-KIZUNA-



涙湧く。
み空の方より
風の吹く





 陣中参り、ということなのか、やたらと大久保が俺に酒を勧めてくる。

「嫌いではないのだろう?」

 こちらを嘲笑いながら。

 俺は逆らえない。何故ならここは太政官でも警視庁でもなく一般の料亭というところで、そして俺は警官服ではなく私服だったからだ。

 大久保に勧められるたび、勤務中だと言って断っていた俺だったが、大久保には政治上の接待という話が幾度ももちあがり羅卒を連れて高級料亭で応じることもあるわけで、川路を通じて俺はそこに引きずり込まれたのだが、接待役が去ったあとは酒を断る理由を失った。

 だから杯が静かに満たされていく。いい酒だ。悪酔いする安酒の、篭ったような匂いがまるで無いので、勧められるままに俺は飲んでいた。大久保はあまり飲んでいない。健康のためとか言っていたが、甚だ疑わしいので信用していない。

 大久保は俺の杯になみなみと液体を注ぎながら、余裕の表情で俺をみてきた。

「京では随分荒らしていたそうだが」

「……なにが」

「池田屋以降、さしずめ天下は新撰組のものだったではないか」

「…ハ!」

 俺は酒を飲み干し後ろに手をついて、胡座していた脚を畳に投げ出した。

「貴様のどこからそんな台詞が出てくるんだ?一片たりとも思ってもいない癖に」

 新撰組がのうのうと京都守護職お抱え云々をやっていた折に、蔭で朝廷工作、薩長同盟、あまつさえ倒幕を実現し、新政府の頂点に踊り出たその当事者が、ただでさえ溢れ出ている自信をこれ以上もないほど漲らせてこの俺に言って来たのだ。ふざけるにも程がある。

 が、この男を前にキレようがキレまいが、事態はまったく変わらないということも、俺は極知していた。

 先ほどまで続いていた酒宴は芸妓を呼ばない静かなもので、このこじんまりとした料亭で行うに相応しいものだったが、出席者が両人とも公人であるためにどうしても政治色を帯びていた。そして相手の話が大久保にとって好ましくない、あるいは興味を惹かない方向へ向くときに、大久保はヤツの得意である黙殺と冷笑を決め込んだのである。

『……』

 それまで穏やかに続いていた大久保の相手は凍ったように息まで止めた。この男の特徴であろう、くるくるとよく動く瞳も生気を失った。

『は…………閣下、こ、これは、失礼を致しました…』

 この間、大久保は一言も喋ってはいない。ただ、唇の端を緩やかに吊り上げて、凝っと相手の視線を捕らえていただけである。それで十分だった。相手はひたすら頭を下げ、その話題を取り下げた。

 曰く、大久保は策士の謀略家で、こいつの牙にかかったら仏をみるか地獄をみるかの両端なのだそうだ。だから大久保の周りは敵と味方の両極端に二分されている。いや、大久保がそうしているのだ。世界を自分で境するために。

 ほとほと嫌な男である。

 俺は脚を投げ出したまま、畳の上に寝転がった。明るい色の木目が美しい天井を見上げると、京都で新撰組が踏ん反り返っていられた時期が蘇る。だがそうしていられたのも僅かの間だけだった。俺は頭の後ろに手を組んで、ダルそうに(というか、心底ダルかったのだ)言葉を繋いだ。

「誰かが宮中撹乱してくれたお陰で、俺たちは追われ追われて疲れただけだった」

「…別に俺が撹乱したわけではないだろう。あれは長州が勝手にやったのだ」

「長州がそうすると分かって、傍目で笑ってたんだろうが」

 俺が言うと大久保は然(さ)もありなんといった様子で喉の奥だけで笑った。俺は寝転がったまま大久保をじろりと見ようとしたが、空しくなるだけなのでやめた。

 長州も会津も、こんな男を敵に回して気の毒だと思う。こいつさえいなければ、学の無いとされる薩摩藩が天下をとることはなかっただろう。そして今現在も、薩摩だけが幕末の勢いを保持して日本に君臨しているのだ。まるでこいつのように。

