SHUU



 松本医師から「全治二か月」の診断書を持たされて日野署に着いた俺は、既にトレードマークになった婦警服を着こなした鎌足さんに両手を広げられ、派手に出迎えられた。彼の本日のネイルは水色のハローキティである。先週は、デイジー・ダック(ドナルドのGF)だった。生活安全課の彼のデスクには、特大のクマのプーさんぬいぐるみが警察官服を着せられて置いてある。警官服は鎌足さんの手作りだった。

「鬼が出払った今が、署長室に突撃するチャンスよ~! あたしが山南さんを呼んで来て、あ・げ・る♪」

 そう言って鎌足さんが二階の刑事課第一(室)目がけて、署の一階から二階へと至る階段を駆け上るのを見上げた俺は、軽く溜息をついて、一階のほぼ中央に位置する署長室へ向かった。

 ワイシャツ姿に肋骨固定用のバンド(柔らかめのコルセット)をした俺の姿を、署を訪れている一般市民の目が追いかけてくるのが分かる。山南さんと合わせて、「刑事らしくない刑事ナンバーワンとツー」「刑事課最後の砦」と呼ばれること甚だしい俺は、市民の目には「刑事らしくない気の毒な人」にしか見えないらしく、老婦人が膝に大切そうに抱いている円らな瞳をしたチワワにさえ、くぅん、と鼻を鳴らされてしまったのだった。

 …これが土方さんだったら、市民は恍惚となるか蒼褪めるかなのだが、どう頑張っても自分には、市民をそういう意味で恐れさせることは不可能らしかった。俺の為に?鳴いてくれたチワワに軽く笑った俺を見て、チワワを抱いた老婦人が会釈をしてくれる。一般市民に嫌われるよりは余程良いだろうと思い直して、俺は一階の廊下をまっすぐに歩き、山南さんが降りて来るまで、署長室と書かれた扉の前で待つことにした。

 待つこと一分で山南さんがやってきたので、彼のノックの後に俺は署長室に入る。左胸に警視の階級章、右胸には警察署長記章を輝かせて、近藤署長が俺たちが入室するのを椅子に座ったままの姿勢で眺めた。キッと音を鳴らして肘掛け付のチェアをこちら側に回転させた署長と視線が合ったところで、

 ふわり  と

 彼の香りがした。

 サロニカの香りだった。

 彼の涙が忘れられない。

 今もまた、泣いてはるんやないか――――――

 心で。



   驟雨       ※にわか雨



 山南さんの懇願もあり、俺は明日から取り敢えず一か月間、完全に休むことになった。例外は、国際係が出動しなければならない事件が発生し、かつ、俺でなければ対応できない状況になった時で、山南さんから俺に連絡が入る時のみ、との指示があった。

 国際係は、俺を含めて六名である。二百五十余名の署員を抱える日野署は中規模の署で、刑事課の人数は三十五名である。以前山南さんが所属していた新宿警察署は六百名を超える署員が今もおり、そこに比べればこじんまりとした構成であるが、だからと言って事件が少ないわけではない。署長や山南さんは事あるごとに、「あと二名で良いから人員を増やしたい」と言っているが、経費削減の波を受け、ここ数年は刑事の数は同じままだった。

 だからここで俺ひとりが抜ける期間を出来るだけ短くしたかったのだが、松本医師の診断書は重く、俺は自宅療養を署長から厳命された。これで、国際係は五名となる。大丈夫だろうか、と自分の上司と部下を信用しないのは大問題なのだろうが、俺が案じたのは、土方さんの痩せこけた体だった。僅か三十五名からなる刑事課の当直の際に、一人が欠けると言うことは、一人当たりの日直当直の回数が増えることを指す。……こう言う折にあのひとは、また、自らを削ろうとするだろう。

 署長と会話する山南さんの、相変わらず穏やかな声を聞きながら、ふと思いついた。

 まさか土方さんはわざと俺の頬や背中を引っ叩き、あの時既に背中に出来ていた傷を悪化させて、俺にしっかり休みを取らせるようにしたのではないか。

「………」

 あり得ないことでは無い。こう言う芸当は、彼の得意とする事だった。多くは事件の解決に向けて、被疑者に向けて使われるテクニックなのだが、彼は見かけの割に複雑で、口で言う事と心で思っている事が、大きく乖離している時が多々あるようだった。沖田さん曰く「ただの捻くれ」であり、鎌足さん曰く「ただの鬼」だそうだが、俺はあれは、彼なりの他者への配慮のように感じている。

 あのとき土方さんは、本気で俺を叩いた。俺の左頬も背中も、関節が外れるかと言うほどに力が掛かっていた。あまりの痛さに冷静さを失いそうになり、初めて俺だけに本気で怒鳴ってきた土方さんの剥き出しの感情が嬉しくて、長い間固く守っていた箍が外れて、俺も感情を剥き出しにしてしまった。

 考えてみれば、おかしなことだ。十八の時にたまたま出会った土方さんを二十年近くも想い続けて、今まで形にもしないで来たなど。

 鎌足さんは、女装を始めて今年で二十五周年だと言っていた。彼ほどの根性を持ち合わせてはいないが、多分に俺も、異常なのだろう。有刺鉄線付のバッドで叩かれた割には、骨のヒビぐらいで済んだから、体はかなり丈夫なのだろうが。

 彼は。

 四十年以上も、異常な、脆弱な体を抱えて来たのだ。

 告げられた診断名を俺なりに調べてみたが、確かにこれと言った治療法が無かった。休んで治るわけじゃない。薬も無いし手術が出来るわけじゃない。今後、有効な治療法が見つかるわけでもなさそうだった。

 遺伝子異常。それは、本人の意志や努力を無視したところで起こった、突然変異である。

 病床にいた母の心を何とか和ませようと、それまで殆ど知らなかった園芸に手を出した俺がみた植物の世界は、予想と大きく異なり、変化と多様性に富む、賑やかな世界だった。植物同士や、昆虫と言った植物の近辺にいる生き物の介入などで突然変異が起こると、特殊な色や形を持つ花が出現するのだ。

 それが人の目に好ましい場合は、栽培用として種が保存され、好ましくないと判断された場合には、交配されて別の生き物へと変化させられる―――――つまり、いま俺たちが「花」と呼ぶものは、原種から遥かに遠ざかったものが多く、所謂成績優秀な種が生き残った、若しくは、生存競争を勝ち抜いた猛者たちなのだ。

