汚れなき幸福




 せっかく出した酒を不味いと言って露骨に嫌な顔をした斎藤を、大久保は笑った。

「お前が酒好きだと聞いてもってきてやったのに…」

「不味いものは不味いと言っただけだ」

 大久保は英国大使から流してもらった麦酒を斎藤に提供したのだ。維新後、W・コープランドが横浜に設立したビール工場により日本産麦酒が飲めるようにはなっていたが、直輸入のもののほうが風味が豊かだから、自分用でもなく接待用でもなく、本当に斎藤のためだけに準備したものなのだった。

 斎藤は、恐る恐る手をつけたパンもチーズも不味いと言ってきた。

「結構な高級品なんだがな」

「臭い。不味い」

「やれやれ……」

 点けた葉巻を燻らせながら脚を組んで、大久保はまだ苦々しい表情を消さない斎藤の白い肌を眺めている。




僕はもうバッハにもモツアルトにも倦果てた。
あの幸福な、お調子者のヂャズにもすつかり倦果てた。
僕は雨上がりの曇つた空の下の鉄橋のやうに生きてゐる。
僕に押寄せてゐるものは、何時でもそれは寂漠だ。




 後味の悪さが嫌なのか、斎藤は唸って制服の上着を脱ぎ捨てると、深くため息をついて長椅子に座った。余程機嫌が悪いらしく、大久保に対してなのか両腕を椅子の背に預けて、これでもか、とでもいいたげに踏ん反り返っている。

 葉巻を灰皿に置いて大久保は立ち上がり、斎藤のいる長椅子のほうへ歩いていった。斎藤はぎくりと体を強張らせたがすぐに気を取り直し、目の前に立った大久保の服を汚すように、深く吸った息を煙草の煙とともに吐き出した。大久保が無言で応酬しても窓の外をみて余計に踏ん反り返った。

「困ったやつだ…」

「ひとの勤務中に酒を勧めるやつよりマシだろうが」

「それもそうか……」

 斎藤のきつい言葉に、乾いた声で大久保は笑った。いや、笑ったのは自分に対してだったかもしれない。

 西郷を失って、互いに生きてはいるが心は遠くに隔たって、混迷する政治に見通しが立たない毎日に絶望せぬようにと、普段酒を控えている大久保も酒を飲むことがある。

 過去は、もてばもつだけ辛いと知った。ならば手放してしまえばいいのだが、それが出来ない己の甘さに呆れる。

 ―――――俺はまだ期待しているのか、あれがこちらに戻る日を―――――

『諦めの悪いやつや』

 いつか悪酔いしてちらりと本音を漏らしそうになったとき、岩倉に先を越されて言われたことがある。確かに、自分は諦めとか「きり」の悪いことは自覚している。「御前には及びませぬ」と返すと、岩倉は目を丸くして笑った。その後深刻な話題は消え、うまい具合に歓談となった。

 だがその変化よりも、目の前で踏ん反り返る男を観察するほうが面白い。斎藤はふたりきりでいるとき、という条件はつくが、いつでも傍若無人だった。

 大久保がひとりで仕事していようとお構いなしに伸びをし、欠伸をし、眠たければ長椅子で横になる。すぐさま聞こえてくる寝息に大久保は呆れるどころか拍手をしたいほどである。それでいて、警視庁一の剣客兼密偵なのだ。

 斎藤、もとい藤田五郎という男はおかしな男で、新撰組時代からちっとも変わっていないのだ。そう感じたのは大久保だけでなく、川路も、ほかの維新の生き残り組も同様だった。時代を越えた人間ならば、何がしかの手ごたえある成長なり退行なりがあるのだが―――――西郷が維新後について行けなかったように―――――彼にはそういう変化はないようだった。よく言えば成長なのかもしれないが、彼はただ、変遷する時代についていくのに長けているのだろうと思う。

