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薔薇も未来も要らない幸福 2 --- The heavenly bliss that we won't call down the all things excluding this fate ---






 月が出ている。
 黄金の輝きが大久保の影をつくる。ゆらめく影の向こうには、黒々と深いだけの森が待っていた。
 ざわめく葉の音が闇夜の静寂に対照的で耳に痛い。
 隠した銃の感触をコートの上から確かめて、大久保は黒曜の森に足を踏み入れた。




 大久保は貧しい貴族の家に生まれた。領地も狭く、土も肥えず、昔から決して裕福な家ではなかったが、身に覚えのない国家反逆罪を大久保の父が被って以来、大久保の家は困窮した。身に覚えがないとは言え犯罪者の烙印を押された一家にそれまで親しくしていた者も親族の者も遠ざかり、一家は孤立した。だが大久保は学問をすることで自らを高めて惨状を乗り切ろうとした。幸い大久保には理知的な頭脳が備わっており、貴族の子供ならば誰でも入る神学校で優秀な成績を修めることが出来、幾人かの神父の目に止まるようになった。彼らが犯罪者を生んだ家の人間でも務まる職を大久保に紹介してくれ、一家はなんとか食べていけるようになった。
 そんな折に、数百年ぶりの大地震が起こったのである。大久保家の領地に大きな被害はなかったが、法王庁ならびに王座部の位置する聖都は実に壊滅的だったのだ。
 なんということだ……皆、絶望に浸った。こんな災害を起こしておいて神など本当にいるのだろうかと疑い始めた。
 しかしそういう精神状態は一方で強く聖(ひじり)を求めるのだ。地震で倒壊した教会の壁から発見された預言書を読んだ司祭が法王庁に駆け込み、大久保の父の罪を解き、大久保を卑職から重職へ取り上げた。もともと実行力のある大久保は瞬く間に昇進し、いまや法王の地位にいる。
 罪人だ、聖に背いた魔だなどと蔑まれていたのが嘘のように、大久保はありとあらゆる人間から傅かれている。大久保が祭壇に立てば皆恭しく頭(こうべ)を垂れ、大久保が象徴する神を称える歌を歌うのだ。
 なにが聖で、なにが魔か。
 法王の衣を脱ぎ捨てた大久保には、その違いはどうでもよかった。たとえこの森に潜む獣が魔であろうとも、生き物であることに変わりはない。そして彼らは人間の社会とは違う世界で生き延びてきたのだ。不老長寿の如何に関わらず、それを人間が侵す方がどうかしている。
 だが大久保は進まなければならない。
 すべては国家のためなのだ。
 …ほんとうに?
「……っ」
 大久保は歩を止めた。くっと息を潜める。
 向こうの闇から、なにやら気配が近づいてきたのだ。かさり、かさりと交互に脚を踏みしめる音が段々大きさを増している。
「……………」
 だけではない。
 大久保は辺りを見回した。闇夜に慣れない者でも見間違うことのない獣の目がこちらをみつめている。大久保は、既に囲まれていたのだ。
 大久保はコートのなかでそっと銃の引き金に指をかけた。その瞬間だった。大久保の動きを見透かすように、森のほうから、いやすぐ近くから声がした。
「やめとけ」
「!」
「お前には無理だ」
 こんなところに人がいるはずがない。満月とはいえ―――――
 満月…
 月光を浴びた大久保の脳裏に古い文献の言葉が蘇った。
“夜会に姿を現さぬのは彼ら一族が黒曜の森にて魔物と交わる故也。満月の夜に狼へ化する也――――――”
 大久保の耳にその一節がこだまする。足音も近づいてくる。
 かさり…かさり…かさり…
 大久保はコートから銃を出してそちらへ銃口を向けた。周りを囲んだ野犬が一斉に吼え始める。
 黒い影。目が光る。
 銃声が響いた。




 空には満月。
 大久保は土に倒れていた。
 普通見るよりも一回りも大きな狼に、体を押さえつけられていた。
 狼は金色の瞳をしていた。
 飼育舎でみる獣とはまるで異なり妙に落ち着いた、それでいて何者にも飼いならされていないぎらついた自我のままの煌きで、狼は興味深げに大久保を観察していた。
 そしてそのまま突っ張った両脚で大久保の体に体重をかけ、狼は前のめりになって大久保の首に顔を寄せてくる。
「……っ」
 狼の行為に流石に大久保は震えた。獣の鋭い牙に噛み付かれでもしたら一環の終わりなのだ。一発の銀の弾丸を放った銃は、飛び掛ってきた黒い影――――この狼に跳ね飛ばされ、どこかへ行ってしまった。これでは予備の弾丸がいくらあっても無駄だ。どうして自分は銃一丁だけを携えてこの危険の森に踏み込んでしまったのだろう。
 狼は大久保の首を舐めはじめた。どうやら土に倒れたときに草で肌を切ってしまったらしく、狼はそこから流れる微かの血を舐めているのだ。しかし大久保は酷く痩せているから頚動脈の拍動が、狼にも触れているはずでありもしそこを食いちぎられたら―――――…
 青褪めた大久保と対照的に、狼は楽しそうにククッと肩を揺らした、ように見えた。
 狼は顔を上げた。上げて大久保のこけた頬を長い舌で舐め、大久保の体から降りた。
「………?」
 狼の行為に不思議そうな貌をした大久保を振り返って、狼は木の間に消えた。
 振り返ったときの狼の表情が「待っていろ」と言ってきたようにみえた。まさかな、と思いながらゆっくりと起き上がった大久保は先ほどまで狼が舐めていた首を傾げながら脈打つ頚動脈に手を当てた。




