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薔薇も未来も要らない幸福 1 --- The heavenly bliss that we won't call down the all things excluding this fate ---






 月が出ている。
 ふたりはそれを凝っとみつめていた。
 夜が明けるまで、凝っとみつめていた。






 黒曜の森と呼ばれる森に狼がいるという噂がある。
「訪れた者は老人だろうと赤子だろうとすべてを喰らうそうです」
と、山県枢機卿は淡々と述べた。
 大久保は中庭に面した窓のすぐ傍に立って、山県の声を聞くともなしに聞いている。ここは法王庁の謁見の間である。法王たる大久保は、毎朝のミサを終えてから昼ミサの時間まで、日曜を除く日はこの部屋で法王庁に溢れ返る各国の司教から言い含められた十数人の枢機卿と謁見なるものをする。尤も、最近の内容の殆どは戦争による戦禍から如何に自分の教区の利益及び自分の利権を守るかということであり、十字軍の遠征が思うように進んでいない情報を得ている大久保にとっては、普段より更にもまして国家利益を優先したかった。
 だから一教区の森に野獣がいると耳にしても、正直なところなにも感じない。
 大久保は透明な一枚ガラスの向こうをみやり、軽く溜め息を吐いた。
「山県君」
「は」
 大久保は振り返った。カツ…と靴音が響く。大久保の紺色のマントがふわりと微風を孕んで、部屋に敷き詰められた赤い絨毯に映えた。
 大久保は玉座に向かう。この国は皇帝と法王による二重の統治下にあった。だから大久保の権力は皇帝のそれに匹敵――――…いや、神の宣託により法王に抜擢された法王のほうが、地位が高く、法王の言葉が即ち国家の行方を左右した。まして大久保は、この宗派が異教徒により弾圧されていた頃に作られた教会の土壁が数百年ぶりの地震により倒壊したことで発見された古き預言書のなかで預言されていた人間であり、この国は無論、周辺の同盟国からも殆ど神格化されていた。彼の容姿も頭脳も、なにもかも。
 山県枢機卿はあらゆる意味で大久保を崇拝する人間のひとりであり、側近でもあった。生まれは卑しいが、その執拗さと事務処理の巧妙さで瞬くうちに枢機卿まで上り詰めた。大久保を初めて拝して以来、狂信的に大久保を奉っている。
 その山県が開口一番、狼、である。…その森の狼の話題は既に数名の枢機卿から聞いて大久保は知っていた。そのたびに彼はきちんと答えていた。しかし山県が尋ねてくるということは、狼の問題は一向に解決していないということなのだ。諸問題が山積みの法王庁としては、いい加減終わりにしたかった。
「そういったことまで…私の管轄なのかね」
「……」
 珍しく棘を含んだ大久保の言葉に、山県はおや、という顔をした。大久保は普段――――相手が皇帝であっても卑職の人間であっても、相手によって態度を改めることをしない。そういったところが故に彼はこの国で神格化され、また次の法王の位を狙う人間から激しく憎まれていた。嫉妬という名の背徳はしかし、背徳を持つ者の聖心にだけでなく、ときには大久保にさえ牙を剥こうとする。大久保はここ数日の間、何者かに心の臓を抉り取られるような感覚に襲われることがあった。
 大久保はこのところ疲労が抜けない。十字軍遠征が予想以上に混戦しているのが最大の原因であった。
 十字軍には、大久保の盟友が将軍として参加している。名を西郷吉之助。人望も実力も兼ね揃えた、将軍格に相応しい男であった。
 だがそれは過去形で、三日前に西郷は戦死している。現在は西郷の弟が亡き兄を後継して将軍職についたものの、十字軍の士気は衰える一方なのである。それほどまでに西郷という男は巨大な存在であった。しかしそれは軍人にとってだけではなく、大久保にとっても巨大だったのだ。
