KIMIYA MAMORAMU




 よしや身は蝦夷が島辺に朽るとも
    魂(たま)は東(あずま)の 君やまもらむ

                                   義豊



 斎藤先生がおかしい、と告げてきたのは中島登だった。
「あいつがおかしいのはハナっからだろ。いっつもヘラヘラしやがって……」
 大したことなかろう、と言おうと振り向いた俺の前の中島の顔は、いくら室内を照らす灯りが蝋燭だけとはいえ、青褪めていた。
 この男が顔色を変えるのを初めてみたと俺は思った。
「中島…?」
 俺は眉を顰めた。自然、声が潜められる。
 シンと寝静まった闇夜に聞こえるのは灯りに戯れる蛾の羽音だけで、ともすれば相手の鼓動までが漏れ聞こえてきそうな静けさである。
 ここは会津。京都からも江戸からも遠い。四方を森に囲まれ、外蝦の脅威に曝された歴史もなく、ひとつ取り残された時間の狭間で暮らして来た“武士”は戦いの仕方まで時空の彼方に置き忘れてきてしまった。だから俺はここで薩長と戦うのは不毛だと思っている。
 榎本は新政府への海軍引渡しを拒否――――よって列藩同盟と名をつけたまではいいものの、諸藩が足並み揃えて西軍と戦する覇気をまるで持ち合わせていない東北勢に、易々と手持ちの海軍を参戦させはしないだろう。
 七月上旬の秋田藩の同盟脱退から始まり、続いて三春藩に守山藩、二十九日には二本松藩が降伏。じわじわと間髪おかずに追い詰められている西軍追討先の会津藩はそれでも猶、彼らが守ってきた土地が戦場になることに対する実感が持てないままだった。
『会津は滅びぬ!恩義を忘れた薩長の徒がいかな攻撃をしかけようとも、彼奴等に会津の土は汚させぬ!』
 会津藩は慶応四年(一八六八)一月五日、薩長側に錦旗が翻った時点で、“朝敵”の汚名を被った。だが三百年の歴史と士風馨しい雄藩であるという自負が、彼らをして薩長同様、財を投げ打ってまでも火器や銃器の購入を積極的に進めて実質的戦闘態勢を整えることを許さなかった。これが災いし、東北への関門・白河城の奪還に再三にわたり失敗。さらにせっかく大鳥・山川軍が日光口を守り続けても、二本松から石窩(いしむろ)を経て猪苗代へ通じる天嶮・母成峠の防備を怠り、ついに母成戦が始まったというわけだ。
 土地鑑の無い我々(新撰組)に大した手が出せるはずもなく――――――勝岩の第三台場も腹背から攻撃されて呆気なく敗走するに至った。新撰組は死者六名を出し、会津東山の天寧寺に引き上げる。その夜俺は猪苗代から中地口を守備する会津藩兵に救援を求める書簡を出したが、援護は得られなかった。
 調子に乗る西軍は会津城下へ着々と軍を進め、翌二十二日には戸ノ口原が敗れ、強清水(こわしみず)も抜かれ、現在の会津には篭城しか残されていない。重火器に富んだ仇を前に、敗北は必至である。
 西軍を率いる西郷は、もとは薩摩藩の下級藩士だと言う。名を知られた薩摩藩の人間は多くが下の身分の者だ。そいつらに大軍を任せ、西軍はここまで勝って来たのだ。
 長州には狂気がある。薩摩には力と最新鋭の武器がある。なのに、そいつらを迎え撃とうとする東北には奴等と対抗できるものがなにひとつない。会津にあるのは士気だけだ。士気で戦は勝ち抜けない。いや、同盟している他藩には士気さえ無いかもしれなかった。
 東北だけじゃない。あろうことか、幕臣さえも同様の有様だった。文官だから戦闘には加わらない、と言って来た望月光蔵に怒った俺は、やつに枕を投げつけた。最早頼りになる同志は僅かしかいないのだ。
 その同志であるはずの新撰組幹部がこんなところで俺を裏切るという。
 数呼吸の間、中島は震えていたが、ジジ…と虫が焦げる音に弾かれるようにこちらを見て、静かに口を開いた。
「間諜の噂があります」
「…どこの」
「水戸………ではないかと」
「!!…」
 水戸藩。
 現将軍を輩出した徳川御三家のひとつ。だがその実、藩の内部は尊王派と攘夷派とに分裂し、水面下でも互いの足を引っ張りあい、他方で井伊家と勢力争いに喧(かまびす)しかったが、井伊(直弼)大老が桜田門外で殺(しい)されてから後は学問的な派閥の抗争と幕府による過激派廃絶により、各派の巨頭を失って水戸学だけが吉田松陰によって受け継がれ他は消えた。
 その残党が俺の配下で這い回っていた――――?
 中島の声がどこか遠くから響いているように聞こえすらして、俺は気を引き締めた。
「誰から聞いた、そんな噂」
 俺が尋ねると、中島は申し訳なさそうに呟いた。
「永倉先生、です」
「………」
 俺は言葉を失った。永倉はこの時期、入布新の名で精共隊として各地転戦している。無論、弥生十一日の段階で新撰組と訣別しているから、いまは俺の配下ではない。
 ときどき、会津の様子を探りに来ると聞いてはいたが。
「本当なのか」
 俺の質問に、中島はやや口篭もりながらも応えてきた。
「斎藤先生を時折ヘンなところで見かける、仰っていました。土方先生が、そのー…療養されている間は、斎藤先生は自由でしたから…」
 確かに。
 俺は斎藤に新撰組隊長として命じはしていたが、監視はつけていなかったのだ。一挙に足元が掬われる気がした。
「(松平)容保公は水戸贔屓です。しかし斎藤先生が会津の人間であれば、明石藩出身と名乗る必要はないでしょう。水戸藩が出てくる以上、もとは幕臣と考えるのが筋ではないでしょうか。大きな組織ともなれば私のような身分(密偵)もありますでしょうし、斎藤先生は課された仕事を何の問題も無くすべてこなされてきました。何の訓練もない人間が、そこまで出来るものなのでしょうか」
 では水戸藩直々の間諜ということか。
 なんのために。
 まさか足下から幕府側を突き崩すために?
「は……」
 俺は思い返していた。
 俺が新撰組の仙台への出向要請を受けたのが七月。母成戦があったのが葉月二十一日。
 あいつが、斎藤が仙台行きを渋ったのは、母成戦の始まる少し前のことだった。



