Diary & Novels for over 18 y.o. presented by Reica OOGASUMI.
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      最終更新21th Sep.2021→「Balsamic Moon」全面改装
※作中のあらゆる人物は覆霞レイカによる妄想です。




 最高気温が十℃にしかならなかった六月の雨の日。

 土方が、同じく刑事課の山崎に担がれて医務室にやってきた。

 俺は、死んだ土方の親父の従兄弟で、ずいぶん可愛がって貰っていたこともあり、こいつがガキの頃から、あちこちに傷を作ってくるのを診ていた。バラガキの時分は顔や頭をひっかくわ転んでたん瘤を作るわ、小学生になってからは風邪と肺炎、中学生以降は剣道由来のミミズバレ。大して丈夫でも無く、おまけに誰もが目を瞠るほどの美少女顔のくせに喧嘩っぱやくて、いつも付き添ってきた姉の蘭ちゃんを、こちらが気の毒に思うぐらいだった。

 そいつが刑事(デカ)になると言って来た時は、それだけはヤメロ、と言ったが、幼馴染の近藤もいることだし、飽きたら辞めるだろう、と思っていた。が、辞めるどころか、管内の治安を向上させるわ警官同士の剣道大会で上位に食い込むわで、地域への貢献には大いに役立っているらしい。

 そのガキはいま、爆弾を抱えている。正確に言やぁ地雷だが。

 その所為で煙草の本数が増えた。で、体を弱くしやがって、雨が降るたびに熱を出していた。ガキの時分みたいに。

 半分は俺が原因かもしれねぇが、まぁ、実際手を出したのは、こいつだし。

 悪い事をしたとは思っていたのだ。鬼刑事と呼ばれながらも、なんだかんだと面倒事を背負い込み、一人で悩む癖があるのは分かっちゃいた。尤も、いまは自滅しそうになっている。

 そいつを背負ってきた山崎が哀れすぎて、だから助けてやることにした。

 俺は名医だよ、全く。


   遠雷(二)


 痩せこけた土方は、熱が四十℃近くで、めでたく点滴三時間コースになった。抗生物質とビタミンも突っ込む。勝手に点滴を抜かないように、ホリゾンもぶちこんで拘束してやりたい気分だった(こいつには何度も前歴(マエ)がある)。

「この雨ンなか、薄着でほっつき歩くからだバカ。熱が下がるまでそこで寝てろ」

 言うと、土方は真っ赤な顔でだるそうに呻くのだった。声が掠れている。

「…………セーターは…着てた」

「着て、十℃のなかを四時間歩き回って、このザマだろ」

「………解熱剤……」

「だめだ。近藤から言われてンだよ、今日は点滴の刑にしてくれってな」

 聞いて土方は小声で、うぅ、と呻いた。近藤の命令だけは聞くと思い、こいつが医務室を訪れた時に、看護師をすぐに署長室に行かせたのだ。看護師は「点滴の刑ののちは、無理矢理でも帰宅させてください。ダメなら私の家にでも送り付けてください」とメモ書きを寄越したのだった。優秀な署長を持って、日野署は幸せだ。自分は幸せ者だと分かっていないのは、こいつだけなのだろう。

 バラガキの時分から、こいつの体は嫌と言うほど診て来た。

 女よりも皮膚が薄く、乾燥に弱く、僅かに掠っただけですぐ出血する。爪が脆くて良く割れる。緩い関節を支える度に筋肉と腱に必要以上の力がかかるため、歩く・立つと言った普通の運動をするだけで、疲労状態になる。十代二十代の頃はそれでも耐えられたが、三十五を過ぎてから明らかに筋肉が落ちて、誰が見ても痩せた。それでも、近藤の試衛館門下生として剣道だけは絶対にやめない。

 そんな末の弟の為に、全盲の身を押して長男の為時郎が「サロニカ」を設立して、弱い皮膚でも安心して使うことの出来る精油を作ることにしたのを、あのガキは知らない。暇つぶしに医務室にやってきては俺と、彼が作って来た桑の葉茶を飲んで行く為時郎が、あの体と変わってやりたかった、と呟いている姿を知らない。

