.....before "vol.1/Taste your candy☆kiss."

Take me here,my babe





 ふと、目が覚めた。まだ起きるには早い時間。

 俺はベッドを降りてふらつきながら寝室の扉を開け、壁からの間接照明だけに照らされる薄暗い廊下を歩いた。

 このところ疲れが取れない。おまけに寝つきも悪いし、妙にイライラして精神的にも俺らしくなくなっていた。

 対照的に大久保はやけに落ち着いていて、もう少し肩の力を抜いたらどうだ、なんて言うけれど…そんなことできるわけがない。

 だって、初めての子供なのだから。

 でも大久保の言うことは正しかった。俺が体調を崩したのは、週に一度程度とはいえ夜泣きがあることと、病気や怪我なんかしたらと心配しすぎて、神経の殆どをそのことに割いているのが、原因だった。

 なんだか体の調子が優れなくて、ある日警察病院に行った。するとあっけなく

『二ヶ月よ』

 と、いわれた。

『…はぁ??』

 俺は聞き返した。

 そして目の前でるんるんいいながらカルテに記入する女を睨む。

『何が二ヶ月なんだよ』

 俺の余命がか? …担当の癖になにしてたんだ、お前、と言うと高荷恵は不思議そうに俺を見て(不思議なのはこっちだ!)、あっさり言い放った。

『…だから、妊娠してるのよ貴方。さっきエコーで確認したでしょ。赤ちゃんの心臓が動いてるの、見たじゃない』

『…エコーって…』

『おなかに当てた器械よ』

 ああ…あれか。でも俺半分寝てたから…このごろ眠りが浅いって言っただろうが。やっぱこいつヤブ医者だ。

 ―――――って。

『妊娠?!』

『ちょっと…静かにしてよ。診療中なんですからね』

 ま、まわりなんてどうでもいい!!

 いま、俺なんて言った?

『にん、しん』

『そ、妊娠♪』

『……俺、男だぜ』

『いいんじゃないの?別に』

 よくねぇ!

 訳が分からず蒼褪めるやら沸騰するやらの俺を差し置いて、高荷はさっさと次のカルテを手に取った。

『だから今度来るときは大久保さんと一緒に来て頂戴。いろいろ相談あるし。それともひとりがいい? でも大久保さんにお会いしたいわ、あ・た・し♪ とと、こんなことしてる場合じゃないわ。お待たせ〜剣さ〜ん!どうぞ〜♪今日はどうなさったの〜』

 呼ばれて「おろ〜」とか言いながら診察室に入ってきた緋村と入れ違いに、いつのまにか立っていたらしい俺はふらふら廊下に出た。夢でもみているんじゃないかと思いながら。でも。

 ショックで頭が働かないだけでなく視覚的にも狭くなっていて周りが見えなかった。そして向こうから来た看護婦にぶつかりそうになった。

『あ、ごめんなさい!』

『いや…』

 看護婦は頭を下げて再び歩き出した。俺は、ぶつかり損ねてよろめいたはずみで、気分が悪い。

『…!』

 とっさに手で唇を覆った。そして10メートル走ってトイレに駆け込んだ。

『…はぁッ…は…ぁ』

 気持ち悪いなんてもんじゃない。吐きそうで、吐けないのがこんなに苦しいなんて、初めて知った。喉がひくついて、胃液が昇ってきそうなのに、吐いたほうが楽なのに……だめだ。

 それでもしばらく洗面台に向かって俯いていたがやはり何も起こる気配が無い。諦めて、ゆっくりと頭を上げた。

 鏡に写ったのは、不安を全面に押し出した情けない顔。

『…どうなるんだよ…これ…から…』

 不意に、あの、冷たい腕が欲しくなった。あそこなら、なにが起こっても俺は俺の息ができるんだ。

 結局その日は仕事を早退して、マンションに帰った。帰ってからも気分が優れないままだったから、とりあえず水を飲んでベッドに横になった。

 でも眠れない。浮かんでくるのは俺のなかの現実。

 こども。

 俺と、大久保の。

 あと八ヶ月もすれば生まれてくるかもしれない。

 この瞬間も俺の鼓動を聞いているかもしれない。

『マジかよ…』

 俺は目を閉じ右腕で両瞼を覆った。めをあけるのが恐かった。

 ……大久保……俺……どうすればいい……

 そんな気持ちのまま待っていた。布団を被っても、瞼が震えるだけだった。

 七時少し前に大久保は帰ってきた。食事を摂りはしたが、やっぱり殆ど食べれなくて皿を少しつついた程度だった。情けない姿を再認識する俺の様子を大久保の容赦ない視線が観察している。低い声が「病院に行って来たんだろう?」と訊いた。訊かれて……告げた。

