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薔薇も未来も要らない幸福 4 --- The heavenly bliss that we won't call down the all things excluding this fate ---






 月が出ている。





 大久保は歩いていた。両の革靴を血に浸しながら。
「……っ…」
 山県に撃たれた傷は浅くない。左胸にあてた指がみるみるうちに生暖かく染まっていく感触は、それでもまだ大久保が生きていることを証明していた。
 だが近づいてくる死の気配は決して遠くはなく、じりじりと大久保を追い詰めていく。
「凄いものだな……」
 歩きながら大久保が感嘆するのは溢れ出る血ではなく、斎藤から植え付けられた狼の体液であった。大量の出血が鼓動を急がせているが、普通なら大久保は既に息絶えているだろう。
 斎藤から授かった、不思議の血。
「…出来るなら……貫徹したかったが…」
 不思議の血を植え付けられてから大久保は、遠征に失敗して戻ってきた十字軍を不遇の裁判にかけるかけることはせず、彼らに充分な休養と褒賞を与えて慰撫することに努めた。法王庁から反対意見も出たが、もともと彼らを派遣させるように差し向けた法王庁にも問題はあると述べ、その場を抑えた。その後は外征ではなく、内政に法王庁の目を向けさせた。この国にはまだまだ改善を考慮する箇所が幾つもある。大久保は、まずは国力の充実からはかるべきとの 方針を固め、徐々にではあるが確実に実現されていった。
 瞬くうちに数年が過ぎていった。その間、大久保が黒曜の森を訪ねることはなかった。いま思えば、いくらでも来れたのに。
『法王………』
 深夜の寝室で背後から声をかけられたとき、大久保はひとりだった。
『なにかね』
 振り向いたときにはなにも感じなかった。大久保はどうやら、専らの文官らしい。
 そこには山県がいた。相変わらず暗い瞳をして。
 大久保は書き物をしていたが、手を止めて山県のほうへ向き直った。いくら側近とは言え、ひとを訪ねる時間にしては遅すぎて、緊急の用事かなにかと思ったのだ。
『法王…』
 壁に添えつけられた蝋燭の灯りだけが、山県の彫りの深い顔を照らしている。
 山県はここ暫くの間で大分痩せたようだった。見た目痩せてはいるが、精力的に法王としての仕事をこなす大久保とは対照的に、彼は枢機卿のなかでも最も目立たない存在になりつつあった。かと言っていったん枢機卿の位に昇ったものを、政権が交代していない間に大きな理由もなく降格するのは妥当ではないため、山県はいまもなお枢機卿の地位にある。
 少し前までは大久保の後継者として有力な立場にあったものだが…と囁かれていたし、大久保自身もそう考えることがあった。しかしいまの山県に、それだけの精神力はない。彼は病んでいるようだった。聖職者でありながら虚ろな顔で聖堂で昼夜構わず祈り続ける。病んでも十字の切り方だけは変わらなかった。
 この時代のこの国には精神の病という概念が確立されておらず、山県は専ら悪魔にとりつかれつつあるのだと噂されている。ただし大久保は信じなかった。鬱っぽく塞ぎがちになった経験が過去大久保には数回あり、また、そういう精神状態は必ず回復することを知っている。大久保が山県を降格させないのには、そういう事情もあった。
『どうかしたかね』
 いまや山県には自分を擁護してくれるのは大久保しかいない。大久保が法王という立場にあるから、山県は法王庁にいられるわけだし、大久保も山県は自分を未だ信頼してくれていると信じていた。
 だが振り向いた大久保に対して山県が与えたのは、一発の弾丸だったのだ。
 スギューン…
『ぐ……』
 銃弾の衝撃で、大久保は壁に背中を打ちつけた。
 突然の出来事に混乱する頭をなんとか上げてそこをみると、山県の紫色の聖衣の袖から硝煙が揺らめいている。
 溢れ返る血が衣服を、首からかかった十字架を真赤に染めていく。
『美しい…』
『や…ま…がた……』
『貴方は私だけのものです』
『…う…ぐ、』
『こうして狂人のふりをしていれば、どんなときでも貴方は私を守って下さるでしょう?』
 狂人の、ふり―――――…
 大久保は大きく目を開いて、床に膝をついた山県をみた。
 彼は―――――狂ってなどいなかったのだ。
『狂、介』
 山県は、大久保が見慣れた本来の目になって―――――それでも暗かったが――――目を細めて笑って見せ、血だらけの大久保の胸に手をあてた。
『温かいですね……貴方も人間だったわけだ。でも、魔の匂いがする。違いますか?』
『……貴様…どうして』
『“貴様”? 貴方が“貴様”ですか? なるほど魔の血は恐ろしいですね。古文書にあるとおりだ。だからこうして、出してさしあげたのですよ』
『…!』
 山県は大久保に顔を寄せた。黒い瞳が近づいてくる。青褪め始めた大久保の唇に己のを重ねるようにして、山県は続けた。
『はじめて貴方をみたのは皇帝の戴冠式でした…皇帝よりも輝いていた貴方…私の理想、私の夢……美しく、高みには果てがない……だから貴方はいつでも聖でなければならないのです。魔如きに穢れる貴方などもっての外』
 山県は大久保の青褪めた首筋に唇を這わせた。それこそ、夢みるように。
 やがて山県の厚い手は衣服を取って大久保の肌を露わにしていった。立ち込める血の香りが大久保に思い出させのは、満月に照らされて黒曜の森で過ごした一夜の熱だった。
 自然の風の冷たさから一晩中大久保を守りつづけた美しい獣。温かい血と情のやりとり。
 これでは“魔”と人狼を貶める人間のほうがよっぽど魔だ―――――…
 山県の掌の所為ではなく、大久保は震えた。
『狂っている…』
『貴方の所為ですよ』
『狂って、いる………』
 そう言い放った大久保は力を振り絞って山県を突き飛ばし、ゆらりと立ち上がった。
 あれからどれくらいたっただろう。漸く黒曜の森につく頃には、大久保に残された力は僅かしかなかった。それでも進まねばならなかった。彼に会うために。
「斎、藤…」
 そして森の中を彷徨いながら、漸く辿り着いた。
「斎藤…」
「どうしたんだよ、お前…!」
 斎藤が人型となって、倒れようとした大久保の体を受け止めた。
 今宵は満月。
 お前の鼓動が聞きたい。
「ちょっと待て動くな!…銃弾か?畜生ッ」
 安堵感で急速に力を失っていく大久保に、斎藤は必死で声をかける。自分の上着を腕のところから裂いて大久保の胸に巻きつけたが、布はみるみるうちに血だらけになっていった。
「心臓の中心やられたらまずいって言ったの聞いてたか?こんなでどうしろって言うんだよ!!」
「いや…いいんだ俺は…ただ…」
「良くない、黙れ!」
「…また来ると約束した…だから…」
 大久保は斎藤の首に腕を回し、斎藤と体を重ねて彼を草に押し倒した。