「………」

 薩摩とは何なのだ。

 こいつは一体何だ。なぜこうまで超然としていられる。

 俺は大久保の文字を脳裏に思い浮かべた。

 別に、なんてことはない極普通の、寧ろ素朴な印象を受ける文字を大久保は書く。太政官の他の連中が偉人然とした大袈裟な字を書くのに比べ、「誰だこいつは」と唸りたくなるほど、どこか欠けたような朴訥とした筆遣いなのである。それに弁の立つ連中が囁いているのを聞いたことがあるのだが――――…大久保は文盲なのだそうだ、信じられないことだが。文盲、というのは薩摩人一般についても共通することでもあった。大久保を除いた俺の最終的な上司である川路は、例外かもしれない。

 つまり薩摩人というのは、学者肌の会津人とも議論をしかけあう長州人・佐賀人とも無論その他の非現実の理想主義の各藩とも異なり、現実的な裁定者として立つのに相応しい性質なのだろう。大久保は太政官側の最高責任者で、対極に居るのが西郷吉之助である。

 西郷については知らない。みたことはあるが、相撲取りのような、という印象しか俺は持たなかった。

 西郷は薩摩にいる。薩摩には日本最大の勢力が結集している。川路は彼らを叩きのめす覚悟を決めている。

 勝てるのか、もとい、勝たねばなるまい。なにしろ彼らの怒りの矛先は、誰あろう、川路と大久保に向けられているのだ。日本を背負って立つ男に照準が合わせられているとすれば、戦(や)るしかないと思う。戦場は薩摩および鎮西全土になるだろうと川路は言っていた。日本全土を巻き込んだ維新回天よりは楽だと俺が言うと、珍しく川路は大久保に似た、表情筋だけの作り笑いをした。

 そういえば京都の頃、こいつ(川路)は西郷の手下で働いていたのだと思い出して、まずいことを言ったかと川路をみたが、奴は既に本来の、掴み所の無い大警視殿に戻っていた。まぁ川路でも、故郷に対する哀愁が僅かばかりでもあるのだろうとそのときは思った。こいつは薩摩を潰すことに対して、なにか感じているのだろうか…俺は大久保をみた。

 大久保は相変わらずの表情で料理に細々と箸をつけながら、庭を眺めていた。大店と政府が常連だというだけあって、あまり広くは無いが素人目にもいい造りの庭だと分かる。秋には紅葉が美しいのだろう。

 だがすべてのものは、こいつの前では色彩を失うのだと思う。南国育ちのくせに、僅かに開いた花の芽さえも萎ませる、常に寒々とした冬の男。国中が燃え盛った維新の折にもただひとり飄々と冷め、敵対する人間が燃え尽きるのを待っていた。…そうやってまた西郷が滅びるのを心待ちにしているのか…だとしたら、大久保という人間はもはや俺の測れる器量でない。俺だって、十九まで暮らした江戸が東京と変わり、それからも江戸を埋没させるかのように破壊と創造が混在している東京を意識すれば、在りし日と比べてため息をついてしまうこともあるのだ。我ながら甘いとは思うが…故郷とはそういうものだ。

 大久保は奴の故郷である薩摩を滅ぼすのだ。西郷も、薩兵も、城下も歴史もまるごと皆。そうすることが太政官の―――――この国のためとあらば、為してしまうのが大久保という男なのだろう。こいつにとっては故郷も西郷も関係ないのだ。

