで空気に溶けていく。

(まるで、あんたみたいだ…)

 大久保という男は、考慮に考慮を重ね、溜まったエネルギーをタイミング良く出している気がする。相手に気を遣わせないように、抜けるときは自分から抜けるとか、自分の思い通りにしながらも実は相手の望むことを提供しているとか。

 つまりは本物のやり手。

 恋にもやり手なのか?鈍いくせに。

「……」

 いま、この瞬間も自分は大久保の張った網に見事にひっかかっているのかもしれないが、たぶん自分はそれを望んでいるのだろうと斎藤は思った。