 その考えで言えば、土方さんの肉体は、生まれながらにして不利な条件を持つ、生存競争を勝ち抜けない生体、と言うことになる。あんなに綺麗で存在感があるのに。

 全身のコラーゲンが異常だと言う体は、恐らく、立ったり座ったりするだけでも辛いだろう。良くあの体で逃走する被疑者を追い掛け回したり、あちこちの聞き込みに行けるものだと思う。警察官は、職務上、どうしても体育会系のノリが未だに強く、屈強な体のほうが有利になりやすい。

 土方さんは、昔は兎も角いまは痩せこけて、どうみても体育会系には見えない。その状態で殺人・強盗・傷害・放火などを扱う強行犯係長を務め、未解決事件の数を次々と減らして署の貢献度を上げて来た。

 意志で生きているとしか、言いようが無かった。

 その彼からは、体育会系とは縁遠い、花の香りがした。俺が今こうして座る署長室の応接用ソファにも、サロニカの香りが沁みついている。ためにいさんがいる「ひかり工房・サロニカ」で精油をたっぷり背中に塗って貰った俺は、土方さんから僅かだが香ってくる香の正体が分かって、この部屋を始めとして署内のそこここに漂う不思議な匂いが何なのか、漸く納得が行こうとしていた。

 来客用の意味もあって署長室は、署の中では喫煙室を除いて唯一の喫煙可となっており、煙草を求めた署員たちがちょくちょく来るのだった。

 流石に俺は喫煙の為にここに訪れた事は一度も無かったが、仕事の為なら署長室をどう使っても構わない、との方針の近藤署長の言葉に甘えた署員らのなかで、最も頻繁にここを訪れるのは刑事課署員で、その筆頭が、土方さんである。彼が訪れるからこそ、刑事課の署員たちが気軽に訪れ、常に切迫感のある筈の署内の割には、日野署は割とほのぼのとした空気が漂っている。以前俺が勤めていた署と比べても、空気がだいぶ異なっていた。

 どうやら、近藤署長が署長になってから日野署は変わったらしい。俺は彼が署長に就任して少し経ってから配属になった為、その前の実際は知らないのだが、日野市民が言うところによれば、「昔は如何にも警察官、て人が多かったけど、今の署長さんになってからあたしたちもだいぶ(署に)入りやすくなったねぇ」。

 結果として、鎌足さんがムードメーカーを務める生活安全課が多忙となって、人員が補強されたのだが、賑やかになった(生活安全課のある)一階の様子を見たくて、それまで二階にあった署長室を一階に移したのだった。その時に、全館ほぼ禁煙の筈だった署のうち署長室のみを喫煙可にしたのである。

 署長は管内警察官の全ての責任を持つものだが、まずは市民との距離を縮めたいと言う目的で、生活安全課を充実させた事が、近藤署長が就任して最初に行った事だった。

 かつて生活安全課は、花形の刑事課や警察のエリートしかいない公安課に比べて、下っ端の仕事、と言うイメージが先行し、市民にとってもそれほど頼り甲斐のない存在だった。しかしインターネット犯罪やストーカー犯罪、若者による薬物事件が増えるにつれ、あらゆる警察署で生活安全課が重要視されるようになり、同課を充実させる必要性が増した。俺も刑事課に配属される前に「山崎の顔はどうみても生活安全課」と元上司に言われ続けた過去があるので、生活安全課の量と質を上げる必要性は、良く分かっているつもりである。

 そうすることは唯でさえ多忙の署長が、更に仕事に追われる事になるのだが、署長周辺の人事を見ると、どうやら、毎日大量の書類に追われる近藤署長のこの部屋に、喫煙を目的とした署員たちが集まり、署長が書類内の文章に書かれた重要事項を見落とさないように、煙草を咥えながら書類を読んでいるようだった。

 その筆頭がやはり土方さんなのだが、山南さんも「喫煙を目的にして署長室を訪れては、署長の業務をこっそり助けているメンバー」の一員である。結果として、署長室は刑事課職員が屯しやすい場所となった。が、積極的に喫煙しているわけでは無い俺に、「メンバー」としての声は掛かっていない。よって俺が署長室に来るのは、滅多にないが署長に呼び出された時と署長室の鉢植えの状態を確認する時ぐらいで、ゆったりと隣に座る山南さんとは違い、日野署がこれまで獲得した様々の賞杯や賞状が所狭しと飾られたこの部屋に、署長と真正面で向き合って座るだけでも、どうしても緊張してしまう。

「山崎くん、」

 と声を掛けられて、はっと顔を上げた俺はここでやっと、自分が膝頭を見つめていたことに気が付いた。……サロニカの香りが、俺の意識を薄らげていたらしい。

 僅かとは言えサロニカの香りが漂う室内で近藤署長の顔を目の前にすると、心臓が鷲掴みにされる気がする。その……キス、をしたので。

「今日から一か月はきちんと休んで、まずはヒビを治しなさい。治りが悪くなるといけないから、絶対に無茶はしないように。療養期間の延長が必要の時には、また診断書を出しなさい」

 余裕のある笑顔で言われると、「嫌です」とは言えない。が、長期療養になると刑事課の代表格である土方さんに迷惑がかかる。近藤署長の心遣いや山南さんの配慮は大変に有難いのだが、心苦しくて堪らない。あの痩せた体をまた痩せさせると思うと、食欲が出なくて、今朝から実は何も食べていないのだ。昨夜あのあと、彼はちゃんと食べたのだろうか。

 俺の療養休暇を認めてくれた署長に、丁寧に感謝の言葉を述べる山南さんの声が俺のなかで遠ざかる。エアコンで送風がされている室内を漂うサロニカの淡い香りを嗅ぎながら、俺は昨夜のことを思い出していた。



*           *




「ニコチン中毒なんだよ」

 俺の腕の中から顔を上げた土方さんは、涙で濡れた目を拭いたと思ったら、急に立ち上がって部屋の窓際に行きカーテンを開けた。それからガラリと開いた窓から、夜風が吹き込んで来て、俺の目には茶色に見えた髪の毛を揺らしたのが分かった。