 或いは、時代が如何に動こうとも、己を保持し続けていられる男。羨ましいほどに鮮やかな生き様。

 その理由を知りたかった。

 大久保は立ったまま上体を倒し、ぐい、と斎藤の顎を掴むと、手にしていたグラスを傾けて麦酒を口に含み唇越しに飲ませた。驚いた斎藤が体を離そうとしても、空いているほうの手で斎藤の弱いところをズボンからシャツの端を引き出してシャツの中に手を入れて弄ることで斎藤の動きを封じ込めた。

「っう、ん…!」

 ごくりと斎藤が飲み干すまで、シャツの中の大久保の手は斎藤を翻弄していた。

 酒の蒸すような香りがふたりの間を埋めていく。最後に舌を深く絡めとって淫猥な音を立てながら名残惜しそうにゆっくりと唇を離した。

「飲めるじゃないか…」

「……」

 斎藤の頬が赤くなっている。麦酒を流し込んだあとで、たっぷりと口淫を施したのが当たったらしい。

「女でもあるまいし…」

 互いの前髪が絡む位置で呟きながら紅を帯びた肌に掌を添えると、有無も無く斎藤はそれを払った。

「煩い」

「煩いとは…酷いな…」

 大久保は虚しく払われた掌をみつめた。

 皺の刻まれた、痩せた手。この手を取る者はもういない。




僕はその寂漠の中にすつかり沈静してゐるわけでもない。
僕は何かを求めてゐる、絶えず何かを求めてゐる。
時に自分を揶揄(からか)ふやうに、僕は自分に訊いてみるのだ、
それは女か? 甘いものか? それは栄誉か?
すると心は叫ぶのだ、あれでもない、これでもない、あれでもない、これでもない!




 本気でぶつかれば西郷のことがどうにかなるとか、考えているわけではない。諦めているのは、どうしようもない自分のことだ。自己否定こそが、大久保の苦悩の本態である。西郷を失って解ったのは、これで自分は終わったと…自己の存在を否定しにかかる己の姿であった。大久保が嘆いているのは―――――嘆いている自分自身の有様だったのだ。

 ならばさあれ、と上手く回復すればいいのだが、諦めが悪いだけあって、次の活路を見出すことが出来ない。見出したようで…未だ心は遠く薩南に飛んでいた。大久保は、退行しようとしているのだ、内務卿という、進まねばならない立場に居りながら。

「どう思う」

 と、斎藤に尋ねてみた。斎藤は、なにが、という目で大久保をみた。誰もが恐れる自分の前だというのに、この男は踏ん反り返ったうえに咥え煙草である。口移しの麦酒が気に食わなかったか、機嫌が悪そうに金色の視線がいつもよりも尖っている。

 快感を感じながらも、一方で醒めていた大久保は静かに訊いた。

「お前の目から見て、俺が生き過ぎたかどうかということさ」

 年を重ねすぎると、感覚が古いまま固定してしまう。生き生きとなれない。だから、年齢という枠から外れたところで息をしている斎藤の意見を聞きたかった。

 そうだ、あれも俺も、年を取りすぎた…




あれでもない、これでもない、あれでもない、これでもない!




 過去と現在のどちらにも立てずに狭間で躊躇する己に、胸を掻き毟りたくなる。大久保にとって、過去とは西郷で、現在とは西郷の無い空間を指した。

 果たして自分は西郷無しでやっていけるのかと、未知の世界に大久保はたじろぐのだ。らしくなく恐怖を感じる自分に。

 見えない未来に立ち竦む。立ち竦んだまま進めない。だが進まねばならぬ。進むための、なにか手立てが欲しかった。

 しかしこんな状態の大久保が懸命に手を伸ばしても、二(ふた)てのひらに掴まるのは寂漠だけだった。眠れぬままに迎えた朝に聞こえるのは、自分と酷くかけ離れたように感じる、空高く羽ばたく雲雀(ひばり)の声―――――




それでは空の歌、朝、高空に、鳴響く空の歌とでもいふのであらうか?