 知らないまま強行犯係について、あろうことかヤクザの情婦とくっついたのだ。馬鹿としか言えないが、なんだかんだと為も俺もあいつを甘やかしているのは、身に沁みて分かった。甘やかしたから、こうなった。

 もう容赦しねぇ。

 俺は名医なんだよ。

 独りごちて、俺は、三つあるベッドのうち一番手前のベッドに土方を寝かせて来た山崎に、御苦労、と言って為が置いて行った桑の葉茶をたっぷり入れた湯呑を差し出した。土方が意識を失ったことを聞いてから一つ、台詞を添えて。

「あんな男のどこが良いんだか」

 言うと、山崎は茶を飲んだあとニコリと笑って、「ああ言うところが良いんです」と言いやがった。土方を抱えて来たときに掛かったのだろう、無造作なショートヘアがところどころ濡れている。俺は乾いたタオルを出して、渡してやった。山崎がタオルで髪の毛をわさわさ拭くと、あいつの煙草の匂いがした。

 何でも、山崎が言うには、土方と初めて会ったのは、山崎が高校生の時だったと言う。たまたま従兄弟に連れられて行った大学の道場で見かけたのが最初だった。

「いま思うと一目惚れだったのかもしれませんけど、当時はそんな感覚は無くて、かっこいいなぁ、と」

「あいつを見ると、大抵のヤツがそうなるからな」

「ならない人がおかしいですよ」

「お前さんも言うねぇ。どれ、見せてみな」

 俺は、山崎に服を脱ぐように言った。山崎は大人しく従い、湯呑をテーブルに置くと濃い藍色のジャケットとワイシャツを脱いで、丸椅子に座る。

 俺はわざと、少し声量を大きくした。

「………ひでぇなぁおい」

 現れた包帯から、血液がにじみ出ている。「お前さんは、消毒の刑だ」と言って俺は、ピンセットをカンカン、と膿盆の縁で叩いて、カーテンの奥の野郎に聞こえるように、わざと音を立てた。

 包帯とガーゼを取り、むき出しの傷に消毒液を付けて、ひとつひとつ消毒する。イソジンが沁みこむたび、山崎の全身が強張る。本当は消毒とガーゼなんてしたく無いが、例えば山崎が被疑者に襲われて灯油や泥水をぶっかけられたり、別の傷を負わされたりすることを想像すると、湿潤療法をする気にはなれなかった。刑事課は激務で、いざとなれば一日中外勤になるし、山崎は国際係とは言え面目だけで、いま朦朧としている鬼刑事に引っ張られて応援に出ることもある。何とかガーゼで傷を更なる外因から防ごうと思ったのだ。

 山崎が駈け込んで来たのは、二日前になる。ちょうど土方は聞き込みに出ていて、山崎は非番だった。多摩川河川敷でジョギングをしていたところ、少年同士の殴り合いのケンカを発見し、止めに入ろうとし、不意打ちを食らいそうだった少年を庇い、負傷した。

 食らったバットには、二重三重に有刺鉄線が巻かれていた。その鋭い棘が、山崎の背中に数十か所、食い込んだ。少年とは言え全員が大柄で、いくら空手の有段者とは言えど、五人の相手は難しかった。

 その後駆けつけたパトロール中の警官に取り押さえられ、暴行少年らは生活安全課と少年課が対応したが、事情聴取を適当に終えた山崎は一人で閉院時間間際の俺の開業先・松本医院に来たのだ。

 漆黒のランニングパーカーの下に隠れて居た為、出血の具合は警官たちには分からなかったのだろう。顔見知りの山崎が被害者で、警官たちは安心した様子だったらしい。山崎は日野署で一、二を争う温厚な性格で、とても刑事課の人間とは思えない、で有名なのだ。

 が、傷は別である。俺はすぐに山崎の背中を洗い、鉄線が食い込んでいたであろう肉を観察した。背中から左右の脇腹にかけて広範囲の内出血があり、その上の皮膚がところどころ不整形に切れ、あるところは千切れ、あちこちから出血していた。

