RAIMEI




 降り出した雨は夜半を過ぎても止む気配が無く、マンション七階のこの部屋の、カーテンを閉めた窓越しに、その冷たさと湿度を未だ熱の下がらない俺の躯に染み通らせてきた。遠くから雷鳴が聞こえる。

 気温が下がるたび、きしむように骨が痛む。

 俺は、辛うじて動く体を駆使して、クローゼットの奥から毛布を取り出し、ベッドの上で被っていた。

 点滴の刑三時間コースが終了した後、俺は医師の松本が呼んだタクシーに突っ込まれ、愛車のアクセラハイブリッドを駐車場に置いたまま自宅に戻って来た。熱が下がったら復帰、との署長様の有難いお達しで、恐らく今日は病欠だろう。無理やり出勤すれば松本がやって来て、再び点滴の刑になり、鎮静剤も打たれることになる。俺は鎮静剤が嫌いだった。筋肉が麻痺するのは気色悪いとしか良いようが無い。だから大人しく、寝ることにした。

(……怠(だり)ぃ)

 深夜のマンションはやけに静かで、人の気配と言うものを感じさせない。日野署を見下ろす小高い丘の上にあるここはほぼ単身用で、出勤帰宅以外での人の出入りが少なく、俺のような独身の公務員が多かった。丘の傾斜に入る前にあるスーパーで念の為食料品を買ってきたが、食欲が湧かず、俺が開けたのはペットボトルのミネラルウォーターだけだった。…こんなことを繰り返しているから、痩せて来たのだ。

 学生時代はもっと筋肉があった。体が若かっただけでなく、体のリズムが保たれていた。が、刑事になってからと言うもの、生体の時間と仕事の時間とが完全な不一致を来している。煙草を吸うようになってから不眠気味の体質になり、為兄に頼んで不眠対策の精油を作って貰ってもしっかり眠ることが出来なくなっていた。常に睡眠不足の重怠い体に鞭打って、痩せた筋肉で無理矢理歩く感覚に苛まれて半年近く。休んでも休んでも、変わらなかった。

 長兄で閑山(かんざん)の為兄の香水は、爽やかで深みがあることで知られていた。香水の世界は俺には良く分からないが、「魂に浸透するような」や「深層の極み」などと称されている。確かに、その辺で売られている香水とは香りの質が全然違った。彼は香水だけでなく、精油や石鹸も扱い、一部は治療用としても用いられ世界中で人気を得ていた。

 その為兄の精油のうち抗炎症作用のあるものを体に塗りたくっているのに、熱は一向に下がらなかった。つまりこれは、見かけは風邪だが、中身は肉体の疾患から来る熱ではない、と言うことだ。

 ―――――もう打つ手が無いことは、誰よりも俺が一番分かっていた。


   雷鳴


 遠くで救急車のサイレンが鳴っている。サイレンが鳴ると反射的に目が覚めてしまうようになっていた習慣で枕元の時計を見ると、午前二時を過ぎた頃だった。

 少し、眠っていたらしい。喉が渇いていた。サイドボードのペットボトルを取ろうとして、それが空になっていることに気が付き、俺はまだまだ怠い体を倒れないようにゆっくり動かしてベッドから起き上がった。最近、貧血気味なのだ。

 既に六月だと言うのに、エアコンを入れた室内が寒い。体が震えているのが分かった。…やべぇな、俺はいつの間に、

 いつの間にこんなに、脆弱になったのだろう

 …バラガキだの鬼だのと呼ばれている俺が笑わせる。体力が無くなれば精神力も無くなるのだろうか。為兄はそんなことは無い、と言っていたが、最近は心身が連動していると感じることが多い。飯を食っても、昼寝をしても、心が晴れない。以前は真っ青に見えていた日野の空が、くすんで見えた。刑事になりたての頃は、こんなことは無かったのに。

 一方で、頭は高速で稼働していた。重たい体を引き摺って出勤すれば、頭だけはくるくると回り、誰も分からない犯罪の予測がつくようになっていた。頭脳に常に三次元画面があって、聞き込みで得た情報をその画面に挿入すると、三次元の構造が変わる。色がついて、広がりが出て、詳細が見えるようになる。ターゲットを絞れば突入できる。結果、日野署刑事課への評価は高まっていた。

 刑事は仕事が出来て当たり前で、仕事が出来なければ署だけでなく、警察自体への不信感が高まることに繋がる。だから俺は、たった一つの事件さえ遅れたくなかった。頭が働く分、目が冴えて、夜が眠れない。完徹二日の後でも体は寝ても頭が寝てくれず、激しい頭痛に襲われることも珍しくなかった。