 土方さんは、その出窓に腰を下ろしてから俺に、「吸うか?」と声を掛けて来た。

 吸い過ぎると肌に悪いですよ、と言ったら、お前が惚れるくらい俺は美人なんだろ、と言い返して来た。

「そうですけど」

「なら、一本吸っても、平気だろ?」

 どういう理屈やねん。

 出窓に下した腰から、左脚だけをぶらぶらさせて、土方さんは切れ長の目で俺を見ながらジーンズのポケットからセブンスターを一本取り出して唇で咥え、Zippoで火を点けた。ふう、と吐き出した紫煙が風に追いやられて俺の方に向かってきたところで、その出窓のすぐ隣にある、天井に突っ張るタイプの壁面ブティックハンガーに掛けたジャケットのポケットが、音を鳴らしてブルブル震えたのである。

 煙草を咥えた侭、土方さんは出窓から飛び降りるようにして降り、震えるジャケットから携帯電話を取り出して、電話のボタンを押した。

 彼は素早くもう一度出窓に行って窓を閉めると、俺に「山南敬介」と表示された彼の携帯電話を差し出した。電話に出ると、山南さんの怒号の次に、心配していたんだよ、と心底心配した声がした。

「いきなり署から居なくなったと思ったら、山崎くん、携帯電話をデスクの上の書類のなかに忘れていたんだよ、それで今まで連絡が付かなくて。サロニカに行っていたのか、あそこなら安心だ、土方くんと一緒と言うのは少し心配だけど、うわ、」

 そこで山南さんの声が途切れて、電話の向こうから、次は僕です、とか、あたしよ、とか、複数名の声が聞こえて来た。

「や、山崎さん、大丈夫ですか?」

「……沖田さん」

「土方さんと一緒なんですか? あのあと大変だったんですよー、鎌足さんが、『山崎さんが鬼に拉致された、どうしよう!』って大騒ぎで。山崎さんの携帯に電話しても、こっちでコール音が鳴るし」

「…すみません。携帯、忘れていたみたいで」

「今は僕が携帯を預かっているので、こっちに着いたら渡しますからね」

 そこで声が変わって、鎌足さんが叫ぶように言った。

「あの鬼に、山崎さんにこれ以上何かしたらぶっ殺す、って言っておいて!」

「………それを伝えると、たぶん鎌足さんの方が(色んな意味で)殺されると思うので、やめておきます」

「なんですって!?」

 そこで、伸びて来た土方さんの白い手に、俺が耳に当てていた携帯電話が取り上げられ、無慈悲にもピッと音を鳴らして、回線が切られた。電話の向こうで鎌足さんがきゃぁきゃぁ喚いていると予想して俺は、思わず、「あー…」と声を出した。

 土方さんは、「良ンだよ。どうせ今夜も、山南の部屋で俺の悪口大会なんだろ? 体力を温存させてやろうぜ」と言ってニヤリと笑って、またセブンスターを吸った。

「あいつら、俺の悪口でストレス発散してるンだろ。夜ぐらいは好きにさせてやる」

 ……このひとの、優しさが分からない。

 俺には分かるけれども、きっと、近くにいてじっと観察しないと分からない。

 ためにいさんが言っていた、松本良順先生に似てるだろ、と。

 本当だ。口が悪いけれど、対人操作は悪くない。もしも沖田さんや鎌足さんが本気で土方さんを嫌っているのなら、他の署への異動を希望すれば良いのだが、彼らが異動希望を出したとは聞いていない。事件発生の度に、沖田さんは殆どの場合土方さんとコンビを組んで、彼の瞬足が生かされる場面で被疑者の確保に成功している。それはつまり、二人が信頼しあっている証拠だ。

 子供の頃から刑事に憧れていて、十七歳で近藤署長の実家である天然理心流の免許皆伝になった沖田さんは、同時に体が弱く、子供の頃から結核に何度かなったそうだ。だから、剣道で鍛えた割にやせ型で、刑事課内では土方さんの次にるい痩が目立つ。年に数回とは言え、仕事を休んで一階の(俺が鎌足さんに左頬の処置をされた)医務室のベッドで点滴しながら寝ていることがある。

 土方さんとは、沖田さんが幼稚園に入る前からの仲だそうで、早くに両親を失くした沖田さんにとっては、近藤署長と並んで、土方さんは兄貴分なのだ。互いに悪態を付きながらではあるが、現在までの署内統計では、土方・沖田コンビでの被疑者確保率が最も高い。

 その沖田さんと俺は、主に永倉さんと鎌足さんとの四人で、「お好み焼きパーティ」と銘打って独身男同士の夕食会を開く間柄であるが、その時に話題に出る土方さんは、「見かけと違って、自宅は派手じゃない、服もダークカラーのものばかりで、アクセラと顔と悪態だけが派手な人」であった。

 彼に言わせれば、鎌足さんの方がずっと、何もかも派手だそうである。土方さんよりも派手好み、と言われると鎌足さんは、嬉しいのか悲しいのか分からないわ、と困ってしまうのだ。ちなみに鎌足さんのマンションは、どこもかしこも乙女趣味で、パステルピンクのソファに、同色の特大ウサギぬいぐるみがある、どう見ても異常な作りをしている。そこに比べれば、土方さんのこの部屋などは、単純すぎて驚く。

 けれど、ためにいさんや松本医師から聞いた話を考慮に含むと、土方さんの本質が垣間見える気がした。

 警視庁一の美貌で有名な彼は艶やかな花のように見えて、実は、この部屋のように静かで落ち着いた内面を持っている人なのだと思う。ダークブラウンに統一された家具と、ボタニカル柄のカーペットがフローリングに敷いてある空間には、ある筈の剣道大会の賞状などは一つも無く、マガジンラックに雑誌が少しと、書棚に海外のミステリーやエッセイが並ぶくらいが、個性を表現するものだった。

 俺が土方さんの家に御邪魔したのはこれが初めてだったが、室内が、噂以上に静かで、やっぱり俺は自分の感覚が正しいと、噛みしめていた。

 サロニカの、香りがする。

 きっとこのひとの為に作られたのであろう、点字だらけの壁で作られた、盲人が勤める、花と葉の香りが溢れる白い空間。あそことここは、同じ感じがする。見かけと中身が、違うのだ。サロニカは高い外壁に囲まれた白い要塞のような外見なのに、中はとても明るくて綺麗で良い香りがした。

 俺は、高校生の頃から、そう言う花を沢山育てて来た。見た目が派手だからと言って、中身が派手な訳じゃない。花の場合、中身と言うのは、生育環境のことだ。例えば撫子の花は、その名前と印象とは裏腹に、頑丈な花で、基本的な手入れをしていれば植えっぱなしで良い。

