ENRAI



 沁みついたニコチンの匂いで目が覚めた。髪やシーツだけでなく、室内全体が燻っている気さえする。

 家の中では吸わないようにしていた筈が、既に一日で一箱を超えるようになっていた。

 もともと煙草は好きじゃない。体力が落ちて剣道に支障が出るからだ。ガキの頃から筋肉のつきにくい体質の俺は、とにかく鍛えるしかなかった。学生までは鍛える時間が十分にあったから余裕があったが、刑事になってからと言うもの、自ら時間を見つけて鍛える努力をするしかなかった。が、段々とベルトの穴が足りなくなってきて、正直、焦っている。

 細かく震える己の指が恨めしい。

 左手に出来た剣道マメさえなければ、血管の浮いた頼りない、女のような手。これをみるたびに、かけられた呪いに己のすべてが食い尽くされる錯覚に陥り、それを振り払うかのように毎朝布団を跳ね飛ばして起きていたのだが、今朝はなかなかベッドから起き上がる気にならなかった。

 雨である。

 昨夜から降り続くそれが音も無く窓を伝って壁を落ち、あいつの涙のようだったから。

 少し前に俺が犯人ともみ合って潜伏先だったアパートの階段から転げ落ち、全身を強かに打ち付けたと聞いた時、あいつは真っ青になってエプロン姿のまま店を飛び出したと言う。

 目を覚ました俺がみたのは、ベッドのすぐ脇で、両目から大粒の涙を零しながら俺の手を必死に掴むあいつだった。

 ―――――その時思ったのだ、俺を失ったらこいつは、二度と立ち直れないだろうと。

 俺には、それだけあいつに愛されている自信があった。冥府の男には届かないとしても、生者のなかでは自分が一番その位置にいると思っていた。それだけ俺も、あいつを愛していた。

 同時にそれは、彼女よりも先に俺が死ぬことは出来ない事を意味した。いつでも殉職する可能性がつきまとう刑事の俺は、それを自分に、そしてあいつに誓う勇気が無かった。警察官と言う自分と、男としての自分。どちらを選ぶと問われて俺は、答えが出せないで居た。

 そんな自分に嫌気がさして言葉を失いそうになると俺は、為すすべも無くあいつを貪った。あいつも俺を貪った。互いの体で知らないことは無かった。

 そうして俺たちは、出会ってから三回目の夏を迎えようとしていた。


   遠雷(一)


 朝から署内が喧(かまびす)しい。

「ちょっと!土方さんも手伝ってよ!」

 鎌足はいつでも喧(やかま)しい。

 コスプレオカマ男を無視して、スラックスのポケットに両手を突っ込んで階段を一段ずつ飛ばして駆け上がる。こうでもしないと、冷え切った署内で指先から凍りそうだった。

 二階の刑事課に入ると、総司が両手に手袋をしていた。

「…そこまでする程のことかよ」

「この寒さは異常ですよ!」

 言って総司は、両手を口元で丸め、はーはー、と息を当てて手袋ごと手を温める。

 ま、確かに異常だとは思うが。

 今年は久々に冷夏かもしれない。

 六月だと言うのに最高気温は十℃前後で、午前八時過ぎの日野署は各課が総出でストーブの配置を行っていた。昨夜から冷え込み、今朝はやっと八℃となった。寒さが得手とは言えない俺は急遽、自宅マンションのウォークインクローゼットから秋冬用のカーディガンを出して持ってきたが、それでも足りないかもしれない。

 暑さには強い永倉が、「SALOMON」と描かれたスキーウェアのようなジャケットを着て背中を丸めつつ、ストーブに当たっていた。低温のうえに、風が強いのだ。「おは(ようございま)っす」と言う声まで震えている。原田は相変わらず薄着だったが、刑事課のガラス窓は結露して、カーディガン姿でも寒そうにみえる。

 内勤ならいざ知らず、刑事課は明るいうちは外勤が多い。聞き込みや張り込みで気が付けば夕方、それから報告書を作成して、帰宅は19時台になる。永倉や原田は、遅いのは俺の所為と文句を言うが、その分、事件以外で土日の休みは確保してやっている(つもり)。文句を言いながらも仕事はきっちりやる連中だから、こう言うときぐらいは好きにさせてやろうと思う。