「―――――仙台?」
「ああ」
 珍しい金色の瞳が灯を反射してぎらりと光る。はじめてみたときは獣かと思ったが、すぐに慣れた。なにしろこの男は近藤の気に入りだったのだ。そういえば、根っからの試衛館門徒ではないのに、新撰組入隊時から幹部についていた。
 斎藤君かぁ、彼は使えるよ。
 大口を開けて笑ったあいつの貌が目に浮かぶ。
『トシは昔ッから疑り深いやな』
『うるせぇよ』
 俺が不貞腐れると、近藤は腕を組んで大袈裟に言って来た。
『少しは同志を信用したらいかがかな土方君。大将が大きく構えずにいてどうする』
『新撰組の大将はあんただ近藤さん!俺は鬼の副長なんだよ』
『自分で云ってりゃ世話ないよ』
 がっはっは、とあいつはまた笑った。そのときするりと襖が開いて、(沖田)総司が入ってきた。
『失礼します。あ、なに詠んでるんですか豊玉師匠~』
『黙れっ。ていうかお前きちんと薬飲んだのか!』
 俺は、どうも肺の具合の良くない総司に家伝の虚労散薬を飲ませている。こいつの体調がカラ元気でなければいいのだが。
『はいはい飲みましたよ。土方さんていくつになっても心配性なんだから~』
『ほら、総司にまで言われるじゃねぇか。お前は気にしすぎなんだよ』
『え?え?何のことですか?』
 近藤の馬鹿が余計な口を走らせたがために、総司が突っ込んできた。近藤は組んでいた腕をゆっくり解き、ふむと頷いて応えた。
『斎藤君のことだ。今日もトシの疑りが始まってなぁ』
 近藤の声を聞きながら、総司は腰を下ろす。普段、何を聞いても聞かれても曖昧にしか答えない総司は、やはりふぅ~んと言っただけで、傍に置いてあった菓子を一つまみして口に投げ入れた。
『トシは昨夜(ゆんべ)の宴のことを気にしてるんだよ』
『え~普通だったと思いますけど~。あれ、でも斎藤さんどこに座ってましたっけ』
『俺の隣だ』
 俺が言った。
『へ~、珍しい組み合わせじゃないですかぁ』
 かく云う総司は昨夜、源さん(井上源三郎)と過ごしていた気がする。近藤は相変わらずだった。
『――――で?斎藤君は何て答えたんだ?』
 角屋で開かれた酒宴で皆の酔いが回った頃、と言っても俺は大して飲んでいなかったが、ふと気がつけば俺の隣に斎藤が座っていた。
 斎藤は普段から、ほとんど喋らない。稽古のときに喋る姿をみかけるぐらいで、何を命じても、余計な台詞は一切言わない。そしてそういうヤツが俺に話し掛けてくることもなく、俺と斎藤の座は、どんちゃん騒ぎをする――――原田なんかは自慢の切腹未遂痕を曝け出して腹踊りまでしているというのに――――周りから明らかに浮いていた。それでも斎藤は面白そうでもなく、かといってつまらなそうでもなく、ただただ杯を満たして嚥下を繰返している。
 醒めた眼、堅く閉じられた唇。どこにいても、どんな状況が差し迫っても、他人から激しく距離を置こうとする。
 どうしてこいつはこんななんだ……
 軽く溜め息をついて、俺は斎藤に話し掛けた。
『斎藤君』
『なんですか』
 反応は早い。酒臭いが、酔っ払ってはいないのだ。いつものことか、と思いながら出来るだけ白々しく装って、俺は続けた。
『君は副長助勤だったな』
『……そうですが』
『ならば何故妾宅を構えない』
『…沖田さんも構えていないじゃないですか』
『あいつに妾なんて頼んだって来やしねぇよ』
『そうですかね。副長よりは女子に優しいと見受けられますが』
『………兎に角』
 妾をとっていいんだ、遠慮しなくていいんだと俺は言ったのだが、斎藤はふふんと笑うだけで全く相手にされなかった。
