Taste your candykiss






 大久保から電話があった。

 これから発つと。

 明日の4時に着くと。

 その言葉を耳にした途端、受話器を通じて慣れたはずの声が今にも迫ってきそうで、俺は胸に言葉を詰まらせた。ここのところずっと、言うべき言葉を考えてきたのに。

 迎えに行くから、とか。待ってるから、とか。

 でも視界が潤んで、声が震えて、どうしていいか分からなくて。

 黙りこくってしまった俺に、察した大久保が笑った。

『早く、お前のつくった飯が食べたいよ』

 …ばか。

 くすくす俺が笑うと、あいつも笑った。

 こうして俺を笑わせて受話器を切りやすくするのは、大久保の得意なのだ。だから俺は、安心して電話を切った。

 あいつはいま、雲の中。俺は、ベッドの中。

 寝転んで枕を抱き締めて、目を閉じる。

 はやく明日になれ。

 





 翌朝は気持ちよく晴れて、絶好の行楽日和である。

 日曜だというのに、大久保家は朝からにぎやかだった。

「まま、ボク、おなか空いたぁ」

 ぱたぱたと斎藤の周りを走りまわって言ってくるのは次男の一希(かずき)で、

「カズ、お母さんの邪魔しちゃいけないよ。こっちへおいで」

 面倒見のいいのは長男の利春(としはる)である。

 はーい、と応えた一希が台所を出て、漸く斎藤はフライパンに油を注ぐことができた。片手で卵を割って砂糖を入れたボールのなかで菜箸をかき回し、フライパンに入れて半熟になるまで火を通して、ざっと皿に盛り付けた。

「熱いからな、気をつけろよ」

 一希を椅子に座らせた利春にスクランブルエッグの皿を渡し、斎藤はトースターに突っ込んでおいたパンを取り出す。飲み物はコーヒーと、ミルクが二つ。

 三人でいただきますを言って、毎朝の食事が始まる。

 が斎藤がマグカップに口をつけた途端、電話が鳴った。液晶のカラーは赤。…警視庁からだ。

 ぱくぱく食べる一希の隣に座っている利春が、斎藤の顔色がさっと変わったのに気付いた。

 席を立ち受話器をとった斎藤の耳に入ってきたのは、やはり事件が発生したとの件だった。捜査一課で副課長を務める斎藤は、登庁しなければならない。

 ちっ。

 …こんなときに。

 今日は大久保が単身での海外生活を終えて帰国する日なのだ。企業の企画・開発部長を兼任する大久保は外国人に受けがよく、取引先からもどうしても彼でなければ、と懇願されての渡米であった。

『2年間…?』

 そういわれたとき、不安が斎藤を襲った。

『どうしても一人で行くのか?』

『…2年すれば戻って来れるからな。子供たちもいるし、お前の仕事もあるだろう?』

『そうじゃなくてっ…!』

 別に日本に残るのが不安なのではない。俺は男だし、子供もいるし実家もあるし、第一孤独を感じて項垂れる性格ではないから、自分自身のことを嘆いているわけではなかった。

 銃規制がとりわけ厳しい日本とは異なり、大久保が拠点にするというニューヨークは犯罪天国で、出張で出向かう国々も危険である。日本人で、しかも大企業の重役ともなれば身代金目当てに誘拐されるなど日常茶飯事なのだ。