 もともと白い肌は、完徹開けには若干青白くなるぐらいで、周りから見てもいつもの俺だった。

 この貌で、大抵の女は騒ぐ。男が騒ぐことにももう慣れた。

『 お前(めぇ)を好いてるやつが来るねぇ』

 為兄の言葉が蘇る。

 山崎丞は、俺が係長を務める強行犯係と机を並べる刑事課第一(室)の、国際係係長・山南敬介、の部下である。山南は頭は切れるが机上の空論的思想家の理想家で、現実主義の俺とは対立しやすかった。が、ヤツの空論が時に役に立つことがあると言う理由で、国際係に配置したのは勝っちゃん(近藤)だった。日本人が日本で机上の空論をするうちに、非日本人による犯罪の思考に至るかも知れない。だから山南は山南で、俺は俺のやり方で捜査を続けろ。それが署長様の狙いだった。

 その山南ははっきり言って誰が見ても優男であり、未だに俺は刑事課には向かないと思っている。その山南を上回るほどの優男ぶりを発揮しているのが、山崎だった。

 関西で三本の指に入るゴルフクラブのオーナー一家に生まれたと言う彼は、刑事には似合わぬ品の良さを感じさせながらも、ややストイックな顔つきをしていた。俺より五つ年下で、母親が東京出身と言うこともあり、大阪弁と標準語の両方を喋る。しかしその大阪弁は、今まで俺が耳にした大阪弁とはまるで違って聞こえた為、初めてあいつが地元の言葉を喋る姿を聞いた時に驚いた記憶がある。

 確か、署の飲み会の時だった。たまたま席を外した俺が、ロビーで兄貴らしき人と携帯電話で話す山崎の言葉を聞いて、思わず聞き耳を立ててしまったのだ。大阪の人間は被疑者だろうが被害者だろうが全く珍しくないが、山崎と同じ言葉を喋る人物は、俺は一度も会ったことが無い。何故俺が驚いたのかと言うと、家族相手に喋っていた言葉と、被疑者となった大阪人と早いテンポで話した大阪弁が全く違っていたからである。

 いったい何か国語を喋れるのか、こいつは。

 と思ったのだ。

 履歴書には、英語、スペイン語、中国語、アラビア語、ロシア語…など、計十か国語の準一級試験合格が記載されてあった。(ただし俺たちは、そういう試験合格者だからと言って、流暢に喋れるわけではないことを知っている。)

 それまで日野署で外国語が堪能なのは山南ぐらいだった為、こいつは使えそうだと思った勝っちゃんが、山南の下に配置した。その時はただの若手だと思っていたのだが、山崎が入職して三か月目に、四件連続の強盗殺人事件が起こった。

 と言っても、俺たちの日野署管内と、隣接する昭島署管内とで発生した類似性の高い事件であったため、本店が合同捜査本部を立ち上げたのだ。こう言った場合、俺たち所轄が表に出ることは無いと言って良い。俺たちが収集した情報を本店に集めて、本店が分析した結果を受けて、本店が捜査指揮を執る。

 (勝っちゃんの立場もあることから)こういう場合は俺も大人しく従うのだが、本店が出してきたプロファイリングに対し、山崎が「違うと思う」と具申したのである。

 それまで山南の指示に良く従い、仕事は早く、総司や鎌足らと休みの度に「お好み焼きパーティ」を開催していた就任三か月目の山崎が出してきた意見に、通常なら目を留めない流れなのだが、山崎の主張は俺が見た限り、引っかかりがあった。

 膨大な資料のなかの、たった一つの単語。それは資料中に何度も繰り返し出現する、実に何気ない単語ではあったが、山崎曰く、本店がプロファイルした人物像はまず使うことのない地域と年齢層の言語でとのことだった。

 これが合っているとなると、プロファイルからずれた捜査対象を見つけなければならず、既に合同捜査本部が指揮を執っている状況では、最初からやり直すには遅すぎた。が、更に山崎は地図とそれまでの資料を持ち出し、例の単語を使う人間が居住する可能性の高い地域をマッピングしたものと照らし合わせ始めたのだ。

 いつの間にそんな資料を作っていたのかと驚く暇も無いままに、俺は本店からの資料と山崎の地図を並べた。確かに、ズレがあった。被疑者は日野市と昭島市だけにいるわけではない。刻一刻と動き、時間と共に痕跡が薄れてしまうものだ。

