Diary & Novels for over 18 y.o. presented by Reica OOGASUMI.
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      最終更新21th Sep.2021→「Balsamic Moon」全面改装

BGM  Final Countdowm(extented version) et Ale' Japan
de "SUPER EUROBEAT presents DAVE RODGERS Special COLLECTION Vol.2"




 いつもお前をみて

 お前の傍に控える空気みたいなヤツで

 お前の邪魔はしないが

 お前が助けを求めれば

 飛んでくる筈だよ






 刑事課国際係は係長の山南を含めて六名で構成されており、署内で最も使用可能外国語数が多い山崎が療養休暇を取るとなると、残りの五名で回すことになる。幸いにしてここ最近は大規模な外国人犯罪は成りを潜めているが、事件がいつどのような範囲で発生するか、不透明なのが警察界での認識だった。故に俺たちは常時緊張状態にあると言って良い。

 日野署に来る前に配属されていた丸の内警察署の刑事課長が、外国語が堪能でコンピュータや情報管理に詳しい山崎を、なかなか離したがらなかったと言う。俺たち刑事課の刑事は基本的に職人気質で、世俗に塗れながらも、世俗とは一線を課して刑事の世界を生きることに人生を懸けている人間の集団、と言って良い。だから、多少性格が頑固だったり、かなり一本気だったり、俺のように「鬼」呼ばわりされたりと、現代ではほぼ壊滅した古臭い、良い言葉で言えば昔かたぎの日本人が多く存在する。

 そのなかで、山崎は異質だった。どうみても生活安全課か少年課としか思われない容貌と柔らかい口調の持ち主で、人に舐められる為に生まれて来たのか、と誰からも想われてしょうがない印象を抱かせる男である。童顔の総司とは違う意味で危険と言っても良いかもしれない。おまけに非常に穏やかな大阪弁を喋るので、初見で警察官だと見抜くことは難しい。それ故に築地署管内と丸の内管内では、山崎の聞き込みが非常に有効だったらしいのだ。聞き込みは一般国民の協力無しには為し得ないものだが、国民の多くが、警察なんざと関わりたくないものである。

 まして山崎は、警察学校を主席で卒業した頭の持ち主で、そのままストレートに仕事をしていれば、公安課に配属される道があったのである。公安は、警察のなかのエリートだけが入れる部署で、警察学校を主席で卒業することが必要最低条件なのである。俺は最初から刑事狙いだった為、主席卒業は考えていなかったが、警察学校寮で山崎と同室だった秋山と言う男が卒業時成績が第二席で、山崎が公安からの誘いを只管断ったことで、公安への道が開けて、いまは丸の内警察署の警備部公安課で華々しく活躍している。

 丸の内警察署を始めとする千代田区内の警察署は、俺たち警察官が一度は配属されてみたい、憧れの場所なのだ。そこの公安と言えば、ノンキャリと言えどエリートの塊であり、所轄の刑事とはまるで違う連中と常日頃から関わることになるのだ。

 以上のことを、署長会議で丸の内署や麹町署の署長から耳にタコが出来るほど聞かされて日野に帰って来た勝っちゃんから、繰り返し聞かされ俺の耳にはタコどころかイカが出来そうだった。だから余計、同じく公安への道を蹴っ飛ばした過去のある山南が山崎をいたく信任しているのも、そんな山崎を引っ叩いた俺を、山崎が療養休暇を取ってからと言うもの、悉く睨みつけてくる山南の気持ちも、嫌と言うほど身に染みてくる。

 のだが。

 あのとき、涙を拭いた俺が、なんで公安に行かなかった? と訊いたら、俺がいなかったから、と言う返答が来て、

『お前……どっかおかしいンじゃねーの?』

 半ば呆れた俺がそう言うと、あっさりと「そうかもしれません」と微笑まれ、もう俺は、どう反応して良いのか分からなくなった。

 あの上司にして、この部下あり、である。

 俺は溜息をついて、俺のほぼ正面に位置する山崎の、空いたデスクを見つめた。刑事課第一(室)は、強行犯係、国際係、鑑識係があるが、十か国語と言う桁違いの言語能力の為に辞書や書籍を持たざるを得ない山崎が、六つが一組になっている係員用のデスクから、一メートル弱離れた位置にある俺のデスクのほぼ真正面に、デスクを置いている。