 さらに近年、ボーイングの墜落事故が多発している。だから、そういうことでも俺は心配なのに。

 お前になにかあったら、俺は…

 口を噤んで俯いてしまった俺の頬を冷たい指が撫でて、はっと視線を合わせると薄い灰色の瞳が自分を見つめていて、

『…っ』

 次の瞬間には抱き締められていた。

 柔らかい髪の毛からは、大久保の匂いがして。

 ああ。

 こういうときの大久保は固い決意を漂わせている。だから俺にはすべてが分かってしまった。

『待っててくれ。必ずここに戻るから』

『…ん……』

 小さく頷いた俺の顎を掴んで、大久保はそっと口づけた。

 あれから、もう2年。やっと2年。

 迎えにいくと、約束したのに。

 山南課長が受話器の向こうで応援を請う声を遠ざけ、大久保の声ばかりを思い出す自分を制御するのに斎藤は必死であった。

 受話器を戻してテーブルについた斎藤の顔は既に「刑事」のものになっている。

「お仕事ですか?」

 鳶色の髪をした利春がグレーの瞳を覗かせて聞いてきた。

「ああ」

 答えてから、自分の声が落ち込んでいることに気付いた。はっと瞼を上げてふたりを見ると、利春も一希も斎藤の顔色を窺っている。

「!」

 子供たちにこんな顔をさせてはいけない。

 そう思って口を開きかけたとき、玄関のチャイムが鳴った。

「…?」

 誰だ、こんな時間に。

 ちょっと待ってろ、と残して斎藤は再び席をたち、モニターを見た。

「こんにちわ〜でござる〜♪」

 そこには赤毛の野郎が画面いっぱいに映っていた。

 朝っぱらから能天気な顔を目にしてしまい流石に眉を顰めた斎藤であったが、とりあえず玄関に行って扉を開けた。

「おはようでござる〜」

「何だよ、お前ら」

 そこにいたのは近所に住む緋村剣心と四乃森蒼紫であった。

 緋村は緊張感のない顔を更に綻ばせながら(というよりだらけさせながら)、無理矢理扉を大きく開いて蒼紫を玄関に入れた。

「おい…」

「斎藤、これは山南さんからの命令でござるよ。お主は現場に行って、拙者たちは利春くんとカズくんと遊ぶのでござる」

「…信用できるか、そんなこと」

 斎藤が金色の瞳で緋村を切りつけると、緋村は「嘘じゃないでござる♪」と言って証文を取り出し“山南”の印を見せびらかした。

「だから、ここは拙者たちに任せるでござるよ〜」

 隣で蒼紫も「うん」と頷く。

 はぁぁ。

 二人の様子に斎藤が深い溜め息を吐く隙に、緋村は(御剣流神速で)廊下に上がってしまった。

「ではお邪魔するでござる〜カズく〜ん、拙者でござるよ〜」

「あっ、貴様っ」

「…邪魔するぞ」

 蒼紫も靴を脱いで上がってゆく。そのときぱたぱたと一希が出てきて、廊下が一斉に賑やかになった。

「剣心おにいちゃん!」

「おはようでござる〜今日は拙者と遊ぶでござるよ〜」

 きゃっきゃっ、とはしゃぐ二人は、斎藤にとって迷惑なことに誕生日が同じでその所為か仲が異常に良かった。

 二人の様子を眺めて息子の将来を心配する斎藤を振り返り、蒼紫が言う。

「大久保は俺たちが迎えにいく。だから…安心していい」

「……!」

 こいつら…

「何かあったら即刻知らせる。だから、行け」

 蒼紫の紫色の目が光った。

 瞬時に応じたのは金の煌き。

「…あいつらに傷ひとつ付けてみろ、生かしちゃおかねぇ」

 俺と大久保の子供だからな。

 そう言って、決めた。





「ぱぱ、いまどこかなぁ」

 一希は緋村の膝の上で「よいこのせかいちず」を開いていた。

「そうでござるな〜このへんでござるかな」

 緋村が指したのは、海の上。

「…落ちないよね?」

 心配そうに見上げてきた一希の言葉に、緋村はクスッと笑った。

「カズくんはままが好きでござるか?」

 途端、膝の上の瞳が―――母親そっくりの綺麗な金の瞳が輝く。

「うん!」

「大好きでござるか」

「うん、大好き!強くてかっこよくて、優しいんだもん!ボク、大きくなったらままみたいな刑事さんになるんだぁ!」

「じゃぁ、ぱぱは好きでござるか?」

「…うーん…」

 一希が即答できないのは大久保が渡米したときまだ2歳になったばかりだったことと、渡米して以来父親と会ったことがないからである。大久保は休日を殆ど取らずにこの2年を過ごし、支店を各国に広げるだけに留まらず、世界的恐慌を回避させるという大役を負っていたのだった。

 そんな忙しいなかでも3日に一回のメール・週に一度の国際電話を欠かさないでいたが、すでに8歳になっている利春とは違い、幼稚園児には父親の実態が浮かびにくくて大久保というひとがよく分からない。