 所轄の俺たちだけでどう捜査すると言うのか、の決断と指揮は俺が任されていた。勝っちゃんが本店の連中の隣で、視線だけで俺に「やれ」と言っている。

 俺は、総司、永倉、原田、山崎と若干名の若手を連れて、合同捜査本部から離れ、独自で動くことにした。事件は確率とプロファイルで出来てるわけじゃない。現実だけで動いている。早ければ早いほど、勝つ。だから俺たちは走った。

 山崎が正しかった。俺たちが飛び込んだ建物のなかが、まさに殺人未遂の現場であった。マカロフ(ロシア製拳銃)を持った六人の外国人と二人の被害者相手に、俺たちが突っ込んで行った。

 それが、俺が山崎丞と言う人間を知った最初の事件だった。

 正直、

 その後は事件の処理と本店への事情説明に追われて、それからの山崎の行動を覚えていない。おそらく、いつもの山崎に戻って、大人しく従順に業務を遂行したのだろう。空気のようになって、ごちゃごちゃとした署のなかで、事件の終結とともに山崎の痕跡も薄れて行ったのだった。山崎は、刑事課にいるにしてはあまりにも存在感が薄く、室内にいても気配らしい気配を感じさせなかったからである。

 まだ若い連中が多い刑事課第二(室)を引っ張る原田と永倉の両名に代表されるように、刑事課は荒くれ者の集まりで、署内では最も目つきも性格も悪いことで有名だ。そこから漏れるのが井上さんと総司、山南、そして山崎の四名のみである。鬼の土方が、目つきの悪さでは筆頭だろう。井上さんと総司は基本的に俺に群がってくるから、山南と山崎が「刑事課最後の砦」と言われていた。自然と、刑事課内窓口は年下の山崎になった。

 山崎は総司だけでなく、鎌足にも慕われており、良く三人で買い物をしたり飲み会したりをしているようだった。空手をしている山崎は、署内道場で鎌足を相手に組手をしていることが多かった。常に百万ボルトの鎌足は俺の苦手で、あいつの顔を見ると、ただでさえ疲労を蓄積した体が、どっと疲れるのが分かる俺は、業務以外ではとにかく近寄らないようにしていたが、山崎は全く平気のようで、俺の目が届かないところで鎌足の生活安全課の手伝いをさせられても、全く嫌がっていないとのことだった。

 鎌足はあの中性的な(と言うかオカマ)顔でどこでも誰とでも盛り上がるが、勘の働く男で、ヤツが良い人だと言えば良い人間で、悪い人だと言えば確かに悪い人間だった。俺と初対面の際に俺に言った台詞は、「顔は綺麗なのに心は鬼、つまり、本物の鬼ね」だった。その鎌足は山崎のことを「いいひと。」だと言いまくり、山崎のことを悪く言う人間は俺の周りには誰もいなかった。

 俺は、おぼつかない足取りで辿りついたキッチンの壁に寄りかかりながら、羽織って来たカーディガンを振り落さないように左手で掴み、右手で床に置いていたスーパーのビニール袋からミネラルウォーターを取り出した。水滴がついている。俺は背中で壁をずり落ちるように下半身を屈めて、壁に背中を預けてそこに座った。壁も冷えている。構わなかった。

 時間と忍耐力との勝負である聞き込みを終えて車に戻った際、俺は体が震えていたらしい。何とか視界は保てていたが、呼吸が荒くなり、腕が上がらなくなっていた。そんな俺の体を背負うようにして街中から署内の医務室まで連れて行ったのが、山崎だった。

 あいつはただの一度も、自分も傷を負っていることを言わなかった。包帯を巻いた体で俺を抱え、自分の着ていた仕立ての良いコートを脱いで俺に掛けて、雨の中、車を走らせた。その時すでにあいつの背中は、血を流していたンじゃねぇか?