 痛みに耐える山崎に、「あのバカには言っといたのか?」と聞くと、間髪置かずに「言うつもりはありません」と言う返事が来た。「傍にいられなくなりますから」

 その応えを聴いて俺には分かった。そして思ったのだ。

 山崎は自分と同じだと。

 だからこそ、自分と同じ想いをさせてはならないと。

 だからまぁ、イソジンは俺から山崎への餞別だ。受け取れ。

「い……(涙)」

「そんなじゃ、あンのバカは守れねぇぜ」

 バカっつーか、薔薇だぁな。猛毒を分泌する棘を花びらにまで生やした毒薔薇だ。

 言いながら俺は、傷だらけの背中にピンセットの先に挟んだ消毒綿をぐりぐり押し付ける。この背中で、高熱で朦朧状態の土方を、ひとり背負ってきたのだ。消毒の刑ぐらいは耐えられるだろう。

「……毒、は、無いと思いますけど、(い)たい……」

「そうか?棘と毒だらけじゃねぇかよ」

 今はその毒が自分に回って、肺を侵している。熱を出すだけマシなのだ。熱を出す力までなくなったら、あいつは終わりだろう。それが分かっているから近藤も、「点滴の刑」を言い渡したのだ。傷は早期発見早期治療に限る。どっかのバカがうろうろ迷わなければ、もっと早く山崎は報われていたかも知れないと言うのに。

「……バカだよなぁ」

 俺の呟きに、目の前の背中の上から「すいません」と声がした。「お前さんの事じゃねぇよ」と苦笑した俺は、ここで仕掛ける。

「大阪のお袋さんは、元気でやってるか?」

 山崎の母親は、パーキンソン病の治療中だ。

「はい。お陰様で、最近は農作業も出来るようになりました」

「ほぅ。そりゃ、良かったな」

 強張っていた背中が、心なしか柔らかくなる。年に三回ほど、山崎は大阪の実家に帰っていた。高校の三年間、看病をしていた母親の見舞いの為に、毎年近藤が必ず帰省させていた。国際係だけあって、外国人犯罪発生時には署に戻らなければならなかったが、幸いにしてここ数年、市内の外国人犯罪の発生件数は減少傾向にある。この男を強行犯係ではなく国際係に配置したのは、そう言う意味合いもあった。データの解析や暗号解読も得意な山崎は結局、ガラの悪い連中のたまり場である強行犯係への刑事課内窓口として、署内のあちこちからひっぱりだこだったが、誰に対しても山崎は穏やかで親切で、どっかの野郎とは違う意味で人気がある。

 その、静かな人気のある男の背中がガーゼだらけになっていく。ガーゼからも人気があるってか。

「お袋さんに、いまは何を育ててるんだ?」

 山崎の親孝行ぶりを、後ろのバカに見せてやりたい。

「アヤメです」

「良いねぇ」

 本当はカキツバタを育てたかったんですけど、マンションでは厳しくて、と山崎は笑った。アヤメは陸に咲き、カキツバタは水辺に育つ。この日野署の北西から南東にかけて流れる多摩川の水辺に、たまに咲いていることがある。きっとこの男は、多摩川に咲くカキツバタを、大阪の母親に届けたかったに違いない。

「俺も、アヤメは好きだな。俺がガキの頃はよ、今よりももっと沢山、その辺にアヤメや菖蒲なんかが咲いてたもんだぜ」

 多摩川河川敷にも、溢れんばかりのカキツバタが咲いていた。そこを、あのひとは沢山の子供を連れて歩いていた。

 花かおる季節の、

 穢れなき思い出。

「花って言えばよ、」

 俺は言った。

「あのバカの母親はな、芙蓉、って言ってな、あぁ、お前さん分かるわな?花だよ、花の芙蓉。その、『芙蓉』つったんだよ、あいつの母親」

 綺麗なひとだった。

 花の芙蓉が風に吹かれるように、ふわふわと靡くような、不思議な雰囲気を持った女だった。

 芙蓉とは、古くは蓮の花を意味する。芙蓉のような美しさ、とは美女と言う意味だが、土方芙蓉もその名の通りだったのだ。

「あのバカ含めて七人も子供を産んで、三十五の若さで死んじまった。産みすぎて体壊しちまってよ。美人薄命たぁ、ほんとだな」

 カーテンの向こうの空気が、シンとなった。起きたな。あいつにとって母親の話は禁忌なのだ。

 ……もう潮時だろ。言ってやれ。

「俺は何度も、七人目は産まないほうが良いって言ったンだよ、」

 奥の気配が、凍った。しらんふりした俺は山崎に包帯を巻きながら、話を続ける。

「あのひとは芙蓉みたいに、ふわふわ笑ってよ、」

 あの時俺は医学生だった。だから、止められなかった。

 芙蓉が俺の従兄弟の土方隼人と結婚したのは、高校卒業後すぐのことだった。幼いころから彼女の美貌は際立っていた。具体的には苛めを受けた。それで彼女は随分心を閉ざしたらしい。そんな芙蓉を毎日玄関まで迎えに来て、登下校に付き添い、校内でも守り続けたのが隼人だったのだ。