 綿花は上級者向けだ。日あたりと室温調整が重要で、マンション住まいでしかも当直や呼び出しのある警察官の身では、開花までは出来たが、結実はさせられなかった為、今のところ俺は諦めている。コットンはあまりにも有り触れているが、生育には根気がいると知れば、コットン製品に対する消費者の気持ちも変わると思う。

 それほどに植物は、外見と生育に隔たりがあるものなのだ。見かけの印象で、ああだこうだと勝手に誤解してはいけない。その誤解が、この人を「鬼」と呼ばせるのだと、俺は思う。松本先生は、毒薔薇、と言っていた。酷い言われ様だが、クリスマスローズ以外の薔薇に毒性はまず無いし、クリスマスローズはバラ科ではなくキンポウゲ科の植物である。毒を分泌する薔薇なるもの、は今のところ知られていない筈だ。薔薇に毒性があれば、薔薇の花束を贈る習慣は無かっただろう。

 周囲から飛び出るほどの異質さに対して、周囲が騒ぎ立てるが為に、本質が見失われてしまう。例え当人が大人しくしていても、周囲が勝手に肉付けをして、本質が別のものに変化し、別のものの方が有名になってしまう。

 そう言えば土方さんは、鎌足さんや沖田さんが土方さんの鬼っぷりをぶーぶー言っていることを耳にしても、それをやめさせたり、鬼呼ばわりされることを嫌がったりしていなかった。彼が止めないから、鎌足さんたちも言うのを止めないのだ。普通、警察官同士で上司の悪口を、あんなに分かりやすい形で言いまくっていたら、当人(土方さん)や署長から呼び出されるものである。それが一向に無いから、彼らは言いたい放題だ。土方さんや署長は、すべて分かっていて、彼らに好き放題にさせているのだ。

 俺は聞いた。土方さんは、鬼と言われて何も感じないのですか、と。

「鬼は、涙を流したりしませんよ」

 せっかく点けた煙草を灰皿に押し付けて消しながら、あっさりと彼は応えた。

「俺以外の、誰が鬼をやるんだよ」

「……演技にしては、上手すぎる気が」

「(ふふん)助演男優賞だろ?」

「主演男優賞です、せやけど」

 遺伝子異常の鬼なんて聞いた事おまへん、と言ったら、「違(ちげ)ぇねぇ」と、睫毛を伏せて笑った。

 それから土方さんは、俺を再びアクセラに乗せて山南さんの自宅に、送ってくれたのだった。

 山南さんが暮らす警察官待機宿舎、所謂「独身寮」に到着すると、藤色の着物が似合う明里さんが、豪華な手料理を出してくれた。

 山南さんともあろう人が未だに独身で、待機宿舎に入所しているのは、男だらけの宿舎の空気を少しでも変えたかったから、と言う彼らしい積極的な理由だった、と聞いている。

 広い部屋で園芸をしたい、と言う理由で俺は刑事になってからマンションで一人暮らしを始めたのだが、山南さんは、日野署配属になってから待機宿舎に戻った、ここだけ見るとかなり変わった人なのだ。

「何しろ、独身寮は掃除のしようがあるから、私みたいなのには最適なんだよ」

 年がら年中稼働中の警察官にとっても、休息の時間は必要である。しかしその休息を最も取れないのが、待機宿舎と言っても過言では無かった。公私混同が甚だしい待機宿舎は、プライベートを少しでも重視したい人間にとっては、実は苦手な場所で、昔に比べると空きが目立っている。

 その空き具合を憂慮した近藤署長が、新宿警察署で勤めていた際にも待機宿舎を静かに改革するのに成功した山南さんに声を掛けて、ヘッドハンティングして日野署に異動させた流れがある、と言うのが、俺たちの間で噂になっていた。

 山南さんは、世の中を綺麗にしたくて、警察官になったそうだ。綺麗好きと言うよりも、汚いものを綺麗にすることに喜びを感じると言っていた。

 以前勤めていた新宿警察署は、日本一大きな署だが、それだけ犯罪が多いということで、まして歌舞伎町のある新宿にいるだけでも警察官は神経がささくれだつものだが、山南さんは配属当初から非常に生き生きと働くことで有名だったらしい。

 交際して数年になると言う明里さんは、和服の似合う女性で、新宿にある料亭の女将をしている。時々こうして待機宿舎にやって来ては、住人に料理を振る舞ってくれる。この待機宿舎の周辺には、二十四時間営業のファーストフード店や午後十一時頃まで開いている小料理屋が割とあるが、いつも外食では体が持たない。かと言って、大した料理が作れるわけでは無い。だから住人らは明里さんの来訪をいつも大歓迎している。

 既にここを出て、マンションで一人暮らしをしている筈の永倉さんまで来て、テーブルに溢れる女将の手料理を、目を輝かせて見ている。鎌足さんは明里さんの割烹着姿を羨ましそうに眺めながら、鎌足特製安慈のやさいジュース、なるものをミキサーで作っていた。

「山南さんと山崎さんと明里さんと、総ちゃんと永倉さんとあたしの六人分は作ったけど、」

 ジュースを、六つの大きめのコップに注ぎ終えた鎌足さんが、フリルのついた真っ白いエプロン姿のまま、山南さんの部屋の玄関にあたるドアを開けると、普段は刑事課第二(室)にいる二十代の若い刑事たちが、どどっと玄関に倒れ込んで来た。地域課や警備課の署員の姿まで見えるのは、俺の気のせいじゃない。

「あんたたちの食べる分は無いわよ。今夜は山崎さんが、晴れて一か月間、鬼の支配から逃れることになったお祝いなんだから。ドアに貼った紙を見たでしょー? 『山崎さんの自由を祝う会・参加希望者は各自必ず自分の食材を持ち込むこと』って。なのに手ぶらで来るなんて、図々しいったらありゃしない」

「だって旨そうな匂いが」

「ビールとつまみは持ってきました。チーズと豆腐の燻製」

「それは食材じゃなくて、あんたの食べたいものでしょ」

「俺たちを追い出すとは、まるで鬼のようだ。何だか、『鬼の土方』に似て来たンじゃないですか?」

「……なんですって?」

 あたしがあんな顔だけ男に似てる筈ないでしょー!!!、と激怒した鎌足さんの脇をガヤガヤと抜けて、結局ドアの向こうで聞き耳を立てていたらしい署員たちが、四人も入って来た。山南さんは警部補で、現在この宿舎の住人のなかでは幹部の一員であるが、階級で言えば格下の若者らがいきなりこれだけ訪ねて来ても、嫌な顔ひとつしないで、招き入れてくれる。