「………」

 俺にはどうしても、山崎に対して言わなきゃならねぇことがあった。



 丸一日休んで出勤した俺は、昼休み中に山崎を呼び出し、署の屋上に連れて行った。そして、

 パーンッ

 ありったけの力を右掌に込めて、山崎の左頬を叩(はた)いた。

 山崎の顔が体ごと右に半分以上回転する。無造作なショートヘアが映画のスローモーションのように揺れて、左の頬がみるみる赤くなった。

 茫然と俺を見つめる山崎の、左の唇の端が切れて血が流れている。構わず、俺は言った。

「“マル被(被疑者)確保の為に全力を注げ”とは言ったが、俺は、俺の為に体を張れ、と言った覚えは無(ね)ぇ!ひとつしか無ぇてめぇの体を、俺で使い果たしてどうするっ!山南の命令は聞けても、俺の言うことは聞けねぇってのか!てめぇの怪我のことを一言ぐらい言え!!てめぇの体が壊れたら、どうするつもりだ!俺なんか総司辺りに任せれば良かっただけだろうが!次に無茶したら絶対に許さねぇから覚悟しとけ!」

 怒鳴っている俺の顔を見ていた山崎の表情は、変わって行った。驚きから微笑みへ。頬だけでなく、視線も柔らかい。

「……なにがそんなに可笑しい」

 何だか、ひとりで怒っているのが馬鹿らしくなったと思った。その時だった。

 山崎が両腕を伸ばして俺の腕を掴み、体を密着させると同時に

「………っ」

 唇を、重ねて来たのだ。

 突然のことに理解力が働かない俺が全身を強張らせていると、山崎は左腕で俺の背中を抱え込み、右手で俺の顎を掴んで、…舌を、入れて来た。

「!!」

 まだ完全には上手く動かせない腕と手に力を込めて、俺は山崎の体を何とか解く。あっさりと、山崎は体を離した。

 息が、激しい。

 なのに、俺と殆ど同じ背丈の山崎は、至極静かだった。俺が引っ叩いた左の頬は赤いままなのに。

「な、…にすんだ、てめぇ…」

 何が起こったのか分からない。やっと三十七度台に下がったばかりの頭で状況を理解しようとしても、いつもなら高速回転する筈の頭脳が止まっている。そんな俺の姿を山崎は、じっと見ていた。微笑みを崩さないままで。

 こいつは、俺のことが好きらしい。

 医務室で松本と談笑していたのを聞いた限りでは、

『だから俺が泣くことになっても、彼が元気でいれば、それで良いです』

 思い出して俺は腹を立てた。自分に対して腹を立てているのか、山崎に対してなのか、分からなくなっていた。

「馬鹿野郎!俺は、お前が思ってるようなヤツじゃねぇっ!」

 叫ぶように言うと、山崎は「土方さん」と俺を呼んだ。

 呼んでもう一度、今度は掠めるようなキス。

 繋いだ手の熱さに体をびくりと震わせた俺の目の前で、山崎の唇がゆっくりと動いていく。

「その命令は、聞けません」

「……なんだと?」

「俺はあなたが好きです」

 山崎の、普段は穏やかな筈の顔が、ヤケに凛としていた。瞳のなかに、なにがしかの想いを灯して。



 どうにも階下に降りられず、屋上で煙草を吸っていると、背後から勝っちゃんの声がする。

「あー、日野署屋上にて、病み上がりの癖に喫煙中の不良を発見した。至急俺が駆けつけてやった、このまま確保する」

 普段ならここで睨みつけるのだが、舌の感覚が…、なんかおかしい。煙草も不味いし。

 黙りこくる俺に、勝っちゃんは「珍しいこともあるもんだな」と言いながら、こちらに近づいて来た。

「うちの優秀な署員を引っぱたいてくれたそうじゃないか、土方強行犯係長。下で本条(鎌足)君が大騒ぎしてるぞ、『あたしの山崎さんになんてことするの、あの鬼!』」

「るせぇ」

「山崎君の左の奥歯が抜けてた。痛いぞー、あれは」

「……っ!」

 ぎょっとして勝っちゃんを見ると、

「うそうそ」

 大口を開けて笑いやがった。

 俺は、がっくりと、フェンスの手すりにかけていた両腕の上に、頭を伏せた。

 風が吹いている。昨日までの雨が嘘のように晴れて、漸く梅雨開けになりそうな天気だった。俺の心は晴れるんだか、雨降りなんだか。

「勝っちゃん」

「んー?」

「告白された」

「誰に」

「…………山崎丞」

「そりゃ、めでたい」

「………なんで、驚かねぇんだよ……」

 知ってたのか、てめぇは。

 と俺が睨むと、勝っちゃんは俺が体を預けているフェンスに背中をつけて、「管内と署員を詳らかに把握するのが署長の仕事なんだよ」と言って、制服から、滅多に吸わない煙草を取り出した。