 お前から預かった命を、お前に返す――――――――




 大久保は斎藤の白い項に噛付いた。
「やめろ…っ!!」
 滑らかな肌に、思いきり歯を埋める。どうすればよいのか分からなかったが、大久保が斎藤の肩肉を割るようにして犬歯を進めていくと、大久保の体に熱が発生して歯茎が盛り上がり、犬歯が急激に大きさを増した。
「やめ…やめろって!!!」
 斎藤は必死で抵抗しようとした。だが大久保があの夜なったのと同様に脱力してしまい、牙を埋め込む大久保を黙って受け止めるしかなかったのだ。
 やがて大久保から流れ込んでくる、黄金の液体。
「ああ……」
 切羽詰った状況なのに二人の血がつくったの液体の熱さが嬉しくて、斎藤は泣いた。涙は大久保の血と混じった、新しい香りをしていた。
 鳶色の髪の毛が柔らかい。
「阿呆……」
 涙が土に零れて光った。






 月が出ている。
 狼はそれを凝っとみつめていた。
 ざぁ…と風が走り、彼の長い尾を揺らしている。
 狼の背中のほうには、ひとつの盛り土があった。狼が拾ってきたのだろうか、土のうえに白い花が一輪飾ってある。狼の野生めいた貌には似合わない繊細な香りが花から漂って、彼の銀色の毛皮をそっと撫でては消えていく。
 狼は月をみていた。
 冷たく冴えた光を浴びて、よく似た男だけを想っていた。





 お前の永遠  守ってやる






 月が出ている。月しかみえない。
 黒曜の森には今夜も狼の遠吠えが響く。
 伝説は終らない。


   fin.

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 完結、です。
 かなん様の「薔薇も科学も知らない快楽」のパラレル化、といいつつも斎藤家のことなどは覆霞のオリジナルです。
 カモナマイハウスでも、Meijiでも、番外編でもないストーリーははじめてなので緊張しましたが、面白いんですね〜初めて知りました(覆霞は史実&現実馬鹿だから)。世界を一貫する難しさの勉強と経験にもなりました。みなさんにはいかがうつりましたでしょうか?
 「薔薇も未来も要らない幸福」一連の作品は、綾瀬かなん様の御好意により実現したものです。かなん様には何度頭下げても足りません。ただでさえお世話になっているのに、かなん様のオリジナルの世界を貸していただけるなんて覆霞は幸せです。重ね重ね、御礼申し上げます。
 かなん様サイトでは「薔薇も科学も知らない快楽」は「薔薇科」と呼ばれています。「薔薇も未来も要らない幸福」は「バラミラ」…?
 ゼカリヤ書は、最終的にユダが勝利すると預言しているようです。うーん、意味深。私の預言はエセですよ。
 兄様(崎乃坂斬子様)にお伺いしたところ、大久保×斎藤は大久保←斎藤なのだそうです。妹はこれで漸く書けました。ほっ。

 大切な世界を貸してくださった綾瀬かなん様(Webデザまで真似っこです)、
 ここまでお付き合いくださったみなさん、
 改めて  ありがとうございました。
                    覆霞レイカ



PS.実は外伝が…
BGM:You are the one/JENNIFER

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