 つまり、刑事課第一(室)の廊下側の壁を背にした山崎の、本棚を背負うようにして置かれたデスクがあるのだ。

 元は山南が使っていたデスクなのだが、大量の書籍や情報を扱う山崎には、書棚とデスクトップ型PCが良いだろうと山南が判断して、山崎にデスクを譲ったのだ。だから俺と山崎は、決して広いとは言えない刑事課第一(室)で、俺が窓側、山崎が廊下側の壁面に座る位置で、向き合う日々だった。

 ……その位置関係で、毎日のように俺はあいつの顔を見ていたのに、告白されるまで俺は、まるであいつの気持ちに気づかなかった。

 己の鈍さが故なのか、それとも山崎の大人しさが原因なのかと、俺なりに考えたのだが、「たぶん両方」と言う結論しか見出せなかった。

「………」

 思わず着いた溜息の深さに、我ながら呆れてしまう。―――――あいつ、

 俺と出会わなければ、東京の大学に進学する流れは全く無かった、と言った。

 …マジかよ。




  青雨





 視界の右に、S.Yamazakiの文字がイタリック体でくっきりと藍色の糸で刺繍されていたのを、よく覚えている。

 山崎が仕立ての良い服を着ていることは、日野署の、俺たち庶民出身の警察官の間で有名だった。彼のワイシャツの左袖には必ずS.Yamazakiの刺繍が為されている。聞くところによると、子供の頃から同じ店のテーラーメイドを着て育った為、所謂、店頭販売される既製服が合わないとのことだった。ジョギングの際に着るスウェットなどは、大きめのサイズを着ると言う。大阪の実家が数十年前から贔屓にしているテーラーは、日野の農家生まれの俺には聞いた事も無い店だったが、警察一家生まれの山南は、流石に良く知っていた。

 その、的場ユニカのワイシャツが俺の涙で濡れていくのを、指して気にも留めずに眺めて、山崎は静かに、俺を見ていた。軽く癖のあるショートヘアと同じ、焦げ茶の目がじっと俺を見て、男同士でこんなに間近で見つめ合うのは、勝っちゃんを除けば比古のみである俺は、初めてだった。俺や他の刑事課の署員に比べれば圧倒的に煙草を吸わない山崎からは、サロニカの香りの他にはこれといった匂いらしい匂いがしなかった。

 俺に微笑む以外は、指で俺の睫毛の涙を払うだけで、ただ、「かいらしいなぁ」を繰り返した。

 深みのある視線に、どうして良いのか分からず、取り敢えず山崎の腕を離して立ち上がり、俺は出窓に行って、セブンスターを吸うことにした。開け放った窓から入り込む風が、少しでも俺の涙を乾かしてくれることを期待したのだ。部下の前で泣くなど初めてだった俺は、頬に流れる液体が涙であることに気づくまで、数秒はかかっていた。

 出窓に腰かけ、何とか煙草に火を点けたものの、勝っちゃんとも由美とも違う指の感触に、鼓動が妙に響いて、兎に角山崎から距離を置きたかったのだ。

 漸く紫煙を落ち着いて吸い込めるようになったと思った時、俺がハンガーに掛けていたジャケットのポケットにあった携帯電話が鳴り響いた。ハンガーの下に行き、ポケットを探って取り出した折り畳み式のそれを開くと、画面に「山南敬介」と出ていた為、その画面を山崎に見せて、電話には山崎に出させた。もしもし、と山崎が出た携帯電話の先で、山南の、かなり控えめな怒号が聞こえた。

 土方くん、私の部下を、こんな時間までどこに拉致しているんだ、とか言っている。電話に出たのが山崎だと分かった山南は、一転して普段のヤサ声で、

『山崎くん?! 大丈夫かい? また叩かれなかったかい??』

 と、俺に対して失礼な台詞をのたまった。

 山崎が、大丈夫です、今まで寝ていただけで、あ、と…と言って俺を見た。そこで俺は山崎から携帯電話を取って代わり、山南に、山崎をサロニカに連れて行っていたこと、山崎の肩甲骨と肋骨にヒビが入っていることを伝えた。電話の奥で山南の沈黙が聞こえる。

 あとは任せた、と言って俺は、テーブルの脇に置いてあった山崎のジャケットとカバンを手に取り、山崎の左上腕を取って、山崎を立ち上がらせた。突然俺に腕を取られた山崎が、二重の目を大きく開いて、俺を見る。俺は山崎にジャケットをカバンを渡すと同時に、俺の携帯電話を彼の手から取り上げ、何故か聞こえた鎌足の声を、ぶちりと切った。