 綺麗に整理整頓がなされた2LDKに、明里さんを除いて男が十名(うち、オカマが一名)。考えるだけで暑苦しい筈なのに、押入れから山南さんが出してきた座布団を受け取った客人たちが整然と並べて、彼らがきちんと座ると、どこかの教室のようで、如何にも山南さんの部屋と言った感じがして来る。

 整然と並べられた座布団の上に各自が持ってきたエプロンを身に着けて、早速手伝いが始まった。俺は今夜の主役だそうで、座布団ではなくソファに座って、温めの番茶を飲んでいる。兎に角、いまは体を冷やしちゃいけねぇよ―――――と、ためにいさんに言われたとおり、冷たい飲み物は今は避けるようにしていた。肋骨骨折は意外と治りが遅いのだそうだ。

 だから俺は、明里さんが差し出してくれた番茶と、南瓜の金時を食べながら、夕食が出来るのを待っていた。普段ここに呼ばれた時には、鎌足さんと俺がエプロンをつけて、率先して山南さんのキッチンに立って料理をするのだ。俺が作らされるのは、大抵がお好み焼きなのだが。

 山南さんは、兄上が警視庁捜査(第)一課長、弟君が警視庁の組織犯罪対策部長と言う、警察一家である。父上は警察庁警備局長だった(病気で退職されたが、病気がなかったら警視総監になられていた可能性が高かったとの噂がある)。病気が治った今は元・警備局長として、様々なメディアに出演したり執筆活動をなさっている。

 それほど輝かしい家庭の生まれなのに、いま目の前でエプロンを付けてイサキを刺身にしている山南さんは、警察官同士のささやかな時間を大事にする人だった。

 この宿舎は風呂とトイレとキッチンが共同なのだが、週に一度の業者が行う清掃では間に合わず、汚くなることこの上無かったが、しかし山南さんが入所してから、清掃業者の人から署員たちが褒められるようになった。都内の警察寮のなかで、ここが一番綺麗だ、と。基本的に共同部の掃除は当番制なのだが、常日頃から疲れ果てている警察官が、唯一安らぎの場所となる筈の住居で、掃除を完璧にやる筈が無い。その常識を覆したのが、山南さんだった。

『寮を変えてやろうと思ったわけではなくて、警部補の自分がやれば、他の人たちもやるだろうと思ったから、こんなことをしているんだよ』

 何故自宅を購入されないのですか。

 そう質問した俺に対する答えは、彼の性格が良く表れていた。警部補である彼の家は幹部用の部屋であり、風呂とトイレとキッチンが、共同部とは別に設置されている。それでも彼は、普段は使わない共同部の風呂を洗い、トイレを清掃し、キッチンで料理をしたり、食器を洗ったりする。

 山南さんが宿舎の共同部を、何も言わずに掃除し始めると、他の住人たちも掃除に参加する。

 山南さんが何も言わずに、台所に立って炊事を始めると、他の住人たちも手伝い始める。

 そうしているうちに、彼と同じく警部補で他の課の係長らも山南さんを真似、彼らが真似する姿を見て他の住人である警察官も真似をし出し、住人全員の意識が変わったのだ。変わった彼らのことを山南さんは、「彼らが変わったわけではなくて、もともとはやれば出来るのだろう」と言う。「汚くなったものを綺麗にする。それが、ここの伝統になれば良い」

 彼は、部下が余程の間違いを犯さない限りは、声を上げたり叱ったりはしない。事実、彼の部下になって以来、俺は一度も叱責されたことが無いし、他の部下がされたところを見たことも無い。部下のミスを上手くフォローすることで、国際係を纏めている。外見が恐ろしさとは無縁なことから、外国人被疑者の取り調べは俺か他の人間がすることが多かったが、捜査に大きな支障は無かった。彼は自分がそう言う人間だと承知の上で、俺たちに仕事を振り分けているのだ。

 ある意味、自分が思い切り表に出て部下を引っ張りながら、危険を幾度も経験させることで部下の経験度を上げて行くスタイルの土方さんと真逆である。この待機宿舎の三階に住む沖田さんは、山南さんを近藤署長の次に信頼している、と公言しており、沖田さんが強行犯係でなく、外国語にもう少し堪能であったなら(彼は日本語と英語しか喋れない)、山南さんの部下として国際係員についていても不思議では無いくらい、穏やかな上司と素直な部下、の組み合わせだった。

 だから俺はいつも言われる、「山南さんが上司だなんて、羨ましいです」。

 俺は、沖田さんが羨ましかった。

 その沖田さんの目が輝いている。彼は、土方さんとは違う方面での美少女顔(童顔)で、漫画のように大きくて真っ黒な瞳をキラキラさせながら、顔の真正面で両手を合わせて「いただきます」をし、料理にかぶりつくのだった。

「美味しいです~♪」

 警察官になると、規則正しい食事と睡眠との縁が切れると言って良い。まして年齢が若いと先輩警察官への遠慮もあって、十分なセルフケアが出来ないのだ。昔に比べればそれでも改善したそうだが、他の公務員たちが土日きっかり休んで有給休暇もしっかり消費する一方で、俺たち警察官に、そう言う自由は無いと言って良い。警察一家に育った山南さんは、こう言った事を嫌と言うほど熟知しているからだろう、若い君たちは体に良いものをちゃんと食べなさい、と言って自分で作った味噌汁やおかずを、他の住人たちに分けることが多かった。

「ほーんと、頬が蕩け落ちそう💛」

 明里さんが持ってきた鰤しゃぶを食べながら、俺の正面に座った沖田さんと鎌足さんが、感動している。

「君たち…、まずは山崎くんに食べさせないと」

「あ、ほほへふへ(そうですね)」

「ほへん、やははひはん(ごめん、山崎さん)」

 厚くて大きな鰤を仲良く二人で頬張る沖田さんと鎌足さんを眺めながら、しようがないなぁ、と言って山南さんは俺に厚くて大きな鰤を五切れも取り分けて、俺の小皿に取ってくれた。途端に、ぶーぶーとした文句が約二名から漏れるが、山南さんは綺麗にそれを無視して、「さぁ、召し上がれ」と言ってくれた。俺は、いただきます、と頭を下げて鰤を鍋に入れて、さっと引き上げる。