 ここで俺は自分の頭を、困ったヤツだとでも言いたげな顔をした近藤と沖田の前に戻し、膝を崩し、足を投げ出して続けた。
『あのツラと目で「女は足りてます」とか言われてみろよ。黙るしかねぇだろが』
『誰かさんはひとりの愛妾からも逃げ回ってるからなぁ』
『うるせぇよ。ひとのことはどうでもいいだろ』
『ならいいじゃないか』
 近藤は云いながら、呑気に茶を啜った。
『お前が自分のことはつべこべ語りたがらないのと同じく、斎藤君もそうなんだろう。自由にさせておくのが一番さ』
『隊士の素行調査も仕事のうちだろうが。おい総司、菓子ばっか喰ってないで何とか言え』
 俺が話を振ると、総司は三個目の菓子の包みを解く手を休めて、むぅと眉を顰めながら視線を斜め上に向けて天井を見据えた。
『僕は別に……だって斎藤さん、訳わかんないんですもん。非番だから暇なんです遊んでくださいって頼んだら、一日中付き合ってくれるんです』
『ほほぅ』
『清水とかぁ、八坂とかぁ、沢山行きました。でも斎藤さんの非番の日には、探してもいないんですよー。だからあのひと、暇つぶしにはいいですけど、やっぱ訳わかんないです』
『なじみの女の一人や二人いるだろうさ。気に留めるこっちゃねぇ』
『……聞いてきたの土方さんだったと思いますけどー…えーと、どれどれ、「水の北 山の南や 春の月」……うーん、相変わらず春の歌ばっかですね~』
『勝手にみるな。返せこらっ』
『総司、正直に「相変わらずイマイチですね」と云っちまっていいぞ。ったく、春とか梅とか自分に一番遠いのばかり詠いやがるんだ豊玉師匠は。師匠に似合うのは春よりも冬だぁな』
『うるせぇ、ここは俺の部屋だ、てめぇら出てけー!!!』
 俺が大声を張り上げた瞬間襖の間から、報告に来て廊下に控えていただろう斎藤の顔が覗き、やつにフンと鼻先で笑われて俺は背筋を震わせた。気配も無く嘲笑われるのは誰だって好かない。
 そのときと寸分変わらぬ瞳が俺を貫いている。近藤が死に、総司も死んで俺たちは変わったのに、こいつだけは変わらない。
 新撰組が俺の手を離れた間、隊をこいつの手に預けてきた。戦況は膠着状態がいいほうで、多くが敗退している。
 俺は斎藤をみつめた。怯むことなく、斎藤は俺を見据えている。俺も誰も、こいつが仙台へ同行しないと考えたことすらない。
 相変わらず冷静な声で彼は言ってきた。
「それは、会津から引き上げるということですか?」
「そうだ」
「解せませんな」
「今すぐとは言ってない。いずれ、品川沖の榎本が来る。だからそのときに…な。いつでも出られるよう、皆に伝えてくれ」
「………」
 珍しく斎藤は芳しい返事をしなかった。
「ま、考えておきますよ」
 いま思い返せば、命令に従わない斎藤という在り得ない姿を認めた段階で、やつの後ろに誰かつけておくべきだったのだ。だが俺は斎藤を完全に信用し、熱をもった躯にうなされながら、視点を会津から海軍の榎本に移し、幕府側としての臨戦体制を整えることに重点を置いて、手元にあるはずの新撰組から距離を設けていた。それは、斎藤が手持ちの隊として新撰組をある程度自由に動かせるようにと思って行ったことなのだが…
 俺より早くに斬ったザンギリ頭。隊服を脱げば西軍と言っても通じる格好で、会津と水戸とを短期間のうちに往復したのか。それとも密かに呼び寄せた同類と連絡をつけ、幕府軍を西軍で取り囲んだか。
『考えておきますよ』
 で、斎藤(てめぇ)が考えた結果がこれかよ。