「でもねぇ」

 一希が言った。

「うん?」

「ぱぱのこと言うときのまま、嬉しそうなの。だからボクもぱぱ好き」

 そしてもう一度、「落ちないよね?」と繰り返した。

 すると一希の体がふわりと浮いて

「…?」

 体が自動で半回転し緋村と向き合う。

 その姿勢から緋村は体を丸めて一希の額に自分のをこつんと重ねた。

「…大久保さんは、カズくんの大好きなままを悲しませることは絶対にしないでござるよ」

 カズくんのぱぱでござるもの。

「……うん!」

 力強く、一希が答えた。

 向こうのテーブルでは利春と蒼紫が「高校数学・微分積分」に励んでいた。





 午後4時18分。

 予定通りの時刻に大久保は成田空港に降り立ち漆黒のコートを翻して、待っていた4人の前に現われた。

「お帰りなさいでござる」

 にっこり笑った緋村の脚に、一希がしがみつく。やはり、大久保の第一印象は特に子供にとっては馴染みやすいものでないのだ。知らない腕が伸びてきて頭をそっと撫でられびくっと体を竦めてしまったが、恐る恐る瞼を開くと、利春と同じ髪と瞳をもった大久保が体を折り曲げるようにして自分を見ていた。

『ほら、これが大久保。お前の父さんだよ』

 鼓膜に斎藤のいつかの声が響いてきて、小さな心臓が高鳴る。

「…!」

 どきどきしている間に両脇の下に掌が入ってきて、軽々と抱え上げられた。向かったのは大久保の胸の中。

「大きくなったな」

 囁くような低い声は受話器の向こうの声よりもずっと近くて深く。

 このひとなんだ。ボクの、

「……ぱぱ」

 小さな掌を大久保の肩に乗せて、はにかんだ一希はおかえりなさいを言った。

 帰宅した五人は、蒼紫の自宅である旅館兼料亭「葵屋」からの差し入れ出来たて弁当を夕食にした。食事の間大久保は一希を膝に抱えて、本場の日本食を味わいつつ2年ぶりの家族と友人との時間を過ごした。

 夜8時になり緋村と蒼紫は帰っていった。

 子供たちを風呂に入れ寝かせつけて、大久保はリビングのソファに背中を預けて暫くぼんやり手の中にあるウィスキーグラスの琥珀色を見つめていた。が、こうしていても仕方がないという風に腰を上げ、寝室で荷物の整理を始めた。

 そうしてニ時間が経った。荷物がすっかり片付いてさてどうしようかと思いあぐねたとき、玄関の鍵が開く音がした。

 足音はまっすぐこちらへ向かってくる。

「あ……」

 扉を開いた斎藤は、唖然として大久保をみつめた。毎晩夢にみていた漆黒の髪と金の瞳が目の前にいる。

「…っ」

 途端、斎藤が抱きついてきた。

「お、かえり…」

「ただいま」

「迎えにいけなくて、ごめん…っ」

「かまわんさ。お前の産んだ子供が来たのだから」

 ふたりも、な。

 おどけて言った大久保だったが斎藤が体を小刻みに震わせ出したので、滑らかな瞼やこめかみに慰めるようにキスを繰り返す。が、斎藤の腹のあたりからきゅぅぅ、という音がしてきて驚き、斎藤の顔を覗き込んだ。

 斎藤はうぁ、と言って大久保の肩口に顔を埋めてしまう。

「どうした」

「んー…、…今日中に戻ってきたくてさ。今朝から、何も食ってないんだ」

 照れ隠しに小さく笑った。

「……」

 大久保の視線を感じ白い肌をちょっと赤らめた斎藤は、よし、と呟き大久保の胸から体を離し灰色の瞳をみた。

「俺、なんか作ってくる。お前も食う?」

 離れようとした斎藤の腕が掴まれて引き戻される。そのまま、髭をたくわえた頬が優しく押し付けられて

 おまえ

 ひとりにしか聞かせない声が、低く、深く、歌うように吹き込まれた。



戻ろうか