 土方の家は昔からの豪農で、隼人は長男だった。明るく逞しく、曲がった事が大嫌いで、同年代で隼人に逆らえるヤツはいなかった。芙蓉は、隼人がいれば笑ったし、自己表現も出来た。

 彼女の美貌には理由(わけ)があった。芙蓉は、二世代に渡る従兄妹婚で生まれた子供で、彼女を含めて兄弟が四人いたが、生き残ったのは芙蓉だけだった。母親は精神障害で、何度も精神病院に入退院を繰り返していた。ほぼ父子家庭で、芙蓉は恰好の苛めの対象になった。従兄妹婚が繰り返された事は、このあたりでは暗黙の了解だった。そんな彼女が唯一心を開いたのが、隼人だったのだ。

 そうして最初に生まれた為時郎は全盲だった。

 芙蓉の所為じゃねぇ

 隼人はどこまでも彼女を庇い続けた。

 二人、三人…と子供には恵まれた。隼人の遺伝子を濃く継いだ子供たちには軽い免疫系の脆弱さがあるぐらいだったが、六人目を産んだ際に、それは起こった。

 芙蓉の心電図に異常が出たのだ。それは、何か月経っても残存した。そして七人目を妊娠した。ちょうど俺は医学部の実習中で、産婦人科を回っているときに彼女の心電図を見た。学生がみても分かるほどの、明らかな異常だった。それでも、

「あのひとは―――――産むと言って聴かなかったよ」

 ふわふわと風に靡く芙蓉の花のような貌をして、普段は大人しいのに、一度言い出したら聞かなかった。

 そう言うところがそっくりで、年を追うごとに芙蓉に似てくるあいつを見るたび、俺は芙蓉の面影をあいつに追っていた。心のどこかで、こいつも芙蓉のようになるんじゃねぇかと思いながら。

「似てますね」

 俺と山崎は、気が合うらしい。

「だろ?」

 はい、と相変わらず口調は穏やかだが、きっぱりとした返事が返ってくる。

「芙蓉さんは、字がすごく綺麗でしたか?」

「おぅ。良く市内の書道展に入選してたぜ。扇をこう、ぱっと開いてな、」

 言いながら俺は、左手に持ち替えたピンセットを扇に見立てて、左手首をスナップさせて扇を左右に開くような動作をする。もう一本のピンセットを右手で持って、筆の代わりにして。

「こうして、さらさらっと書いてなぁ、ありゃ結構難しいんだが、彼女にとっちゃぁ朝飯前だったな」

 縁側にか細い足を出して、庭で遊ぶ子供たちを眺めながら、その姿を歌にして扇に詠んでいた。花咲くの卯月ような、優しい歌ばかりだった。

 あの光のなかに、点滴の刑を受けている男も、入っていた筈だったのだ。

 あいつが四か月目の時に隼人が死んだ。交通事故だった。救急外来に搬送された時には、下半身の挫滅が酷く、手の施しようがないように見えた。その時、たまたま家にいた為時郎も駆けつけて、医学生だった俺は従兄弟の緊急時と言うことで、講義を抜け出したのだ。

 筋肉の挫滅が原因で、高カリウム血症になっていた。不安定な心電図に怯えながら学生だった自分は声をかけるのが精いっぱいだったが、どんな治療にも隼人は反応しなかった。

 死亡が宣告された時、芙蓉は泣いていた。声を上げずに、ただ静かに。それもまた、花の芙蓉のようだった。

「普段はあんまり喋るひとじゃなくてよ、歌にするぐらいしか、自分の言葉らしい言葉を、世に出そうとしなかったよ」

「…親子、なんですね。俺もどちらかと言うと母親似なんです。……そうか、土方さんにはそういうお母さんがいたのですね」

 分かる気がする、と山崎の声が心なしか苦々しい響きになる。

「……一年前と比べて、煙草の量が倍以上になって来て……、口数も減りました」

 そうだ。土方は、もともと煙草を吸う人間ではなかった。刑事課に配属されてから、事情聴取の空気に合わせて吸うようになったのだ。だから吸わない日のほうが圧倒的に多かったのに。