 その男が死んだと聞き――――――大久保は自分のすべてが一気に砕けたように思えた。彼の死は当初、皇帝直轄の王座部のみに留められていたが、西郷を慕っていた皇帝の口から直接大久保へ知らされた。
『貴方に伝えるのは朕も心苦しい…だが法王、彼の遺志を繋げるのは長い間彼の一番近くにいた貴方だけではないだろうかと朕は思う』
 それは――――――確かに、そうだと思うのだ。大久保と西郷とは幼馴染であり屋敷も近所にあって兄弟のように育った経緯があり、互いのことは誰よりも深く知っている。
 だからこそ、西郷が自害したと聞いて、消えてしまいたくなったのだ。
 ―――嘘だ…
 自分だけが生き長らえるなど、嘘に決まっている。
 そう思って三日を過ごしてきた。だが目の前に広がるのはどうしても現実でしかなく、大久保には西郷が死んだということを受け入れるしか出来なかった。これがもし西郷を慕う軍人であればともに刺し違えることも可能だったろうが、大久保が国の法王という立場を捨てることがあれば、それは自分を育ててくれた、長い間見守ってくれた西郷への裏切りに繋がることを指してしまう。所詮大久保には現実を捨てることなどもとより不可能なのだ。だから西郷はひとりで死んだのだ。だから…余計に辛かった。
 最期までともに行こうと言えるものなら、最初から言っていた。もう若くない西郷が病を押してまで―――――何故なら彼は脳に腫物を抱えていたので―――――国家の命運を賭けて戦場へと勇んだときに、止められるものなら止めていた。
『おぃ(俺)はいく。後の事はよか頼む』
 西郷は十字軍の勝利を確信していたのだろうか。
 あるいは、敗北を。
『…おぃは知らん』
 あくまで軍人の西郷。あくまで現実家の大久保。立場も違えば、背負っているものも違う。西郷は軍隊、大久保は国家。
 限りなき栄光と未来とを。
 そしてどちらも譲らなかった。
『知らんとは何つうこつか』
 言って西郷はぷいと出て行ってしまった。大久保の苦悩はここから始まったと言っていい。手を取り合って築き上げるはずの未来が、一瞬で瓦解したのだから。
 だが、ふたりが互いを完全に見限っていたのかというと寧ろ逆で、互いはどこまでも信頼し合っていた。大久保を非難する軍人らが大久保の非を咎めようとも、西郷は大久保を立てたという。それは大久保も同じだったのだ。
 だから西郷が死んだと――――――しかも自害したと―――――聞いて、大久保は居た堪れなかった。嘘だと思いたかったのだ。
 しかしどうやら生き残ったのはこちらだったらしい。煌びやかに装飾された天井を見上げながら、大久保は十字架の下がった胸を押さえた。
 抉り取られるような痛みは、気の所為であろう。なにせ大久保は喪ったのは、あの西郷なのだから…
 大久保は目を閉じた。
 風を感じる。十字軍が奮闘する南東に、彼はもういないのだ。
 広い部屋の、開け放たれた一枚ガラスの窓から入り込んでくる柔らかい陽の光のなか多くの従者に傅かれても、大久保はひとりだった。




 大久保は歩いていた。
 普段、石造りの極めて人工的な法王庁で過ごす大久保にとって、土を踏みしめて草木を掻き分けて歩くのは実に久しぶりの感覚であり、よい気分転換になっているようだった。
『危険です……!!』
 狼の噂の真偽を確かめに行く、と言った大久保を止めたのは山県であった。
『獣との接触など、貴方にはもってのほか…まして向こうは魔物とまで言われているのです。いけません』
『黒曜の森…と言ったかな。斎藤家の裏にある魔物の潜む深い森』
『それはそうですが、なにも法王御自らが行かれなくとも、衛兵を派遣すれば済むことではありませんか』
 いつになく山県は必死だ。なにか知っているのか。