 あくる日の朝、俺は松本良順の治療を受けた。盆地の夏場は湿度が多く、傷の治りは遅かったが、被弾してから医療づくしだったせいか、人一人斬れるぐらいには回復してきたと思う。…ハナシにならない。
「傷のほうはもういいだろ」
「ありがとうございました」
 俺は先生に足を掴まれた格好のまま、ゆっくりと頭を下げた。しかし松本の口から湧いて来たのは、
「重症なのはお前さんの気力のほうだぃな」
だった。
「……これでも私は鬼隊長なんですがね」
 精一杯の呆れ顔をつくったつもりだったが、彼はそんな俺をあっさりと見抜いてくる。
「かっ、言ってろ。そんなだから舐められるンだよ」
「…、良順先生」
「しけたツラしやがって。そんなで勝てると思うのか?聞けば斎藤まで西軍に人材狩りで狩られてるそうじゃねーか。内部崩壊とは良く言ったもんだよ土方。おめぇらしくないザマだな。どうしたよ?ああん?近藤死んで、てめぇまでおっ死(ち)んじまったのかよ?そんなんでこの先勝ちつづけられンのかおめぇは!」
 松本の怒号に、俺は思わず目を閉じてしまいそうになった。
 …俺は死んだか。
 かもな。
 榎本との交渉も失敗に終わり、あいつの命を結局無碍(むげ)にしちまったんだから――――――…
『行っちゃだめだぁぁぁ!だめだよ土方さん、止めてよぉぉ!!還って来られると思ってんのかよぉ!!』
 必ず救出すると、誓った。それまであいつの身が割れなければいいとだけ思った。大久保大和で貫き通せと言ったのは俺だった。だが京都時代に動きすぎたか顔が割れて、投降直後にやつの正体は暴かれたという。
 振り返ったあいつの背中は、
『土方さん!止めて!止めてよ!』
 広く、熱く、逞しくて、
『土方さんてば!』
 ――――――まるで、日野で踏みしめた大地のようだったのだ。
『もう会えなくなっちまう!会えなくなっちまう!!なんとかしてよぉ!!』
 泣き喚く総司に叩かれた胸の痛みは、おそらくそのまま俺の痛みだったに違いない。だからこそ俺はそんな総司を受け止めるしかできなかった。
 遠ざかる足音。薄れゆく気配。
 もしもこれが夢であったのなら、いますぐにでも目覚めてみせるのに。
 総司は涙も止まらぬままに、俺の腕のなかから崩れ落ちた。
『止めてよぉ……』
 総司から溢れた涙がぱたぱた音を立てて畳を濡らしていった。
 重なるようにして、近藤がここを訪れていた有馬藤太とともに長岡屋を出て行く物音が聞こえる。ぴんと伸ばした背筋の紋付袴姿に、あいつが俺たちのすべてを背負っているようで、なのにやたら儚く見えた。
 らしくない。あんたにこんな風なのは、らしくないはずなのだ。
 こうして俺たちはひとりずつ沈んでいくのか――――?
 畜生、俺だってどうにかなるものならそうしたいよ。
 あれは卯月。
 ああ、春だ。
 去りゆくあいつは、たぶん俺の春だった。俺が宇都宮で負傷したのは、あいつが斬られる二日前だった。俺の血は、あれの最期を知ってか知らずか、なかなか止まらなかったのだ。
 自分は生きているのかいないのか、虚ろなるままに四箇月が過ぎ、足の傷は癒えたが、精神はあのときからずっと病んだままだ。こんなところで手下の狗(いぬ)に噛みつかれるとはな…
「土方」
「私はね、先生」
 俺は話を続けた。笑い顔を作ったつもりだったが、唇が歪んだだけかもしれなかった。
 俺は明らかに無理をしている自分を知っている。だが無理をしなければこの局面を乗り切ることは出来なかった。あとはもう、俺だけなのだから。
「私は……最初から勝てるだなんて思っていやしませんよ。徳川三百年の恩恵を忘れて、死を賭して西軍に抵抗するやつらがいないことに心底憤っています。なぜ戦うと云われれば、私に云えるのはそれだけだ」
「……そうか…」
「ええ」
「そうかぁ」
 松本はそれまでの苦悶顔を改めて包帯を替え終えると、ゆったりと笑ってきた。そんな彼の突然の変容に俺は起こした上体を引いてしまいそうになる。
「…なんですか」
 松本は俺の足をそっと布団の上に置くと、すぐ傍に置いてあった古い薬壺を撫でた。壺は、(傷口が)赤くなったらつけなよ、と言って彼がここに置いて行ったものだった。流石によく効く薬だった。
「いや。それがおめぇだからさ、安心した。なぁに、戦ってりゃぁ、おめぇの気迫はあってまに回復するわな」
 最もな言葉に、俺は苦笑した。
 入り込んでくる風は今日も蒸し暑いが、もうすぐ夏が終る。
 松島沖に榎本が来ている。
 俺はここを、出ようと思う。
 その前に、天寧寺をもう一度訪ねることが出来るだろうか……
「土方よぅ」
 呼ばれて俺は松本をみた。彼は立ち上がって、開け放たれた障子の向こう、見慣れた奥羽の空をみていたが、やがて振り返ってこう言った。
「俺を、仙台へ連れて云ってくれねぇか」
 突然話題を変えて、きっぱりとした口調で言って来た松本を、俺は瞼を上げてみた。傷にあたるときのような真剣な顔で、松本は俺をみつめる。
 俺は数回瞬きしたのち応えた。
「お断りしますよ。何言ってんだか」
「冷てぇこと言うなや」
「駄目と言ったら駄目です」
「なんでぇ、付き合い悪いやっちゃな」
「そういう問題ではないでしょう」
 諦めの悪い松本に対し、俺も口調を改めて言うことにした。実際、眼が据わっていたかもしれない。
「医者が、死神についてどうします」
 俺の台詞に松本は口を噤む。そのまま、俺は続けた。
「私は戦いしか出来ぬ男です。国家に殉じるだけの無能者。だが先生の人生は国家第一ではないでしょう。そういう方をお連れするわけにはいきませんよ。私が通るたびに亡骸は増えるが、先生が歩けば回復する者もある。そこが先生と私の違いです。これは、大きい」
 松本は、原田と沖田が死んだことを知っている。無論、近藤が撃たれたことも。新撰組が、瓦解寸前まで来てしまったことも。
 そして彼が求める新撰組を与えることは、俺には出来ないということも。
「……」
 松本は黙り込んで俯き、息を潜めながら俺の掌に新たな塗り薬を容れているものだろう、小さめの壺をひとつ残して部屋を去った。
 去る前に一言だけ吐いていった。
「近藤の墓に、持ってくからよ。花一輪ぐらい、用意しとけや」