 山崎が唖然として、こちらを見上げる。

「おめーのうるせぇ上司が明日からまた絶対うるせぇだろうから、今日はもう送ってく。為兄には俺から言っとくから、また背中を見て貰え」

 そう言うと、山崎は大人しく、……はい、と従った。

 こんなに従順なヤツなのに、大阪にいる病気の母親を置いて東京に来たなんて。

 アクセラを運転しながら、俺は心に大きな穴が開いたように感じていた。ぽっかりと、夜空でそこだけ何もない空間が出来て、そこに自分だけが漂っているような気がして。

 一人で突っ走って、俺はいままで、何をしていたのだろう。

 思いながら、アクセルペダルを踏む俺の隣の助手席で座る山崎は、何も言わずにフロントガラスを眺めていた。ダッシュボードのデジタル時計は20:05になっていた。

 山崎を山南の住む待機宿舎(独身寮)に送り届けた後、ガソリンスタンドに寄った俺は、そのままアクセラをさっきまで山崎がいた俺のマンションへと走らせた。とにかく、一人になりたかった。非番や仕事を早めに切り上げた日は、由美のマンションに行くか、竜馬経由のシークレットサービス業務の為に都心に向かうのが俺の習慣だったが、今夜はどうしても、俺が俺に向き合いたかったのだ。

 俺の記憶。そこにある、微かな残像と言葉のいくつかを、呼び覚ますために。

 マンションのエレベーターを降り、部屋に戻った俺は、手早くシャワーを浴びて、生乾きの髪の毛のまま、寝室のベッドに腰を下ろした。寝室だと言うのに、山崎の背中に塗られたサロニカの香りがする。あれは、ミルラとカモミールだ。

 サロニカでは、全盲の盲人たちが視覚情報が皆無の状態で精油を作ったり調合したりする為、他の精油精製所や研究所に比較して、より精油分子の細かいオイルだけがある。それを、傷にしみないように様々のハーブや生薬と混合して、火傷や切り傷に使用していた。有刺鉄線が巻かれたバットで殴打された山崎には、所謂アロマオイルや精油として売られている製品は、かなり沁みる。

 為兄の施術を受けた山崎は、爆睡していた。本人は必死に眠らないように努力していたようだったが、ちょうど全身をヒソップのオイルに浸からせた俺が、サロニカにいつも置いてある俺専用のバスローブ(俺の肌が弱い為に、通常の利用者用バスローブとは素材が異なる)を引っ掛けた恰好で、山崎が腹臥位になっていたベッドの横にあるロッキングチェアに腰をかけたところで、ついに意識を失ったのだった。

 為兄は言った、『このアヤメさんは、どうしてトシの部下じゃねぇんだ? 筋肉もしっかりついてるし、強行(犯係)を十分出来る体してるぜ。良く働くヤツだろうに』。

 訊かれて俺は、いつものように正直に答えるしかなかった。盲目の為兄に、隠し事は出来ない。

『山崎は、英語と中国語とスペイン語とか、外国語だけで合わせて十か国語が出来るヤツで、だから国際係の山南の部下なんだよ』

 言うと為兄は、ああ、あの盆栽坊ちゃんの部下なのか、と笑った。盆栽坊ちゃんとは、既に退官した山南の父親の趣味が盆栽だからだ。警察庁警備局長だった山南の父親はキャリアの王道を行き、次は警視総監、と言う矢先に膵臓癌が発覚して、サロニカに助けを求めて来た。

 俺と山南は、性格と言うかウマが合わないだけで、互いに嫌悪…とまでは行かないかも知れない。山南の兄弟は二人とも警視庁に勤務するキャリアで、最も頭が良い次男の敬介が、ノンキャリの道を歩いている。エリート中のエリートだった父親の最大の自慢が、敢えてノンキャリの道を行く山南と知った俺は、驚いた記憶がある。

 本庁との合同捜査の際は基本的に、本庁の捜査一課と所轄の捜査係が一人ずつで二人一組となって、捜査に当たる。その際、キャリア兄弟がいる山南への配慮もあってか、それとも元警視局長だった父親からの口添えなのかは不明だが、日野署は他の所轄に比べて、本庁からの監視と管理がやや緩やかだった。だから時には俺は日野署の署員のみを数名連れて、本庁の捜査から外れた行動を取ることが出来るのだ。勝っちゃんはそれを見越して、当時新宿署ノンキャリの星であった山南を、日野署にスカウトした。