「化け物」

 と呟くと、大久保は俺をみた。

「…化け物?」

「貴様のことだ」

「……」

 箸置きに箸を整える音が聞こえた。大久保が立ち上がり、こちらに動いてくる。俺は息を詰めようとして、

「化け物はこんなことはしないらだろう…?」

「……化け物だから、するんじゃないか」

 俺が言うと、大久保は例の声で笑い、手馴れた仕草で俺の上にのしかかってきた。

 そのまま俺は目を閉じて、ヤツの動きを追うだけだ。

 柔らかい鳶色の髪が揺れる。襟首にシャツに肩に染み付いた葉巻の香りに呼吸が奪われ視界が霞む。

 浪の音がひときわきこえた気がした。ここは海辺ではないのに。

 既に俺は指先まで痺れさせる欲情に骨の髄まで蝕まれていたのだった。痩せた背中を抱きしめて、大久保の動きに体を合わせてゆく。

 差し迫ってくる愛欲の津波。険しい崖を目掛けて一挙に打ち上げら、弾け、それでも留まることを知らずに寧ろ自ら荒波に身を差し出すようにして抱き合った。

 このまま燃え尽きても構わないと…声にだしてしまえるほど、彼が造った革命を生きることに酔いしれていた、あの頃。





 俺はなにも知らなかった。

 ほんとうになにも知らなかった。

 わかったときには遅すぎた。





 山県に誘われて「かよう」へ行った。珍しく私服で、そう、かつて大久保とここを訪れたときのように。

 「かよう」は女主人も変わらぬままで俺たちを迎えた。

 山県は母屋ではなく離れを取っていた。

 あのときと全く同じ庭を眺めるなり、山県は言ってきた。

「ここは大久保さんとよく来たものだが…お前も来たか?」

「ああ」

 と、俺は答えた。

「二、三度来た覚えがある」

「私もそれぐらいだ…」

 俺は何も応えなかった。目を閉じて、ただ呆然と、時を経てもなお変わりない空気を胸に吸い込んで、意識をあいつへと飛ばそうとした。

 風が鳴く。

 鳥の囀りが聞こえ、追い駆けるようにして鼓膜の奥深くで別の声が聞こえた。低い、地の底から響いてくるような声。そのまま引きずられてしまいたくなるほどの引力で、足元を掬われる。

 霞がかった景色の向こうに、あいつの貌がみえた気がした。俺を嘲って冷笑しやがる。

 だが俺は、冷たいだけじゃない躯を知っている。氷山とまで評された男のひとり胸の奥底に抱いていた激情がやつを燃え尽くしていった様までも。

 なにかひとことでも口に出していれば、あるいは西郷が滅びる必要はなかったかもしれないのに、西郷も大久保も互いになにひとつ表に出さなかった。だから俺たちは見誤った。…いまとなっては、それさえ大久保の策だったのかもしれないが。

 策士にして謀略家。味方までも欺こうとして、自分の命を擦りきらして、大局を乗り切ろうとした。結果、太政官政府としての大局を乗り切れたが、維新立役者の全員を喪うという、散々な有様を呈してしまった。薩摩の側も、あの時代を知る者はすべて灰となった。幸いにして生き残った者が手にできるのは、味気ない喪失感と形だけの誇りである。失ってはじめて気づくのだ、彼らが如何に巨大であったかを。明治の最初の十年は、ふたりあっての十年だったのだ。あのふたりの絆には、決して触れてはならなかったのだ。

 考えてみれば、誰かと誰かとの絆というものは彼らだけのものであるのに、どこでなにを間違ったのか、あのふたりの絆を双方に加担する人間が近くから遠くからふたりを引き裂いて、絆だけでなくふたりそのものを壊すことに専念していたように思える。絆を介したとうの本人たちは呻きも叫びもせず、ただ為されるまま為されていた。無理矢理引き裂かれる行為のために、大久保は睡眠を失い、西郷は理性を失った。立っているのがやっとの状態だった。それでも立たねばならなかった。

 もう無理だと、そっとしておいてくれと投げ出すことも出来たのに自分ひとりですべてを背負って互いに身を滅ぼすなんざ、天下一の大馬鹿野郎だ、あんたらは。

 …否(いや)、救いようのない馬鹿は、傍にいたくせに、あいつの叫びに最後の最後まで気づこうとしなかった俺たちのほうだ。ふたりが超然としていられたのは、己のすべてを擲(なげう)って鏡のように互いを映して曝け出して生きていたからではないか。現在も過去も故郷もなにもかも。なのに更に深いところまで彼らを掻き毟り精も根も抉り出し逃げ場すら取り去って、ふたりを追い詰めた。