「美味いなぁ」

 ……土方さんは、ちゃんと食べてはるやろか……

 俺が食べる大きな鰤を眺める鎌足さんは、次は鍋で煮えた椎茸を狙っているらしい。明里さんが持ってくる椎茸は、いつも天然ものなのだ。鍋を覗き込む他の署員たちの目もぎらぎら光っている。さっきまで皆でエプロンをつけ、並んでキッチンに立っていた筈なのだが…

 そんな部下たちの怪しい空気を背中に浴びながら、山南さんは根菜の炊き合わせを噛みしめながら、俺を見た。

「……サロニカに、行っていたのだって?」

 良い匂いがする、と山南さんが言った。

「…あ、はい」

「あそこは凄いだろう」

「はい。驚きました」

「為時郎さんにしっかり治療して貰うと良い。私も以前、お世話になったことがあったよ」

「……」

 日野署名物(?)土方VS山南の二人が、サロニカで仲良くしているの図を想像できなくて、頭がパンクしそうになった俺の隣で、山南さんは微笑みながら言った。

「私の父は膵臓癌だったのだけれど、サロニカ香(こう)に抗がん作用がある、と昔から有名だったから、土方くんに頼んで、為時郎さんに父の治療をしていただいたんだ」

「へぇ」

 鎌足さんが目を丸くした。

「半年で治ったよ。膵臓癌はそのまま治らないことが多いのに、治ったから父は今、本を書いたりしている。癌の再発は全くないんだ」

「僕、最新刊を読みました!」

「ありがとう、また実家に遊びにおいで。ああ言う本を父が書けるのは、為時郎さんとサロニカのお蔭なんだよ」

「……いがーい」

 サロニカって、盲目のお兄さんがやってる治療院でしょ、あたしは怖いから行った事ないのよねぇ。あいつのお兄さんなんて、想像しただけで恐ろしくて。

 そう言った鎌足さんは、好物の鰤カマにかぶりつく。鰤カマとは「かま」仲間なのよ、と呟いて、誰も笑わなかったことが気に障ったらしく、ノリ悪いわよ山崎さん、と何故か俺が怒られたのだった。

「こういう時こそ、突っ込んでくれないと。サロニカって、あの鬼が使っている香水も作っているんでしょ? ぼーっとしちゃって、サロニカに行って、山崎さん、毒でも浴びたンじゃないの?」

「本条くん、それは違うよ」

 山南さんが助け舟を出してくれた。その隙に、俺も料理に箸を伸ばした。

「あそこのものを父が大量に使っていた時に、父の病室にいた私も今の山崎くんみたいになっていたよ」

「どうしてですか?」

「意識が少し、ぼんやりするからだ。ねぇ、山崎くん」

 サロニカの香りには鎮静、を通り越して鎮痛作用がある、為時郎さんがそう言っていたよ。

 その言葉に、沖田さんが鰤にかぶりつきながら、山南さんを見た。隣で鎌足さんも、同じ格好をしている。彼らの向こうでは、もう一つの座卓で、他の署員たちが鰤しゃぶをめぐって仁義なき戦いを繰り広げていた。

「体の痛みは、心の痛みにも通じるからね。彼の方針としては、どんな怪我でも病気でもまず先に痛みを緩和して、心身の負担を減らすところから始めるそうだ。だから膵臓癌だった父も、鎮痛作用のある精油を使って、為時郎さんの施術を受ける度にずっと寝ていたよ。それだけ、夜は不眠だったと言う意味なんだ。体は素直だね。サロニカの精油を使って、睡眠薬が要らなくなった。そうしたら、モルヒネも要らなくなったんだ。だから、」

「だから?」

「痛みを消すことは、ささくれ立った神経を宥め、病を治すことに通じる、と言うことだよ」

「ふむふむ…」

「総ちゃん、分かるの?」

「分かりますよぉ、血でも出ていない限り、痛くなければ誰も怪我だとか病気だとかは、気が付かないじゃないですか。でも松本先生が胃カメラする度に、僕たち見せられますよね、胃の粘膜」

「ああ、あれ! 結構気持ち悪いのよねー。内臓の粘膜って可愛くないから、あたしキライ」

「自分の粘膜嫌ってどうするんですか…。痛いまでは行かなくても、なんか気になるなぁ、と思った時に僕胃カメラして貰って、撮った写真を見たんですけど、僕の胃からしっかり血が出ていた時があったんです。流石に気持ち悪かったなぁ。その時松本先生に言われたんですよ、子供の頃からあそこの香に慣れてると、痛みに鈍くなるって」

「総ちゃん、サロニカ香に慣れてるって、どうして?」

 鎌足さんがイサキの刺身を沖田さんと取り合いながら言うと、沖田さんはイサキを勝ち取って(「総ちゃんのイジワル!こんな時に三段突きしなくたって良いじゃない!」)、答えるのだった。

「(もぐもぐ)僕(ごくん)、結核やってましたから。肺が悪くなる度に、あそこに連れて行かれてたんです。薬飲むより良いからって。で、オイルを塗って貰うと、まず咳が止まって、深呼吸が出来るようになる。それから熱が下がって。咳が酷いと胸と背中が痛くなるぐらいなんですけど、痛みが減ると楽なんですよ。楽になると、自分が結核持っていることも忘れるぐらい、元気になります。そうじゃなかったら、剣道なんて出来ませんって」

 近藤さんと土方さんに打たれると、基本、ミミズバレですから。それでも絶対手を抜いてくれないし、僕もムキになってかかっていくし。

「それぐらい、痛みが無いってことは、元気ってことなんだと思いますよ」

 饒舌な沖田さんに、鎌足さんは、そっか、と言った。

「そういやあたしも昔、低温やけどって言うの、したことあったんだけど、痛くなかったから気づかなくて、水膨れになったのよ。あとですっごく、うちのママに怒られたけど、気づかなければ、平気なのよね」

「うん。僕の父も、そうだった。膵臓癌だと宣告されて、ショックだった筈が、サロニカに行くうちに『治療っぽくないから、自分が病気じゃないみたいだ』って喜んでいた。気持ちいいから、治療とは思えなかったそうだ。そのうち、サロニカ通いが父の楽しみになって、気が付いたら癌がなくなっていた」