 次に大久保の目の前に現れたのは、金色の目をした人間だった。
「ちゃんと待ってたようだな」
 彼はちらりと、大久保からやや離れたところに捨て置かれた銃をみて言った。
「…お前は…?」
 呆然としながら大久保が尋ねると、男は手にもっていた瓶と布袋を大久保に差し出した。
「……?」
 ますます訳が分からない。
 首を横にふると、男は苦笑して大久保の前に腰を下ろした。男は普通の身なりをしているし、靴も履いている。どうして森のなかから人間が出てくるのか。男がもってきたものは、いま男が自分で出しているが、パンと肉といくつかの果物。瓶は透明で中身は水のようだった。
「いいから喰え。お前痩せすぎだ。それとも御立派な聖職者様は獣の肉なんぞ口にも出来ないのか?」
「………」
「俺は斎藤一。そこの城の次男坊。で、お前は法王だろ」
 言いながら斎藤と名乗った男は千切ったパンと瓶を大久保に差し出し、自分は大きな鶏肉に齧り付いた。
 とりあえず大久保は瓶を傾けて水を飲んだ。狼に圧し掛かられたために喉が酷く緊張していて、早く潤したかった。喉に流し込んだ水は滑らかであり、法王庁で飲むのと同じく、きちんと炭の敷き詰められた浄化槽かなにかを通された味がした。
 パンも食べてみたが、普通の味だった。
「…これは…?」
 大久保が尋ねると、斎藤と名乗った男は「ん?」という顔をして、齧っていた肉から歯を離した。
「城の炊事場にあったやつを盗んできた」
「おいおい…」
「うちの城なんだから、別にいいだろ」
 うちの城というぐらいだから、この男が斎藤家の人間なのは間違いなさそうだ。だが斎藤家は古くからの貴族であり、目の前で胡座をかいて肉に齧り付く男が貴族とはとても思えない。
 男はまた噛り付いた。開けた唇から覗いた健康的な歯が鋭そうで、また男の不思議な色の瞳が珍しくて、大久保はじっと男をみていた。
 この国の人間は濃茶か漆黒の瞳と髪の毛が特徴である。
 大久保は薄い灰色の瞳をしていた。
 髪の毛は鳶色だった。
『大久保家は罪人を輩出した家ではありませんか汚らわしいっ!』
『それでなくともこの嫡子は誰にも似ず異人めいた顔立ちをしている。或いは父親の血を継いでいない可能性もあるのでは?我が教会に異人の血が入るなどもってのほかでしょうな』
『そうだそうだ!』
 法王庁に呼び出された大久保は、まったく自分の意図とは関わらない事象のことで幾度となく責められた。地震により教会が倒壊しそこにいた前法王が圧死、そして法王という最大の枷を失った枢機卿らは聖誓を唱えるときの顔とはうって変わって、彼らの本性を真っ直ぐに大久保へ向けてきた。
『まったく少しばかり才があるからと増長しようなど…』
 別の枢機卿は自分に態と聞かせるかような不自然さで文句したが、その後ろの席に座っていた男が、と…っと立ち上がったことで、座席の視線が大久保からその男へと移った。巨体に驚くほどの慈愛の眼差しを持つ司祭である。
 それが西郷であった。
 空間がざわめいた。
『西郷どの……なにか』
 枢機卿のひとりが問い掛けた。この枢機卿は西郷と大久保が幼馴染であることを知っていて、大久保が法王庁で審議にかけられると知って密かに西郷に同席を依頼したのだ。西郷ならば大久保の劣勢を挽回できるかもしれないと目論んで。
 西郷は静かに微笑んで、手にしていた包を開けて枢機卿に渡した。
 パラパラとめくる枢機卿の顔色が、西郷が予め挟んでおいたのだろう栞のところで急激に変わる。
『いかがなされたかな』
『…皆様お聞きくだされ…これは失われた時代の預言書に御座る』
『なんと……!!』
 言うなり枢機卿は立ち上がった。いま大久保に注がれる視線はない。
『ゼカリヤ書…五十四番…』
『五十四……』
 おお、という声が上がる。ゼカリヤ書は二部にわたる預言書であるが、現在確認されているのは一番から十四番であり、いかな枢機卿であろうと五十など予想もつかなかった。
 “預言”はなされた。
『“託宣。西より来る巨大な地揺れののち生まるる国は栄えて広く、
 主の御言葉(みことば)は四方に至る。
 森は息吹き
 水は溢れる。
 果実は熟れて
 家畜は肥える。
 皆は皆を助け、
 皆は皆を愛し、
 破滅が再び臨むことはなく、
 灰色の王のもとに跪く。
 枯れた枝を支えに
 王は王道を往く。
 主はいつでもそこにおられる。
 主はすべてを許される。
 アレルヤ
 アレルヤ”』

 列席していた枢機卿の全員が大久保に向かって頭を垂れた。信じられない、という顔で大久保が西郷をみると、彼は見慣れた笑顔で立っていた。
 あれから十年―――――…
 西郷は軍部に担ぎ出されて司祭を降り、軍人とともに生きる道を選んだ。止める者はいなかった。誰にも出来なかった。おそらく、自害を止めることも。
 自分はこんなところでなにをしているのだろう、と大久保は思った。月明かりの中、魔の潜むと言われる森に独り乗り込んで、無為とも言える時を過ごしている……
 目の前で斎藤家の男が肉に喰らいついている。牙が妙に白くて、血を浴びると綺麗だろうなどと思ってみた。
 そして、ああ、と思った。
 自分はここに、死を求めてきたのだと。

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