「化け物はこちらのほうだ…」

 彼を求めるあまり途絶えることのない渇望に喰われ、人としての魂まで失っていたのかもしれない。だからヤツが俺を選ばなかったのは当然のことなのだ。

 クッ、と噴出した俺を振り返った山県が不審そうにみてきたが、俺は無視して煙草を咥え再び目を閉じて寝転がった。

 それでも―――――





松の木に風が吹き、
踏む砂利の音は寂しかつた。
暖かい風が私の頬を洗ひ
思ひははるかに、なつかしかつた。


浪の音がひときわきこえた。





 錦江湾というところは、鹿児島一美しいと聞いた。いまなお噴火を続ける桜島の裾野に群青の海がせり出して返す波が浜を洗い、延々とそれが繰り返されているという。

 …大久保は帰りたかったのかもしれない。切られても切られても芽生えてくる絆を頼りに、彼の永遠である西郷のもとへ還りたかったもかもしれない。

 なぁ、還ったのか、おまえは?

 還ったのなら、ここへは来るな。胸に抱かれて鎮(しず)かに眠れ。俺が呼んでも…ここへは来るなよ。

 お前が堕ちてくる必要などないのだから。





 気配に瞼を開けると、山県の太い指が伸びてくるのが見えた。山県は俺が咥えていた煙草を勝手に灰皿に押し付け、大久保がしきりにそうしたように、肌に唇を落としてくる。その唇が項を昇って口元に到達すると、昔大久保と飲んだのと同じ酒の味がした。

「あ……」

 奥歯が震える。耳元がざわめいて、繰り返しては磐(いわ)に砕ける浪の音となる。

 そうして俺は気づくのだ。この浪の音は、遠い彼(か)の彼岸から俺を呼んでいるものだと。

 …俺でもいいのか? 足元から立ち上る弱気に背中を押されてしまいそうになる。尤も、あいつの代わりなんて御免だが、お前を抱いて子守唄ぐらいは歌ってやってもいいぜ。

 遠い背中に、夢の中、手を伸ばしても決して届かない。昔のようにすぐ近くにお前がいるようで、ふとした折に廊下で振り返って、誰もいないことに肩を落としたりする。

 もうどこにもいない、けれども瞼の裏に焼き付いた褪せることなき色薄い容(かたち)を、忘れられるはずがない。ここへは来るなといったところで、彼の名を叫んでいるのは俺だった。たったひとつの、絆求めて――――――

 だが俺はまだそちらに往けない。あんたの記憶を抱いて生き残ってみせると、あんたの亡骸に誓ったのだ。冷たい、全身の血液を流し果てたような大久保。

 若葉の美しい空の青さが眼に沁みる季節だった。あんたがいないのなら、せめてあんたの創った時代を守ってやると、あんたが昇った空を見上げて決めたのだ。

 それでもいずれは往くだろう。

 だからそのときまで待っていてくれ。

 ぼろぼろになって、精神だけでなく肉体すら擦り切れ、宙に全身が浮いて風に飛ばされるほどこの身が軽くなって、いつか―――――あんたの高みまで、俺が辿り着けるまで。






亡(ほろ)びたる過去のすべてに
涙湧く。
城の塀乾きたり
風の吹く


草靡(なび)く
丘を越え、野を渉り
憩(いこ)いなき
白き天使のみえ来ずや


あはれわれ死なむと欲す
あはれわれ生きむと欲す
あはれわれ、亡びたる過去のすべてに






(中原中也「心象」より抜粋)

Saint Visitors


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ねこ様リクエストの「大久保卿と斎藤が酒を飲む」について、「汚れなき幸福」と合わせて書いたもの。
遅くなったのでねこ様には両方差し上げます。というか…受け取っていただければと思います。大変遅くなって申し訳ありませんでした。