no.1/no.2/3/no.4

薔薇も未来も要らない幸福 3 --- The heavenly bliss that we won't call down the all things excluding this fate ---






 いつのまにか月が移動して、斎藤の顔を斜め横から照らしていた。
 白い頬にかかる漆黒の髪の毛が揺れて、間から金の瞳が覗うようにこちらを見ている。
「喰えよ」
 斎藤は言った。
 肉を平らげ、二つ目の果物を齧っている斎藤とは異なり、大久保はパンを二かけ口にしただけだった。水だけで一杯というよりも、これから獣に喰われようとするのに腹ごしらえするのは滑稽だから。
「……この森には狼がいると聞いたが、本当なのか。当主からは何も報告はないが、法王庁では結構騒がれている」
「………」
 斎藤は食べかけの果実をぽいと向こうの闇に捨てた。瞬時に一匹の獣がそれを取って食べ始める音が聞こえてくる。
 斎藤は新たに果実を布袋から取り出して大久保に投げた。自分は瓶に口付け、水を飲む。蠢く喉が月光を浴びていやに白くみえた。ある意味、貴族よりもどこか貴く大久保にはみえた。
 野生を未(ま)だ残していることに、言いようのない憧憬の念を感じて。
 ふぅ、と軽く息をついて斎藤は応えた。
「討伐隊――――あんたらの言うところの騎士団でも仕掛けてくるか?いつものように」
 艶のある声が響く。空気に溶けきるまえに鼓膜を甘く惑わせるような、不思議な音。聖堂で耳にしたのなら、さぞ美しいだろう。
 だがここは妖しの森。這い回る野犬の群れ。
 突然現れた男。斎藤家の伝説。
 狼。
 これは聖なのか。
 ―――――それとも。
 そうして彼自身気がつかないままに、大久保の唇は自然と開いていた。
 冴えた月光と、あるいは
 金の瞳に誘われたのかもしれない。
「……お前は何者だ……」
 大久保の呟きを消すかのように、ぎゃぁぎゃぁ、と夜鳥の声がする。
 それまで息を潜めていた野犬らが目を覚ましたようだった。大久保たちを囲む彼らの眼が光り、僅かの気配とともにこちらに聞き耳をたてるのが分かる。
 だが目の前の男のもつ、剣よりも鋭い強い眼には叶わなかった。大久保は、妖しく光る斎藤の瞳から目が離せなかった。
「―――――教えてやろうか」
 斎藤の目が細まり、口がにやりと開いて赤い舌がちろりと覗いた。
 ざわざわざわ……
 大久保の髪が揺れる。
 空には月光。
 ここは、魔物の森。




「…っ!!」
 斎藤の瞳が急に煌いて凶暴性を帯びたと大久保が怯えた瞬間、斎藤が物凄い速さで大久保に襲い掛かってきた。驚いた大久保が斎藤の胸に手をあて、顎を突っぱねようとしたが全く通じない。寧ろいっそう大久保は草に押し付けられ、圧し掛かられる。
「!……」
 それだけでなく斎藤は、まるで犬が布を引き千切るかのような素振りで大久保のシャツを首の辺りから歯だけで裂いた。大久保の体が強張る。強張って斎藤の体に当てただけで力が抜けた手を、斎藤は自分から外して草に押し付けた。
 大久保の様子に、斎藤は笑った。
「怯えんなよ。お前を喰うなら最初から喰ってる。それに俺は人肉は喰わない。肉はあいつらの取り分だしな」
「……あい…つら…?」
 大久保が聞き返すと、斎藤はくぃっと顎を闇のほうへ向けた。数頭の野犬が群れをなしてこちらを覗っている。
「俺を喰わせる気か…?!」
 大久保の声に、再び斎藤は笑った。
「喰わんと言ったろうが。それに、あんたはそのつもりでここまで来たんだろう。だがあいつら我侭で、そういうヤツの肉は喰わない。生気がないから不味いんだと」
「………」
 大久保はまた息を飲んだ。
 なぜ――――分かるのだ。
 野犬の気持ちも、自分の本心も。
 この男はやはり……
 大きく見開かれた灰色の虹彩、斎藤はそれを興味深そうに眺めている。斎藤の背中の向こうには大きな満月が煩わしいまでに蒼白い光を途切れることなく放つのがみえた。大久保の目に月が映るのを、斎藤は上体を倒すようにして覗き込んできた。
 獣の匂いがする。
 まやかしの十字架など跳ね飛ばすような。
 大久保を凝っとみつめて微動だにせず、彼は告げた。
「満月…か…。ここで見るのは俺も気に入っている。城だと灯りが邪魔でな。でも…」