 地雷を抱えてから、表情が冴えなくなった。もともとあいつは根暗で、表向きは鬼で知られているが、内面に言いようのない沈鬱を抱えている。芙蓉の持っていた不思議な空気が明度を半分以上失ったような、そんな重さが常に心にある。その原因は隼人と芙蓉だと、俺は思っている。見たことも無い母親に日に日に似通っていく自分には、隼人にあたる人物がいないからだ。だから、土方と芙蓉は、姿かたちは似ていても、その孤独の度合いが違った。土方には、母親のような、風にふわふわ靡く要素はまるで無い。剣道をやっていなかったら、駄目だったろう。気付いたら勝手に沈んでいくような男なのだった。

 芙蓉の孤独は隼人が補った。が、土方の孤独は誰にも補い切れていない。

(でなくて、てめぇが阿呆で、地雷を踏むか地雷から遠ざかるかも決められねぇまま、ひとりで突っ走ってるだけだけどな)

 俺は、さっきから気配を蒼褪めさせているカーテンの向こうを、ちら、と眺めて思った。

「一度決めたら譲らねぇし肝心なことを喋らねぇとこが、そっくりだぜ、近くにいる部下がこんなになってるってのによ。どこが鬼刑事なんだか。見てるとこが、すっかすかじゃねぇか」

 俺が言うと、山崎は「俺は別に、良いんですけどね」と笑ったが、包帯を巻かれた背中が、軽く丸くなる。

「放っておくと必ず一人になって、うつむいた感じになるのを見ると、どうもこちらも辛くなって…心臓が苦しくなります。とにかく心配で……やっぱり、惚れてるんでしょうね」

「どうしようも無いのに、惚れたもんだな」

「先生、こういうのも、病気なんでしょうか?」

「末期だな」

 気の毒に、と加えると山崎は可笑しそうに、背中で笑った。

 美しい薔薇に毒があるとは、良く言ったもんだ。

 この男も、あの薔薇の毒が回ったのだろう。

 確かに、土方の顔が目につかない人間は珍しいと言って良いだろう。隼人の顔が最も強く出たのが為時郎で、芙蓉の顔が最も強く出たのが歳三だった。歳三の場合には、遺伝子異常も強く出て、生まれつきコラーゲンが異常なのだ。

 だから肌が薄く、筋肉が柔らかく、関節が緩い。その体で剣道をしてきた。精神の鍛練にはなったが、近藤は、無理は絶対はさせられないと言う。剣道は瞬発力と持久力がどうしても必要で、コラーゲン異常の体には、そのどちらもが負担なのだ。だから土方は、体力が衰えて来たここ数年は剣道大会には殆ど出ずに、事情を知る近藤の下で鍛錬を積むぐらいしかしていない。

 その、無茶苦茶な体で無茶苦茶な仕事をしている最中に、滅茶苦茶な女と会い、関係を持った。由美は少しずつ明るくなっていったが、土方のほうがやられた。

 俺は医者として、すべての人間が強くあるべきだなんざ、思っちゃいない。弱くても、生きていければ良いと思う。為のように生まれつき目の見えない人間もいれば、生まれつき手足が無い人間もいる。彼らに比べれば、土方の不自由さは、好きな剣道と好きな仕事をやっていけるだけ、幸運なほうだ。