 その流れを聞いていた俺は、サロニカで為兄の施術を受けながら、日野署で仕事をする山南の話を嬉しそうにする山南の父親を見て、山南敬介と言う男への評価を、少しだけ変えたのだ。相変わらず頭が固く、強行犯係的には使えなかったが、一番キャリアらしい男が、輝かしいキャリア人生を最初から捨てて、地べたを這いずり回る所轄に流れ込んで来たことになるからだ。

 日野署は、ヤツが前に居た新宿署に比べると格段に小さな署で、扱う事件の規模も特徴も異なる為、如何にもノンキャリの星的な様相を呈する山南にとっては、勝っちゃんにスカウトされたことを除いては、指して嬉しい異動ではなかっただろうと、それまでの俺は踏んでいたのだ。

 山南は、幼少時から刑事になることが夢だったと言う。同じことを、総司も何度も言っていた。総司は両親を放火事件で亡くしている。父親を交通事故で亡くし結局時効を迎えた過去のある俺も、遺族となった俺の兄姉や伯父叔母の無念を僅かでも晴らし、かつ、世に少しでも貢献したいと思って、刑事になると決めたのだ。そんな俺や総司と、山南の姿が重なる様な気がして、サロニカの壁に凭れかかりながら、如何にも坊ちゃん育ちらしい山南の顔を思い浮かべたものである。

 山崎は、その男の部下なのである。それも、腹心と言って良いほどの、強い信頼を受けていた。高熱で魘されていた俺を抱えて日野署の医務室まで運んだのに、背中に骨折(ヒビとは言え、骨折は重症に該当する)をしていた山崎を引っ叩いたのが、この俺だ。

 為兄はすっかり見抜いた風で、何も映さない両目を、顔ごとこちらに向けて笑った。

『おめぇは相変わらず、あの盆栽坊ちゃんとは、仲が悪いのかぃ』

 昔ほどじゃねぇ。

 と、俺は答えた。完全に眠った山崎の背中を蒸しタオルで温めながら、為兄はまた笑ったのだ。

『だからこの前、言ったじゃねぇか』

『?』

『「静かな匂いだよ」』

「………」

 ごろり、とベッドに寝転がる。無機質な天井の照明を点けない暗い空間のなか、冷えないように俺は掛け布団を頭から被って目を閉じた。

 あいつはずっと、俺の名前を呼んでいた。

 土方さん、土方さん、と。

 俺に引っ叩かれた左頬にガーゼを貼られて、口を動かす度に頬の皮膚が引っ張られて、左口角と唇が切れて痛む筈なのに、俺を呼ぶのをやめなかった。だから俺はあいつを、松本の医院にも山崎の自宅にも連れて行けずに、この部屋に連れて来たのだ。

 初めて抱えた山崎の体は、流石に重かった。俺より少し背の高い山崎は見かけの割に筋肉がしっかりついており、はっきり言って羨ましいぐらいだった。抱えて運ぶのには向いていないが、あの躯で山南の部下とは、勿体ない気がする。為兄の言った通り、俺の配下で、強行犯係員を勤められる素質はあるだろう。温厚な顔貌と性格を除いては。

 長い間、疑問だったのだ。何故ヤマザキゴルフの御曹司が、警察官になって、しかも、警察学校を主席で卒業した時点で八か国語を獲得していた山崎が、よりにもよって荒くれ者だらけのうちの署に転属希望を出したのかが。

 それが、あろうことか、俺が日野署の刑事課にいたから、と言う理由だったらしい。

『あなたにとっては辛くて嫌な体かもしれへんけど

 俺にとってはあなたの心をこの世に繋ぎとめてくれはる大事な体です』

 山崎の言葉を思い出して、俺は布団を頭から被ったまま、両手を胸の前で交叉させて、自分で自分の腕を抱きしめた。腕を掴むと、すぐに骨が当たって、筋肉が衰えたことが分かる。

 大事な、からだ……

 コラーゲン異常を伴う肉は、二世代に渡って繰り返された従兄妹婚が故に、どこもかしこも軋みやがる。

 そんな出来そこないの体を、山崎は大事だと言った。

 俺の異常を最初に発見した松本や俺の兄姉親戚は、俺を憐れみ、勝っちゃんは俺の師匠になって、俺を鍛え、由美は俺に縋り付いて涙を流すのに、山崎は違った。

 あいつは俺を追い掛けて、ゴルフ場の御曹司と言う立場を捨て日野まで来て、殉職する可能性が常にある刑事になった。愛で結ばれた先祖がいたから、俺がいるのだと、その俺を大阪から追いかけて来た自分の選択は正しかったと、言い切った。俺が、俺の体どころか存在自体を憎んでいることも、見透かして。