 夢をみた。
 昔、日野にいた頃、総司と俺と近藤とで過ごした、漸く雪が溶け終る淡い季節の。
 俺は川で魚を釣っている。宗次(宗次郎、総司)が釣った魚を数えている。誰かに呼ばれたのに気づいた総司が小さな頭を巡らせて声のしたほうを向き、わっと駆け出した。
「若(わか)先せぇーい!」
 駆け出した宗次を、出稽古に行っていたあいつが防具を肩から下ろして抱きとめる。
「宗次ィ、今日は釣れたか」
「違うよー。トシさんが僕の釣竿(つりざお)取っちゃったんだ~」
「なんだとぉ~。こらトシっ、ガキのもん取って喜んでるんじゃねぇよ」
「魚一匹釣れないやつが悪いんだ、ばぁ~か。だから俺様が釣ってやってるんだろうが」
「うえぇ~ん」
「うちの弟子に向かって馬鹿とはなんだ馬鹿とは!!宗次も泣くな!しからば、この近藤勇様が馬鹿のトシをとっちめてやるから、そこでみてろよ、それっ」
 腕を捲くるなり、若先生様々は俺を突き飛ばすような勢いで体ごとぶつかってきた。
「おわっ」
「ぎゃははは、参ったか。いーかトシ、馬鹿者というものはだな、ぐぉ」
 調子に乗って喋ろうとする若先生の横腹を、俺は思い切り蹴りつけた。
「トシ!何しやがる!」
「いま大物がかかってたんだ!野郎っ、俺の昼飯をどうしてくれる!でかかったんだぞあれ!!」
「知るか!てか、ひとン家(ち)でタダ飯食ってる分際で、尚も独り占めせんとする根性をいっぺん叩きなおしてやる!」
 言うなり若先生は俺の襟首をひっつかんで川淵まで連れて行き、流水爽やかな水面にひょいと落とした。
「え」
 どぼんっ。
 あっという間に全身が水に浸る俺。
 …ぶくぶくぶく。
 ぷはぁっ。
 水面から顔を上げると、若先生と宗次が仲良くこちらを指差して大口を開けて笑っていた。
「~~~~~~ッ」
 ふたりの声があまりにも楽しそうだったから、お返しに、俺は広げた掌を水面からふたりの方へ思い切り動かして水飛沫をかけてやった。
「わっ」
「わっ」
 突然の反撃にふたりは暫し黙る。これで俺の気も済みそうだ。俺はちらりと横目を走らせた。
 釣竿は虚しく葦にひっかかって浮いている。竿に動く気配がないのをみると、やはり大物は逃げてしまったようだった。…はぁ。
「へっ。ざまーみろ」
 これくらいで済んで寧ろ感謝されたいぐらいだと、そう思ったときだった。
 どぼんっっ。
 と音がして俺の目の前に水柱が立った。
「え」
 なにが起こったんだ……
 向こうをみると、俺を笑っていたはずのふたりの姿がいまはない。いや、着物が二人ぶんあった。
 嫌な予感がして呆然と立っていると、水面から黒く妖しげに光る頭が二つ出てきて、出てくるなり、俺の顔めがけて水鉄砲を撃ってきた。
「ちょっ待て!!」
「待たん!この、宗次をいじめやがって!!」
「ふたりがかりは卑怯だっ」
「お前のようなやつはふたりじゃなきゃ倒せないんだよ、ほら宗次狙えっ」
 ぴゅっ。
 宗次の鉄砲が俺に命中した。
「宗次~~~」
「わっははは。上手いぞ、宗次。剣道も鉄砲も、お前はもっと上手くなるぞ」
「うん!」
「手始めにトシをやっつけろ!」
「うん!!」
「っこのぉ~~」
 頭に来た俺は両手で水を掬い、ふたりにかけはじめた。
 総司も俺にかけてきた。
 あいつも俺にかけてきた。
 三つの影が水飛沫のなかで笑っている。
 水面に日光が反射するのが眩しい昼時。
 なにやってるんだろう俺。そんな疑問すら浮かばなかったあの頃。
 急激に醒めていく夢のなか、腕を伸ばしながらあいつの名前をずっとずっと、俺は叫び続けた。