「土方さんが優しいってことは、これからきっと雹(ひょう)が降りますね」

 と言った総司には、刑事課室内の全ストーブの灯油入れを命じておいた。

 寒(さみ)ぃ。

 ストーブを焚きまくって漸く珍しく早く仕事を終えた俺は、実家に向かっていた。俺のマンションと実家は、車で十五分の距離にある。警察官になって暫くの間は実家から通っていたが、念願の刑事課に配属されてから、一人暮らしを始めた。何せ、時間の概念が一般家庭とは違う。朝も夜も関係なく招集がかかることと、甥姪の教育上、目つきの悪い男が家にいることは良くないと思ったからだ。

 駐車場の空いている場所に車を止めると、門のところに、ひょろ長い人物が立っていた。

 為兄(ためにい)は、生まれつき全盲の、俺の長兄である。

 俺は地元では豪農のうちに入る家の末っ子に生まれた。兄、姉がそれぞれ三人ずついて、七人兄弟のうち、この兄だけが障碍者で、俺を含め残りの六人はそこそこ健康体だった。それで土方家では、「為兄が、他の兄弟の病を吸い取ってくれた」と言って、為兄を大事にしている。

 その為兄は「全盲を生かして」調香師をしている。週に四日は都内のとある有名ブランド香水のアトリエに通い、残りの日は家の近くで全盲仲間と彼が呼ぶところの、同じ境遇の友人たちと共同運営している「サロニカ」で、日野市内の植物から採取したオイルの研究をしているのだった。

 為兄にとって、目は見えないのが当たり前で、どんな些細な音でも香りでも、分かるのが当たり前だと言う。だから俺が実家に向かうと、こうして毎回必ず俺を迎えてくる。

「早かったな」

「寒(さみ)くてよ。服を取りに来た」

 入れ、と言って為兄は見えない目で、杖も使わずに門から玄関までまっすぐに歩いて行く。

 二回り近く年の離れた俺にとって、為兄は父親がわりだった。俺が小学生の頃はこの兄が、学校の父兄参観に来ていた。

 為兄は何でも出来た。調香も、家事も、農作業も、学問も、分からない事は無いんじゃねぇかと言われるほど、何もかもを熟知していた。彼には特殊な技能があって、雨や雷、台風と言った気象の変化や、人や動物の訪問などを、匂いで察知するのだ。地震の前には土が燃える匂い、台風の前には風が生臭くなり、その人の匂いがすれば当人が翌日に必ず訪れる。超能力ではなくて、これはただの嗅覚だ、と為兄は言い続けているが、彼のこの能力に目を付けた人物が彼をスカウトして、調香師の訓練をさせて一流企業での制作活動に就かせたのだ。

 兄はそこで、世界中のファンを獲得した。が、香りと心静かに向き合って貰いたい、との彼の願いで本名や顔の公表はせず、「調香師・閑山(かんざん)」とだけ名乗っていた。

 閑山が言うには、俺の匂いが一番、死んだ御袋の匂いに近いそうだ。

「顔も一番似てるらしいが、生憎俺には分からん。でも匂いは一番似てる、つーか、同じだ。だから俺は、お前は御袋の生まれ変わりじゃないかと本気で思っていた時期がある」

 俺を産んだ翌日に死んだ御袋は、家庭的で静かな女だったと言う。俺を産む半年前に夫(俺の父親)を失くし、恋愛結婚だった彼女は、俺が最後の子だから、きっと自分は俺を産んだら死ぬだろう、と言っていたそうだ。本当にその通りになり、兄たちは大慌てだったそうだが、為兄は分かっていたと言う。俺が生まれること、同時に、御袋が死ぬことを。

 刑事になりたい、と言った時に、ただひとり賛成してくれたのも為兄だった。

 一か月ぶりに実家の玄関を跨ぐと、俺のクローゼットがある二階に駆け上がった。昔俺が使っていた部屋は、いまは甥の部屋になっている。クローゼットは、その隣にあった。

 衣装ケースを引き出して、セーターや冬用のカーディガンを引っ張り出す。正月明けからの異常気象で、つい先月もここでこうして衣装ケースと格闘したのだが、為兄と異なり、俺に天気は読めない。

 気配に気づいた甥が部屋から出て来て、いつもどおり俺の背中に勢いよく被さって来て、衣装ケースのなかに二人で沈んでいると、ちょうど階段を上って来た義姉が俺を押し潰して喜んでいた甥をひっぱがして、「夕飯食べて行きなさいよ」と笑った。