 こんなにも情けない俺を、ただただ抱き留めた。初めて知ったあいつの温かさに、涙が溢れて、堪らなかった。

 だから、そのままの俺で、今夜は眠ることにした。生理的なものとは異なる涙を久方ぶりに流して、ジンと痺れる頭が、妙に心地良く感じられた。

 あいつの指が何度も涙を拭った瞼を閉じると、あんなに痛かった体が、一晩中、柔らかで、俺は夢ひとつ見ずに眠った。

 為兄が作った安眠用の精油を使うことを、すっかり忘れていたが、そんなことはどうでも良かった。






 翌日、通常通りに仕事を終えた俺の携帯電話に、勝っちゃんから公舎に来るように連絡があった。

 署長公舎は日野署の敷地のすぐ隣にある。自宅と試衛館道場が市内にある勝っちゃんと雖も、署長は公舎に住まなければならない義務がある為、署長になってからも彼は、休日の日中でなければ自宅には帰っていない。自宅と道場は、嫁さんと俺たちの師匠である近藤周助夫妻が守っていた。

 アクセラを署の駐車場に停めたまま、俺は公舎の門を開けた。公舎は2LDKの平屋である。防護の為に敷地全体がコンクリートの塀で覆われ、玄関に入るには重い門を開けなければならない。その門の奥には、ランドクルーザーが置いてあった。公舎と言っても、日野署に隣接するこの家に、家族以外で入って来るのは、警部補以上の署員ぐらいである。

 リビングに入ると、室内の中央に置かれたテーブルには、既に出前で取ったであろう寿司とビールと、大量の紙袋が置いてあった。

 誰か来たのか、と問うと、キッチンの棚から、嫁さんが作っている枇杷の種の酒を持ってきた。嫁さんの作るこの酒は、酒なのに酔わないのだ。うちの為兄も作るが、酒造りに関しては嫁さんも結構上手く、俺も良く飲んでいた。

 やるか?と問われて、しかし俺は首を横に振った。山崎がヒビとは言え骨折した体でいる時に、その山崎に背負われた自分が、酒を飲む気にはならなかったから。

「相変わらずバカ真面目だよな、お前」

 そう笑った勝っちゃんは、同じく嫁さんが作った枇杷の葉茶を持ってきて俺に手渡し、テーブルを挟んで座っていた俺の正面のチェアを引いた。そして、見た事の無い店名が書かれた紙袋の一つを軽く持ち上げる。

「山崎の実家の使用人、てのが置いて行ったんだよ」

「……!」

 ほら、と勝っちゃんが座りながら、テーブル越しに寄越した名刺を見ると、

 ヤマザキゴルフ 代表取締役社長秘書  鳴海 利成

 とある。

 なるみ とししげ、と読むのだろうか。現在の社長は、山崎の長兄での筈だ。

「凄ぇ上品な男でな、流石は、ヤマザキゴルフのトップだけあるってのが、見ただけで分かる成りをしていたぜ」

「…へぇ」

「でな、」

 勝っちゃんは、クリスタルグラスに注いだジャックダニエルを、俺が手にしていた枇杷の葉茶のグラスにカチリとぶつけ、チェアに座って飲んだ。俺は目の前にある二人前の江戸前寿司を食べ始める。俺の体のいちいちを知っている勝っちゃんは、俺が来るたびに古なじみの寿司屋からで、出前を取っていた。冷蔵庫から取り出したであろう小松菜のお浸しは、嫁さんが作ったものだと思う。

 そのお浸しと漬物を美味そうに食べながら、勝っちゃんは続けた。署長様は相変わらず歯が丈夫で、ぽりぽりと言う音が広いLDKに小気味良く響いていく。

「鳴海さんからは、誰にも言わないで欲しい、と言われたンだが、コトがコトだし、お前を呼んだ」

 山南に言ったら、唯でさえ憔悴したヤツが、今以上に意気消沈するだろうからな。

 伏し目がちにそう呟いた勝っちゃんが、話した内容はこうだ。

 山崎が地元の小学校に入学して間もない、四月の頃。

 山崎が誘拐された。

 その児童は、「山崎進」。当の山崎丞とは別人だった。同姓同名で、小学一年生が背負っていたランドセルの名前欄には、漢字ではなく平仮名で「やまざき すすむ」と書かれており、私立大学付属小学校ならではの制服を身に着けた山崎進少年は、ヤマザキゴルフの御曹司と間違われ、青年四名からなるグループに誘拐されたのだった。