 あんたのほうが…綺麗だ……



「え…?」
 斎藤の小さな呟きをいぶかしんだ大久保は、だが、あっと思った。
 斎藤の口が横に大きく開き、歯肉がみえたその直後、彼の犬歯がぐっと大きくなって、人間とは違う立派な犬歯になったのだ。
 そして大久保は強く肩を掴まれた。
「なにを……!!」
「喰いやしねぇよ。力抜いてな。ちっと痛いが、朝には治る」
 動くなよ。
 金色の目をぎらりと光らせて、斎藤は大久保の肩に思い切り噛み付いた。
「…っ!!」
 痛い。
 斎藤の立派な犬歯が肩の肉を掻き分けて、骨をも砕くような勢いで喰らいついてくる。気を失ったほうが楽だろうと思えるほどの痛みで、大久保はうめき、逃げようとした。そんな大久保を更に押さえつけ、斎藤は牙を埋めてくる。ぎりり…と骨が鳴った。
 痛いだけではなく、噛まれた傷口が異常に熱くなってきたために、大久保はなんとかして斎藤が何をしているのか見ようとした。尤も、ふたりの躯は密着しているためと月明かりだけの照明のためにほとんど見えないのだが、注意深く観察していると、やがて斎藤の口の端辺りから金色の液体が流れているのが分かった。
「さ…斎藤…」
 大久保の必死の声に斎藤は応えず、代わりにぎしぎしと大久保の肩甲骨に牙を埋め込んだ。
「いっ……」
 思わず大久保は顔を歪める。既に彼の体から力は抜けていた。実際は力を入れようとしても右肩以外の場所には入らなかった。
 斎藤が喰らいついている右肩の熱さと対照的に背中の草が冷たくて、世界が大久保の体温を奪っていくような感覚がする。
 西郷の顔が浮かんだ。
 …俺はこのまま死ぬのだろうか―――――…
「死なん」
 途端、斎藤が伏せていた顔を上げて大久保をみた。
 やはり彼の赤く染まった唇からは金色の液体が細く流れている。それは奇異な光景なのだろうが、大久保は美しいと思った。
 斎藤の唇がゆっくりと動いた。
「お前は死なない」
 斎藤は言った。まるで聖誓かなにかのように。
 共鳴したのか、森がざわめいた。
 大久保の目に月を背にした白い歯から血を垂らす斎藤の姿が映る。それは決して魔物ではなかった。
「死なせない」
 お前は俺が選んだのだから。
 そう呟いて、斎藤は再び大久保の肩に牙を埋めた。大久保は目を閉じて、流れ込んでくる液体の温度と次第に高鳴っていく鼓動を感じていた。




 月が出ている。




 大久保は歩いていた。確りと土を踏みしめ、過去のためではなく、現在と未来のために。
 体内を流れる斎藤の黄金の液体はどくどくと脈打って熱い。いままでの脆弱さ加減とはまるで違う力強さが大久保の痩身に漲っていた。普段、重苦しい脚が軽く、どこまでも進んで行けそうだった。瞼の脹れもなく、すっきりしている。体温の低い大久保の体が今日は足指の先まで暖かかった。
 これが永遠の力か…
 斎藤に尋ねたが、違うと返って来た。
『永遠て訳じゃない。三百年か二百年そこらだと聞いている。昔は九百年とか行ったらしいが、所詮俺達は祖先に比べて混血だから血は薄まった』
 それでもいい。この躯を生かせるのならば、五十年でもありがたい。
 そう応えた大久保に、斎藤は鼻で笑った。流石に斎藤は疲れていて、大久保の上に伏せた体を動かせないでいる。大久保は、彼の頬を流れる汗を掬ってやった。
『…ありがとう』
『ん…?』
『法王が魔物に助けられた』
『言ってろ』
 お前が魔などでないことは、だから俺が証明してやる――――――…
 呟いて、大久保はかきあげた斎藤の髪の毛の間から、額に口付けた。
 斎藤は少し驚いたようだったが、しばらくすると瞼を閉じて満足そうな寝息で大久保を包んだ。大久保も眠った。
 やがて東の空が明るくなり、鳥の囀りで大久保は目が覚めた。
 もう行かなければならない。
『行くのか』
 人型を解除して狼になった斎藤が、表情でそう言ったように大久保には思えた。だから斎藤の毛並みのいい頬を撫でて告げた。
『ああ』
『そっか…』
『行って、お前の血で法王をやり遂げる。それならば同時にこの森も守れるし、魔物使いという汚い噂も晴れるだろう』
『ふぅん…』
 実際狼の斎藤は、くぅん、しか言えないのだが、大久保は何故か斎藤と通じていることを確信している。
 たぶん斎藤の血の所為なのだろう。
 だから、遠く離れても平気なのだ。
 お前が去っても、俺は生きていける。
 吉之助…
『斎藤』
『?』
 大久保は斎藤の背中の毛を撫でてやった。痩せているが骨格はずいぶん確りしていて、この森の主に相応しかった。
『いい躯だ。お前なら、この先もこの森と城を守れるだろう』
『ああ』
『斎藤家の処遇も検討しよう。煩い枢機卿を一掃するのにちょうどいい』
 大久保がそう言うと斎藤は笑った。
 大久保も笑って、斎藤を抱き締めた。








 また来る



 来れンの?



 昨夜も来た。だから、また来る



 …待っててやる







 月が出ている。
 離れた場所でそれをみつめる瞳があった。
 ふたりはじっとそれをみていた。
 空には満月
 命の夜明け


back/////next

Return To Top of this page