「山崎君な、」

 咥えた煙草に火を点ける。紫煙が上がり、勝っちゃんの好きなPeaceの香りがする。

 勝っちゃんは、旨そうにピースを吸い込み、ゆっくりと吐き出した。

「感激してたぜ、『土方さんが初めて俺の為に本気で怒ってくれた』とさ」

 ……なんだその反応は……

「モテル男は辛いやなぁ」

「うるせー」

「トシよ」

「なんだよ」

「由美とは、どうなってンだ?」

「………どうもこうもねぇよ」

「だったら、それがお前の答えだろうさ」

「――――あん?」

「煮詰まってンだろ」

「…………」

 すっぱり言われて、再び言葉を失った。

 勝っちゃんは松本を除いてただ一人、俺が由美とのことを伝えていた相手だ。「やれるだけやってみろ」と言った。署長としては土方係長の身に危険が及ばないかが心配だが、一人の人間としては静かに見守る、と。賛成でも反対でもない、トシの自由だ、と。

 で、自由にしていたら、こうなった。

 空ゆく雲を茫然と、銜え煙草のまま眺めながら、また俺の心は沈んでいく。

 志々雄を失って、自暴自棄になった由美。体がもたなくなって、自暴自棄になっている俺。

 おそらく俺たちは、似た者同士なのだろう。

 愛することは出来る。だが、前には進めない。時だけが刻まれて、俺たちの間の深みが増したたわけでは無かった。切り刻まれたのは、情けない事に、俺の体のほうだった。

 この体の異常さなら、嫌と言うほど分かっている。一人で大人しく生きる分には、大きな問題は無いのだ。俺は誰とも子供を作る気は無いし、由美がそれを俺に求めることは無かった。が、俺は永遠じゃない。

 俺はもう二度と、由美を一人にはしたくなかった。あいつが壊れることが、分かっていたから。俺が手を離したら、あいつは志々雄との夢に溺れて心を失くすだろう。あいつは、志々雄が焼死した後に入院していた病院で、何度も窓から飛び降りようとしたと言う。

 また、そんなことになったら―――――

 想像するだけで、すべてをやめてしまいたくなる。

 体も、心も、こんなにも不完全で、ひとりの女さえ守れない未来が待ってる。

 俺は俺が許せなかった。それがこの熱の正体だ。

 為兄だけでなく勝っちゃんにまで見抜かれ、松本からは呆れられて、外見上は見えない傷が内部に熱を孕んでぐちゃぐちゃと歪んでいる。

「……煮詰まったどころか、腐ってるかもな」

 俺は、銜え煙草のまま唇だけで笑った。たぶん俺の目は、被疑者よりも酷く濁っているのだろう。

「だったらよ、」

 勝っちゃんの声が響いた。

「山崎に言ってみたらどうだ、“助けてくれ”って」

 体を起こすと、勝っちゃんも咥え煙草をして、俺とは反対方向の空を眺めていた。俺は体制を戻し、もう一度フェンスに上半身を寄り掛け、二本目の煙草に火を点けた。…やっぱ、不味い。

「―――――言えるかよ、ンなこと。第一、由美とのことは山崎には関係ねぇし、巻き込みたくねぇ」

「だぁから、」

 勝っちゃんが笑う。なにがそんなに可笑しいのだか。

「だから、そこがお前(めぇ)の悪いとこだって、言ってンだろ」

「俺は大馬鹿でな、まるで分かンねぇよ」

 悪いところが、どこなのかが分からない。

 自分の何もかもが悪すぎて、分からない。

 松本の言うとおりだ、俺は、どうしようもない馬鹿なのだ。辛うじて仕事と剣道が出来る程度の機能を保つだけで、

 何せ、

 生まれつき、くたばり損ないなのだ。

『俺は何度も、七人目は産まないほうが良いって言ったンだよ』

 母方が血族結婚の成れの果てであることは知っていた。濃すぎる血が故に、母の兄弟は全員ガキのうちに死んだことも。親父がそんなお袋を不憫に思って、さっさと結婚し、さっさと死んだことも。

 俺が生まれなければ

 俺さえ生まれなければ

 少なくともお袋は生きれば、為兄も信兄(のぶにい)も香姉(きょうねえ)も蘭姉たちも、嘆くことは無かったのに、俺が生きて、お袋が死んだ。十代で両親を一気に失くした兄姉たちは、盲目の長兄が優秀であることを支えに何とか生きたが、甘えたい盛りだった彼らは子供らしい思い出が少ないまま、近隣の「普通の家族」を横目にしながら、親父とお袋の残した家で生きるしかなかった。かつてお袋と並んで歩いた多摩川河川敷を、お袋無しで歩かなければならなかった。