 山崎丞の実家に誘拐グループから電話があったのは、午後二時半。『お前の息子を預かった。三億円を持って、指定の場所に女一人で持って来い。場所は―――――』

 その電話を聞いた母親と同じ部屋には、いつも通りの時刻に帰宅していた丞がいたのである。

 その頃パーキンソン病とは無縁だった山崎の母親は、末の息子の隣のクラスに、同姓同名の男児がいることを思い出し、誘拐グループの電話を落ち着いて切ってから、すぐに夫(山崎の父親)に電話を入れた。夫は当時ヤマザキゴルフの社長で、当日のゴルフ場利用客に、大阪府警のOBや幹部クラスの人間がちょうどいた。

 府警はすぐに動いた。山崎の母親が聞いていた誘拐グループとの待ち合わせ場所に警官を配置し、山崎の実家と、進少年の実家にも配置して、待ち合わせ時間の午後四時を待ちつつ、包囲網を狭めて行った。

 そして午後四時、現れた青年グループのうち二人逮捕したが、その時既に進少年は殺されていたのである。人違いであることを、グループが知ったのだろう。

「だから、子供の頃の山崎は警察が大嫌いで、全く信用しなかったそうだ。…ま、当然だわな。でな、この鳴海さんは、山崎家の執事の家に生まれたそうだが、ちょうど事件発生の一週間前から山崎家で、小学生になったばかりの山崎のボディーガード兼遊び相手として勤め出した。誘拐当日に、小学校の周辺に妙な気配を感じて、普段の下校ルートとは違うルートを帰るように機転を利かせたのが、鳴海さんだったってわけだ」

「……じゃあ、事件てのは、」

「そ。この男が居なかったら、誘拐されていたのはうちの方の山崎丞で、もう一人の山崎進少年は、何事も無く生きていた、と言うことになる」

「…………あいつ、そんなこと一言も……」

「俺も聞いてねぇよ。山崎家としては誘拐未遂になるが、もう一つの山崎家にとっちゃぁ、誘拐殺人事件だろ。が、京阪でヤマザキゴルフと言えば大企業で、名門だ。おおかた、事件を公にしないで欲しいと、山崎家が(大阪)府警に頼み込んだセンじゃねぇか? あいつン家(ち)は関西じゃ知らねぇもんは居ないし、殺された方の山崎家にとっても、比べられるのは壮絶に不本意だろうし」

「……だろうな」

 もう一つの山崎家は普通の公務員の家で、とてもヤマザキゴルフと張り合えるような家ではなかったそうだ。それでも、互いに末の息子を小学校に入学させた矢先の出来事は、双方に大きな傷を残した。進少年の家族は大阪から転居し、丞の方は、笑顔を失った。

「今じゃぁ、山南と並んで『刑事課最後の砦』のヤサ男で、総司や鎌足の(子)守役みたいなヤツだが、ガキの頃は二人の兄貴に比べてもずっと明るくて、元気だったらしい。あまりにやんちゃ坊主だったから、高校を卒業したばかりの鳴海さんが雇われたンだってよ」

「………」

 想像がつかなくて、黙ってしまった俺を眺めながら、勝っちゃんは、好物の鯨肉の竜田揚げを噛みしめる。俺も、これは好きなのだが、いかんせん食欲が全く出ない為、好物の竜田揚げがどんどん勝っちゃんの大口の中に放り込まれて行く。食欲などどうでも良くなった俺は、勝っちゃんに「もっと食え」と言われない程度に、目の前にある食い物を適当に食べることにした。…噛んでも美味いとは感じられない程に、混乱した俺の味覚はどうかしていたが。

「おまけに、」

「…?」

「おまけに……『強くなりたい』っつってな、鳴海さんの特技だった上地流の空手を、鳴海さんにせがんで習ったのだそうだ」

 上地流空手は沖縄発祥なだけあり、あまり知られていない。俺も、上地流は山崎のものしか今まで見たことが無いが、永倉や島田がやっている剛柔流とはまるで違ったように見える。上地流の空手を面白がった鎌足が、山崎を気に入っているのは、そこにもあるのかも知れない。