 腹の中に子供がいるみたいなんだ、と。

『二ヶ月だって、言われた』

 言って、俺は俯いた。ほかにどうしろって言うんだ。

 俺はそのまま黙っていた。たぶん十秒ぐらいだったと思う。

 突然、視界が変わった。

『…!?』

 膝のしたに両腕を入れて、となりに座っていた大久保は俺を横抱きにして立ち上がり、廊下に出た。

『ちょ…っ』

 はなせ、と言って暴れようとしたが途端にまた気分が悪くなって、俺は噤んだ。両腕を震わせながら、大久保のシャツの胸のあたりを掴んだ。

 顎が震える。吐き気がする。あまりのことに、頬が引き攣った。

 俺のそんな様子を、大久保はじっとみていた。足を止めて、俺の吐気がおさまるまで待っていた。

『…いいか?』

 しばらく経ってから、大久保が尋ねてきた。

『ん…』

 と言ったけれど、まだ浅い吐き気がある。分かっているのか、大久保は普段よりもゆっくりとした歩調で寝室まで行き、ベッドに俺を横たえた。

『体を起こすほうが楽か?』

『…これでいい…』

 たぶんどんな格好をしても同じだろうから。

 大久保は俺のうえにタオルケットを掛けた。

『寒くないか』

『うん…』

 ていうか、いま夏…

『…そうだったな』

 大久保は苦笑した。けれど真顔には戻らず…少し緩やかな表情で俺をみつめた。髪を、撫でてくる。

『今日はもう休んだほうがいい。…仕事も、無理するなよ』

『……うん…』

『おやすみ』

『……』

 俺は黙った。

 昼から考えていたことを、聞きたかった。

『…なんだ』

 でも、なんて言えばいいんだろう。これからどうすればいいか、なんて。

 俺はすっかり言葉を失くしていた。ありとあらゆる感情が交差して過ぎていくだけで、どれも文字にならない。とにかくばらばらで、自分の気持ちなのにそれに困惑していた。

 口を閉ざしてしまった俺を大久保はしばらくみていたが、沈黙に静かに答えた。

『……産むとなれば、辛い思いをするのはお前だ。だから、お前が決めていい』

『……!』

『おやすみ』

 もう一度髪を撫でて、大久保は出て行った。

 大久保の言葉に、俺はなにも言えなかった。肯定も否定も思いつかなかった。あいつの指の感触に抱かれながら、とりあえず眠ることにした。

 それから、俺は大久保を連れて病院に行った。高荷から告げられたのは、出産には女が分娩するよりも遥かに高いリスクを伴うこと、妊娠中に俺の体に何が起こるか分からないこと、自然分娩になるか帝王切開になるかは、現段階では分からないこと等など、だった。

『できれば通常よりも長い期間入院して貰うほうがいいわ。なにせ症例が皆無だから、24時間体制で私たちが診るべきだと思うの。産むにしてもそうでないにしても、貴方の体には尋常でないことが起こっているのだから、これからでも入院して貰いたいくらい』