「凄いですねぇ」

 明里さんが炊いた炊き込みご飯が山盛りになった茶碗を持って、いつの間にか沖田さんの後ろに座っていた地域課の署員たちが、こちらの座卓に移って来た。恐らく、まだ残っている鰤しゃぶと天然椎茸を狙ってのことだと思う。

「そんなに凄いものを使えば、山崎さんの体も、痛くなくなるんじゃないですか?」

 確かにそうだ。土方さんに引っ叩かれた左頬も背中も、痛みは残っているが、こうして食に飢えている署員たちと共に卓を囲んでも、彼らと同じ速度で食べられるほど、痛みの程度は軽いのだ。ヒビは骨折の一つだが、骨折の割には痛くないし、走ったり跳んだりしない限りは、生活に問題はなさそうだった。痛くない体は、有難いのである。

「サロニカに通っていれば、山崎さんのヒビも早めに治りますよ。松本先生には、全治何か月って言われたんですか?」

「二か月です」

「じゃぁたぶん、一か月ちょっとくらいで、治っちゃいますよ」

 沖田さんは、良かったですね、と笑った。

 一か月と少し、か。俺はどのぐらいで出勤が出来るようになるのだろう。そんなに長い間あのひとの顔を見ないのは、初めてである。同じ日野市に住んでいるわけだし、彼は平日の午前中に市内の聞き込みに出ることが多々ある為、俺の療養休暇の間にばったりと出会う可能性が無いわけでは無いのだが、顔を見られないのは、やはり辛い。

 例え、悪態をつかれまくる立場であっても、沖田さんや永倉さんと言った、彼の直接の部下が羨ましい。何があっても、少なくとも彼と顔を突き合わせることが出来るからだ。直接の部下では無い鎌足さんは更に凄く、どんなに彼と喧嘩をしても、懲りずに突っ込んで、ボケとツッコミではなく、ツッコミとツッコミの関係を維持している。そんな鎌足さんがたまに仕事を休むと、土方さんは「うるせぇオカマがいなくてせいせいする」と言いながらも、痩せた背中が少し寂しそうに見えるのだ。

 鎌足さんも、土方さんが体調不良で医務室で点滴を受けていると、偵察なのよ偵察、と言いながらも実はかなり心配して、医務室をちらちら覗き込むのだ。そんな姿は多数の署員によって観察されているし、俺も何度も見た。

 土方さんと俺は、そこまでの関係では無い。一か月も出勤しなければ、唯でさえ「刑事課最後の砦」と呼ばれる俺の存在感が、彼の中で更に薄れてしまう可能性が高い。幾ら俺と雖も、流石にそれは辛いのだ。

 せっかくアクセラに乗ってサロニカに行って、マンションで睡眠もしていたのに。サロニカでは無く、彼の部屋で睡眠したのは、署員では恐らく俺が久しぶりだと、思いたい。鎌足さんが彼の部屋に行っていたら大騒ぎする筈だし、沖田さんはここ数年、部屋には行っていない、と言う。おそらくは駒形由美も存在が故だと思うのだが、そんななかで俺はいま、彼の部屋からこの待機宿舎に来たのだ。

 思わず右手で拳を作ってしまっていた。…右肩が痛くて、すぐに止めたが。

「でもさぁ、」

 俺のなかで渦中の鎌足さんが、他の署員に奪われないように先に取っていたワラビ餅を食べながら呟く声が聞こえた。山南さんは沖田さんと一緒に、木製のボウルに盛り付けられたサラダを食べている。

「なんであいつ、あんなに痩せっぽちで、すぐ熱出すのかしら? 為時郎さんの弟なんだから、サロニカ使いまくってるんでしょ?」

「う~ん……、沖田くんは知っているかい?」

「さぁ…十年くらい前は、もっと肉がついていたんですけどね。それに、もっと食欲がありましたよ」

「食欲低下に、るい痩と言うことになるのか。これで睡眠不足とやる気が無いのが加わると、うつ病みたいだけど、彼に限ってやる気が無い、ことは絶対になさそうだしね。だとしたら何だろう?」

「………」

 俺は、応えなかった。

 知っているけれど、言えなかった。

 彼が沖田さんや山南さんたちに、遺伝子異常の件を伝えようとしないのには、彼なりの理由があると思ったから。

 無言で睫毛を伏せて、沈黙する癖。

 元来、休日である筈の土曜日に署にいる間は、事件が発生しない限りは、黙々とパソコンで書類を作成して、彼のデスクからはキーボードの音だけが響くことが多い。原田さんや永倉さんがいびきをかいて昼寝をしても、土日は好きにさせている。良く遊びに来る鎌足さんのほうが、彼よりも遥かに騒がしい。

 見かけよりもずっと静かなのだ。他の人間がする最低限必要な自己主張を、しないのだ。薄暗い森にひっそりと咲く、イチヨウラン(一葉蘭)のように。

 警察官として、周囲に伝えておくべきことを伝えないのには、彼の理由と覚悟がある筈だ。

 それはなんだろう。

 伏せられた長い睫の下にある瞳が宿す、彼の未来は何だろう。あのひとは何のために生きて、これからどうなっていくのだろう。

 鎮静作用どころか、鎮痛作用の強いサロニカ香。それを常に身に纏っていると言うことは、彼の体は、きっと、もっと、痛いのだ。

 痛い筈なのに、痛いと言わない。辛い筈なのに、辛いと言わない。

 生まれる前から決まっていた、それも二世代も前からの、定められた遺伝子異常。

 柔らかい髪と爪が、あの体の脆弱さを物語っていた。指の関節が、違う方向に曲がった。あの指で、S&W エアーウェイトのトリガーを引く。射撃の際に、手首と肘の関節に反動が来るため、十分に訓練しなければ、あの肉体では脱臼しても不思議では無い。同時に、彼が手を抜くことは考えられない。剣道でも拳銃でも、相当の訓練を積んだ筈だ。自力では決して超えられない、遺伝子異常を全身に抱えたまま。

 努力しても越えられない壁が自分にあると分かった時、あなたは何を思ったのですか

 どうやって、その運命を背負おうと決めたのですか

 決めた心に、遺伝子は無いのだ。遺伝子のない心で作られた彼は昨夜、俺の肩で泣いた。濡れた俺のシャツが温かくて、

 あの涙の続きを

 あなたの真実を

「知りたいなぁ」

 そう思った。



*           *




 目が覚めたら午後三時を過ぎていた。午前中にサロニカでの施術を受けて帰宅した後も、肌に残るサロニカ香に包まれて、ソファでうたたねのつもりが爆睡してしまったようだった。