 しかし、その幸運を使い果たすような生き方は許せなかった。一人で突っ走っては疲弊して淵に沈んでいくのを、見ていられなかった。

 芙蓉が死んだ時に大泣きしたのは土方家の人間だけでは無いのだ。俺の涙を、あのガキは知らない。

 隼人は日野の大地だった。芙蓉は日野の花だった。大地と花を失って、漸く、ここいらの人間は自分たちが何を失ったのかを知った。

 ふたりは、日野そのものだったのだ。

「………このまま行くと、あいつはお前さんの事も、泣かせるつもりだぜ」

 ぼそりと呟くと、山崎は左右の肩甲骨を小さく上下させて、「でしょうね」と背中だけで語った。

「それで良いのか?」

「良いですよ」

「…ほんとかよ?」

「俺、人を見る目に自信はあるんです」

 山崎の、穏やかだが明瞭な言葉が俺に響く。

「うちの母親が病気になって、笑顔が消えたとき、親父も兄貴たちも、もう以前のようには戻らないだろう、と思っていたんです。でも俺は、見た目と中身は一緒じゃない、と思って。花の種は、それだけでは花の種とは分かりませんから。しつこく母親に付き添っていたんです。そしたら母は、俺の傍にいるときはちゃんと笑えるようになって」

「一緒に散歩と花いじりを始めたんだっけか」

「はい。少しずつですけど、喋るようになっていったんです。でも…土方さんは違う。沖田さんたちに悪態ついているうちは大丈夫だろうと思っていたんですけど、煙草の数が気になって。煙草吸うと黙りやすいんですよ、あの人。俺は土方さんの家族ではないから、付き添えるのは仕事の時だけなので、こんなふうに俺が怪我をしていても、付き添えるなら別に良いんです」

「相当重症だなや、おい」

 言うと山崎は、照れたように頭を掻いた。

「でも土方さん、全然俺たちを頼りにしてくれないんですよ」

「あいつはな、なんでもかんでも自分でやらなきゃ気が済まねぇのよ。ガキの頃からそうでなぁ」

 だから、刑事になった。

 犯人しか知らない事実を突き止めて真実へ遡上する為に。

 為時郎以外の家族と俺の反対を押し切って、刑事になった。仕事では鬼を貫くが、死体が増える度に視線は暗く沈んだ。もはや、恐れるもののなかったバラガキはもういない。いるのは、自らの異常体質と孤独に苛まれる枯れかけの薔薇だ。コラーゲンが壊れて、血を流して、喘いでいるのだ。

 その態(たい)なのに、ヤクザの情婦を愛しちまった。地雷とはそう言う意味だ。土方があの女を選べば、あっという間に死ぬだろう。あの女は―――――重すぎる。

 山崎と話をしながら、俺は思った。こいつは土方にとって、いいヤツかもしれねぇ、と。

 山崎丞は関西では有名ゴルフクラブのオーナーの息子で、父親は「ヤマザキゴルフ」の会長、二人の兄が社長と副社長になって経営をしている。履歴書をみて、署内は騒然となったのだ。どうしてよりにもよって警察官に、と。そして現れた男を見て、別の意味で騒然となった。

 こんな優男が警察官に向いているのか

 そんな前評判を、山崎は自ら打ち消した。十か国語が堪能で、コンピュータに強く、大人しくて従順。曲者揃いの日野署では、癖がなさすぎて浮いたが、婦女子からの人気はある意味最高になった。どうもそれは、山崎の天性らしく、本人が努力してそうなったわけではないようだった。山崎は、商人の家に生まれたからじゃないか、と言うが、ただの商人の血だったら、毒のある棘だらけの薔薇を眺めて喜んだりはしないだろう。

 まして山崎は、病気の母親のなかに眠っていた花の種を見分けて水を遣り、きちんと咲かせたのだ。高校の三年間で、きっと家族も変わったのだろう。病気は辛いが、家庭の空気が変わったのはとても良い事だ。

 あのバカが何一つ知らないで、本物の毒の女を助けて、俺を往診させたのが山崎の不運だった。だから俺には、山崎に対して責任がある。

「お前さん、女のことも知ってるンだっけか」

 知ってますよ、とあっさり返事が返ってくる。

「志々雄組の姐だったひとでしょう?そういう女性と付き合うって、(土方さんは)やっぱり普通じゃない、と思いました」

 カラカラ笑うんじゃねぇ。

 言いながら、俺も笑った。

「あいつは(山崎には内緒だが遺伝子も)あちこち異常だからな」

 正常なものにとって、異常なものが美しくみえるときがある。芙蓉も土方も、そのスジの美しさだ。おそらく土方にとっては、駒形由美がそうなのだろう。俺に言わせりゃ、二匹とも異常なもの同士だが。