 もちろん大久保さんのお許しを得てから、ですけど。

 と加えて俺たちをみた。

 俺は俯いた。一気に別の命の重みが自分に宿っているのだということを、思い知らされた。だがそれよりも気に掛かったことがあった。

『産むにしてもそうでないにしても』

 …大久保は俺が決めていいと言った。高荷は危険を伴うと言う。俺は…

『!』

 手を口にあてた。また、あの吐き気が来た。

 隣に座っていた大久保が体を屈ませた俺の背中を支えてくれた。ゆっくり掌を押し付けて、俺を刺激しないように。

 …あいつの体温が伝わる。冷たくて、でも冷たくなかった。

『…産む』

 口が動いていた。

『なに?』

 高荷が聞いてくる。小さくなった俺の声に耳をすませるように白衣の背中を縮めて。

『……産む、っていったんだ。こいつを』

『!!』

 途端、背中で大久保の手が跳ねた。この手があるから、俺は続けられる。

『…俺をここまでさせて産んでくれって言ってる』

 たぶん。

 自信はないけど。

『…分かったわ。じゃ、一緒にがんばりましょう』

 高荷は笑った。こいつの笑顔が嬉しいなんて、初めてだった。

 結局入院はしたけど、検査の結果危険なことは起こらずにすみそうだと分かり、一度帰宅した。幸い、そのまま予定日を迎えて、自然分娩した。

 もともと産む為の体ではないから、難産だった。が、大久保が扉の向こうにいてくれるんだと思っていたから、辛くはなかった。

 少し小さかったけど、元気な男の子だった。…どうやら産まないだろうと思っていたらしかった大久保が、いちばん喜んでくれた。名前に、自分の名前から文字を取ってしまったくらい。

 だから、驚くじゃねぇか。

「なに、…してんだよ…」

 俺はリビングのソファに座って利春を膝に抱く大久保をみて、呆然としていた。

 フットライトだけの照明に照らされて陰影が一層濃くなった大久保は、ん?という表情で近づいていった俺を見上げた。

「泣き出したからな、あやしてる」

「―――そんなのは、わかる。…なんで俺を起こさねぇ!」

 言うと、大久保は苦笑した。

「無理に起こすわけにはいかんだろう?」

 そして視線を落とし、俺の声に驚いてまた泣き出した利春をあやしだした。

「どれぐらい…? こんなのって」

「…三、四日に一度だな。少ないほうだぞ。凄いと毎晩なんだそうだ」

 ということは、夜泣きしたうち半分以上は大久保が寝かせつけてくれていたことになる。

「……」

 どうして、あんたはそうなんだ。

 俺が出産・育児休暇を貰ってからというもの、大久保は極端に残業を減らし、そのぶんを自宅マンションで補っていた。日を跨ぐのは当然だったし、明け方までなんてこともしばしばだった。

 なのに俺の顔色が少しでも悪ければさっさと寝かせ自分は家事を全部引き受けて、利春が生まれてからはしっかり面倒をみて、なのに文句なんかひとつも吐かなかった。

 俺たちのことばっか気にして、

 だから。

「…斎藤…?」

 大久保が不思議そうな表情で俺を見上げてくる。でも、止まらないのだ。

「………俺…」

 なんて言えばいいのか分からない。気持ちが溢れてきて、言葉が追いつかない。その間にも涙がぽろぽろ零れた。

 珍しく驚いた大久保の視線がそれを追う。でも、俺はどうしたらいいか分からなかった。

「参ったな…」

 大久保は俺の顔と利春の顔を交互にみて、

「ほら」

 と言って大久保は抱いていた利春を俺に差し出した。俺は利春を抱いた。あとはやるからお前は寝ろよ、と言おうとしたけれど、

「…?」

 腰を掴まれて俺は引き寄せられた。

「俺の腕は二本しかないんだ」

 そう言って大久保は利春を抱いたままの俺の背中を自分の胸にもたれさせた。羽織っていたカーディガンをずらして俺にも掛けて、長い腕を俺の腹に回してくる。

 俺が利春を抱いて、大久保が俺を抱いて。

 しばらくそうしていたら利春は眠った。

 それから、起こさないように、俺たちは小さく喋った。

「眠ったな…」

「…うん…」

「お前に似てるな」

「…あんたのほうが、似てる」

 俺が言うと、大久保は少し黙った。

「……でも、産んでくれのは、お前だろう…?」

 低く囁いた。ありがとう、と。

「ん…」

 涙が溢れる。だめだな、年取ると脆くなって。

 でも、これは嬉しいからだ。

 産んでよかったと、思ったから。

 こんな父親をもった利春を産んでよかったと、ほんとうに思うから。

「………」

 ゆっくり瞼を上げて大久保をみる。

 なにか言おうと唇を動かすと、そっと大久保に塞がれた。泣きたくなるような優しいキスに俺は目を閉じて、大久保を追った。

 声にならない声で繰り返すのは、ひとりにしかきかせないことば





 貴方に逢えて、よかった