 署長から「一か月は自宅療養」と厳命された俺は警察手帳を署に戻し、いまはただの日野市民である。気軽と言えば気軽だが、なんだか落ち着かず、かつ、ヒビとは言え肋骨骨折であるため、毎週欠かさなかったジョギングも禁止された為、日々やることは、家事と園芸ぐらいだった。

 自宅のパソコンに座れる時間が増えたのは幸いだったが、さして意欲が湧かず、ニュースサイトを見るのにも飽きてしまい、結局園芸の情報サイトをチェックする程度になっていた。ためにいさんに匂いで露呈したアヤメは、昨日大阪の母宛に送った。今日か明日には届くと思う。

 母には、やはりカキツバタを贈りたかったのだ。アヤメの花言葉は「良い便り」であるが、カキツバタは「幸せは必ず来る」「幸福はあなたのもの」と言う、俺が母に贈りたい言葉そのものだからである。

 インターネットで調べてみたところ、日野市にはカキツバタの群生地はゼロに近く、自分で育てるのもこのマンションでは不可能である為、写真を眺めるしかなさそうだった。俺は溜息をついて、パソコンチェアから立ち上がって、ソファに腰を下ろした。

 テレビをつけると、ちょうどニュース速報で気象庁からの公式発表が報道されていた。今年は冷夏で、農作物の管理に気を付けなければならないそうだ。

 と言うことは、まだ間に合うだろうか。

 そう思った俺は、曇り空の下、いちおう傘を持って、自宅から歩いて三分の距離のところにあるホームセンターへ入って行った。普通に歩くぶんには、体は全く問題は無い。療養とは言え久々の休み日の風が、妙に気持ち良かった。

 特にセールなどをしていない曜日の為か、客はまばらだった。俺にとっては、こう言う時間帯の方が有難い。広い店内を、じっくり回れるからだ。刑事をしているとどうしても近隣からの目線があり、大勢の市民がいる前で堂々との買い物がし辛い部分が多々ある。

 ホームセンターの正面入り口のすぐ脇にある陳列棚で、狙っていた商品を見つけた俺が、入口を入って左側のレジに向かおうとすると、見慣れた姿が「なにやってんだ、こんなとこで」と声を掛けて来た。

「……土方さんこそ」

 店内の天井照明を背に浴びて余計に白く見える彼の左手には、ビニール袋に入ったエンジン・オイルの缶が見えた。この時間帯に買い物をすると言うことは、きっと非番なのだろう。薄いカラーのレイバンをかけている。

「交換用のオイルを買っただけだ。お前は? それは何だ?」

「朝顔用のネットです」

「朝顔って…花のか?」

「はい。これから育てて、ネットに絡ませようと思いまして」



 ε≡Ξ⊂ ´⌒つ´∀`)つ



 土方さんがいきなり笑い出した。

 三日ぶりに見る美貌が、思い切り笑っている。顔文字にしたら↑のようになったから、記念に胸に書き留めて置いた。このひとは笑うと可愛いのだ。鬼と呼ばれる一方で、美少女やセイレーンとも呼称されるのは、恐ろしく整った美貌が綻ぶ時が、ひときわ可愛いからである。

 ……かいらしいなぁ……

「……お前さぁ……」

 白い八重歯が紅の唇から見えて、心底楽しそうなのは良いのだが、俺はそんなに面白いことを言っただろうか。おかしさに堪えられなくなったのか、土方さんは細い脚を曲げ、地面にしゃがんだ格好になって俯きながら、笑い続けた。

「…朝顔を育てることが、そんなに面白いですか?」

 誰がどうみても大きく肩を震わせる土方さんに問う。基本、このひとは業務中を除いて(いや業務中もかも知れないが)、感情の起伏、ではなくて表現の大きさに上下があって、その振幅が他の人々よりも大きいような気がする。だから、怒う時は怖いし、笑う時は可愛い。喜怒哀楽の変化を見ると、このひとは人間らしいひとに思えるのだ。だから子供や動物がやたらと懐くのだ。子供や動物は、素直で表裏のない生き物が好きだ。

 このひとの真実は、表裏が無いのだろう。

 外見と中身が大きく異なるのに、表裏が無い。つまり、このひとの真実は、飾り気の無い正直者、と言うことになる。外見や外聞と言ったものに振り回される社会のなかで彼が異様に浮き出て見えるのは、現代人がどこかに置き去った真っ直ぐさが、周囲を圧倒するからなのだと思う。

 今までに育てて来た草花のすべてに、表裏は無かった。植物は、自分を飾ったりしないから。あるがままに、ただ咲く。人がいてもいなくても。だから余計、美しく見える。

 俺にはこのひとが、植物かなにかのような気がし始めていた。

 せやったら、清浄な風を当てて水と土を与えれば、綺麗に咲くんやないか?

 ただ、純粋に。

 あなたのままに。

「俺に、刑罰は無いのですか?」

 言うと、まだしゃがんで、笑い泣き状態になっていた土方さんは、白くて細い指でレイバンの奥の涙を払いながら、立ったままの俺を「ん?」と見上げた。

「俺はあなたに、現行犯で、逮捕されましたやん」

「…ん…、そうだったな。俺としたことが忘れてた」

「罪状は、ストーカー規制法違反ですか」

「長年に渡るつきまとい行為だ。刑罰ってことで、お前にはサロニカの刑を与える」

 刑罰を、与える。何とも、この人らしい台詞である。

 俺が、分かりました、と言って一旦レジに行き朝顔用のネットを買ってくると、ホームセンターの正面入口でアクセラが待機していた。助手席に乗り込むと、今日もふわりと、サロニカの香り。

「毎回あそこで、俺が受けてる極刑を受けてみろ」

「極刑て……そんなに酷いのですか」

「爆睡どころか、失神するぜ」

 言って、土方さんは携帯電話を取り出し、サロニカにかけたようだった。

 短く会話をした後でアクセルを踏み込むと、彼の愛車は滑らかに駐車場を抜けて、サロニカのある森を目指して走り出した。今日のBGMはTOTOのI'll Be Over You。ゆったりと流れる柔らかい歌声に聞き入っていると、雨が降って来た。フロントガラスに水滴がつく。

 その雨雲の隙間に垣間見える晴れた空が綺麗だ。

 良かった。

 あの空のように、

 あなたの心が、晴れとるみたいやから。