 あたしだってぇ、頑張って体鍛えたンだけどー、筋肉隆々にならないって分かったから、女の道を究めることにしたの♪

 てめーのはどう見てもオカマ道だろう、と心の中で激しくツッコミを入れる俺たちの中で、山崎だけが笑っていた。静かに、決して騒がしくなく。そんな山崎だからこそ、常に騒がしい鎌足や総司にとっては、受け身になって話を聞いてくれる相手として、貴重な存在になのだろう。それは決して鎌足や総司だけでなく、永倉や原田らも然りで、愚痴を言っても黙って聞いてくれる山崎を、刑事課内で、…いや、日野署で嫌う人間は一人も居なかった。

 たったひとつの運命のボタンのかけ違いがあったら、その山崎は、この世にいなかったかもしれない。誘拐され、無事に助かっていたとしても、いまの山崎とは違う人格になっていたかもしれない。刑事事件の被害者は、多くの場合が性格が暗くなったり、社会に出ることを嫌がったりするものなのだ。

 一人で黙々と作業すると思えば、穏やかに人の話を聞いて、強行犯係の応援も出来る山崎。

「山崎は、確かに子供らしい笑顔は亡くしたものの、鳴海さんにだけは懐いてたらしいぜ。三兄弟の遊び相手として雇われた筈が、事件の前から山崎があまりに鳴海さんに懐いたモンだから、自然と『坊(ぼん。坊ちゃんの意)』は、丞のことを指すようになったそうだ」

 一番上の兄貴は、上(うえ)の坊。二番目の兄貴は中(なか)の坊。

 で、山崎だけが「坊」。

 信じられねぇな、と俺は応えたが、子供だった頃の山崎の姿が、見える気がした。末っ子で甘えたい盛りだった山崎にとって、鳴海は、兄貴たちよりも兄らしく見えていたのかもしれない。当時は小さかったであろう、両手を伸ばして、きっと駆け寄っていたであろう。

 鳴海ぃ、抱っこせぇやぁ

「…そんな山崎が、高校生最後のGWで上京した後で、突然警察官になる、と言い出した。山崎家としては、それまで警察を兎に角嫌っていた末っ子が、どうしてそんなことを言いだしたのかは未だに分からないそうだが、署長の俺は、ま、気付いていたってわけだ」

 勝っちゃんはニヤニヤ笑う。

「強行犯係長さんはこれから、どうするつもりかねぇ」

「知らねーよ」

 言いながらも、俺の目は鳴海の名刺をじっと見つめていた。






 それから二日が経った。

 当直明けで普段通り蒼褪めているであろう俺が刑事課第一(室)に入ると、全身から棘を出すハリネズミのような雰囲気になった山南が、ふくれっ面で睨んできた。俺はそれを無視して、窓際のデスクに座り、ノートパソコンを立ち上げる。

 昨夜は傷害が一件あっただけで、事情聴取を終えて書類を作製した後は平和な夜だったのだが、驚いたことに俺の全身は、大して痛んでいなかった。これまでは、特に当直明けの痛みが酷く、非番となったら一旦帰宅して仮眠を取らなければ最近は動けなくなっていたのに、今日の俺は、単なる眠気があるだけで、肘も手首も膝も股関節も、さほど痛くないのだ。

 日野署の男性用当直室は、二段ベッドがずらりと並ぶ空間の隣に、ガラス窓がはめ込まれた引き戸を介して、二十畳の和室がある。ベッドで寝ようが和室で寝ようが各自の自由で、しかし俺の場合「あまりにも美貌が酷い」「いるだけでセクハラ」との理由で、日野署が改築されて以来、別室で寝ることが許されていた。だから、男性用当直室と、給湯室を挟んで隣にある一人用の仮眠室で寝ることにしている。総司の寝言も無いし、原田&永倉のいびきも聞こえない為、一人で寝るのが俺にはちょうど良い。鎌足に寝顔を覗き込まれることも無(ね)ぇし、その点は非常に安心である。

 が、ひとつ我儘を言えば、その仮眠室のベッドは、昔ながらの畳敷きベッドであり、そこに普通の敷布団を敷いて寝る為、マットレスのベッドに慣れて来た俺は、体が痩せてきた今となっては、固い布団で当直帯を過ごすのが辛くなってきたところだった。しかし、今日の午前三時から七時までをあの固い畳敷きベッドで眠った俺の体が、悲鳴を上げてはいない。バキバキ鳴る筈の骨も鳴らず、それに違和感を感じる自分がいて、立ち上げたノートパソコンにパスワードを入れるのも忘れて、しばし俺は茫然としてしまった。