 翌日、斎藤は仙台行きを蹴って、会津残留を申し出てきた。というか、明らかに喧嘩腰で挑んできた。手には妖刀。幾多もの粛清を遂げてきた不敗の剣が、今日も殺意を孕んでヤツの掌に握られている。
 斎藤はらしくなく言葉を尽くし仙台へは行かず、ここで玉砕すると言ってきた。
 会津の恩恵?
 容保公への忠誠?
「……、、」
 どこが。
 藩出身以外の軍人を軍議から締め出すだけ締めだし、進言したところで身分が故に取り上げず、養子の軟弱大名を切腹させることも出来ぬ藩に組するほどのやつかよ、お前が!!
 俺は両目を見開いて斎藤をみていた。
 もしここで斎藤を取り調べなり罷免なりしたところで、なにが変わるだろう。それよりもいまは一刻も早くここを発たなければならない。西軍に完全に包囲される前にここを出る。包囲されたいやつはされればいい。共倒れは御免だ。
 俺と斎藤の沈黙が続いたが、俺が痺れを切らす前に斎藤が最後の一礼をした。
「失礼します。――――お体、お大事に」
 それだけ言うと斎藤は立ち上がって、振り返りもせず部屋を出て行った。
 行けよ。
 勝手にしろ。
 手前が裏切るというのなら、こちらにも考えがあるのだ。
 俺は斎藤の足音が遠ざかってから隣部屋で控えていた中島を呼び、命じた。
「西(軍)の間諜に、教えてやれ。貴様らの欲しい水戸の男が独軍で如来堂に布陣するとな」
 中島がかっと目を見開き、了承を表した。