 大久保は靴音を響かせながら山県の前を通り過ぎ、紺色のマントを脱いだ。 マントがふわりと脱ぎ捨てられると、月光のなかに大久保の痩身が浮かび上がる。引き締まった、というよりは不要のものすべてを削いだような体躯であった。
 マントを脱げば自分から法王の顔が消えることを、大久保は知っていた。あらゆる地位はその場その場の役目でしかない。役目と割り切らずに人格そのものに融合してしまえば、役目の失敗は即ち自らの人格の否定に繋がり、残された道は自害しかないのだ。西郷のように。
 身軽になった体をくるりと山県のほうへ反転させ、大久保は言った。
『衛兵を派遣すればいいのなら、何故今まで誰一人もそうしなかったのか』
『………』
『まるで俺が行くしかないようにしむけたとしか思えない……』
 言いながら大久保は口だけで笑んだ。法王庁でも王座部でも、皆がすべて大久保という法王に深謝しているかと言えば決してそうではなく、水面下では大久保失脚の構想が常に渦巻いている。西郷という強力な後ろ盾を失った大久保は彼らにとっては無力も同然であった。年若い皇帝は大久保を信頼しているが、その皇帝とて、いつ誰に寝首をかかれるとも分からない。あるいは法王と皇帝の両方を絶ち、勢力を改めるかもしれないのだ。そんなことになったら――――…西郷に従う十字軍の敗北は、果たして許されるだろうか。
“十字軍、聖地奪還に失敗。再三にわたる恥辱を許すことなかれ”
 だから大久保は国家の名誉のために魔物退治に向かわなければいけないのだ。
『明日の朝ミサにまで戻らなければ、誰か派遣してくれ。衛兵でも君の私兵でも構わない』
『法王…!』
 山県の止める声を聞かずに、大久保は部屋を出た。寝室へ行き、枕の下の銃を手にする。それは魔を撃ち取るという銀製の銃だった。
 馬鹿馬鹿しい、と思う一方で、大久保の胸には聖と魔が行き来する。聖なる法王の地位にいる割に、大久保の精神は聖だけではなかったのだ。寧ろ、
 俺は魔物の存在を信じたいのだろうか…
 銀の冷たさに触れ、大久保は襟を立てて銃をコートで隠した。
 闇夜を歩いている。
 背に月光を浴びながら。
 時折、足音に驚いた獣の動きが聞こえるだけで、人家から離れたこの辺りはしんと静まり返っている。
 黒曜の森は、斎藤家以外の一族が管理したことのない、謎めいた森だ。まして斎藤家は滅多に法王庁の呼び出しに応じることはなく、法王あるいは皇帝の即位の折にしか姿を現さなかった。大久保も自分の即位のときにちらりと見た限りであり、図書館にある文献上のことと、噂でしか彼らを知らない。
 彼ら―――斎藤家―――は、文献でもかなり妖しげに書かれている。
 神聖帝國より以前からこの地に棲み自分達こそが始祖であると嘯き帝國に牙を剥く機会を待つ者ども…恐ろしく夜目が利く怪物…人心よりは魔に惹かれ…夜会に姿を現さぬのは彼ら一族が黒曜の森にて魔物と交わる故也…どれもこれも人を恐怖させる内容である。無論、大久保がそれを信じることはない。
 だが惹かれなかったわけではない。文献のなかには、大久保の興味を惹く一文もないわけではなかった。
“斎藤家の人間は瞳の色薄く、人よりは獣のそれに似て恐ろきこと甚だし。如何に時代が遡ろうと彼らの瞳は常に金あるいは黄褐色、皆痩身にして象牙の肌を持ち、老いることを知らず”
 不老長寿の一族なのか。
 だから法王庁は何度も黒曜の森に討伐隊を差し向け、不老長寿の秘薬かなにかを手に入れようとしたのだろうか。在り得ぬことではない。不老長寿は古今東西、すべての人間の夢であり、叶えられたことはなかった。もしもそれを叶えている一族がこの国に存在するとすれば……なんとしても手に入れたいと思うだろう。
 だが、現在まで派遣された討伐隊はすべて壊滅、戻ってきた僅かの兵は発狂して、介護もままならず自ら命を絶った。
 黒曜の森には、やはりなにかあるのだ。

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