 …違うか。あの女と土方とでは、土方の方がまだまともだったのだ。まともだからこそ、より毒の多い方に吸い取られている。二十代の頃よりも明らかに痩せた筋肉で、激務の後にあの女を抱くのは、心も体もきついだろう。なのに、突っ走った。

 辛い時に辛いと言えず、煙草の煙と同時に胸の奥に無理やり押し込み、心身ともにからからに乾いて生気を失った薔薇(そうび)が一輪。

「……あいつらの毒も、こうやって消毒できたら良かったンだがな。あいにく、俺は専門外だからよ」

「毒じゃないですよ。仏教で変毒為薬(へんどくいやく)って言うじゃないですか」

「良く知ってるなぁ!おい」

 変毒為薬とは、娑婆世界における衆生の煩悩や三業といった毒を、仏や本尊の功徳により転じて薬にすることをいう。「大智度論」と言う注釈書で、真言宗の真言八祖の一人、ナーガールジュナが作ったとされる本に書かれてある言葉だ。

「そもそも、すべての人に仏性があるのであって、鬼なんて呼ばれていますけど、俺には鬼には全然見えません」

「おいおいおいおい……」

 あのバカに仏性だってぇ?

「さっき先生も、『どこが鬼刑事だ』って仰いましたよね。それに鬼は、心を痛めたりしないと思います」

 まぁな。

「毒っつーよりも、『悪態』のほうが、あいつにゃ合ってるわな。顔があんなな割に、昔から口が悪くてよ、あの顔で悪態つかれると、どうしても毒に聞こえるンだわ」

「悪態なら、俺は幾らでも聞くんですが」

 と山崎は言った。煙草は本物の毒だから、土方さんのなかが、本当に毒されてしまって、悪態さえつけなくなる、と。

「土方さんが悪態をつかなくなったら相当弱ってる証拠なので、俺は好きなだけ、悪態をついていて貰いたいです。話を聞けと言われたら聞きますし、黙ってろと言われれば黙ります。煙草が増えて、こんなになるよりは、ずっとマシです……だから俺が泣くことになっても、彼が元気でいれば、それで良いです」

 ここまで言われて、俺は感動した。こいつが人気がある理由がいま物凄く分かった。

「………お前さんは、いいヤツだなぁ」

 正直、あんな男(ヤツ)には勿体ねぇわ。

「お前さんが喰われなきゃいいがなぁ。一言だけ忠告しとく。ありゃ、魔性だ。(あいつの)御袋さんも、そうだったのよ。遺伝だわな。たぶん一生治ンねぇぜ。お前さんはイイとこのボンボンだからよ、つい心配でな」

「おおきにありがとうございます」

 そう言って、山崎はワイシャツのボタンをしっかり止め、かごに入れてあったジャケットを羽織りながら、立ち上がった。すっと立ち上がる山崎を、俺は珍しいものを眺めるような目で見上げていた。

 大したもんだ。こいつなら、

 俺とは違う未来を描けるかも知れない。






 山崎が医務室を出てしばらく経った後、予想通り、うっとおしいほど空気が沈んでいる。

 芙蓉が命と引き換えに産み、弱い肌の為のオイルと石鹸を制作して世の中から石油系商品を失くす目的で為時郎が「サロニカ」に全盲の猛者たちを集め、医学ではどうしようもない部分を鍛えて普通の社会にいられるように幼馴染の近藤が理心流宗家に養子入りまでしたのは、ただひとりのためだった。

 隼人と芙蓉を失った俺たちに出来ることは、最後の忘れ形見をどうしてもこの地で生かすことだった。たとえそれが、生存に向かない肉体の持ち主であっても。

 俺が医者をやり続けている理由も、そこにあるのだ。

 何も知らずに、ひとりで突っ走りやがって。

「おい、聞いてるか?」

 一応、声を掛けてやった。返事は無い。

「バラガキの頃から思ってたことだがよ、やっぱ言わせてもらうわ」

「…………」

「バッカだよなぁ」

 てめぇも。

 俺も。







≪※≫

 作中のあらゆる人物は覆霞レイカによる妄想です。
autor 覆霞レイカ2014.02.25 Tuesday[01:08]
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