「土方さん、おはようございます。はい、お茶です」

 とん、と軽い音を立てて総司が、為兄が作っては署に置いて行く、枇杷の葉茶がたっぷり注がれた湯呑を持って来た。ガキの頃から俺は、外で普通に購入できる茶と言うものが合わないことが多く、為兄が育てる桑や枇杷の葉を、姉貴たちが自家焙煎したり、陰干しにしたりして作った茶を飲むしかなかった。所謂「日本茶」や「緑茶」として売られている茶葉には、農薬がしっかり着いており、俺の敏感な粘膜や神経が、それにいちいち反応してしまうのだそうだ。

 俺の体のことは、署では勝っちゃんと松本と、山崎しか知らない。が、俺が普通のものを受け付けない体質であることを分かっていて、毎朝八時きっかりに出勤する総司は、結核を繰り返した自分の体の健康の為にも、と言う意味で、出勤して最初に給湯室に入って、ヤカンで茶を沸かすのが日課になっている。

「山南さんも、どうぞ」

「ありがとう、沖田くん」

 刑事課第一(室)内で最も若年の総司は、こうやってデスクの一つ一つに、作り立ての茶を置くのだ。昔ながらの刑事のしきたりとも言うべき、「若輩者が先輩刑事の茶の好みをいちいち把握して出す」云々、は勝っちゃんが署長になって以来、廃止された。いま総司がやっているのは、総司の自主的な習慣であり、楽しみでもある。

 総司が作る茶が不味ければ、永倉や原田が給湯室に行って、また茶を沸かしてくる。コーヒーを飲みくなれば、総司が茶を煮出し始める前に、自分で作るか自販機で買わなければならない。当直や夜間の呼び出しがある警察官は、カフェイン中毒になりやすいため、日野署ではコーヒー・紅茶を日勤帯で飲むことを推奨していない。

「……―――…」

 カーソルが点滅したままの俺のパソコンのディスプレイの向こうで、総司が、空になった山崎のデスクを振り返っている。普段ならこの時間には山崎が出勤してきて、総司に笑いかけている筈なのだ。

 沖田さん、おはよう。今日もおおきに。

 その声が無くなって、三日目である。

 刑事課最後の砦。刑事らしくない刑事ナンバーワンかツー。そう呼ばれるほどに大人しい男だけが居ないだけなのに。

 荒くれ者集団で有名な刑事課第一(室)が、まだ朝だと言うのに、しん…と静まり返っていた。

 俺は漸く、

 山崎丞と言う男がどういう人間か、分かった気がした。

 同時にそれは、俺が、自分のことに囚われて、山崎を見ていなかったことを意味した。侭ならない俺の体と、由美との関係に視野が曇って、俺を追い掛けて来たらしい山崎の心を言うものに、全く気付かなかった。

 キーボードから手を離して、ポケットに手を突っ込む。俺は、勝っちゃんが良く飲むジャックダニエルのロゴが刻印されたZippoを見つめた。

 抱き合うようになってから最初に迎えた俺の誕生日に、勝っちゃんが贈って来たものである。限定品で、シリアルナンバーと、T.Hijikataの刻印が為されたこれを、どうやって手に入れたのかは知らないが、シリアルは俺の誕生日と血液型になっていた。

 以来、これ以外のライターを、俺は使っていない。竜馬は見るたびに、「これ贈ったヤツは、独占欲の塊じゃのぅ」と呆れたが、俺は手放すつもりはなかった。もう、ジャケットやジーンズのポケットに入れて置かないと、何だか落ち着かない躯になっているのだ。こんな俺を、あいつは好きだと繰り返した。

『あなたをください』

 俺には何もないのに。

 ジャックダニエルを握りしめると、俺の体に染みついたサロニカの香りがした。今頃、為兄の施術を受ける山崎が、纏っているであろうミルラ香。あらゆる罪悪を浄化し、人間を本来の姿に立ち戻すかおり。為兄曰く、本来の姿に戻った時、人は治るのだそうだ。例え遺伝子異常を抱えた俺であっても。

 その香りのなかで爆睡しながら、あいつは俺の名を呼び続けた。つまりあの呼び声が、刑事課最後の砦と呼ばれる静かな男の本音なわけで、

 大嫌いだった警察に自ら飛び込んで来たあいつの本性なわけで、

『だから次はトシがよ、助けてやる番なんじゃねぇのか?』

 …勝っちゃん、

 良いよな

 あんたがそう言った。
autor 覆霞レイカ2014.05.06 Tuesday[03:05]
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