『新撰組隊規、一、局ヲ脱スルヲ不許(ゆるさず)』



 土煙があがる。
 追い詰めるような大砲の音と、怯えて木立から羽ばたく鳥の群れ。
 斎藤の軍は全滅するだろう。そして新撰組は俺たちだけになるのだ。
 会津が火炎に飲み込まれ、俺は仙台へと奔(はし)る。
 深遠の森の風を切りながらに、駆けて駆けて駆けて――――――
 目指すは、北天の蝦夷地。
 榎本が待っている。大鳥もいる。そして俺には士道がある。一度立ち上がった以上、貫き通すしかない。いやさ、残された道はそれだけなのだ。
 勝とうだなんて思っちゃいない。死にたいとも思っちゃいない。生き残ってきた命がここにあるだけだ。この命の向こうで冴えた生き様を遂げた無数の魂が俺の意気地を、前へ前へと押すだけだ。
 切り刻んできた命という名の時間は、これからも俺が刻むのだ。同志を次々と失って俺の肩は軽くなったが、もう失う者などないと言い尽くせるまではほど遠い。それにここまで来たら、恐れるものなど何も無い。
 培ってきた経験がある。俺たちにしか分からない歴史がある。そしてあんたがここにいる。
 だから最後の最期まで、

 俺はやるぜ

 勝ちゃぁん


※勝=宮川勝太(近藤勇)


あとがき(令和3年9月)
 覆霞唯一の、幕末ライラものです。この前もこの後も、書く予定はありません。