「阿呆」

「…阿呆?」

 意外な返答にいぶかしむ大久保に斎藤は捨てるように言ってきた。

「そういう台詞は俺を斬ってから言え」

 いかにも人斬りらしい台詞だと思った。

「………お前の基準はお前ということか…」

 大久保が呟くと、「当たり前だ」と言って煙を吐き出し、斎藤はだらしなく脚を開き、また踏ん反り返った。

「俺がどこにいようと、誰に何と言われようと、いま、ここにいる俺が俺の基準で、俺の応用だ。それしか出来んからそれをやる。髭の癖になに当然のこと訊くんだお前は」

 この阿呆、と斎藤は吐き捨てた。

「髭は関係ないと思うが…」

「煩い」

 斎藤は再びそっぽを向いて煙を吐いた。

 相変わらずの傍若無人ぶりを振りまく斎藤に思わず失笑しそうになったが、大久保は正直、…なるほど、と思った。

 斎藤には今しかないのだ。もっと言うと、今しか無い自分を完全に肯定している。確かに、今しか考えなければ、年齢も過去も無意味だし、或いは、斎藤は彼が負ってきた過去も抱いたであろう理不尽な思いすら、すっかり肯定しているのかもしれない。

 そしてそれがこの男の強さなのだろう。

 ―――――ああ、そうか。

 大久保は解った。西郷を失った自分も、そんな自分で立ち向かう現在と未来も、肯定してしまえばいいのだと。たとえ西郷の影が浮かんできても嘆いても、未来が恐ろしくても、そういう自分を否定しない。

 自分を否定するから辛くなる。否定しなくなれば、立ち向かっていける。なにも恐れるものがないから。怖いと思う自分を否定しないから。

 斎藤の場合は、こうでも考えなければ人斬りなどやってこれなかったのだろう。真剣勝負の場において、自分を一瞬でも疑えば、切り刻まれてしまうのだ。疑いや否定という行為は、自己の存在について行えばもっとも不利となる。西郷といたときに安心していられたのは、大久保が自身を否定も疑いもしていなかったからだ。

 ―――――そうか…

 抱えてきた寂漠さえ肯定して飲み込めばいいのだ。西郷がいないことで生じた虚しさと一緒に…

 ふむ、と頷いた大久保は黒シャツに手を伸ばした。

「な…貴様どこを触っている!」

「…斬れと言ったのはお前だ」

「そういう意味では…ッ、やめろ馬鹿っ」

「…阿呆の次は馬鹿か……散々だな」

 クックク、と笑いながら大久保は斎藤の洋帯(ベルト)を外し、中に手を忍ばせた。酒の所為か、そこは熱くなっていた。掌で揉みしだくなり斎藤は小さく呻いて唇から煙草を取り落とした。大久保はそれを拾ってやると水を入れた灰皿に投げ、今度は麦酒を含まずに口付けた。

「ん……」

 斎藤の口腔はまだ麦酒の味がした。しかしそれは、無理に自分を奮い立たせるための、または夜眠るための道具としての詮無いものではなく、染み渡るような澄んだ味だった。

 思い出の中、燻(くす)ぶっていた西郷が静かに笑った気がした。





否何(いづ)れとさへそれはいふことの出来ぬもの!
手短かに、時に説明したくなるとはいふものの、
説明なぞ出来ぬものでこそあれ、我が生は生くるに値ひするものと信ずる
それよ現実! 汚れなき幸福! あらはるものはあらはるまゝによいといふこと!

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ゆふがた、空の下で、身一点に感じられれば、万事に於て文句はないのだ。




(中原中也「いのちの声」より抜粋)
BGM:涙そうそう/夏川りみ

Saint Visitors


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もうひとつの「汚れなき幸福」があまりにもケガレたので、ねこ様にはこちらを差し上げようと思って書きました。こっちはまったりしていますが、あっちはケガレ過ぎなんです(ほんとに)。
ねこ様にはお待たせしたうえに、へんなことになって申し訳ないです…というわけで、リベンジ→KIZUNA