 六月だと言うのに、今夜は鍋だと言う。

「…………」

 大所帯の割にこの家では、鍋はあまり出てこない。為兄も含めて、みな平等になるように、昔から一人ひとりが定食屋で出てくるような長方形の盆に茶碗や皿を載せた状態で食べるのだ。次兄の嫁である義姉は非常に敏く、前に会った時に比べて、俺が痩せたことに気づいたのだろう。ここでは年がら年中、沢山の野菜や豆類が取れる。台所の野菜が無くなれば、畑から採ってくれば良い。豆腐は豆乳から作れば良い。義姉はつまり、栄養のあるものを沢山食べろ、と言っているのだ。いまの俺はそれぐらい痩せたのだ。

 すっかり煙草の匂いの沁みついたこのセーターも、俺にとっては大きすぎるサイズになる日がくるかもしれない。

 あばらの浮いた脇腹を撫でて小さく溜息をつきながら、カーディガンとセーターなんかを持って一階に降りると、為兄が俺をリビングに呼んだので、俺は荷物を置きコートを脱いで玄関のハンガーに掛けると、リビングに入った。

「お、つけたのか」

 リビングは随分暖まっていた。

 大所帯が暮らすための広いリビングは、玄関側が畳敷で、奥の方がフローリングになっている。フローリングが向こうの壁に行きつくところに、普段は甥と姪とで取り合いになっているロッキングチェアがあり、その奥にビルトインタイプのガス式暖炉があった。そこに、火が灯っている。火をみて俺はほっとした。長年、暖炉をみて育った俺は、いつになってもエアコンに慣れることが出来ない。

 暖炉を挟むようにして置かれたロッキングチェアの反対側は木製のベンチで、為兄はそこに座っていた。俺を呼び、ロッキングチェアに座るように言った。

 パブロ・ピカソが愛用したと言うロッキングチェアの流れを汲むチェアに腰を下ろすと、木のきしむ音がして、背中から沈んでいく気がした俺は、そのまま目を閉じた。

 前に投げ出した足が暖炉で温められて、全身が急激に熱を回復していく。普段はあまり好きではない床暖房も、いまは有難かった。

 俺は冷え切っていたのだ。それを盲目の兄が、俺の匂いだけで嗅ぎ分けたのだろう。疲労が溜まると俺は体温が下がるのだが、今回は冷夏のせいで体温が低下したと思い込んでいた。為兄には、なにも隠せない。

 妙に安心して少しうとうとした俺の膝に、おそらく死んだ御袋が編んだのだろう膝掛が掛けられて、しばらくの間、俺は眠っていた。今朝の寝起きが悪かったぶん、しっかり寝た気がする。

 すると突然、為兄が言ってきた、

「お前(めぇ)を好いてるやつが来るねぇ」

「………ああ?」

 突然の話題に、いきなり目が覚めた。

 体を揺らした拍子に、俺からするりと床に落ちた膝掛を拾いながら為兄をみると、彼はいつもどおりの、焦点の合わない目で俺を見ていた。

「お前のことが、心配で堪らねぇってよ」

 言われて反射的に、一人の顔が浮かんだ。病室のベッドで包帯を巻かれた俺の顔をみながら、いつまでも涙を流し続けていた。あの時、再び自分が捨てられると、思ったのだろう。いつまでもウンともスンとも言わない俺を、いっそあいつから捨ててくれた方が、あいつだって楽かもしれないのに、俺の手に胸に、縋り付いて来た。

 この顔の所為で昔から女には困らないが、刑事やってる限り、俺の身を心配しないヤツなんていないと思う。

 そう応えると、為兄は「そんなじゃないよ、この感じは」と鼻を鳴らした。

「静かな匂いだよ」

 静かな匂いって、何だ?と俺は尋ねる。匂いに煩いも静かもあるのだろうか。

「だから、静かな匂いだよ。匂いを聴いて、音を嗅げば分かるのさ」

 と、言われてもな。

「……分かんねぇよ」

 答えると、まだ修行が足りねぇなぁ、と笑われる。

「トシは刑事(デカ)だろ、捜査する気持ちで探しゃいい。すぐ近くにいる。



 いつもお前をみて

 お前の傍に控える空気みたいなヤツで

 お前の邪魔はしないが

 お前が助けを求めれば

 飛んでくる筈だよ」



「居ねぇって、そんな女」

 言うと為兄は、盲目の瞳で俺を笑うのだった。