 バラガキの頃は理解出来なかったのだ、どうして家(うち)には父親と母親がいないのかを。蘭姉に問うては、彼女を困らせていた。仏壇の写真のなかにいる母親に良く似た蘭姉なら、答えを持っている気がしたからだ。彼女は困ったように言葉を濁しながらも、最後は必ず笑った。いつか、分かる時が来るから、と。のちにお袋の死因を知った俺はバラガキをやめ、親父の死因を知って刑事になると決めた。それだけが、俺が兄姉や伯父たちに出来る唯一の償いだと思ったからだ。

 俺が刑事に拘っているのは、そこが大きかった。お袋は俺が殺したも同然だったからだ。そしてその俺こそがお袋に瓜二つで、為兄は匂いさえ一番似ていると言う。だったら、

 由美に不完全な追憶を残して、俺も早くに死ぬ日が来るだろう

 そんな思いが日に日に増して、感情が麻痺し、頭だけが働いて、筋肉が千切れそうになっている。

「どこもかしこも、痛くてよ。ほんとはどこが痛いのかも、忘れちまった」

 そう言うと勝っちゃんはこちらを振り返り、哀れむような目で俺を見た。

 ―――――あんたにも、そんな貌をさせちまうなんて。

 顔を背けた俺に向かって、トシ、と勝っちゃんはまた呼んだ。ガキの頃からちっとも変わらない、懐かしい声で。俺がいったん体を起こして、勝っちゃんと同じ方向を向いてフェンスに寄り掛かり直すと、待っていたように彼の声が近くなり、響いた。

「お前以外の誰かに、“助けてくれ”って言ってみろ、って言ってンだよ」

「―――なんだよ、それ」

「お前は抱えすぎなんだよ」

 勝っちゃんの吐いた煙が、梅雨の晴れ間に青く映える空に溶けて行く。その煙が薄く途切れて行くのを眺めながら、勝っちゃんは言った。

「体のことも、仕事のことも、女のことも、一人で抱えすぎだ、お前は。見てみろ、俺なんかよ、(妻の)美代に(子供の)ふたばと剣士に、犬みてぇにごろごろしまくってるだろ。ふたばは赤ん坊の時からお前にひっついて、べったりだ。俺に叱られた後でもお前の顔見れば叱られたことをすっかり忘れちまって、また俺に笑いかけてくる。そんなモンなんだよ、ひとってのはさ。良いじゃねぇか、それで」

 その言葉に、振り返る。少し伸びた俺の髪の毛が風に揺れて、その先に勝っちゃんがみえた。

 道場にいる時のような、真剣な顔をしていた。

「助けを求めるのも、助けられるのも、生きてるうちだってのを一番良く分かってるのはお前だろうがよ」

 俺が生まれたのは御袋の命と引き換えだったことと、それが俺の生まれながらの罪悪感の根源であることを誰よりも理解しているのは、勝っちゃんだった。

「山崎だって、お前に“助けてくれ”って言ってンだ、っつったら、お前に伝わるのか?」

「……………」

 お、貌が変わったな土方くん、結構結構。

 言って勝っちゃんは、フェンスから体を起こして、そのまま去ろうとする。慌てて引き止めた俺に、半身だけをこちらに向けて。

「俺は…男なんだよ」

「んなモンどうでも良いってことだろ。いい加減助けてやれよ、山崎のことも、お前のことも。てめぇでてめぇを痛めて、なにが楽しいんだか。そんなんだから山崎がお前を心配で心配で堪らなくて、怪我した体でお前を助けるしか出来なかったンだろうよ」

 だから次はトシがよ、助けてやる番なんじゃねぇのか?

 ぽん…と俺の肩を軽く叩いてから、勝っちゃんは向こうへ歩いて行った。

 医師が見放したパーキンソン病の母親の治療を、諦めなかった山崎。

 警視庁が軽視していた情報を一人で探り、たった一人で警視庁とは違う分析結果を主張して、アジト発見までこぎつけた山崎。

『その命令は、聞けません』

 ―――――あの山崎が、俺の助けを求めているだと?

「んなこた、あるわけねーだろ…!」

 俄かには信じられず、振り返って叫ぶ俺に、勝っちゃんはこちらに背を向けたまま宙で軽く右手を振って、屋上から署の五階に続くドアを開け、階段を下りて行くのだった。




≪あとがき≫

 美味しいところ総取りは勝っちゃんです。